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エピローグ 世界で一番帰りたい場所

エピローグ 世界で一番帰りたい場所


 それから数か月後。


 六月の終わりだった。


 梅雨の合間の晴れた夕方。


 仕事を終えた健太は駅からの道を歩いていた。


 西日がビルの窓に反射している。


 紫陽花は少し色褪せ始めていた。


 ネクタイを緩める。


 今日も忙しかった。


 朝から会議。


 昼は取引先との打ち合わせ。


 午後はトラブル対応。


 気がつけば夕方だった。


 以前なら。


 仕事が終わると疲労感しかなかった。


 今は違う。


 自然と足が家へ向く。


 早く帰りたい。


 そんな気持ちがあった。


「ただいま」


 そう言う相手がいる。


 待っている人がいる。


 それが思った以上に嬉しかった。


 マンションへ到着する。


 エレベーターに乗る。


 自分の階へ着く。


 玄関前。


 健太は鍵を取り出した。


 ガチャ。


 ドアを開ける。


「ただいまー」


 そして。


 固まった。


「……なんだこれ」


 廊下が塞がっていた。


 いや。


 正確には。


 巨大なダンボール秘密基地が建設されていた。


 段ボール箱を何個も組み合わせている。


 ガムテープで補強。


 窓までついている。


 意味不明な旗まで立っていた。


 しかも入口には紙。


 マジックで大きく書かれている。


『通行料300円』


 健太は天井を見上げた。


「始まったな……」


 誰も返事しない。


 静かだ。


 だが。


 いる。


 絶対にいる。


 この感じはわかる。


 数年前の自分なら。


「何やってるんだ」


 と言ったかもしれない。


 今は違う。


 健太は鞄を置いた。


 財布を開く。


 百円玉を三枚取り出す。


 そして段ボールの前へ置いた。


「払いました」


 数秒後。


 ガサガサ。


 ダンボールが動く。


 小窓が開く。


 遥の顔が出てきた。


 満面の笑顔だった。


 白いTシャツ。


 デニムのエプロン。


 髪は後ろでまとめている。


「いらっしゃいませ!」


「どうも」


「通行料ありがとうございます!」


「高いな」


「物価高ですので」


「そうですか」


「そうなんです」


 遥は得意げだった。


 健太は笑う。


「何その基地」


「秘密基地」


「見ればわかる」


「三日かかった」


「三日も何してるんだ」


「建国」


「建国?」


「ダンボール王国」


「また変な国作ったのか」


「国王です」


「そうですか」


 遥は誇らしそうに胸を張った。


「入国します?」


「します」


「パスポートは?」


「ない」


「仕方ないので今回は特別」


「ありがとうございます」


 健太は靴を脱いだ。


 基地の中へ入る。


 意外と広かった。


 クッション。


 ぬいぐるみ。


 LEDライト。


 お菓子。


 小さな扇風機まである。


「本格的だな」


「でしょ」


 遥は嬉しそうだった。


 その顔を見ていると。


 健太まで笑ってしまう。


「ただいま」


 改めて言う。


 遥は少しだけ目を細めた。


「おかえり」


 その一言が温かかった。


 リビングへ行く。


 夕飯の匂いがしていた。


 キッチンにはカレーが煮えている。


 玉ねぎの甘い香り。


 スパイスの香り。


 食欲を刺激する。


「今日カレー?」


「うん」


「やった」


「サラダもあるよ」


「最高」


 遥は笑う。


 そして。


「今日ね」


 始まった。


 健太は椅子へ座る。


「うん」


「聞いて」


「うん」


「スーパーでね」


「うん」


「レジのおじさんがね」


 話が始まる。


 長い。


 たぶん長い。


 でも。


 健太はちゃんと聞く。


 途中で笑う。


 質問もする。


 遥も嬉しそうに話す。


 カレーを食べながら。


 サラダを食べながら。


 二人はたくさん話した。


 窓の外では夕暮れが深まっていく。


 街の灯りが一つずつ点き始める。


 食後。


 二人でアイスを食べた。


 ソファに並んで座る。


 テレビはついている。


 でも誰も見ていない。


「ねえ」


 遥が言った。


「なに?」


「私さ」


「うん」


「変わったかな」


 健太は少し考えた。


「変わった」


「どこが?」


「前より素直」


「そうかな」


「うん」


 遥は照れくさそうに笑った。


「健太も変わった」


「そうか?」


「前より聞いてくれる」


 健太は笑う。


 確かにそうだった。


 前は聞いているつもりだった。


 でも。


 本当は聞いていなかったのかもしれない。


 今は違う。


 聞きたいと思う。


 遥の話を。


 今日の出来事を。


 くだらない話を。


 全部。


 夜。


 食器を片付け終わる。


 健太はふと玄関の方を見る。


 まだダンボール秘密基地が残っていた。


「明日片付けるのか?」


「え?」


 遥が驚く。


「なんで?」


「え?」


「常設だけど」


 健太は吹き出した。


「常設なのか」


「国家だから」


「国家なのか」


「国家です」


 二人で笑う。


 騒がしい。


 面倒くさい。


 少し変だ。


 でも。


 健太は知っていた。


 静かすぎる部屋より。


 この騒がしい家のほうがずっといい。


 聞いてほしい人がいて。


 聞いてくれる人がいる。


 帰る場所がある。


 世界中のどんな豪華な場所より。


 どんな高級ホテルより。


 どんな立派な家より。


 この場所が好きだった。


 ダンボール秘密基地のある。


 少し面倒で。


 とても愛おしい。


 世界で一番帰りたくなる家だった。



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