あの日の兄妹
二週間前、彼らとハインは出会った。
神坂灯矢と神坂弓は東京西部で身寄りのないパラチルドとして拘束された。兄である灯矢は、弓を守り、自分たちの力だけで生きてきた。けれど二週間前、彼らは機動隊に発見され、捕獲された。
灯矢は当然、抵抗しようとしたが、起動隊には「攻撃的なパラチルドに防衛の範囲内で応戦」することができる。法律上はそんな記述だが、実際は積極的な殺害が目標だ。彼らからすれば、反撃してくれたほうが、殺す口実ができるというもの。
機動隊は福祉執行士ではない。社会を守る責任はあっても、パラチルドを守る必要などない。効率よく民間人の安全を確保するためには、危険そのものを排除するのが手っ取り早い。
それを十分理解していたのは、弓のほうだった。
機動隊を攻撃しようとする灯矢を止めて、弓は兄を連れて大人しく投降した。
それが彼らが、この厚木隔離医院に収容された顛末である。
灯矢と弓はそれから多くの検査を受けて、パラチルドとしての性能を調べられた。
結果として、明日──二人は手術を受けることになる。
パラチルドとしての力をなくし、ただの子供に戻る手術。
「お兄ちゃん、起きてる?」
深夜二時。パラチルドでなくなる瞬間を前に、寝付けずにいた弓は小さな声で、兄を呼んだ。
「ああ」灯矢もぽつりと返事をした。
二人の不安が、消灯した部屋を包む暗闇に溶ける。きっと明日には世界が一変してしまうのだろう。
今までの自分が変わってしまうような予感が、弓を襲った。弓の予感はよく当たる。胸騒ぎがしているのだ。
当然、灯矢も同じ気持ちだった。
二人だけで生きてきた。誰にも頼らず、厳しい世界を生き抜いてきた。生きるためなら犯罪にだって手を出した。それもこれも──弓を守るためだった。
部屋は狭い。扉が一つ、窓はない。二つの二段ベッドがあるだけの、牢獄のような空間だった。
灯矢は十八歳、弓は十六歳。寿命まで余裕があるわけではなかった。
だから、手術を受けて、社会のシステムに組み込まれることは大切で──。
考えが渦巻き眠れない兄妹に割り込む形で声がした。
「あ、俺も起きてるよ!」
元気な声だった。
「……ハイン」
寝ている兄妹の向い、もう一つの二段ベッドの下段にいるハインは、深夜であることを忘れているような声量で、話に入ってきた。
「不安な気持ちもわかるけど、いいじゃねえか。もう機動隊に狙われることもないだろう」
「お前は呑気だな」
この二週間、灯矢と弓と同じ部屋で過ごしていた少年、ハイン。彼もパラチルドではあったが、明らかに雰囲気が異なっていた。パラチルドたちが持つ、漠然とした「人類種への敵対心」がない。世界を呪っていないのだ。
「まあ……記憶がないから、深刻になれないのかも」
「ハインは自分のことを思い出しくはないのか?」
「思い出したい。でも考えても仕方ねえから、その時まで待つ」
「単純な奴だ」
「灯矢が難しく考えすぎなの」
灯矢は能天気なハインと話して、気が紛れたのか、そのまま眠りについた。
◆
灯矢は夢を見ていた。浅い眠りの中で、過去の出来事が繰り返された。
崩壊した新宿駅で泣きじゃくる妹。炎の中で手を引く灯矢。走っても走っても続いていく瓦礫と火炎の辺獄。逃げる彼らの背後には聳え立つ、二本の光の柱が迸っていた。光は赤と紫。
灯矢はその日、新宿で何が起きたのか、まったく知らない。おそらく、二人のパラチルドが戦っていたということだけが、理解できた。
赤と紫の戦いの余波はすさまじく、多くの人々が死亡し、耐えられたパラチルドたちも後から駆け付けた起動隊に射殺されていく。
そんな苛烈な鉄火場から逃げ出そうとしている二人。銃声と悲鳴。光の柱は鬩ぎあい、あたりの建物を破壊していく。
灯矢は弓の手を引いて、走る。つい一時間前は隠れ家で寝ていたのに、目を覚ますと一変している世界。
