出会い
「では行きましょうか。お二人とも」
ステュクスは傅くように膝を折って、弓と灯矢に手を差し出した。
弓は決意の表情で一歩踏み出した。灯矢はわからない。妹が見た未来の情景がハインとプルートにまつわる戦場であったことに。絶望のバッドエンドを予感させる内容だったことなど、兄は知らない。
それでも──灯矢は自身の役割を思い出した。
「おい、妹に手を出したら、お前たちは皆殺しだ」
灯矢は弓とステュクスの間に割って入った。
「アッアッアッアッ! そうですね、そのくらいが丁度いいでしょう。ケルベロスあたりが手をたたいて喜びそうだ。ええ、大丈夫。私では妹さんには勝てませんよ」
不愉快に笑う男に舌打ちをついた。何が正しいのかわからない。
手術を受けた後に待っている未来と、このまま力持つ子供に与えられた約束された死を天秤にかけた。
どう生きるのが、正解か。足りない頭で考えても答えは出ない。少なくとも、妹を守る自分でありたかった。直近の敵は──彼らを二週間閉じ込めた医院だと思った。
「着いていってやる」
ステュクスと弓、灯矢は部屋から出た。灯矢の背中には何も言わないハインが転がっている。
少しの間だけ友達になった相手に、灯矢は無言で別れを告げた。
◆
「ん?」
暗い廊下を走るステュクスと弓と灯矢。すると、ステュクスが突然足を止めた。
「なんだ?」
「先に行ってください。この先は分析室です。液体窒素充填車を受け入れるシャッターがあります。そこを破れば外に出られます。あとは新宿方面へ走りなさい。いいですね」
「…………お前はどうするんだ」
「あなた達を逃がし、我々のアジトまで連れて帰ることが私の仕事です。必ず合流します。機動隊からの逃亡は得意でしょう? 後ほど会いましょう」
「…………弓、いくぞ」
「うん」
神坂兄妹はステュクスから目線を前方に移して、再び走り出した。
「ふう……。少し、男前でしたかね」
その時──。
爆発のような轟音が炸裂した。
ステュクスの右側の壁が砕かれ、何かがステュクスを吹き飛ばした。左の壁も突き破り、開けた視界。本棚と机が衝撃と一緒に宙に舞う。オフィスのようだ。攻撃を受けたステュクスは、右肩を抑えながら、立ち上がった。
「うぬぼれんじゃないわよ。ブ男が!」
「……あなたは随分と可愛らしい」
白いシャツと紺のスカート、エナメルに光る赤い靴。そして肘まで覆う篭手を両手に身に着けている。その少女は好戦的な瞳をステュクスに向けている。
『岬、あと三分で機動隊が到着する。それまでにケリをつけろ』少女が耳に付けている端末から男の声がした。
「了解、穂高」
「福祉執行士ですか。ええ……可愛らしい。あなたのような可愛らしい娘を侍らせて歩けるなんて、うらやましいかぎりですよ。一目惚れです」
「おい、犯罪者。二度と口を聞けなくしてやる」
「口は悪いようですね」
岬は瞬時にステュクスとの間合いを詰めた。
──!
