閑話「テレーザ・セイブン」
私の名前はテレーザ・セイブン。
森の中の獣人族の村で生まれた。暖かい家族のもとで育ち、狩りを覚え、獲物を捕って、みんなで食べて、遊ぶ。穏やかで、幸せな日々だった。
でも、あの時すべてが変わった。私が6歳の頃、村の子供たちと狩りに出かけていたときのことだ。突然、人族の奴隷商人たちが現れ、私たちは捕まった。何が起きたのか分からないまま、どこか知らない場所へ連れて行かれ、奴隷として売られる運命を告げられた。
奴隷商人に連れられて売られた先は、とある貴族の家だった。私と、もう一人の仲間がその貴族に買われた。だが、喜ぶどころか、地獄の入り口に立たされたようだった。買われたその日の夜、一緒に連れて来られた友達が私の目の前で犯されて無惨に殺された。貴族の手によって。
次は私の番だと思った。死を覚悟した。貴族が面白半分で私の片耳を切り落としたとき、何かが私を突き動かした。恐怖の中で本能が呼び覚まされた。貴族が私に手を伸ばした瞬間、私は彼の首に噛みつき、引き裂いた。目の前で友達を奪ったその男を、私は殺してしまった。
その結果、私は犯罪奴隷として再び奴隷商人に引き渡され、檻の中で何年も過ごした。深い絶望に包まれながら。生きる意味も、希望も、すべて失っていた。ただ、その日その日をただ息をして過ごすだけだった。
そんな私の前に、突然一人の男が現れた。仮面をかぶった謎の男。冷たい視線とどこか重々しい声で、彼は言った。
「おまえたちの事情は聞いている。体が男性だが心が女性のやつ、忌み子として売られた双子、片腕を失った剣士、人殺しの獣人、病気のエルフ……。」
彼が私のことを話していると分かった。
「だが、おまえらの事情なんかどうでもいい。」
彼は冷たく言った。
「ここには服も、住む家も、食べ物もある。だが、おまえたちを鞭で叩き、言葉の暴力で抑圧するような奴らはいない。ただ、おまえたちにはここで俺の計画を手伝ってほしい。」
その言葉に驚いた。初めて、命令でも暴力でもなく、選択を与えられたからだ。
「俺に従う限り、おまえたちの生活はこの俺が保証する。だが、出て行くなら保証はしない。ただ、奴隷という身分から解放されるだけだ。」
耳を疑った。自分がもう一度、人並みの生活ができるのか。
「選べ。ここに残り、俺に従うか。それとも去って、自由になるか。」
誰も後者を選ばなかった。私もまた、この人についていくことを選んだ。
その後、久しぶりに温かい食事を出された。肉の香ばしい匂いと野菜の柔らかさ。涙が止まらなかった。そんな贅沢を、こんな味を、いつから忘れていたのか。私は泣きながらそれを食べた。
その夜、私は心に決めた。この人にすべてを捧げよう。この人のために生きようと。絶望から私を救ってくれた恩人のために、命を賭けても構わないと思った。
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「おい、『俊狼』! 今度こそ一緒に組んでくれ!」
「何回も言ってるだろう、私はソロだ。わかるか? 一人って意味だ。」
ここは冒険者ギルド。とはいえ、酒場のような賑わいだ。冒険者たちが集まり、クエストを受注し、語らい、そして冒険に出かけていく。私は、そんな冒険者の一人。表向きは、だが。
「よせよせ、ネール。『俊狼』はあいつとしか組まねぇよ。」
「なんでだ! なんであいつならいいんだ!」
ネールと呼ばれた男が声を荒げる。彼はギルドの冒険者だが、どうにも物言いが直情的で、少しうるさい。
「あの人は、おまえと違って強い。だから組むんだ。」
「くそー! 俺も『レッド』ならなー!」
ネールは悔しそうに拳を握りしめた。彼の嘆きに周囲の冒険者たちは笑うか、無関心に酒を飲み続ける。
冒険者の階級は色で分けられている。最下位のホワイトから始まり、ブラウン、グリーン、ブルー、パープル、レッド、そして最上位のブラック。階級が上がるごとに、より危険で報酬の高いクエストを受けられるようになる。だが、ブラックに昇格できる冒険者はほんの一握りだ。
私はそのレッドの階級にいる。首にかけたネックレスの赤い石が、私の実力を証明している。
