53.
2062年4月15日。
その日の夜、桜香は生まれて初めて「眠れない」という言葉の意味を真に理解した。
まぶたの裏にさえ張り付いている光景は、何度寝がえりをうっても全く消えてはくれやしない。
あまりに退屈な1日にうんざりしたから……ではない。
兄のあまりの鈍感さにうんざりしたから……でもない。
とはいえ、まあ……確かにそう言い切るのは少しだけ難しかったかもしれないが、それでもそれは決定的な理由ではないのだと、桜香自身、よくわかっていた。
原因はもっと単純で、もっと直線的で、そして何より残酷なものだった。
――かき消してもかき消しても離れない、兄の慈愛に満ちた顔。
そしてその先にいるのはいつだって……牡丹遊華だった。
対称会の【拾の掟】を兄が破ることなどあり得ない。桜香はそれを理解しており、 同時に、そのおかげでいずれ自分が必ず悠理と添い遂げることができるのだ――ということも理解していた。
だってそういうふうに――――運命は、定められているのだから。
だがだからこそと言うべきか、嫌でも思い起こされてしまう負の感情。
『本当は遊華と一緒にいたい。でもみんなを守るためには仕方がない』
兄のすぐそばにいれば、どうしたって聞こえてしまう心の声。
耳ではなく、胸の奥底に直接響いてくる言葉たち。
心の音を否応なく拾ってしまうせいで、桜香は誰より深く兄の本音を知ってしまう。
それこそ―――兄本人さえ、凌駕してしまうくらいに。
どうして自分ばかりが聞きたくもない声を聞かねばならないのか。
どうして自分ばかりがこんなにも理不尽な苦痛を味わわねばならないのか。
何度兄の心に期待して熱心に意識を澄ませてみても、そこに響いてくるのはいつだって桜香ではなく、遊華の名前だった。
そのたびに胸のどこかがポロポロと、それはもうポロポロと、崩れ去っていく。
桜香が悠理に対する恋心を自覚したのは小学3年生のころ。
周りの友達が「誰々と付き合ってるんだ」と嬉しそうに笑っているのを見て、気づけば自分も兄とそうなりたい――そんなふうに、願うようになっていた。
兄はやさしくて、頼りになって、何よりいつも自分を守ってくれる。
好きになるなというほうが無理な話だった。
では兄は。瑠璃悠理は、あたしのことをどう思っているんだろう。
そうだ。
せっかく心の声が聞こえるのだ。少しくらい盗み見してもバチは当たらないにちがいない。よーしっ、試してみよう――そう思って、耳ではなく、心を澄まして聞いてみる。
けれど悠理の心は、そのときからずっと、ただただ意味の分からない言説を、それこそ呪詛のように唱え続けるばかりだった。
『どうすれば対称会を解放することができるのか』
当時の桜香にはその意味がさっぱりわからなかった。
対称会が何を背負い、いったい何を求められているのか。そしてそれを求めているのは、果たして誰なのか。
成人した対称会の人間でさえ考えることにすら至らないその本質に、高々八つを迎えたばかりの幼子がたどり着けるはずもなかった。
それでも桜香は幼いなりに、兄は自分とは比べ物にならないほど大きな才能を持っていて、だからこそ自分には見えない何かをずっと見据え続けているのだという、ある意味で真実に近いような結論に至れた。
そんなある日のことである――小学5年生の春。
授業中、悠理と遊華がどこかへ行ってしまったらしいと先生から耳にする。
もちろん追いかけてみたい気持ちはあった。だけれども、どこへ行ったのかが甚だわからないのでどうすることも叶わない。
結局、胸の内の不安をただひたすらに抱えたままに、桜香は1人で家に帰ることを選んだ。
門をくぐり、敷地の中に足を確かに踏み入れる。
その瞬間――目の前に広がった光景に桜香は思わず、息をのんだ。
ボロボロになった悠理と、全身を血で染め上げた遊華。
〈何か〉と一戦交えたことは、火を見るより明らかだった。
そしてその日を境に、桜香は理由のわからない痛みに絶えず締め付けられるようになった。
