2話「どうやらここは地球じゃないようです」
一旦、状況を整理しよう。
おれはリカルド・フォウ・レーベンシュタイン。年齢は……5歳。それは間違いない。鏡の中の幼い顔も、それを証明している。
だが、どうやらおれは、もう一つの記憶を持っているらしい。
前世の記憶。日本で暮らしていた、名前不詳の男のものだ。
その人生の出来事、住んでいた世界のこと──すべてが鮮明に思い出せる。だが、肝心の名前だけがどうしても思い出せない。それが不思議でならない。
まあ、名前なんてどうでもいいか。重要なのは、その記憶が間違いなく俺のものであり、俺の前世だということだ。
どこの漫画かライトノベルの世界だと思うかもしれない。だが、これは紛れもない事実なんだから仕方がない。
次にすべきことは、この場所について調べることだろう。そもそも、ここがどこなのかまったく分かっていない。
まず言えるのは、ここが日本ではないこと。
リカルドという名前もそうだが、この豪奢な部屋の様式も、メイドがいるという環境も、日本の常識からは明らかに逸脱している。そもそも、現代の地球にメイドを雇うような貴族文化が残っているか?そんなことすら怪しい。
ただ、リカルドとしての記憶も多少はある。しかし、5歳の記憶なんてほとんど情報にならない。ぼんやりとした家族の顔や、幼い頃の出来事が断片的に残っているだけだ。
「……この状況、かなり厄介だな」
声に出してみたところで、解決するわけでもないが、多少頭が整理される。
次にするべきは、自分の置かれた環境をもっと知ることだ。ここがどんな場所で、リカルドという存在がこの家でどういう立場なのか。それが分からない限り、この混乱から抜け出すことはできそうにない。
「リカルド、食べないのか?」
目の前の中年の男が声をかけてくる。髪は深い黒色で、年相応にこめかみが少し白み始めているが、少し雰囲気は若いと言うか、いわゆるイケオジってやつだ。
「食べます、父上」
言葉を返すと、父親は静かにうなずいて、手元のナイフとフォークを再び動かし始めた。この男は俺の父親、リオス・フォウ・レーベンシュタイン。リカルドとしての記憶が断片的ながらも教えてくれる。
おれたちは、長い細身のテーブルに座っている。両端には豪華な銀食器や、色鮮やかな料理が並べられ、テーブルの中央には金色の装飾が施された燭台が立てられている。部屋全体が高級感に包まれており、壁には絵画や装飾品が所狭しと飾られている。
テーブルにはおれを含め4人が腰かけている。父親の隣には2人の兄が座っている。
10歳の兄はムウト・フォウ・レーベンシュタイン。乱雑に跳ねた黒髪と、やや日焼けした健康的な肌が目を引く。口元に浮かべた自信に満ちた笑みが、どことなくやんちゃな印象を与える。
その隣に座る7歳の兄はレオス・フォウ・レーベンシュタイン。ムウトと同じ黒髪だが、こちらはきれいに整えられている。やや大きな瞳は好奇心が強そうで、口を動かしながらもチラチラと周囲を観察している様子が分かる。
二人とも子供らしい無邪気さを漂わせているが、その奥にはどこか逞しさが垣間見える。
ちなみに俺たち兄弟の母親は違うらしい。一番上の兄ムウトと二番目の兄、レオスの母親が父の妻。今は他界している。
おれの母親はメイドらしい。ここでは一夫多妻制が認められてるのか?少なくとも日本みたいに妻以外の子を設けたとしても修羅場にはならないらしい。
……それにしても、この食事にこの人数のメイドたち……これ、どう考えても普通の家じゃないぞ。
テーブルの周囲には、数人のメイドや執事たちが静かに控えている。それぞれがきちんとした制服を着込み、動き一つ一つが洗練されている。まるで舞台の裏方のような正確さだ。
どこかの国の貴族とかか……?
ふと浮かぶ疑問。確か、前世の地球では現代にも貴族制度が残っている国はごく少数だったはずだ。ヨーロッパの一部くらいだろうか?だが、この様子はあまりにも現実離れしている気がする。
おれは静かに食事を口に運びながら、この状況をどう理解すべきか頭を巡らせていた。
とりあえず、調べるしかないな。
「あの、父上。この家に図書室はありますか?」
おれは食事の手を止め、父親に問いかけた。
「図書室? なぜだ?」
リオスはナイフを置き、灰色の瞳をこちらに向ける。その目には疑問と共に少しばかりの驚きが浮かんでいる。
「自分はまだ幼く、知らないことが多いので……少し勉強してみようと思うのです」
そう答えると、一瞬の沈黙がテーブルを包んだ。周囲のメイドや執事たちが一様に目を見開いて驚いているのが分かる。
「ふむ……いいだろう」
リオスは軽く息をつき、再び食事に戻りながら言った。
「誰か、あとでリカルドを案内してやれ」
「はっ、かしこまりました」
メイドの一人が小さく頭を下げる。
その様子を見ながら、隣に座るムウトがぼそっと呟いた。
「貴族の癖に勉強なんて……変な奴」
今……貴族と言ったか?
