私の全てをあなたに
茜はちょっとだけ嫉妬深いだけの、どこにでもいる普通の女の子だった。彼女からの一目惚れをきっかけに俺たちは付き合い出し、交際が始まってからもう一年。茜は俺にぞっこんで、ちょっとしたわがままも愚痴一つ言わずに受け止めてくれるし、時々俺の家に来て、美味しい手料理を振る舞ってくれる。家庭的で、気立てもいい、俺には出来すぎた彼女。
男友達からはなんでお前なんかにあんな良い彼女がと不審がられ、振られないようにしろよと冗談交じりに注意されたりした。もちろん俺はいつも甘えてばかりで悪いなと思っていたから、ある日ふと「何か俺にして欲しいことはある?」とキッチンで料理中の茜に、少しだけ冗談交じりの口調で問いかけてみた。声をかけられた茜が一瞬だけ固まる。茜はそっと、長年買い替えていないせいで、切れ味が悪くなった包丁をまな板の上に置く。そして、ゆっくりとこっちへ振り返った後で、彼女は何かを言いたげな表情を浮かべた。しかし、自分に何かを言い聞かせるように顔をうつむけ、おどけた口調でこう答えた。
「一緒にいてくれるだけで私は満足だよ。しいて言うなら、この包丁をもっと良いやつに買い替えて欲しいくらいかな」
茜の表情に少しだけ引っかかって、俺は茜に歩み寄った。茜の一目惚れから始まった恋ではあったけれど、今では俺も茜のことが大好きになっていたし、いつも遠慮ばかりでわがままを言わない彼女を喜ばせてあげたいという気持ちがあった。して欲しいことがあるなら言えよ。俺がもう一度尋ねるが、茜はこんなことを言ったらきっと嫌われるからと頑なに言おうとしない。それでも俺が根気強く食い下がると、彼女はおずおずと口を開く。
「じゃあ、そこまで言ってくれるなら……私の髪の毛を食べて欲しいな」
髪の毛を食べて欲しい。普段は真面目でおとなしい彼女のその発言に、俺はただからかってるのだと思って、もう一度聞き直した。
「ごめん。引いちゃったよね。やっぱり忘れて」
茜は顔を曇らせ、再び料理に戻ろうとする。そこで俺はやっと先程の彼女の言葉が本当に俺にして欲しいことなんだと気がつく。彼女の言葉の真意を理解できたわけではないが、自分からなにかするよと言った手前、ここで引き下がって彼女をがっかりさせることはできない。俺は慌てて茜が本当に喜ぶならやるよと伝える。茜は顔を上げ、無理しなくても大丈夫だよと言うが、むしろ気を遣われた分、茜のためならという気持ちが盛り上がっていった。
ありがとう。茜は嬉しそうに笑顔を浮かべる。あまり感情を表に出さない彼女の表情に、俺もまた嬉しくなってしまう。そして茜が上目遣いで俺をじっと見つめ、言葉を続けた。
「じゃあ、今から食べてよ」
俺が頷くよりも前に、茜はキッチンの引き出しを開け、中にあるキッチンばさみを手に取った。そして、何のためらいもなく、肩まで伸びていた髪の毛の先を十センチほどばさりと切り落とす。ハラハラと髪の毛が数本床に落ちる。彼女の右手にはひと束の髪の毛が握りしめられている。茜は切った髪の毛の束をじっと見つめた後で、手に持ったそれを俺に突き出した。
「全部?」
混乱した頭で俺は素っ頓狂な質問を口にする。彼女は笑いながらひとかたまりの髪の毛を俺の顔の前に突き出す。
「何でもするって言ってくれたよね」
彼女が真剣な眼差しで俺の目を見つめる。期待のこもった、強い眼差し。俺は何も言えずに彼女から髪の毛の束を受け取る。茜がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえてくる。そして、彼女がじっと見つめる中、俺はその髪の毛の束を、ゆっくりと口の中へ運んでいった。
その日から茜の要求は少しづつ、しかし段々とエスカレートしていった。私のすべてをあなたにあげたいの。彼女が例のわがままを言うとき、すがるような表情で俺にそう訴えかけてきた。髪の毛から始まり、小皿一杯分の唾液、カッターで切り刻んだ傷口から流れる血。わがままを聞いていくうちに俺の思考は麻痺していき、いつしか断るという選択が頭に思い浮かばくなっていった。
