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婚約破棄された気象士令嬢、予報が当たりすぎて王太子の軍が救われる

作者: 百鬼清風

 白いテントの天幕が、わずかにうねっていた。東の風。

 葡萄酒の表面に細い皺が立つのを見て、私はそっと杯を置く。

 ——今夜は遅れて雨。夜半前、短く強く。


 王宮舞踏会の真珠色の床に、ドレスの裾がさらりと鳴った。

 私は観測手帳を閉じ、胸元の銀の風見飾りに指を触れる。

 セリーナ・ヴァレンティ。アウレリア王国の気象士。

 ——まだ、王太子の婚約者でもある。


 楽団が一拍、音を吸い込んだ。

 ライオネル殿下が壇に上がる。赤い外套の裾が風の向きを確かめるように揺れ、集う貴族たちの視線が一点に集まる。


「本日をもって告げる。——我は、セリーナ・ヴァレンティとの婚約を解消する」


 弦が一本、途中で切れたように、会場が静まった。


「理由を問うてよろしいでしょうか、殿下」


 自分の声が、思っていたより落ち着いていた。

 足元では、床石の目地に入りこんだ微かな砂が、東風に擦られて鳴っている。


「王家は祈祷により天を鎮め、祝祭を守ってきた。おまえの**“予測”**は、礼を欠き、王威を損なう」


「祈祷が無意味だと言ったことは、ありません。風は祈りを嘲らない。ただ——読むことはできます」


 ざわめき。

 祈祷院付の司祭長が小さく鼻を鳴らし、財務卿は目を逸らす。

 殿下の青い瞳に、短い影が走った。


「おまえのやり方は民に不安を与える。『嵐が来る』『洪水が起こる』と触れ回れば、備蓄は乱れ、商いは止まる。王国に害だ」


「備えは乱れではありません。乱れるのは、——無知です」


 ほんの一瞬、会場の温度が下がった。

 やってしまった、と胸の奥で小さな鐘が鳴る。言葉は刃物だ。角度を誤れば、私が切れる。


「セリーナ・ヴァレンティ。おまえを王都より追放する。称号と歳費は剥奪。父領へ下がれ」


「承知しました。ですが、最後にひとつだけ」


 私は天幕の縁を見上げる。

 東から、燕が低く飛ぶ。湿った風。貴婦人たちの扇がひと呼吸、鈍る。


「今夜の祝祭は夜半前に雨になります。火を落とす段取りを早め、天幕の継ぎ目を確かめてください。賓客を東側へ寄せれば濡れません」


 笑いが散る。

 嘲りは軽い雨のように私の肩に落ち、すぐに乾く。


「そういうところだ」

 ライオネル殿下は短く言い、背を向けた。


 私は礼をして退いた。音もなく、観測手帳を胸に抱える。

 もう、ここでは要らない本——しかし風は、王宮と無関係に吹く。


     ◇


 追放の辞令は、その日のうちに執り行われた。

 私の部屋から持ち出せたのは、方位盤、温度管、気圧管、風杯、観測旗、三年分の手帳、そして母の髪飾り。

 宮廷仕立てのドレスは置いていく。代わりに、歩ける靴。


 城門を出ると、空は言葉どおりの色を見せ始めていた。

 西は淡金、東は濁った灰。高積雲の裾が裂け、風が湿る。

 私は御者台に声をかける。


「急がず、しかし止まらず。雨脚は短い。街外れの橋を越えてから篭を閉じましょう」


「は、はい、嬢……いえ、セリーナ様」


 御者が言い直す時の、目の泳ぎ方は、いつも私の胸に小さな穴を開ける。称号は、人の視線に枠をつける。外せば、視線はとたんに行き場を失う。


 城壁が遠ざかる。

 初めて王宮に上がった日の私が、石畳の影からこちらを振り返った。

 ——風は読める。だから、雨が来ると言えた。

 ——でも、心は読めない。だから、婚約が解けることは読めなかった。


 馬車の幌を叩く音が始まり、私は小さく息を吐いた。

 夜半前の雨。

 天幕の継ぎ目は——多分、濡れただろう。火は早めに落とされたなら、被害は少なかったはず。伝わっていれば。


     ◇


 父の領、ヴァレンティ辺境侯領までは三日。

 帰郷の挨拶もそこそこに、私はまず丘の上に仮設観測所を立てた。

