序章
ライセは激怒した。あの無知蒙昧な民草を鏖殺せねばならぬと決意した。ライセには政治が分からぬ。ライセは、王女付きのメイドである。着替えに化粧に髪結い、掃除、洗濯、炊事、マッサージ、一日のスケジュールや所有物の管理と、一般にはメイドの仕事でないことまで、生活のあらゆる場面で王女に尽くし暮らしてきた。
美しく、賢く、民を想う清廉な王女。彼女に仕えるのがライセの至上の喜び。ライセは一等王女を大切に想い、王女もまた、そんなライセを大切に思ってくれていた。
相思相愛の主従を無情にも裂いたのは、民であった。
革命である。腐敗する国を是正しようと立ち上がり、民衆は見事国王と大臣たちの首を広場に並べてみせた。
しかし、だ。結局のところ、民は愚かであった。あの清く正しい王女すらも処刑したのである。王女はこの国の腐敗に加担したことなどなかった。むしろ、大臣たちの不正と父王の過ちを正そうと日々努力していた。それを、民は、王の血を根絶やしにするためだけに殺した。
許しておけぬ。ライセは強くそう思った。
ところで、ライセは王女の世話とは別の仕事も請け負っていた。血みどろで血生臭く、王女は到底知り得ない、知ってほしくない面を持っていた。
──暗殺の心得その1、誰にも知られてはいけない。目撃者は処分すべし。
ライセは、暗殺者であった。
王女の父である国王陛下及び宰相の命で、政敵を殺してきた。もちろん、政敵というのはライセの推測である。余分な情報は与えられず、ライセはただ粛々と殺すのみであった。余計なことを聞かず、標的を必ず殺すライセは彼らに重用されていた。それも全ては王女のためであった。せめて、王女の政争には死体を関与させたくはなかった。王女が血に塗れないよう、何の音沙汰もなく、誰にも気付かれず、忠実な下僕として動いていた。そして今、この技術を、守るべき民へ向けようとしている。
王女は、決してこのようなことは望まない。知っている。民を一番に想っていたのを側で見てきたのは、外でもないライセである。
しばしの逡巡。されど、それが足を止める理由にはならなかった。生前の王女の言葉を思い出したからである。彼女は言った。「私が死んだら、どうか、自分のために生きてね」と。
「あなた、こう言っておかないと私が死んだら後を追いそうなんだもの」
「当たり前でしょう」
「ほら。それじゃダメなの。追うのは私の後じゃなくて、あなた自身の幸せじゃなきゃ」
「わたしの幸せとは貴女です」
頑固なライセに、王女は「わからず屋」と頬を膨らませた。平穏で、心が暖かくなる思い出。その思い出は日常であるはずだった。思い出を思い出にしたのは。
父王と共に並べられた王女の生首が脳にこびりついている。あの日から、王女との日々を思い出そうとすると、勝手にフラッシュバックするのだ。衛兵に捕らえられ戸惑う彼女、一番大切な人が連れ去られてしまうまでただ呆然としていただけのわたし、寒々とした牢獄、ギラリと光るギロチンの刃、恐怖に瞳を揺らしながらも毅然とした態度で断頭台へ歩みを進める王女、罵声を浴びせる民、お側に控えることも駆け寄ることもできない無能…
ライセは思う。今すぐに後を追うべきだと。
ライセは思う。王女の意に従うべきだと。
「私が死んだら、どうか、自分のために生きてね」
王女はライセを死なせてくれない。
──暗殺の心得その2、殺しに感情は不要。自分・目標・道具・死・現実。在るのはただ、それだけ。
だから、これは自分のため。ライセだけのための、自分勝手なレクイエム。美しさの欠片もない、血と狂乱に満ちた旋律。悲鳴の一つも上げさせない無音を奏でてみせるのだ。
──暗殺の心得その3、卑怯・卑劣こそ暗殺の誉れ。
