4話 神と髪のまつりごと
見知らぬ風景。立ち込める瘴気。
濁った冷たい空気が肌を刺し、
月明かりに照らされた荒れ果てた大地と、
果てしなく続く渓谷に影を落としている。
あらゆるすべてが、
異世界であることを否応なく突きつけていた。
「滝だ。見晴らしも悪くない。
ここなら魔物はそう簡単に寄り付かない」
その時、崖の遥か向こうで、
見たことの無い異形の群れが瞬いた。
お師匠様は全く気に留めず、
私に振り返り、告げた。
「……さて。鍛錬は今日からだ」
「「はい」」
「いい返事だ」
一拍置いて。
「よし、まずは脱げ」
「え?」
思わず声を上げる。
「鍛錬するんだろ? 身軽な格好でなければ、ままならん。
血のりのついた姫衣のままやるのか?」
一瞬の沈黙。
「ああ……そういうことですね」
私は勘違いに頬を赤らめ、咳払いを一つした。
お師匠様は視線を外し、静かに告げる。
「これから教えるのは、魔法ではなく“神事”だ。
まずは基礎を鍛える」
空気が張り詰める。
一拍置いて、ちらりとクオンを見る。
「……これは、まだクオンにも教えたことがない。
俺だけが密かに行ってきた、覚悟の要る鍛錬だ」
視線は、私へ。
「これ以上ないほど辛い、古の神事。
付いて来れなければ、その場で見限る」
「鍛えるか、逃げるか――選べ」
強い風が吹いた。 髪が激しく乱れる。
いつもより、ひどく。
私は思わず髪に手を伸ばす。
――ない。
指先が、空を掻いた。
そこにあるはずの重みが、消えている。
息が止まる。
とても大切な髪飾り。
落としたのか。
城に置いてきたのか。
それすら、分からない。
私は、クオンへ顔を向けた。
その時、
血に滲んだ、あの姿が重なって見える。
――彼女を、死なせない。
月明かりの下で、私は手を下ろした。
考えるのは、後だ。
私は唇を噛み、
「……お受けします」と、告げた。
お師匠様が、わずかに口角を上げる。
「いい覚悟だ」
クオンは私の横顔を一瞥し、衣を脱いだ。
異世界の地で、試練の幕が静かに上がった。
*
「すべての動きに、勝利への祈りを込めろ!
神楽は祈りの力に全てが集約されている!
――心が折れた時点で負けだと思え!」
「ワン・ツー! ワン・ツー!」
お師匠様の号令が谷に響く。
意味はわからないが、神聖な祝辞なのだろう。
「胸で吸うな! 腹でやれ!
腹が動かねぇなら、祈りもムダだ!」
「――思い描くのは勝利だけだ!」
「はぁ……はぁッ……はい!」
「“はい”じゃねぇ! お前らが望むのは何だ!」
「「……平和の――成就!」」
呼吸が乱れ、掠れる声で叫ぶ。
お師匠様を筆頭に、大きく腕を振り、前へ突き出し、膝を上げる。
腹で息をしながら、凄まじい速度で演武のように繰り広げられた。
足が重い。呼吸が、続かない。
これまで受けてきた、どんな巫女修行とも比べものにならない。
――これが、神事。
汗が止まらず、視界が揺れる。
「はぁ……はぁ……」
一方、クオンは無言だった。
息も乱れず、歩調も崩れない。
お師匠様の動きに、正確に追従して見せる。
その差が、神事の辛さをさらに強めた。
「初日で根を上げると思っていたが……上出来だ。
今日はここまでにする」
その声が落ちた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
「……喉が渇きすぎて死んでしまう……お水を……」
ふらつく足で滝へ向かおうとした、その瞬間。
腰まで伸びた後ろ髪を、ぎゅっと引かれる。
「痛……!?」
「ダメだ。その水は瘴気にやられてる。――猛毒だ」
体から血の気が引く。
「え……じゃあ……お水は……?」
「飲めない。
雨が降るまではな」
喉の渇きに、体が悲鳴を上げる。
「……嘘……」
小さく呟き、空を仰ぐ。
私は天に、雨を祈った。
すると――遥か上空に影が現れる。
滝の上流から、
巨大な塊が落ち、重い衝撃音と地鳴り。
後を追うように、もう一つ華奢な影が降り立つ。
大地が揺れ、瘴気が渦を巻く。
私の前でクオンは身構え、
お師匠様は、ゆっくりと前へ出た。
「――もう、来やがったか」
砂煙が霧散すると、
骨を纏った金色の大鹿が、静かにこちらを見下ろしていた。
深淵のような、つぶらな瞳。
それは――ひどく、無垢に思えた。
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