この豪華な家と暮らしぶり、そして兄の発言を考えると、おれはどうやら本当に貴族の家に生まれたらしい。
とにかく、早く食べて調べものだ。
おれはスプーンを握り直し、目の前の食事に集中することにした。まずは図書室に行き、この世界のことを徹底的に調べる必要がある。自分が置かれた状況を把握しなければ、先には進めない。
そう考えながら、おれは食事を急ぎ始めた。
――――――――――――――――――――――――――
「結論、ここは地球じゃない。」
俺はそう結論付けた。
食事を終えた後、真っ先に図書室に向かった。案内された部屋は、壁一面が本棚で覆われており、天井まで届きそうなほどだった。豪華な装飾が施された大きな机と椅子が中央に置かれ、まるで貴族の知性を象徴するかのような空間だ。
目の前の本を手に取り、最初に気づいたのは──読めない、ということだった。
「……まじか」
当然といえば当然だ。5歳児のリカルドが、まだ文字を読み書きできるはずがない。仕方なく、近くに控えていたメイドの一人に付き添ってもらうことにした。
「では、少しずつお教えしますね、リカルド様」
彼女は微笑みながら、ゆっくりと文字を教え始めた。最初は単語一つ一つから、次第に簡単な文へと進んでいく。俺は黙々とノートに練習し、少しずつ本の内容を理解できるようになった。
まず調べたのは、この世界についてだ。
歴史書や地理書を開いてみたが、目につくのは見慣れない単語や独特な地名ばかりで、意味がさっぱり分からない。それでも、文字を教わりながら少しずつ読み進めていくうちに、重要な事実が浮かび上がってきた。
地図だ。
メイドに頼んで見せてもらった世界地図は、俺が知っている地球の地図と全くの別物だった。アジアも、アメリカ大陸も、ヨーロッパも存在しない。それどころか、大陸の形すら似ても似つかない。
これで確信した。ここは地球じゃない。俺は異世界とやらに転生したらしい。
改めてその事実がずっしりと胸に響く。俺の目の前に広がるのは、新しい世界だ。そして、この異世界で生き抜くには、もっとこの世界のことを知らなければならない。
そして、現在の自分の状況だが、ここはインテグラル王国のレーベンシュタイン州。おれはその領主の息子だという。
かなりのぼんぼんに生まれたらしい。人生勝ち組だな……
そう思いながらも、気になることはいくつかある。
「レーベンシュタイン州は、他の領地と比べて豊かなのか?」
本を読む合間に、近くで付き添ってくれているメイドに尋ねてみた。
「えーっと……まあ、そこそこですね!」
メイドの返事は歯切れが悪い。笑顔を作りながら、どこか言葉を濁しているのが分かる。この領地の現状がどうなっているのか、もっと詳しく調べる必要がありそうだ。
「ふむ……」
本から得られる知識にも限界がある。現状、文字を覚えるのもまだ途中だし、専門的な内容を理解するには時間がかかる。
だが、おれの中には前世の知識がある。学ぶ意欲も十分だ。少しずつでいい、状況を把握し、この領地のことを深く知る必要がある。
「よし、決めたぞ。」
おれは少し間を置いて、近くのメイドに向き直った。
「この屋敷に、おれの専属教師をしてくれる人はいないか?」
その言葉にメイドは驚いた表情を浮かべたが、すぐに真剣な表情に戻り、少し考え込んだ。
「……リカルド様の専属教師ですか。ええと、たしか、屋敷には教育係の先生がいらっしゃったはずです。ただ、現在は少し休暇を取られているかもしれません……ですが、確認してまいります!」
彼女はすぐに動き出した。その後ろ姿を見送りながら、おれは小さく笑う。
「勉強か……前世じゃこんなにやる気を出したこと、あったっけな」
そう思いながらも、この新しい世界で生きていくために必要な準備だと自分に言い聞かせた。少なくとも、ぼんぼんに生まれたアドバンテージを活用しない手はない。
「よし、まずは基礎を固めるぞ」
自分の未来を見据えながら、おれは気を引き締めた。