井戸に毒を撒いた。皆が寝静まった深夜に実行した。革命成功を祝って宴続きであったから、容易にできた。どいつもこいつも酔っぱらい、警備も酒瓶を抱き締めて寝ていた。念のため持ってきていた睡眠ガスは無駄になった。こんな者どもに王女は殺されたのかとやるせなさが襲う。彼女の首が転がったときさえ出てこなかった涙が出てきた。井戸水を全員が飲むとも限らないので、できる限り数を減らしておいた。ライセは討ち漏らしのないように、戸籍と照らし合わせて殺した。老若男女、赤子とて見逃さなかった。王の血が許せぬと王女を殺したのであれば、ライセは王女を殺した民草の血が許せぬ。死体はその場に埋めた。移動させる時間が惜しかった。朝日が昇る。
静かだった。もう日が昇りきっているにもかかわらず、何の音も聞こえなかった。鍋をぐつぐつ煮る音も、干した布団を叩く音も、本のページをめくる音も、いってらっしゃいも、いってきますも、屋台の客を呼び込む声も、仕事に励む男どもの声も、井戸端会議にいそしむ女どもの声も、遊ぶ子供たちのきゃあきゃあと笑う声も、何もかも。人の営みというものがこの国から消え去った。否、すでにここは国ではない。王も民もいない国などない。
辺り一帯吐瀉物塗れでかなり臭う。掃除する気にはならなかった。ライセはもうメイドではない、暗殺者でもない、何者でもない。忍ぶ必要はなくなった。我慢の必要はなくなった。ならば、もう、何を言っても良いのではないか?
「王女殿下…!」
王女が死んで初めて、ライセは声を発した。
「殿下、殿下っ!なぜ、なぜお逝きになってしまわれたのですか!なぜわたしに影武者をしろとお命じくださらなかったのですか!貴女が一言命じてくだされば、わたしは地獄の底でも喜んで参りましたのに!わたし一人生かしたとてどうにもならないことなど知っていましょう!貴女がわたしの全てだった!なぜお逃げくださらなかったのですか!!殿下っ、殿下──!」
叫ばないと狂ってしまいそうだった。王女のいない世界を一分一秒でも長く生き長らえていることを考えたくなかった。だから感情の蓋を開けた。ぐちゃぐちゃでヘドロとモヤの詰まった思いの丈を、怒鳴り散らした。
「殿下が死んだのはわたしのせいだ。見ていただけの愚図め。違う、だって、あのときわたしたちは民に捕らえられていた!殿下も剣を突き付けられていたし、民を殺すなとの命だった!殿下を言い訳にする気か?違う!そんなつもりは!なら、やっぱりわたしのせいじゃないか。結局は民を殺した。殿下の命も守れない。殿下の命も守れない。わたしは何がしたいんだ?いや待て、わたしは一度だって殿下の不利になるようなことはしていない。神にも魔王にも誓える。じゃあ誰だ、誰のせいだ!最初から分かってただろ。民のせいだ!奴らが殿下を殺した!!クソッタレの民衆どもめ!!!今まで快適に日々を過ごせたのは誰のおかげだと思ってる!!?王女殿下のおかげだろうが!!!!恩知らずどもが!!!!愚物どもが!!!!!!クソが!!!!!!!!全員!!!!!!!!!!!死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
ハァ、ハァ、と肩で息をする。急に叫んだせいで頭がうわんうわんと茹だったように揺れていた。
「あぁ、全員殺したんだった…──殿下、あぁ…なぜ、なぜ、なぜ…」
死体の積み上がった地で、ライセは王女の言葉を反芻する。
「私が死んだら、どうか、自分のために生きてね」
今まで、"ライセのため"は、"王女のため"であった。しかし、今回初めて、王女の意思に背いて民を殺した。ライセはどう思っただろうか。クソッタレな気分には間違いない。でも、その中に、爽快さを全く感じなかったとは口が裂けても言えない。
きっと、ライセはそのとき初めて自由だった。隠し事をしないで全てをさらけ出してみせた。内緒の中に"自分だけ"があったのだと、ライセはようやく気付いた。
もしかしたら、"自分だけのため"は、まだ見つかるのかもしれない。
亡国を背にして、ライセは自分の人生を歩み始めた。