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ある女が生きた時代と世界遺産 ~プラハ歴史地区 編~

作者: 今江祐介

 ここはボヘミア王国の首都プラハ。ヴルタヴァ川沿いに位置するこの都市の起源は、六世紀にまでさかのぼる。その後、司教座が設置されると市域は拡大を続け、人口も増加の一途をたどる。十四世紀に入り、神聖ローマ皇帝カール四世が即位すると帝国の首都となり、中央ヨーロッパ随一の都市へと成長していった。


 しかし、今、この都市はキリスト教宗派間の争いにより、ハンガリー王とローマ王を兼任するジギスムント率いる軍により包囲されようとしていた。


 事の起こりは、カトリック教会の規律の乱れを批判していた、プラハ大学教授のヤン・フスが、コンスタンツという町で開かれた公会議で、異端と認定されて火刑に処されたことにより、激怒したフス派の市民たちが、カトリック勢力を支持する市長やそのとりまきたちを、窓から投げ落としたことによる。これを聞いたボヘミア王ヴァーツラフ四世は、心労を患い急死してしまった。それにより、弟のジギスムントがボヘミア王の地位を継承しようとしたため、反対したフス派が一斉に蜂起した。


 そもそも、フス派がここまで頑強にジギスムントの戴冠に反対するのは、公会議でフスの身の安全を保障していたのが、誰あらんジギスムント本人だったからである。


 この蜂起に怒ったジギスムントは自らの影響下にあるローマ教皇マルティヌス五世に掛け合い、フス派を異端として十字軍勅書を発布させ、これに呼応して約十万の反フス派十字軍が、各地からぞくぞくとボヘミアの首都プラハに集まってきた。


 その数日前、ここはプラハ市街地にあるティーンの聖母聖堂。ゴシック様式の建物で、教会の両側には80mほどのアダムとイブという名の鐘楼が並び立つ。今、ここでは来たるべき決戦に備えて作戦会議が開かれている。指揮を執るのは隻眼の名将ヤン・ジシュカ。十年前に起こったドイツ騎士団とのグルンヴァルトの戦いで活躍し、ポーランド・リトアニア王国を勝利に導いた立役者である。その傍らにいるのは、マリアという名のかつてドイツ騎士団にいた女戦士であった。


 あの戦いに敗れたあと、彼女は仲間のカールと共に騎士団の本拠地であるマルボルク城を目指して馬を走らせていた。途中、戦闘で受けた傷により意識を失い落馬してしまうが、カールに助けられ、たまたま近くにあった小屋に運び込まれるも、しばらく生死の境をさまよう。その後、カールの献身的な手当ての甲斐もあり一命は取り留めたものの動くことができず、しばらくはそこで彼の世話になりながら傷の回復に専念していた。しかし、何者かの密告によって小屋をポーランド軍に包囲されてしまい、二人は捕らえられポーランド王の前に引き出される。ポーランド王は先の戦いでのマリアの活躍を目の当たりにしていたため、彼の部下になるよう説得するも、彼女の意思は固くその要求を拒絶する。彼は諦めずに何度も説得を続けるが、マリアの意思は変わらない。ついには根負けしたポーランド王は、マリアが自らの脅威となることを恐れ、カール共ども処刑するように命じた。その時に助命懇願してくれたのが、当時、義勇兵としてこの戦いに参加していたジシュカと、当代随一の槍の達人であり、マリアと互角の勝負を繰り広げた黒騎士ザヴィシャであった。大功ある彼らの願いをさすがのポーランド王も無視するわけにもいかず、マリアたちを国外追放処分とした。


 その後、二人はマルボルクには戻らずジシュカに誘われて彼と共にボヘミア王国へと向かった。そこでジシュカは、これまでの戦いの功績が認められ、ボヘミア王の軍事顧問として登用された。マリアとカールにも首都プラハの市民権が与えられ、彼らは平民としてそれぞれ新たな人生を歩み始める。それから数年がたった。やがて、二人の間に愛が芽生え、今ではマリアも一男一女の母となり忙しい日々を送っていた。


 そんな彼女が再び戦いに身を投じることを決心したのは、フスとの出会いによる。この頃のカトリック教会は堕落が進んでおり、その教義は聖書からかけ離れたもので、世俗の財産や権力を求める風潮が強かった。これを見たフスは公然とカトリック教会を非難し、本来のイエスの教えに立ち返るように説いた。マリアもかつて道を見失い堕落してしまった仲間を見てきたため、カトリック教会全体に蔓延するこうした流れを変えねばならぬと思っていた。いわゆる宗教改革である。今、ここにいる仲間は全員が心からそう願い、その思いを実行するために、この戦いに臨むという点においては完全に一致していた。