 木枠に張った亜麻布の庇、方位の刻まれた石円盤、風杯、簡易の雨量筒。

 子どもたちが珍しそうに覗く。


「おねえちゃん、なにしてるの?」


「空の字を読むの」


「空に字なんてないよ?」


「ほら、あの雲の端っこ。丸いところと、ちぎれたところがあるでしょう。あれが『、』で、あっちは『。』」


「ほんとだ!」


 笑いが起こる。

 私は手帳に書きつけた。風向NE、風力3、湿度高、雲量7、積雲→高積雲移行。

 村長がやってきて、帽子を胸に当てる。


「嬢……セリーナさま。戻ってきてくれたか」


「ただいま戻りました。すぐにで申し訳ないのですが、明日から収穫の配分を変えてください。午前は麦、午後は葡萄。夕方ににわか雨が三度。麦は先に乾かす段取りを」


「にわか雨が、三度?」


「はい。山の影で風が巻きます。雲がちぎれやすい。短い雨が続きます」


「……そんなことまで、わかるのかね」


「読むんです」


 村長は少し考え、うなずいた。「やってみよう」


 最初の週、私の予報はすべて当たった。

 乾かした麦は湿らず、葡萄の房は雨の後で甘みを増す。

 人々の顔が、少しずつ柔らかくなるのがわかった。


「ねえ、おねえちゃん」

 昼休み、井戸端で水を汲んでいると、先ほどの少女が裾を引っ張った。

「王子さま、怒ってる?」


「さあ。怒っているのは空かもね。読んでもらえなかったから」


「空、読めない人もいるの?」


「うん。読む前に、信じない人もいる」


 少女は難しい顔をして、うん、と頷いた。

 私は笑って頭を撫で、井戸の縁に置いた風向旗を回した。風は南東に変わる。午後の一雨が少し早い。


     ◇


 王都からの文は、思っていたよりずっと早く届いた。

 封蝋は王家の金獅子。開けば、官僚の端正な文字。


貴殿の王都宛「避難経路報告書」は、僭越につき受理せず。

祈祷院の議により、拝読の必要なしと決す。


 私は指先で紙の端を押さえ、深く息を吸った。

 ——報告が、届かない。

 向こうの空に、きっと今、悪い雲が集まっているのに。


 翌日、父が厩から駆け戻ってきた。顔に、砂が白く吹いている。


「前線で大嵐だ。王都の街道まで水。補給隊が立ち往生している」


 胸の奥の鐘が、今度は大きく鳴った。

 私は机の上に地図をひろげ、川筋に沿って印を打つ。

 昨夜からの風向と、今朝の雲脚。山稜で生まれた小さな渦の位置。

 三刻後、北東の谷で雷雨。五刻後、風が西へ切り返す。

 ——ここだ。ここで、道が生きる。


「父上、伝令を出します。北東の谷を避け、古い羊道へ。ぬかるむが、水没はしない」


「王都は、おまえの報告を読む気がない」


「だから、現場に飛ばします。——私の名を出さずに」


 父の瞳が、若い頃の色を取り戻す。

「わかった。ヴァレンティの名で出す。『風読みの娘の言だ』とは書かないでおこう」


「ありがとう」


 私は手帳を閉じ、観測所の庇を見上げた。

 空は大きい。王宮も、王子も、私も、空の下の小さな点だ。

 でも、点でも線は引ける。空の字を、地上に写せる。


     ◇


 三日後。

 前線から、泥に汚れた一通の紙が届いた。

 封蝋はなく、紐も古い。けれど、字は震えながらも、確かだった。


羊道を通った補給隊のみ、全員無事。

谷筋の隊は水に呑まれ、半数が散り散り。

誰がこの道を示したか、名を教えてほしい。

——王太子軍副官 サミュエル


 私は、紙を胸に当てた。

 喉の奥が熱くなる。返事を書きながら、指先が震えた。


空を読む、ただの娘です。

次の雨は明朝、短く二度。丘陵地では雲が裂け、日が差します。

そこで隊を休ませ、午後の北西風に乗って南の街道へ。

それが——生きる線です。


 返しの伝令は、夕焼けの風に乗って駆けていった。

 私は丘の上で、風杯が刻む回転数を見つめる。

 夜、星が出る前に、雲は低く、早く走り始めるだろう。

 そのとき、王都の誰かが、また空を読まないのだろう。

 でも——現場は読む。生きたいから。


