11話「動き出す計画」
アルス歴234年――1年後。
「はあ、はあ、はあ……!」
夜の静寂を破るように、一人の男が路地裏を全速力で駆け抜けていた。額からは汗が滴り落ち、肩で息をしながらも、その足は止まらない。目には恐怖が色濃く宿り、振り返る余裕すらない。
「くそっ、どこまで追ってくるんだ……!」
路地を曲がる。だが、次の瞬間——。
男の足が止まる。目の前には無機質な壁が立ちはだかっていた。追い詰められたことを悟った男は、激しく舌打ちをしながら背後を振り返る。
「ひぃ!」
そこには黒いローブに身を包んだ影が立っていた。その姿は、まるで伝説の「亡霊騎士アリアハン」を彷彿とさせる禍々しい仮面に覆われている。仮面の下の表情は見えないが、鋭い威圧感だけで男の全身を凍りつかせた。
そして、その仮面の両脇には、二人の影が音もなく降り立つ。一人は鋭い耳を持つエルフの女。もう一人は筋肉質な体躯と片方欠けた獣耳を持つ獣人の女。どちらも目元だけを隠すように仮面をつけ、冷たい眼差しで男を見下ろしていた。
「て、てめえら! 一体何なんだ! 俺の仲間を全員ぶっ殺しやがって!」
男は必死に怒鳴るが、その声には恐怖が混じっている。
「おれは『クロ』。おまえたちは、我々の部下を痛めつけ、そして殺した。その報いを受けてもらう。」
「ふざけんな! 先に俺たちのシマに手出してきたのはおまえらじゃねえか!」
「口論をする気はない。」
クロは静かに言い放つ。その言葉には容赦がなかった。
「悪いが、おれに歯向かった者は、全員殺すと決めている。」
クロが踵を返すと、それを合図にしたかのように両脇の女が一歩ずつ男に近づいていく。それぞれの手には鋭い刃が光り、獲物を仕留める準備が整っている。
「や、やめろ! こっちに来るな! ちくしょぉぉぉぉ!」
男の叫び声が路地裏にこだまする。そして次の瞬間、静寂が戻った。
夜の街に響き渡るのは、微かに揺れる風の音だけだった。
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相変わらず、レーベンシュタイン領の街には活気がなかった。道行く人々は誰もが痩せこけ、目には生気が感じられない。街の空気そのものが沈み込んでいるようだった。
そんな中で、一人の路商が道の端で店を広げていた。簡易的な布を地面に敷き、その上にアクセサリーを並べて売っている。
店主は若い男だ。銀の髪を長めに伸ばし、片目が隠れている。服装も質素で、決して裕福そうには見えない。
その男の店に、一人のローブを深く被った人影が近づいてきた。
「アクセサリーを買いたい。」
静かに響く女性の声に、男は顔を上げた。
「いらっしゃい。おや、エルフとは珍しいな。」
ローブの下から、緑の髪と黄色の瞳がちらりと覗いた。
「骸骨のアクセサリーよ。」
「骸骨だぁ?」
男は呆れたように肩をすくめ、軽く鼻で笑った。
「そんなアクセサリーは置いてねえよ。冷やかしなら帰りな。」
そう言って、しっしっと手を振る仕草を見せる。
エルフの女性は少し黙った後、別の品に目を移した。
「……なら、そこの月のアクセサリーを買うわ。」
男は一瞬彼女の言葉をじっと聞き、短く頷いた。
「まいど。34ベリカだ。」
エルフの女性は懐から紙幣を取り出し、丁寧に男の手へと渡した。その紙幣の間に、小さな紙切れが挟まれている。
「確かに。」
男は金を確かめながら言い、エルフの女性はアクセサリーを手に店を離れる。その背中が遠ざかる間際、一瞬だけ二人の視線が交差した。
何かを言いかけるような気配もなく、二人はそれぞれの道へと進んでいく。
「さてと……。」
男は小さく呟き、並べていたアクセサリーを布ごとまとめ始めた。
「今日は店じまいかな。」
そう言う声に、どこか疲労と安堵が入り混じっていた。彼の手は慣れた動きで片付けを続けている。その仕草は、街の沈んだ空気とは対照的に妙に軽やかだった。
男は店を畳むと、大きなリュックを背負い、街を歩き始めた。その足は迷いなく、街外れの一角にある一つの酒場へ向かっていた。
看板には「スケルトン」と書かれ、骸骨のマークが描かれている。
扉が開き、鈴の音が高く響く。
「いらっしゃい。あら」
中から聞こえたのは女性のような高い声だ。
店内には数名の客がいて、双子らしき少女が料理や飲み物を運んでいる。少女たちは二人とも小柄で、服装もシンプルだが、息の合った動きで店をきびきびと仕切っている。
カウンターの奥に立つのは店主の大男だった。筋肉質な体に派手な化粧を施し、耳にピアスをいくつも付けた風貌は一度見たら忘れない。
男はカウンター席に腰を下ろす。
「ソンブラン、こんな時間から来るなんてどうしたの?」
大男――モリーが、少し驚いたように目を細めながら言った。
「モリー姐さん。ただ飲みたくなっただけさ。それより、ガイナ酒をちょーだい。」
「はいはい。」
モリーは軽く肩をすくめると、カウンターの奥に置かれた瓶を取り出し、お酒を注ぎ始めた。
「前払いでいい?」
「もちろん。」
ソンブランは紙幣を数枚取り出し、モリーがしっかりと手に取り、数を確認する。紙幣の間には、小さな紙切れが挟まれている。
「……わかったわ。」