 マリアはこれからジシュカの策に従って、城外にある砦へと向かうことになっている。その前に、彼女は子供たちの世話をするため夫であるカールと共に家へと向かった。二人はドイツ騎士団時代の戦士としての経験を買われ、これから始まる戦いで指揮官として、各部隊の指揮を執ることになっている。当初、カールはマリアを城外で戦わせることに猛反対していた。というのも彼女が守備する城外の砦はヴィートコフという丘の上にあり、そこにある砦は三十人ほどしか入れない小さなものであったからだ。加えて丘の北側は切り立った崖になっており、逃げることができないため、敵の襲撃を受ければいかにマリアといえども守り抜くことは困難に思えた。しかし、ジシュカは彼女でなければこの作戦を遂行することはできぬと譲らず、話し合いの結果、マリアの理解もあってカールもしぶしぶ従わざるをえなかった。


 家に着き扉を開けると、すぐに奥の部屋から女の子がマリアに駆け寄り抱きついてきた。マリアは目を細め女の子の頭をなでながら言った。


「ただいま、ハンナ。ごめんね、遅くなって……今からご飯をつくるから待っててね」


それを聞くとハンナは安心したのか、うずめていた顔をあげてマリアに笑いかける。ハンナは六歳になったばかりで、マリアと同じく澄んだ青い瞳と透き通ったさらさらの金色の髪を持つ。するとハンナは今度はカールの方に甘えに行った。その様子を眺めていると、奥の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。


「はいはい。ハンス、今行くからね」


そう言うとマリアは奥の部屋へと入って行った。ハンスは半年前に生まれたばかりで、ハンナと違いカールに似て茶色い髪にキリッとした面構えのいい顔をしている。今のマリアにとっては家族が心の支えであり、この子たちの未来のためにも何としてもこの戦いに勝利せねばならない。そう自身に誓うのであった。


 その数日後、ジギスムント率いる三十五ヶ国からなる十字軍が、大挙してプラハに押し寄せてきた。マリアは子供たちを街を守るカールにまかせ、作戦どおり味方と共に砦へと出発する。プラハに到着したジギスムントは、市街地西側とヴルタヴァ川を挟んで建つプラハ城に本営を置いた。彼は当初、プラハの市街地は堅固で簡単には陥とせそうになかったため、街を包囲してフス派を飢えさせようとした。そのため斥候を放って街の周囲を探ってみたところ、街の東部の小高い丘の上に小さな砦があるとの報告を受けた。ジギスムントは敵の将が百戦錬磨のジシュカであることを知っていたため、この砦の存在を見逃せず、一隊はプラハ城と市街地をつなぐカレル橋から、さらに一隊は市街地の東側からそしてもう一隊を砦の攻略へと向かわせた。


 こうして1420年7月13日、その後幾度となく繰り返されるフス戦争の初戦の幕が切っておとされた。マリアの守る砦の北は急峻な崖のため、攻略部隊は南に回り込んで攻め寄せて来た。当初、彼らはジギスムントの指示どおり警戒しながら砦へと近づいて行く。すると、砦の中央に若い女がいるのを見つけた。それもかなり美しい女である。所詮、彼らは十字軍とはいっても軍費は自弁であり、戦争に参加するのは個人的なメリットのためであった。そのメリットとは略奪や強盗、強姦などで、それを達成するためには敵が弱く勝利が確実であることが好ましいのだ。それに異端討伐という大義名分があるため何をしようと罰せられることはない。彼らは先を争い突撃を開始する。


 マリアは敵を充分に引きつけてから、上げていた手を勢いよく振り下ろす。次の瞬間、砦から一斉に銃火器が火を吹いた。それは騎士の鎧をいとも簡単に打ち抜き、彼らはバタバタと倒れていく。さらに、その音に驚いた馬は騎士を振り落として逃げようとしたため、振り落とされた騎士は後から次々と突撃してくる味方に踏みつけられ、さながら戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。何とか銃撃をかいくぐり進めた者も、今度は砦からクロスボウで狙い撃ちにされその数を減らす。それでも、数にものをいわせ砦にたどり着き塀を乗り越えようとするが、上から振り下ろされるフレイルという脱穀に使われる穀竿を改良した武器で、鎧の上から殴りつけられ気を失い落下していく。特に女と侮り向かって行ったその女が滅法強く、彼女の獅子奮迅の活躍で誰も塀を越えることができない。結局、その日は銃火器と女一人にやられてしまい、彼らは態勢を整えるためにその日は引き上げ、翌日に総攻撃をかけることにした。この日の十字軍の被害は惨憺たるもので、三方面とも騎士がフス派兵士の銃火器により完膚なきまでに打ちのめされたのだった。


 この戦いの前にジシュカは、フス派商人の力を借りて大量の銃火器を購入していた。それをフス派の信者に配布し、彼らを訓練した結果、今でいう国民軍のような軍隊を生みだしたのである。他にも彼らはプラハ四カ条に基づき、自由と平等をスローガンに掲げ、身分に関係なく一枚岩の結束により強い絆で結ばれていた。


 十字軍が撤退したヴィートコフの砦では、騎士の猛攻を防ぎきったことで、皆、安堵と自信が入り混じった表情をしていた。彼らは最新鋭の兵器を使えば、庶民でも騎士に勝てると確信したのである。とはいえ全く無傷というわけにもいかず、尊い犠牲も出てしまった。マリアは唇を噛みしめる。こうなることは最初からわかっていたとはいえ、実際に直面すると指揮官としてもっとしてやれることはなかったのか?そう自問自答を繰り返すのであった。