 遠くで雷が鳴った。

 私は風見飾りを握り、目を閉じた。

 ライオネル。あなたの軍が、空に殺されませんように。

 そしていつか、空を信じるあなたに、また会えますように。


 風が、祈りを嘲らないことを、私は知っている。

 風は、読む者の肩に手を置き、ただ進む向きを教えるだけだ。



 夜明け前、観測塔の梯子を上ると、風杯の回転が一段早くなっていた。

 東の空はまだ墨色で、雲脚だけが低く、音もなく走っていく。

 私は指を空に向けて湿り気を測り、記録板に書く。


風向NE→E。湿度上昇。雲底下降。

嵐は二日早まる。


 紙の端が風で鳴り、塔の下から父の声がした。

「セリーナ、また徹夜か」

「風が変わりました。殿下の軍は、いま川沿いに陣を置いているはずです」

「報せは届かぬだろう」

「それでも、書かないわけにはいきません」


 私は封筒に指を走らせ、手早く地図を添えた。


南東の峡谷で風が衝突し、雨雲が停滞します。川沿いの布陣を解き、丘へ。

風が南へ転じるとき、敵軍の補給線も断たれます。


 それが王都に届くとは思わなかった。

 けれど、空は誰の頭上にも平等だ。読む者がいれば、そこに道ができる。


     ◇


 昼、村の広場では市場が立っていた。

 新しい観測所の風向旗を見上げる人々が「今日は南だな」と呟き合う。

 麦の取引をする商人が、私を見つけて頭を下げた。


「嬢……いや、セリーナさん。前に教えてもらった通りに収穫したら、今年は一粒もカビなかった」

「風が味方してくれたんです」

「風はあんたの言う通りに吹くんじゃないか」


 笑いが広がる。

 ほんの小さな丘の上で、私の“気象士”という肩書が少しずつ戻っていく。

 予報を掲げる板を立て、今日の空模様を書いた。


【午後、積乱雲発達。夕刻に雷。洗濯物注意。】


 村の子どもたちはそれを読むたびに「当たった!」と走ってくる。

 そのたび、私は胸の奥が少しだけ軽くなる。

 王宮で笑われた言葉が、ここでは誰かを救うのだから。


     ◇


 だが三日後、観測所の柱が風に軋んだ。

 南の空が異様に赤い。嵐の前触れの色だ。

 私は風向旗を見上げ、呟いた。


「これは……長くなる」


 急いで記録をまとめ、丘を降りる途中、伝令の馬が土煙を上げて駆け込んできた。

 胸に王太子軍の紋章。

 御者は泥まみれで叫んだ。


「補給路が沈んだ! 殿下の本隊が峡谷に取り残されている!」

 その声に、広場の人々の手が止まる。

 私は風杯を見て叫んだ。

「風はまだ南! すぐに北へ抜ける丘道があるはずです!」

「丘道?」

「今すぐ案内図を書きます! ——時間がない!」


 私は小屋へ駆け込み、筆を走らせた。

 羊皮紙の上に、川の線と風向の記号。

 風を読む式は、祈祷よりも速く正確だ。

 彼らが間に合えば、嵐の目が通り過ぎる一刻に救われる。


 伝令が走り去ると、村長が息を呑んだ。

「セリーナ、本当に大丈夫なのか」

「風が変わる瞬間は読めます。でも——それを信じる人がいるかどうかは読めません」


     ◇


 夜。

 観測塔の上で、私は一人、風向旗を見つめていた。

 風が西に切り替わる。

 雲の裂け目から星が一つ覗く。

 その瞬間、私は息を呑んだ。——嵐が去ったのだ。


 丘の下、村人たちが歓声を上げる。

 嵐の被害はなかった。

 風を読んだ者たちは生き延びた。


 私は塔の手すりを握りしめる。

「……届いた、はず」


 その祈りが届いたのか、翌朝、王都から一通の書状が届いた。

 封には泥がついている。

 開くと、軍副官サミュエルの筆跡で短い文。


貴女の予報に従った部隊のみが無事でした。

殿下は、貴女がまだ空を読んでいると聞き、深く沈んでおられます。

どうか、もう一度、我らに風の道を教えてください。


 紙を握る手が震えた。

 私の名前を口にした者たちを笑った王宮が、今、風を求めている。

 だが、私はまだ行けない。

