6話「イガルダ族の少年」
アルス歴233年。
おれは庭で素振りをしていた。朝の空気は澄み渡り、冷たい風が肌に心地よい。背後の森からは小鳥のさえずりが聞こえ、葉が揺れる音が静かに響く。日差しは柔らかく、草の上に朝露が輝いている。
木剣を振るたびに汗が額から流れ落ちる。その感覚に集中していると、後ろから声が聞こえた。
「リカルド様、朝食の準備が整いました。」
振り向くと、メリッサが青紫の髪を揺らしながら歩いてくる。彼女は13歳になり、幼さが残る顔立ちながらも、少しずつ美人へと成長している。太陽の光を受けて輝く金髪と、きれいに整えられたメイド服が彼女の清楚な魅力を引き立てていた。
「すぐに行く。」
おれは袖で額の汗を拭き取りながら答えた。
前世の記憶を思い出して6年が経つ。おれはいま11歳だ。まだまだ子供ではあるが、体格は大きくなり、剣術の鍛錬を通じて筋肉もつき始めている。
メリッサもかなり成長し、美しくなった。13歳という年齢にしては大人びた雰囲気があり、正直、少し驚かされる。……いや、なんてことを考えているんだ、おれは。
自分に呆れながら、食卓につく。
「リカルド、まだ剣術なんてやっとるのか。」
父親であるリオスが怪訝そうな顔で話しかけてくる。彼の声は低く、朝食の場には似つかわしくない苛立ちが滲んでいた。兄貴二人は13歳から王都の学院へ行っているため、ここにはいない。現在、この家にいる子供はおれだけだ。
「はい、父上。鍛錬ですので。」
おれは表情を変えずに淡々と答える。リオスは面倒くさそうに手を振ると、興味を失ったように視線を外した。
「そうか。それで、今日お前は何をする?」
「今日は街にでも降りようかと思います。」
「またか、わかった。」
リオスはぶっきらぼうに答え、カップを手に取る。そして、追加で一言付け加えた。
「夜は女を呼ぶから、私室には入るなよ。」
「わかりました。父上」
相変わらずどうしようもない親父だ、と心の中で毒づきながら、表面上は冷静を装う。おれたちは特に会話もなく朝食を済ませた。
食べ終わり、部屋に戻ると、おれはメリッサに命じた。
「街に降りる。準備をしろ。」
「かしこまりました。」
メリッサは丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。
街に降りる理由は一つ。この領地の現状をもっと自分の目で確かめるためだ。この家にいて父親や取り巻きの話を聞いているだけでは何も分からない。必要な情報は、自分で探しに行かなければならない。
俺は馬車から降り、街の石畳を踏みしめた。後ろにはメリッサがついてきている。おれは廃れたフードを深くかぶり、顔を隠して歩いていた。この姿では誰も俺が領主の息子だとは気づかないだろう。
護衛がいなくて大丈夫かと思われるかもしれないが、問題ない。俺には必要がないのだ。
ガルザスから流星剣流を習って6年。剣術の修行を重ね、今ではそこら辺の大人よりも強い自信がある。実際、これまでに街で何度か人攫いに遭遇したが、そのたびに返り討ちにしてきた。その結果、奴らも諦めたのか、最近では目を付けられることもなくなった。
だが、それだけ強くなったところで、この街の現状にはどうしようもない無力感が押し寄せる。
通りを見渡す。街には活気がない。石畳は剥がれ、土埃が立ち込めている。建物の外壁はひび割れ、所々崩れかけている店もある。どの顔を見ても疲れ切った表情ばかりだ。
「……ひどいな。」
小声で呟くと、メリッサがうなだれたように視線を落とした。彼女も、この現状に心を痛めているのだろう。
ここは領主の屋敷がある町、州都メイエン。領主の支配が及びやすい場所でこれだ。おそらく、もっと辺境に行けばさらに酷い状況だろう。
「だが、おれは領主を継がない。」
歩きながら、おれは思わず呟いた。継ぐのは兄貴たちだ。
しかし、その兄貴たちを思い浮かべるだけでため息が出る。彼らの性格と行動を見ていれば、この領地がろくな未来を迎えないことは明白だった。だが、それでもおれにはどうすることもできない。おれはただの三男だ。
通りを歩くと、前回来た時よりもさらに建物が崩れているのが目に入った。
「なにかあったのか?」
おれは振り返り、後ろのメリッサに尋ねる。
「どうやら、最近犯罪組織が横行しているようです。治安維持部隊も機能しておらず、やりたい放題だとか。」
「……犯罪か。」
おれは無意識に呟いていた。
現代日本でも、まったく同じとは言えないが、似たような場所はあった。真っ当に働いている善良な人々が損をして、人をだまし、貶めて幸福を得る悪人どもがのさばる世界。