だが、誰も知らない。私が表向きは冒険者として活動しながら、その裏で「デュラハン」の一員として動いていることを。いや、それどころか、誰も「俊狼」と呼ばれる私自身の正体を知らない。そう、それが都合がいいのだ。
その時、ギルドの扉が重々しい音を立てて開いた。冷たい夜風が流れ込む中、一人の男が姿を現す。黒いローブに身を包み、顔には禍々しい仮面をつけている。
「おい、あいつは……。」
「『黒星』だ……。」
ギルド内の喧騒が一瞬で静まり返る。冒険者たちは酒を飲む手を止め、視線を男に向けた。その異様な雰囲気に、誰もが息をのむ。
私の片方しかない耳がピクリと反応する。
男は悠然とした足取りで、私の前にまっすぐ歩いてきた。赤のネックレスが彼の胸元で光る。
「『俊狼』。」
低く、しかしよく通る声が私の耳を打つ。
「面白いクエストを持ってきた。よかったら組まないか?」
私の尻尾が反射的に揺れそうになる。だが、私は感情を押し殺し、表情を変えずに答えた。
「……わかった。」
立ち上がる私に、男は一瞬だけ満足げに頷いた。彼と目が合う。深淵をのぞき込むような黒い瞳が仮面の奥から覗いている。
二人でギルドを出る。背後で冒険者たちがざわめく声が聞こえた。
「あいつだよ……。『俊狼』が組むのは、あいつだけだ。」
「『黒星』って、何者なんだ?」
「さあな……誰も正体がわからねえ。でも強い、かなりな。」
その言葉を背中に受けながら、私は外に出て、クエストに向った。
街から少し離れた森の静けさの中、私たちは剣を構え、リッカーの巣を目指して進む。この森に巣食うリッカーは、街を脅かす存在だ。特に女王リッカーともなれば、冒険者の「レッド」クラスに匹敵する強さを持つ。決して気を抜いてはいけない。
「これで三匹目……。」
私は一振りでリッカーを仕留めると息を整える。目の前で力尽きる虫型の大型魔物を見て、素早く周囲を確認した。
ふと横を見ると、すでに五体のリッカーを討伐し終えた黒い仮面の男――「黒星」が立っていた。いや、リカルド様だ。
「リカルド様、ここら辺にはもういないようです。奥に行きましょう。」
そう言った私の言葉に、リカルド様が少し険しい目を向ける。
「おい、テレーザ。呼び方には気をつけろ。今の俺は『黒星』……本名はリカードだ。」
「……失礼しました。」
すぐに頭を下げる。しまった。私としたことが、つい名前を口にしてしまう。こうしてリカルド様と行動を共にしていると、時々その忠誠心が抑えきれなくなる。
そう、この方こそが私の恩人であり、すべてを捧げるべき主人だ。
リカルド様が、こうして冒険者の仮面を被り魔物の討伐に赴くのには理由が…………ない。前興味本位で聞いてみたところ、「…………暇つぶしだ。」と言われてしまった。だが、そのたびにこうして私が彼と行動を共にできることは何よりも嬉しい。これは私だけに与えられた役目だ。
森の奥に進むにつれて、空気が徐々に重くなる。魔物特有の嫌な気配が漂い始めた。前で漆黒の剣を振るうリカルド様の姿を見ながら、私は改めて思う。
――強い……。
リカルド様が奴隷の私を買い取り、そして訓練を施してくださったのはもう何年も前のことだ。
当時、私とルピ様は戦闘の基礎すら知らず、ただ奴隷として生き延びる術しか持っていなかった。そんな私たちに剣術や戦い方を一から教えてくださったのが、このリカルド様だ。
厳しい人だった。だが、それ以上に背中で語る人でもあった。その姿を追いかけたくて、少しでも役に立ちたくて、必死に剣を握った。
しかし……。
――届かない。
自分が強くなるほどに、リカルド様の強さがどれほど遠いかがわかる。目指す背中は常に前を進み、決して追いつけない。きっと、ルピ様も同じことを感じているだろう。リカルド様は私たちの頂であり、永遠の目標だ。
そのときだ。森の茂みから異様に大きな影が現れた。
「……来たか。」
リッカーの女王――明らかに他の個体よりも大きな体躯。背中に羽があり、鋭い足が地面を掘り返している。これがこの巣のボスだ。
「行くぞ、テレーザ。力を貸してくれ。」
「はい!」
私は二振りの剣を抜き、リカルド様の後を追う。彼は迷いなく女王リッカーに向かって駆け出し、鋭い斬撃と彼だけの雷魔法を繰り出す。
その背中を見つめながら、私は心の中で再び誓う。
この剣を捧げると――。