13話 虚像の双影
母が求めたのは、酒だった。
理由を問う間もなく、ジゲンは懐から小ぶりな瓢箪を抜き、無造作に放る。
空を切る音。
母上――クシナはそれを掴み取り、一瞬だけ目を伏せ、栓を抜いた。
喉が鳴る。
獣が水を貪るような、剥き出しの音。
酒は、一滴残らず消えた。
「……ぷは」
吐き出された息が熱を帯びる。
私は息を忘れていた。
生前、
母が酒を飲む姿を――ただの一度も見たことがない。
頬が朱に染まり、鼻歌が零れる。
沈黙。
だがそれは、言葉を選ぶ間ではない。
話すという行為そのものを、切り捨てた沈黙だった。
「母上。話とは――」
「ん? あら、なんの……ことかしら」
呂律が妙だった。
体が左右に揺れ、酷く酔っている。
だが、意識は研ぎ澄まされているようだった。
「ジゲン、何を渡したの」
「常人が呑めば死ぬ酒です」
「――は?」
次の瞬間、母上の気配が変質した。
温度が落ちる。
空気が、刃になる。
「……私の鉄扇は?」
「生前のか?
ここにあるわけがないだろう」
「作れるでしょう。あなたの、その奇妙な髪なら」
舌打ち。
刹那、ジゲンの掌で金色の髪が蠢いた。
生き物のように絡まり、軋み、鉄が産声を上げる。
鉄扇が、完成した。
それを放る。
母上は視線すら動かさず、片手で掴んだ。
「敵かもしれない相手に武器を渡すなんて、余裕ね」
「霧散させられる。問題ない」
「やっぱり、気に入らない……私の知るジゲンじゃない!」
怒声。
その音圧だけで、床が軋む。
嫌な予感が背骨を這い上がり、私は反射的に物陰へ転がり込んだ。
「証明してもらおう」
その言葉が落ちた瞬間――
世界が、破裂した。
閃光。
轟音。
鉄扇と槍が正面衝突し、衝撃波が床を抉り、結界の境界線を砕く。
一拍。
いや、半拍でも遅れていれば、首はもう存在していない。
「話す気では……なかったのか!」
「身の上話なんて――退屈でしょう!」
扇が翻る。
空気が裂断され、見えない刃となって飛ぶ。
衝撃が頬を掠め、皮膚が焼ける感触。
母上が漆黒の衣を翻し、扇を振り上げ告げた。
「私は――クシナとして生きている!」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間。
ジゲンの槍が唸った。
無言の突き。
母上はそれを払い、叩き落とす。
地割れの如く地面が裂ける。
一撃一撃が、城門を破るほどの質量と思えた。
重い。
だが、異常なまでに速い。
それを鉄扇で、軽やかにさばく。
「生き返っただの、憑依だの……そんな言葉で縛られたくないの!」
クシナ母上の踏み込みで、距離が潰れる。
扇の縁がジゲンの頬を裂き、血が弾丸のように散った。
「私は――クシナよ!」
「戯言を」
胴を裂くような突き。
母上は真正面から受け、流し、槍の死角へ滑り込む。
「クオン殿に代われ」
「無理よ」
即答。
刃が止まる。
ほんの一瞬。
呼吸一つ分。
「……なぜだ」
「クオンが応えないだけ」
静かな声。
次の瞬間、鉄扇が振り下ろされ、爆発的な衝撃が炸裂した。
床が砕け、瓦礫が宙を舞う。
「眠ってるの。深くね。
けれど、ご覧なさい。彼女の術まで扱えるのよ」
「尚更、放っておけぬ」
「私は悪霊じゃないわ」
火花の嵐の中で、二人の視線が噛み合う。
逃げ場は、もうない。
「覚えてるわ。あなたと旅した日々。妖を討ち、幾百の夜を越えたこと」
「……もう遥か昔のことだ」
「……けれど、かつてのジゲン“ちゃん”は、こんな怪物じゃなかった」
笑う。
血と埃に塗れながら、その笑みだけが、記憶に残る母上のままだった。
二人の影は焔に揺れている。
私は言葉もなく、ただ彼女たちを見守るのみだった。
止めたい気持ちはあった。
けれど、気づいてしまった。
母上は――ジゲンに勝つことでしか、
自分の身の上を証明できないのだと。
そしてジゲンも、
それに気づいたうえで、あえて煽っている。
だから――
この死闘を、止めてはならない。
「私を遠い過去に置き去りにして――
鬼になったあなたの方が、敵に見えるわ」
瞬間、怒声が空間を裂く。
「誰が――望んで鬼になるか!」
沈黙。
次の一撃は、殺意そのものだった。
逃げ場はなく、無数の槍がクシナの周囲を取り囲む。
衝突音が、臓腑を震わせる。
けれど槍は母上へは当たらず、地へ軌道を変えられていた。
ジゲンの首元には鉄扇。
「私は人間よ」
「……」
母上はジゲンの袖を掴み、引き寄せた。
「ナタレの傍に立つ資格、あなたにあるかしら?」
槍が、止まった。
「心が鬼に堕ちた覚えはない」
「私もよ」
鉄扇が、力なく下がる。
扇は霧散しジゲンの髪へ戻り、金色の髪が床へ落ちた。
「結局――」
「怪物同士、か」
「……ふふ」
二人の短い笑い。
刃は、下ろされた。
あまりにも、あっさりと。
私は崩れ落ちる結界の中で、震える息を吐いた。
彼女たちは――私にとって、母と、母のような人だったのに。
「……私の知っている二人は、もういない」
粉塵が、ゆっくりと落ちていく。
砕けた床。
焼け焦げ、破られた結界。
見る影もない家財の残骸。
そこに残っていたのは――
戦いの痕だけだった。