「いたぞ! パラチルドだ!」
「やめて! 何もしない! 手術も受けるから!」
遠くで聞こえたやり取りは銃声とともに、沈黙へと変わった。
機動隊たちも恐怖に囚われていたのだ。パラチルドは危険だ。二本の柱が証明だ。新宿を崩壊させた元凶こそが、超常の子供の力なのだから。人命など二の次だ。一刻も早く地獄を終わらせようと、所かまわず殺戮が繰り返される。
誰も彼も、命が軽い。
「きゃあ──!」
そこで、弓が転んだ。
否、転んだのではない。脚を撃たれたのだ。倒れこむ妹は蹲る。流れ出す血液が瓦礫に滴っていく。
「────!」
許せない。許さない。なにが手術だ。なにが社会の一部になるべきだ。結局は社会は自分たちを守るようにはできていない。どうしてこちらが歩み寄らなければならないのだ。
そして沸々とわいてくる本能に似た叫び。
「殺してやる」
灯矢は駆け出した。建物の陰から銃口を向けている負傷した機動隊員を見つけた。
エーテルが血液のように身体に巡る。あふれ出した殺意の光。
パラチルドの理外の身体能力。それにはエーテルという物質が関係している。
生まれた瞬間からエーテルを宿した子供は、徐々に体内エーテル量を増加させていく。第二次成長期を境に、増加量は加速して、二十歳を迎えるときに、身体がエーテルに耐えられず、崩壊を起こす。
それが、パラチルドの寿命のメカニズムだ。
ゆえに、二十歳を迎える前のパラチルドたちのエーテル量は凄まじい。当時十五歳だった灯矢は、この時、第二次成長期を迎えた直後。爆発的な身体能力の増加に、精神が追い付いていなかった。
そして、極々まれに、体内エーテル量が多すぎるパラチルドは、身体の外にエーテルをあふれ出させることがある。それは光として視認され──。
その時の灯矢は流れ星のようだった。瞬く間に、機動隊員の前に移動した。
「ひっ────」
恐れおののく大人を見下ろす灯矢。この時、自分はどんな顔をしていただろうか。
そして、灯矢が手を振り上げたとき──。
負傷した相手は叫んだ。
「地獄に落ちろ、化け物め!」
「な──」
機動隊員は、爆弾で灯矢ごと吹き飛ばした。
身体からあふれ出したエーテルが灯矢を守った。けれど、爆風に飛ばされながらつまらない思考が廻った。
──そんなに俺らが嫌いかよ。
何か悪いことをした覚えはなかった。否、全くないわけじゃないが、幸せに生きられたら犯さずにいられた罪ばかり。大人。灯矢は彼らとは生物として相容れないと確信した。
体外エーテルを使えるパラチルドたちを、なんと言ったか。
きっと二本の柱も体外エーテルで構成されている暴力だ。
皮肉な名前だった気がする。
「天使…………だっけか」
そう、天使。
この時、灯矢は天使化の兆しを見せた。
弓は蹲っていたため、灯矢が覚醒したことを知らないだろう。
社会から見れば、より危険な存在になってしまった。
知られればきっと弓も危険に晒してしまう。
だから、灯矢は自分の力を妹に隠すことにした。
◆
灯矢と弓、ハインはけたたましい警音に目を覚ました。
「な、なんだ?」
ざわつく一同。
『侵入者を確認、隔壁を閉めます。職員は避難してください。機動隊への連絡は──』
「侵入者?」
そして、爆撃のような音がした。一瞬にして灯矢たちの部屋のドアが外側に吹き飛んだ。
すると、高い声がした。ドアを破壊した本人が暗闇の中から現れた。
「アッアッアッアッ! いました、いました。君たちが神坂兄妹ですね。さすがニクス。いい感覚をお持ちだ。君たちが天使化の兆しがあるパラチルドですね」
屈強な男だった。パラチルドというには老けているように見えた。
「私はステュクス。お迎えに上がりましたよ。神坂灯矢、神坂弓。一緒に行きましょう」
ステュクスと名乗った男は、わざとらしい礼儀正しさで続けた。
「プルートが待っています」