モリーは満足そうに頷くと、振り返って厨房にいる双子に声をかけた。
「カルナ、アルナ。店を少し空けるから、その間お願いね。」
「わかった。」
「わかりました。」
双子の少女はそれぞれ小さく返事をし、テキパキと動き続ける。
静かに進行するこのやり取りの裏には、この店に集う人々の計画と絆が見え隠れしていた。
モリーが酒を出す姿を見ながら、ソンブランは心の中で次の指示を待つ準備を整えていた。
――――――――――――――――――――
その夜、酒場スケルトンの扉には「CLOSE」と書かれた札がかけられていた。
しかし、その札を無視するようにして、躊躇なく扉を開ける影が一つあった。
扉が開き、控えめな音とともに一人の男が中へ入る。
「やっと来たか。」
すでに店内に集まっていた一同がその盲目の女性を一瞥する。
「遅いわよ、リーネ。」
低く静かな声でそう言ったのは、一人のエルフだった。緑の長い髪、黄色の瞳、そして絶世の美女と言っても過言ではないプロポーションを持つ女性――ルピだ。
「申し訳ありません、久しぶりだから迷ってしまって。」
リーネと呼ばれた女性は少し肩をすくめながら答えた。
そのやり取りに、モリーが笑いながら口を挟む。
「でもほんとに久しぶりね。ソンブランから紙幣と一緒に指令書を渡されたときはびっくりしちゃったわ。」
その場に集まる顔ぶれは、一目で奇妙な集団だとわかる。
エルフのルピ、路商のソンブラン、教会のシスターリーネ、酒場スケルトンの店主モリー、双子の少女カルナとアルナ、耳が片方欠けた冒険者の獣人テレーザ、片腕の宿屋の店主カロス。そして、レーベンシュタイン家の新人メイド、ミリア。
そう、この場にはリカルドの計画に加わる者たちが一堂に会していた。
「それで、このタイミングで指令ってことは……ついに実行なんですか?」
片腕の宿屋の店主、カロスが静かに問いかける。
「そうよ。時が来たわ。決行は、一週間後の夜。」
その言葉に、場の空気が一層引き締まるのがわかった。
「ついに来たのか……。」
赤毛の獣人の娘、テレーザが呟くように言った。その目には緊張と闘志が混じっている。
しかし、その場にいた一人、ソンブランが小さく手を挙げ、戸惑いの声を上げた。
「でも……ルピさんやテレーザさんならともかく、俺たちは何をすれば?」
「決行は私とテレーザの二人で行う。」
ルピが静かに言葉を発した。彼女の緑の瞳が力強く輝き、場の全員を見渡している。
「ミリアには当日、屋敷の扉を開けてもらう役目がある。カロス、リーネは指定の位置で待機。何らかのトラブルがあった場合、私たちを援護すること。そのほかはいつもの業務よ。引き続き組織の拡大に取り掛かれ。この場にいないドロテアも同じくね。」
その指示に、ミリアがすぐに頭を下げた。
「わかりました。必ず扉を開けます。」
「お願い。」
ルピの言葉には重みがあり、その場にいる全員が緊張した面持ちで静かに頷いていた。
「どちらにせよ、この計画のために、私たちは買われた。今こそ、その恩に報いる時。」
彼女の言葉は重く響き、その場の全員の胸に突き刺さるようだった。
「これに失敗すれば、我々の存在価値はない。クロ様のために――命を捨てる覚悟を持ちなさい。」
ルピがきっぱりと言い切る。
その言葉に、一人、また一人とうなずき、最終的には全員が力強く頷いた。誰もが使命を胸に刻み、覚悟を固めていた。
これがリカルド――否、クロ率いる計画の最終段階の始まりだった。全員の意思が一つにまとまり、成功への道筋が見えてきた。
「全員、準備を怠るな。それが生き残る鍵だ。」
ルピの最後の一言が、全員の心をさらに奮い立たせるのだった。
――――――――――――――――――――――――
一週間後の朝。
おれは父さん――リオスといつものように朝食を取っていた。
テーブルには豪華な料理が並んでいるが、この領地の実態を知っているおれには、その光景がどこか虚しく映る。父さんはいつもと変わらず、何の疑問も持たずに優雅にナイフとフォークを使っている。
「父上、今日私は午後から隣街に出かけます。そこで宿を取り泊まる予定ですので、今日は帰ってこないかと。」
「うん?なぜだ?」
「向こうで、良い娼館があると聞きましたので。」
その言葉に、父さんは軽く笑い、ワインを一口含む。
「お前も男だな。わかった、好きにしろ。」
「ありがとうございます。それでは行ってまいります。『さようなら』父上。」
「うむ。」
おれは軽く頭を下げ、食事を終えた後、部屋を後にした。
扉を閉める音が、妙に大きく響く。おれは一瞬立ち止まり、考えた。
――計画通りに進めば、これが俺とリオスの最後の会話になるだろう。
不思議と心が静かだった。むしろ、平静すぎて不気味なくらいだ。
おれの中に、「これでいいのか?」という疑念がわずかに生じる。いくらあの父親がクズだとしても、実の父親を殺す必要があるのか――そんな「普通」の考えが頭をよぎった。
だが、おれは鼻で笑った。
悪いが、あんたを父親だと思ったことは一度もない。
そう、心の中で呟きながら、その疑念を一刀両断するように歩き出した。冷たく感じるのは、自分がもう情など捨て去っているからだろう。
これでいい。そう自分に言い聞かせ、計画実行のための最後の準備へと向かった。