 この観測所を、まだ、置いていけない。


 風杯が回る。

 今日も風は嘲らない。

 ただ、私に問う——次は、どの空を読むのか、と。



 夜の観測塔で、私は雲の切れ間を数えていた。

 風杯の回転が早い。南の風が止み、西が吹き上げている。

 雲脚は斜めに裂け、遠雷が腹の底でうねるように響いた。


「……間に合わない。もう一度知らせなければ」


 私は筆を取り、地図を広げた。

 王太子軍がいる峡谷、敵国アストレアとの国境線、湿地帯。

 夜明けまでに風が北西へ転じれば、嵐は峡谷を抜けて敵陣を叩く。

 だが殿下が動かなければ、嵐の尾に押し流され、全軍が濁流に飲まれる。


 紙を畳むと、外から蹄の音。

 扉が叩かれた。


「セリーナ・ヴァレンティ様! 王太子軍副官サミュエルです!」


 驚いて扉を開けると、鎧に泥を固めた男が立っていた。

 夜明けの冷気の中で息を白くしている。


「こんな辺境まで、よく——」

「あなたの報せで、半分の部隊が生き延びた。殿下が……あなたを呼んでおられる」


 胸が、痛くなるほどに鳴った。

 もう二度と、その名で呼ばれることはないと思っていた。


「王宮に、戻れと?」

「いえ。戦場へです。風の読める者がいない。殿下は『祈祷では風を止められぬ』と……」


 私は返事を待たせず、観測道具を包みに入れた。

「観測旗と風杯、それに地図。あとは要りません」


     ◇


 王太子軍本営。

 峡谷の風は冷たく、空は鉛のように重い。

 兵士たちの目の下に泥がつき、馬は鼻を鳴らしている。

 仮設の幕舎の前で、ライオネルが立っていた。


 ——かつての婚約者。

 赤い外套は土にまみれ、剣の鍔には泥がこびりついている。

 彼の青い瞳は、昔よりも深く、陰を帯びていた。


「久しいな、セリーナ」


「お久しぶりです、殿下。空は、少し荒れています」


 彼はうなずき、疲れた笑みを浮かべた。

「……その通りだ。人の心も、空と似ているらしい」


 幕内の地図には、雨でにじんだ印がいくつもあった。

 祈祷師たちが占った進路はすべて外れ、兵は濡れ、火薬は湿っている。

 私は静かに、観測板を広げた。


「この谷を抜ければ、敵の補給路は風下にあります。

 嵐の目が通る瞬間を狙えば、風が味方をします」


「そんな瞬間がわかるのか」


「読めます。——ただし、信じてもらえれば」


 沈黙。

 殿下はしばらく地図を見下ろし、やがて低く言った。


「……おまえを追放したのは、私の過ちだった」


 その言葉が風に溶けた。

 私は顔を上げずに、観測旗の先を指した。


「謝罪は要りません。今は風が、こちらを待っています」


     ◇


 夕刻、嵐がやってきた。

 天が割れたような稲光。雨は横から降り、幕を裂く。

 私は旗の影で叫ぶ。


「今です! 南の谷へ抜けて! 風が転じる瞬間を逃さないで!」


 殿下が剣を掲げ、将兵が動く。

 風が背を押す。

 嵐の目が開き、稲光が遠くへ走る。

 その向こう、敵陣の旗が倒れた。


 風が、味方をしたのだ。


     ◇


 夜、戦は終わっていた。

 嵐のあとの空に、月が出ている。

 私は濡れた観測板を抱えて座り込み、深く息を吐いた。


「空は……殿下を見捨てませんでしたね」


 背後から、柔らかい声。


「見捨てられるべきは、私のほうだ」


 振り向くと、ライオネルがいた。鎧を外し、外套を肩に掛けている。

 彼は私の観測板を見つめ、静かに言った。


「おまえの読んだ空が、私たちを救った。

 あの夜、婚約を解いた自分を恥じている。——許してくれとは言わぬ。

 ただ、もう一度だけ……おまえの空を信じたい」


 雨に濡れた風見飾りが月光に光る。

 私はそれを指先で撫で、かすかに笑った。


「信じてくださるなら、空はまた道を示します。

 でも——もう、私を“従者”としてではなく、同じ空を見る者として見てください」


 殿下の瞳が揺れた。

「誓う。セリーナ、共に来てくれるか」