茜の真剣な表情と眼差しは俺の思考を停止させ、何も言えないまま彼女が命じる通りに身体が動いていく。不気味さを感じないと言ったら嘘になる。それでも、例のわがままを言っている時以外の彼女は至って普通だったし、俺が彼女の身体の一部を食べた日は、一日中機嫌が良くなる。
誰だって、人には理解できない性癖みたいなものがある。茜もたまたま人には理解されない性癖を持ってるだけ。俺は自分にそう言い聞かせていた。
「血や髪の毛って、時間が経てばまた新しく生まれ変わるでしょ。やっぱりそれは違うと思うの。私の身体があなたの身体の一部になるためにはさ、やっぱり生えてこないような身体の一部を食べてもらうのが一番なのかもしれないね」
だから、彼女がこんなことを言ってきた時も、俺はただ笑って受け流すことしかできなかった。彼女のいつになく真剣な表情からは目をそらし、ただそういうプレイに憧れてるだけなんだと思い込んだ。身体の一部って例えばどこよと俺が軽い口調で尋ねると、茜はじっと自分の指へと視線を向ける。まさかねと思いながらも、俺は話題を変えようと違う話を話し始める。それから彼女といつもと同じような楽しいお喋りをし、その日は何事も起こらないまま過ぎていった。
しかし、その次の日。二人で夕飯を食べている最中、俺は突然、強烈な睡魔に襲われ、そのまま意識を失ってしまった。そして目が覚めた時、俺はダイニングテーブルの椅子に、ロープで身体と両手両足を縛られた状態で座っていた。
「おはよう」
俺が目を覚ましたことに気がついた茜が語りかけてくる。彼女が例のわがままを言う時の、いつになく真剣な表情をしていることに気がつく。その表情を見た瞬間、昨日の茜の言葉がフラッシュバックし、背中に冷たい汗が流れ始める。茜がゆっくりと俺に近づいてくる。やめてくれ。俺は声を出して訴える。しかし、茜が自分の人差し指をゆっくりと俺の口へと持ってくる。俺はぐっと口を閉じ、彼女の指を拒んだ。
「茜のことは好きだ。髪の毛だって血だって、今まで食べてきた。でもさ、冷静になってくれよ。こんなのおかしいって」
俺は茜の冷たい視線に抗いながらこう訴えた。しかし、茜は俺の言葉に耳を傾けることなく、開いた俺の口の中に自分の指先を勢いよく突っ込んだ。汗に湿った彼女の指が舌に触れる。思いっきり噛んで。抑揚のない口調で茜が俺に命令する。茜の手はさらに喉の奥に押し込まれ、俺は思わずえづいてしまう。
そのはずみで茜がようやく俺の口から指を抜き出す。えづきが止まらない俺の肩にそっと手を置き、心配そうな声で「大丈夫?」と聞いてくる。やめてくれ。俺はえづきが収まったタイミングで茜にもうやめてくれと懇願した。俺の真剣な表情を見た茜がさっとうつむき、それからじっと自分の指を見つめた。茜の指は俺の唾液で濡れ、ほのかに火照っていた。
「ごめんね。自分のことに夢中で全然気が付かなかった」
茜は申し訳無さそうな表情を浮かべ、それから言葉を続けた。
「このままだと食べづらいよね」
ちょっと待ってて。茜が背中を向け、ダイニングからキッチンへと歩いていく。やめてくれ。俺はかすれるような声でつぶやく。俺は彼女がやろうとしていることを想像し、思わず目をつぶる。キッチンの引き出しを漁る音。キッチンの引き出しが乱暴に閉められる音。それから、作業台にまな板が置かれる音。そして、しばらくして、キッチンから聞こえてくる音。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
やめてくれ。俺は耳を塞ごうとするが、手は椅子に縛り付けられたままで動かない。目を開ける勇気もないまま、俺はただキッチンから聞こえてくる音を聞くことしかできなかった。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
身体を動かして縄をほどこうとする。しかし、縛り方がきつく、身体は自由にならない。やめてくれ。俺は何度目かのその言葉を力なくつぶやいた。しかし、俺の声が茜に届くはずもない。そして、俺のかすれた声をかき消すように、キッチンから一際大きな音が、聞こえてきた。
ガンッ! ガンッ! ガタンッ!