その記憶が、まざまざと蘇る。
おれを裏切り、全財産を奪った部下。あいつも、こういった世界でのし上がろうとした悪人の一人だった。
胸の中に怒りと悔しさがこみ上げる。おれはふと立ち止まり、記憶を振り払おうと頭を振った。
「リカルド様?」
「なんでもない。」
そう言って俺たちは移動した。
俺は路地裏に足を踏み入れた。大通りよりもさらに汚く、悪臭が鼻をつく。薄暗い中、瓦礫やゴミが散乱し、壁には所々にひびが入っている。この場所に希望や生気のようなものは一切感じられなかった。
その時、目の前に一人の青年がもたれかかっているのが目に入った。
「大丈夫か?」
おれは近づいて声をかけた。青年の容姿が目に飛び込む。褐色の肌に、白い髪。短く刈り込まれた髪は荒れており、まとまりがない。目は虚ろで、その中の瞳は黄金のように輝いているが、どこか光を失っているようにも見えた。年は15くらいだろうか。
彼の首には鉄の首輪がかかっている。体中も傷だらけだ。
奴隷か……。いや、それよりも。
後ろにいたメリッサが、息を飲むような小さな声で言った。
「褐色の肌に白い髪、黄金の目……まさか、イガルダ族?」
イガルダ族。本で読んだことがある。たしか、大昔の戦争で活躍した少数民族だ。その特徴的な外見と比類なき戦闘能力で知られ、非常に少ない数でありながらも大軍を相手に渡り合ったという。だが、彼らの多くは戦争と迫害で滅ぼされ、今ではほぼ絶滅していると聞いていた。
戦場でつけられた名は、「戦場の悪魔」。
そんな思考を巡らせていると、不意に声が聞こえた。
「やっと見つけたぞ!」
横から、小走りで肥満体の男が現れた。脂ぎった顔に満足げな笑みを浮かべ、汗で濡れたシャツが体に張り付いている。
その後ろには、屈強な男が数人ついてきていた。全員が無骨な剣や棍棒を手にしており、周囲に睨みを効かせるように歩いている。首輪がついていることから、彼らも奴隷だろう。
「このイガルダの奴隷を手に入れるのにどれだけ苦労したと思っている!おまえに逃げられちゃ赤字だ!」
男は強引にイガルダ族の少年の腕を掴み、引きずるように連れて行こうとする。その力強さに少年は抵抗もできず、ただ虚ろな目でこちらを見ていた。
「何見てるんだ、ガキ。」
奴隷商らしき男が、俺を睨みつけながら言う。
「……なにも。」
おれは静かに答えた。この男、見たところ奴隷商だ。奴隷は奴隷商の所有物であり、表向きは合法とされている。おれにはどうしようもできない。
ため息をつきながら、背を向けて立ち去ろうとした。その時、強引に引かれていく少年と目が合った。
その目。虚ろでありながらも、どこか助けを求めているようだった。
「……待て。」
「あ?」
思わず声が出た。奴隷商が足を止め、振り返る。
「いくらだ?」
「なに?」
「その少年はいくらかと聞いている。」
「はっ、おまえみたいなガキが買えるような金額じゃねえよ。さっさと帰んな」
奴隷商は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。その言葉におれはため息をつき、フードを取った。
「俺の名前はリカルド・フォウ・レーベンシュタイン。ここの領主の息子だ。」
おれの言葉に、奴隷商人の眉がピクリと動いた。その反応を見て、少しは信じたかと思ったが、次の瞬間、彼は嘲笑を浮かべた。
「お前みたいなやつが領主様の息子だ?バカも休み休み言え。」
その言葉に、後ろに控えていたメリッサが怒りを抑えきれず、口を開こうとした。しかし、おれは手を軽く上げて彼女を静止する。
おれは懐から短剣を引き抜いた。その短剣の柄の中心には、レーベンシュタイン家の家紋が刻まれている。優雅な装飾が施されたこの短剣は、領主家の者しか持つことを許されないものだ。
奴隷商人の目が短剣に移り、その家紋に気づいた瞬間、彼の顔色が変わった。
「これでどうだ?」
おれは短剣をわずかに持ち上げ、彼の目の前に突き出すように見せた。その家紋をはっきりと確認できるように。
奴隷商人はしばらく固まったまま、短剣を凝視していたが、次の瞬間、全身を震わせながら慌てて頭を下げた。
「こ、これは……失礼いたしました!まさか本当にリカルド様だったとは……!」
男は汗を拭いながら、おどけたような笑みを浮かべ、急に丁寧な口調になった。
「それで、いくらだ?」
おれは一歩踏み出し、冷たく問いただした。
「リ、リカルド様、この奴隷は見ての通りイガルダ族でございます……。希少な種族ゆえ、かなりの高値がついております。」
「構わん。言い値で買ってやる。いくらだ。」
こうしておれは、イガルダ族の少年と出会った。