 翌日、十字軍は予定通り総攻撃をかけてきた。さすがに昨日の敗戦で懲りたのか、ゆっくりと慎重に攻め寄せてくる。マリアたちも昨日と同じくよく善戦し、一兵たりとも砦に足を踏みこませなかった。だが、突如砦の左翼が突破されたとの報が入る。急いで駆けつけてみると少数ではあるが、塀を乗り越えて敵兵が侵入してきていた。さらに目の前に立つ敵兵を見た瞬間、マリアは驚きの表情を浮かべる。その男は黒い甲冑に身を包んでいた。


(あれは……黒騎士ザヴィシャ)


不思議な感覚だった。まるでこの空間だけが十年前に戻っているかのような……彼の噂はあの戦いの後もマリアの耳に届いていた。腕自慢の騎士が千人以上集まった大会で優勝したり、ヨーロッパ最強と謳われていたアラゴン王国のフアンという者と一騎打ちを行い勝利したなど、あれからさらに腕を上げたのは確実だった。そして、今ではその腕を買われジギスムントの側近として取り立てられたと聞く。おそらく昨日の不甲斐ない敗戦に激怒したジギスムントの命を受け、送り込まれて来たのだろう。だが、マリアもこれまでただ安穏と生きてきたわけではない。彼女も元騎士の血が騒ぐのか、市民となった今でも運動がてら、カールとの武術鍛錬を出産や子育ての時を除いては怠ることはなかった。今、相対する二人は、自然と引き寄せ合うかのように間合いをつめ打ち合い始める。 ザヴィシャはマリアの武器であるフレイルに、最初は手こずり押され気味であったが、そこは最強の騎士である。すぐに体勢を立て直し逆に押し返してきた。マリアはこの戦いの明暗を分ける真剣勝負をしているにも関わらず、場違いなことを考えていた。最強といわれるこの男に、今まで積み重ねてきたものがどれだけ通じるのだろう?最強とはどんなものなのだろう?そこから見える景色はどんな景色なのだろう?と……だが、それ以上にこの極限の状況で、互いに技巧の限りを尽くした打ち合いが、ずっと続いて欲しいと願ってもいた。


 その時、轟音が戦場に鳴り響きマリアは現実に引き戻される。音がする方に顔を向けると、十字軍の背後の葡萄畑からプラハからの救援軍が湧き出すように現れた。先頭にはカールの姿も見える。この突然の奇襲に十字軍はパニックとなり、砦の北側の崖に追い詰められ、そこから我先にと飛び降りて逃げ出す始末であった。それを見届けるとマリアはゆっくりと前を向く。その場いたザヴィシャと目が合う。奇しくも十年前の戦いとは真逆の再現となってしまった。今や彼の周りはすべてフス派の兵士によって包囲されており、逃げ場はどこにも無かった。いや、彼の並外れた能力をもってすれば、逃げようと思えばいくらでも逃げることができたろう。やはり噂に違わず誇り高い男のようだ。それだけに殺すのは惜しい。すると、ザヴィシャは持っていた槍を地面に突き立て、その場にあぐらをかいて座った。すぐさま周囲の兵士たちが、彼を討ち取ろうと襲い掛かる。


「待て!」


突然、周囲を威圧するような大声が響き渡った。皆が声のする方に顔を向けるとそこにいたのはカールだった。彼はザヴィシャに歩み寄ると、持っていた縄でザヴィシャを縛りあげ、周りに有無を言わせずに引き立てて行った。そう……これでよかったのだ。今、私たちの命があるのは、かつてザヴィシャが助命してくれたおかげなのだから。今こそその恩に報いる時なのだ。マリアはカールの後ろ姿に向かって心の中でお礼を言う。


 この戦いの後、ザヴィシャは釈放された。それはザヴィシャがかつてフスが監禁された折、フスと面会して彼への理解を示し、フスへの不当な扱いと処刑に反対してくれたことに対するフス派の信徒による感謝の表れだった。


 かくして、ヨーロッパ初の銃火器を使ったこの戦いは、フス派の大勝利で幕を閉じた。


 この頃、プラハ城内にある聖ヴィート大聖堂ではジギスムントがボヘミア王の戴冠式の事前準備を行っていた。そこへ側近が慌てて駆けこんで来たのを見たジギスムントは、すべてを悟ったのだった。だが、彼にも王としての誇りがある。戦いの後、二週間ほど城にとどまり戴冠式を終えた頃には、他の諸侯たちはすでにそれぞれの国へと引き上げており、残っていたのは彼の直卒とその近親者の軍勢ぐらいであった。そのためフス派の信徒たちによって城を包囲されかけたため、彼は夜陰に乗じて城を後にした。名ばかりボヘミア王という肩書きとともに……その後もフス派と十字軍の戦いは続いたが、そのたびに十字軍は撃破されてしまい、皇帝や教会の権威は失墜していくのであった。


 そして、ヴィートコフ丘の戦いを最後に戦場でマリアの姿を見た者はおらず、公の場からも姿を消してしまったため、その後の彼女については知る由もなかった。

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