そして大男の鳩尾めがけて拳を振りぬいた。対するステュクスは身体をひねり、躱した。その回転を利用して裏拳を岬の頬に振りぬいた。岬はそれを篭手で受け止める。
「やりますね」
「なめんなよ」
岬は飛び上がり、天井にしゃがみ込み、勢いをつけて、回転しながら、ステュクスの脳天に手刀を振りかざす。鋭い殺意の塊がステュクスの頭蓋をかち割ろうとするその刹那、男は呟いた。
短期決戦。
油断などない。
時間が止まったような一瞬の中で、岬は寒気を感じた。自分より上位の力を持つ存在だと、理解した。パラチルドはエーテルに敏感だ。ステュクスの蟀谷がキラリと光った。
──転成、天使。
「借り物ですが、いけますかね」
ステュクスは岬の力の抜けた手刀を受けきった。そして、岬の首を掴んだ。
「──!」
エーテルの解放。天使化。ステュクスは能力を解放した。
「な、なにをした」岬は身体をめぐるエーテルが遅くなっていることに気が付いた。力が入らない。超常の能力がうまく使えない。まるで水中にいるかのような抵抗感。首に食い込む爪で息ができない。
「私たちはパラチルド。切り札がある。エーテルを体外に流れ出させて、力を拡張するのです。わかるでしょう? 同胞のお嬢さん」
「く、くそ」
「天使と相対するのは初めてですか? あなたはこうなる前に手術を受けるといいですよ。気持ちのいい力ばかりではないのだから」
ステュクスは額に大粒の汗を浮かべている。どうやらステュクス自身にも負担がかかるようで、男は手を離した。
床に落ちる岬。すぐにステュクスに足払いをかけるも、男はびくともしない。
「正直に言うと、あなたは殺したくない。一目ぼれというのは本当です。きっといいパラチルドになる。あなたも守りますよ。任せてください。負けそうなときは、私を呼んでください。助けにいきますから」
「だまれっての」
「だから、今はさようなら。麗しいあなた」
ステュクスは倒れこむ岬の腹をけり上げた。吹き飛ぶ小さな身体は壁に激突した。思うように動けないが反撃を試みる。目を開いて、拳を握り突撃する。
けれど──そこには既にステュクスはいなかった。
「ちくしょう……穂高、ごめんなさい」
岬はその場で倒れこんだ。意識はある、身体が動かない。エーテルをかき乱された感覚がまだ残っている。吐き気を抑えるのに必死だった。
二分と三十秒後、機動隊が駆け付けて、岬は回収された。
◆
2040年5月6日、厚木隔離医院襲撃事件。
午前2時34分にパラチルド犯罪組織<エクスクルーデッド>のメンバーと思われるパラチルドが、液体窒素充填車用の裏口からセキュリティドアを破壊、侵入。当医院は緊急事態隔壁を起動させるも、システムトラブルにて作動せず、行動区域内の監視カメラも機能していなかった。犯人は単独で行動していたようだが、事前準備が周到であり、最短距離で目標と思われる部屋に到達。二週間前に保護したパラチルド、神坂灯矢、神坂弓の脱走を促した。現場近くの寮にいた瀬名穂高福祉執行士が、対応に駆け付けるも、犯人を捕縛するには至らず。機動隊到着時には状況は終結していた。
事件の当事者であった、神坂兄妹と同じ部屋にいたパラチルド、ハインに聴取を行う。
◆
パラチルド犯罪の捜査権限は警察にある。しかしながら、現場での捜査は福祉執行士に一任されているのが実情だ。警察は国家公安委員会の下活動しており、厚生労働省の管理下にある福祉執行士とは担当の国務大臣も異なる。警察と福祉執行士、別権力を出自として持つ2つの組織ではあるが、ことパラチルド犯罪に対しては協働する姿勢を保っている。
それもそのはず、パラチルド犯罪とは少年犯罪であり、二つは地続きだ。
ゆえに、厚木隔離医院襲撃事件も例外ではなく、福祉執行士には当事者へ聴取する権利があった。
恭士はドアをノックして、「入るよ」と声をかけて、部屋に入った。
窓から差し込む日差しは、ロールカーテンの間から漏れて、机に伏せる少年の頬を照らしていた。
恭士は端末を机の上に置き、録音機の電源をつけた。
少年は寝ているらしかった。
スースーと寝息を立てている。
「眠いところ、ごめんよ。話を聞かせてほしいんだ」
恭士は少年の肩をゆすった。
「ん──?」
少年はもぞもぞと動き、開かない目をこすりながら顔を上げた。
「やあ、僕は堂本恭士。君の────」
恭士はこの運命をどう形容していいか、答えを出せていない。それでもこの子を守ると決めていた。
きっと頼りないだろうけれど、信じてほしかった。そんな関係になれると、今は──。
「友達になりたいんだ」
「ん? ああ──……朝勃ちしてる、はずかしい。ええとなんだっけ? え、誰?」
ハインは頭に疑問符を浮かべながら、言った。
「え、どこ?」