「はい。ただし、風の指す方へです」


     ◇


 夜明け、戦場の丘に立つ二人の背に、初めて穏やかな風が吹いた。

 雲は裂け、遠くで陽が昇る。

 鳥が鳴いた。


 ——空は読まれた。

 ——そして、信じられた。



 夜明けの空は、絹を裂いたように薄かった。

 戦のあと、私はまだ濡れた観測旗を乾かしながら、丘の風を読んでいた。

 風杯の回転はゆるく、湿り気は抜けている。

 ——今日は晴れる。嵐はもう過ぎた。


 幕舎の外では、兵士たちが静かに剣を研いでいた。

 誰もが疲れ、けれど顔には安堵の色がある。

 嵐に呑まれずに済んだ部隊は、皆、生きて空を仰げる。

 それだけで充分だった。


 幕の隙間から入ってくる陽が、濡れた地図の上を照らす。

 泥の筋、手の跡。

 嵐の通り道を示すように、茶色い線が走っている。

 私はそれを指でなぞり、胸の奥で呟いた。

 ——空の文字は、もう読めた。

 けれど、人の心の方は、まだ半分しか読めない。


     ◇


「セリーナ」


 低い声に振り向くと、ライオネルが立っていた。

 鎧を脱ぎ、黒い軍服のまま。

 夜通し指揮を取ったらしく、瞳の下には疲れの影があった。

 それでも、彼の声は静かで、あの日のような傲慢さはもうなかった。


「嵐が止んだ。——君のおかげだ」


「空が止ませたのです。私は、読んだだけ」


「いや、読める者は多くない。信じられる者は、もっと少ない」


 言葉が風に流れ、彼は一歩近づいた。

 濡れた手を伸ばして、私の観測板を取る。

 指先が紙の上で触れ合う。

 ほんの一瞬、それだけで胸が熱くなった。


「この国の気象局を、正式に再興する。君をその長に任じたい」

「……名誉職ですか?」

「違う。誰の命令にも屈しない独立局だ。——君の目で、空を読んでくれ」


 その瞳に、嘘はなかった。

 かつて私を追放した王太子の顔ではない。

 ただ、一人の男が、誇りを失いかけた国を支え直そうとしている。

 私は観測板を抱き直し、微笑んだ。


「……殿下、風は束ねられません。命じるものではなく、共に歩くものです」

「わかっている。だからこそ、君に見てほしい。——私と同じ空を」


 その言葉に、胸の奥で何かが解けた。

 嵐の音が、ようやく遠ざかる。

 私は小さく頷いた。


「では、風の許す限り、共に」


     ◇


 数週間後。

 王都の丘に、新しい観測塔が立った。

 鐘楼よりも高く、風見の翼が光を受けて回る。

 そこに立つ私の傍らで、ライオネルが巻き上げられる書簡を押さえた。


「報告書は民にも公開する。——“天の読める娘”が国を救った日として」


「恥ずかしい名ですね」

「誇るべき名だ。君がいなければ、この国の旗は嵐に沈んでいた」


 私は笑って肩をすくめた。

「風は誰の味方でもありません。ただ、信じた者の背を押すだけです」


 塔の下では、市民たちが空を仰いでいた。

 今日の天気を聞く声。

 明日の風を予測する声。

 人々が空に興味を持ち始めている。——祈りではなく、理解で。


「セリーナ」

 ライオネルが私の手を取った。

 その手は、以前よりも暖かかった。

「空を読む君に、もう一度だけ誓いたい」

「何を、ですか?」

「これからは、共に風を読むと」


 私は少しだけ視線を上げた。

 雲が裂け、青が広がる。

 観測旗が風を受け、軽く音を立てる。


「では——晴天の誓いを」


 彼が手を握り返した。

 陽が昇り、白い雲が流れる。

 二人の影が重なり、風がその上を抜けていった。


     ◇


 その夜、手帳を開く。


風向NW、雲量2、視程良。

人の心、晴天。

風は、もう嘲らない。


 私は微笑んで筆を置く。

 窓の外では、塔の風見が回っていた。

 空は今日も読める。

 そして、隣に読む人がいる。



完。

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