第7話 仕事の向こう側
第7話 仕事の向こう側
十月の風は少し冷たかった。
朝六時半。
キッチンには味噌汁の湯気が立ち上っている。
焼き鮭の香ばしい匂い。
炊きたてのご飯。
だし巻き卵。
いつもの朝だった。
ただ一つだけ違うことがある。
遥が忙しかった。
ダイニングテーブルの上にはノートパソコン。
資料。
付箋。
赤ペン。
マグカップ。
仕事道具が所狭しと並んでいる。
以前なら朝食の時間はおしゃべりの時間だった。
「昨日スーパーでね」
「聞いて聞いて」
「すごいことがあったの」
そんな会話が飛び交っていた。
今は違う。
「遥」
「ん?」
「味噌汁冷めるぞ」
「あ、ごめん」
遥はパソコンから顔を上げる。
寝不足らしい。
目の下に薄く隈ができていた。
白いニットの上からカーディガンを羽織り、髪は適当に束ねている。
「昨日何時に寝た?」
「二時」
「また?」
「修正が来たの」
そう言いながらご飯をかき込む。
出版社からの依頼。
企業広告のイラスト。
ウェブコラム。
SNSから広がった仕事は想像以上だった。
「今日は打ち合わせ?」
「二件」
「締切は?」
「明日」
「大変だな」
「うん」
遥は笑った。
でもその笑顔は少し疲れていた。
午前九時。
健太は会社へ向かった。
午後七時。
帰宅。
「ただいま」
返事がない。
以前なら玄関まで走ってきた。
今日は違う。
仕事部屋から声が聞こえる。
「はい、承知しました」
「修正いたします」
「金曜日までですね」
オンライン会議中らしい。
健太は静かにリビングへ入った。
テーブルには食べかけのサンドイッチ。
飲みかけのコーヒー。
冷めている。
仕事に追われている証拠だった。
会議が終わったのは八時過ぎだった。
遥がようやく出てくる。
「おかえり!」
「ただいま」
「ごめんね」
「いいよ」
遥は慌てて夕飯を温め始める。
今夜は肉じゃがだった。
甘い醤油の香りが広がる。
だが食事中もスマホが鳴る。
メール。
チャット。
修正依頼。
通知が止まらない。
「人気者だな」
健太が言う。
「そんなことないよ」
「あるだろ」
遥は困ったように笑う。
でも視線はスマホへ向いていた。
数日後。
土曜日。
健太は休みだった。
快晴。
秋の青空。
公園へ行きたくなるような天気だった。
「遥」
「なに?」
「散歩行かない?」
「ごめん」
「仕事?」
「うん」
「そっか」
遥は申し訳なさそうな顔をした。
でもパソコンから離れない。
健太は一人で散歩へ出た。
公園では家族連れが遊んでいる。
犬の散歩。
子どもの笑い声。
金木犀の香り。
ベンチに座る。
空を見上げる。
以前なら。
隣に遥がいた。
どうでもいい話をしていた。
今日はいない。
帰宅すると。
遥はまだ仕事をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
それだけ。
夜。
健太はソファでテレビを見ていた。
しかし内容は頭に入らない。
気づけば仕事部屋のドアを見ている。
まだ終わらないのか。
話したいな。
一緒にコーヒー飲みたいな。
そんなことばかり考えていた。
午後十時。
ようやく遥が出てきた。
「終わったー!」
伸びをする。
「お疲れ」
「疲れた」
遥は健太の隣へ座った。
ほんの少し肩が触れる。
それだけで嬉しい。
健太は驚いた。
自分でも。
こんなことで嬉しくなるなんて。
翌週。
さらに忙しくなった。
出版社から追加依頼。
広告会社から新案件。
修正。
確認。
締切。
遥は朝から晩まで働いた。
そしてある夜。
健太は一人で夕飯を食べていた。
コンビニの鮭弁当。
電子レンジの音。
静かな食卓。
その時だった。
急に思い出した。
誕生日の夜。
遥はこんな気持ちだったのだろうか。
待っても来ない。
話したくても話せない。
隣にいてほしい人がいない。
その寂しさ。
胸の奥がきゅっと痛んだ。
午後十一時。
遥がようやく仕事部屋から出てくる。
「終わった……」
ふらふらだった。
健太は立ち上がる。
「コーヒー飲む?」
「飲む」
キッチンでお湯を沸かす。
コポコポと音がする。
コーヒーの香りが部屋に広がる。
二人並んでマグカップを持つ。
窓の外には夜景。
静かな時間。
「ねえ」
健太が言った。
「なに?」
「前にさ」
「うん」
「寂しかった?」
遥は少し考えた。
「うん」
正直な返事だった。
「すごく?」
「すごく」
健太は頷く。
「今ならわかる」
遥が目を丸くする。
「え?」
「待つのって結構つらいな」
その言葉に遥は小さく笑った。
「でしょ?」
「うん」
「私もそうだった」
しばらく沈黙。
でも嫌な沈黙ではない。
お互いが同じ景色を見ているような静けさだった。
窓の外では秋の夜風が木々を揺らしている。
金木犀の甘い香りがかすかに流れてきた。
健太はコーヒーを一口飲む。
苦い。
でもどこか温かい。
仕事は大事だ。
夢も大事だ。
責任もある。
だから頑張る。
けれど。
その向こう側には。
待っている人がいる。
寂しさを抱えている人がいる。
そのことを。
今の健太は痛いほど理解していた。
そして遥もまた。
かつて健太が背負っていたものの重さを、少しずつ知り始めていた。




