5話 鈴の子守歌
大鹿と共にいる女児。
見覚えのある顔だった。
思考より先に、身体が告げる。
――あの人だ。
山吹色の衣に、白金の羽衣。
だが、若すぎる。
「……ジゲンなの?」
名を呼んだ瞬間、
自分の声に、わずかな戸惑いが混じるのを感じた。
知らないわけではない。
忘れてしまったわけでもない。
母上を亡くした私に、
ずっと寄り添ってくれた、優しい人。
ただ――
記憶の中の彼女と、
今ここに立つ彼女が、どうしても噛み合わない。
「ナタレ姫、どうかなさいましたか」
少し甲高いが、
変わらぬ声音でジゲンが私を案じる。
その一言に、
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
――姿は違えど、
この人は、変わらない。
その背後に、突如として現れた巨大な鹿。
それは、明らかに見知らぬ存在だった。
骨に覆われた異形の体躯。
それだけで、力の桁が違うと知れる。
「ジゲン、貴様……その怪物は何だ」
クオンの殺気に、
滝の空気が張り詰める。
ジゲンは一息つき、静かに答えた。
「私の半身を分けた存在です。――名は、ルカ」
「……この大鹿が?」
「お姫さまだっ、やっと会えたねー!
ボクと、いっぱい遊ぼーっ!」
場違いなほど明るい声。
――なんて、愛くるしい生き物なのでしょうか。
私は精一杯の笑みを向けるが、
クオンは警戒を解かず、刃を下ろさない。
「人の姿も取れます。
今は、この形が気に入っているだけです」
私は、ジゲンのような存在が
もう一人増えるのかと、胸を弾ませた。
だが、彼女は口を閉ざし、
私の前で、静かに見上げる。
眉をひそめた、その表情が、
かえって胸に引っかかった。
「……お怪我がなく、何よりです。
ですが姫様――その破廉恥な装いは……?」
「……誤解です!
こ、これは――
厳かな“神事”の装束です!
お師匠様のご指示で……!」
「師匠?」
「私の師に当たる、セイメイ様です」
クオンが短く補足する。
ジゲンの視線が、
場の端に立つ人物へと向いた。
「妙な気配とは思っていました。
立ったまま黙しているので、死人かと」
「酷い言い草だな」
お師匠様は即答した。
確かに、先刻から一歩も動いていない。
――まるで、ジゲンを警戒しているかのようだ。
「この異世界に、
お前を導いたのは俺だ」
「……そのようだな。
だが、お前は一体――」
言葉が、途中で止まる。
「待て……貴様は、何だ!?」
明らかな動揺が、
ジゲンの声に滲んだ。
お師匠様は、
額に貼り付いた糸を取り、不服そうに呟く。
「この面の下を覗いたか。
作法の無い奴め」
「今はいい」
それ以上を語らせぬ空気が、
場を包む。
「……コホッ」
思わず咳き込んだ私に、
ジゲンが即座に反応し、
竹筒を差し出した。
「清めた水です。お飲みなさいな」
クオンが口に含み、うなずく。
「問題ありません」
私は受け取り、喉を潤す。
クオンが刃を納め、彼女に一礼する。
「――はぁ、生き返りました。
さすが、小さくなってもジゲンね。
天のお恵みそのものだわ」
ジゲンの呟くような、問い。
「……小さくなっても?」
空気が、わずかに凍る。
クオンが目を伏せ、答えた。
「姫は、
ここ最近の記憶をなくしておられる」
ジゲンが、息を呑む。
「なに……?」
私は神事の疲れに襲われ、目を擦る。
すると、セイメイ様が鈴を掲げ、
天へと傾けた。
「姫君はお疲れのようだ」
チリン――。
――場が静まり、
鈴が、リ、リ、リと鳴り続く。
――どこか、幼い頃にも、聞いた音。
息を整え、
私はそっと岩場に腰を下ろした。
(全身が疲労で痛む。
岩の冷たさが、妙に心地いい)
――リ、リ、リン。
亡きお母上を思い出し、
頬に、雫が垂れた。
「……すぅすぅ」
やがて、余韻だけを残して、
私はその場に静かに落ちた。
*
風が吹きすさび、激しい揺れを感じる。
カラカラと岩が崩れ、その落ちる音に目が覚めた。
強い光が、瞼の裏へ差し込む。
――朝だ。
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