それは何もあの兄や遊華でさえ勝てないような敵がいるのだと恐怖していたのではない。
本当に桜香を追い詰めたのは……その日から、悠理の心から絶えず発せられるようになってしまった、残酷な言葉だった。
『どうすれば対称会を解放することができるのか。どうすれば遊華を救うことができるのか』
今思えば、あのときに何があったのか、ちゃんと2人に尋ねるべきだったのかもしれない。
心を読めるとはいっても、その内に渦巻く兄の激情が邪魔するせいで何があったのかまでは読み切れない。
もし何が起きたのかさえ知ることができたなら——いや……それでも結局、何も変わらなかっただろうか。
悠理にとって1番大切な存在は、自分ではないのだと悟ってしまった。
いずれ悠理が自分と添い遂げる未来が運命によって丁重に用意されていたとしても、真の意味で異性として愛してくれることは未来永劫あり得ないのだと、そういう無慈悲な現実に、ただひたすらに打ちのめされた。
そんな残酷な事実を突きつけられた瞬間からだろうか。
自分はつくづく哀れな奴だと、そう無意識に自嘲する癖がついてしまったのは。
そして……そんなことがわかったところで、けれども現実はなんら変わり得ないのだと――再度、自嘲して病んでしまう。
そうした日々にさらなる追い打ちが訪れたのは――昨年、中学3年生のころだ。
具体的にいつだったのかは、もう思い出せない。
考えたくなくて、頭の中からかなぐり捨てることを絶えず絶えず続けた果てに、具体的な日付など疾うの昔に置いてきてしまった。
けれどそのときの衝撃だけは、いやというほど鮮明に覚えている。
悠理の心に、いつの間にか〈新しい言葉〉が混ざるようになっていたのだ。
『どうすれば対称会を解放することができるのか。どうすれば遊華を救うことができるのか。どうすれば遊華と添い遂げることができるのか』
このとき桜香の心は完全に折れた。あまりにも綺麗に折れすぎて、もはやこれ以上この苦しみを味わわずに済むのだと、そう思いさえした。
そして…………
『相手も自分を好いてくれているのなら、自信をもって告白できる。そうでないのなら、相手に無様な自分をわざわざさらさずに済む』
ちがうのですよ、兄さま。確かに醜態をさらすことにはならないでしょうが、心だって命の一部。急速に朽ちていってしまうのですよ。
珍しくなんにもわかってない兄に、そう、文句を言ってやりたくなった。
『なんだかんだ言いつつも、オレたちの前では気楽に過ごせているということだろうか』
気楽? 呆けたことを。
私がこれまでに、いったいどれほどの苦痛を味わってきたのか兄さまは知らないのでしょう。
いいですか? 一からぜんぶお伝えしますからね?
そんなふうにまた、わけのわからない物事にかこつけて兄を独占してしまいたくなった。
だが……現実はそう甘くはなかった。
2062年4月16日。
今朝この眼に焼き付けてしまった悠理と遊華の、幸福あふれる慈愛に満ちた顔――あれは本当に堪えた。
何度も胸の内を釘で刺され、死ぬまで打ち付けられるような痛みだった。
嫌でも気づいてしまった、2人の左手薬指で瞬く――指飾り。
いや、ちがうだろう。今さらごまかしたとていったいなんになるというのだ。あれは指輪なのだ。そこにつけてるということは、つまりはそういうことなのだ。もしかすると、今日の夜、それはそれはもうおアツい夜さえお過ごしになったのかもしれない。
明日からはまた――あたりまえのように学校が始まる。
今日は勢い余って休んでしまったが、流石に明日からは行かなくては。学校にもクラスにも、たいそう立派なご迷惑をかけてしまうだろう。
優しい兄と遊華は、きっと何事もなかったように自分を誘って登校しようとするのだろう。いや――してくれるのだろう。
そのとき自分は……涙をこぼすことなく、平然を装えるだろうか。
そんなこんなを考えているうちに眠りにつけたことだけは、不幸中の幸い、というやつだったのかもしれない。
散った桜が再び舞い戻るまで、果たしてどれだけの年月がかかるだろうか。




