空白
僕には人の顔の上半分が見えない。
正確に言うと、目の辺りが常にモザイクがかかっているように見えているのだ。
心因性のトラウマが在るのか。
無意識下でのセーフティーをしているのか。
それは未だに分からない。
小学校の頃だった。
友達の顔を描こう。
そんな授業が在った。
僕も隣の席の友達の顔を描く。
僕の目に映るまま描く。
それは友達の笑う顔の絵。
でも、目の辺りにモザイクが在る絵。
ある友達は面白くて笑う。
ある友達はふざけないでと注意する。
隣の席の友達は机に突っ伏して泣く。
そして、僕は先生に怒られた。
僕は見えるまま描いただけ。
僕には人の目の辺りが見えないのだ。
その時に、そのことに初めて気付くこととなる。
有名な名前の会社に勤めて、将来有望な未来のある父。
そんな父はクロコダイルのゴルフシューズでゴルフ接待三昧だ。
僕の学校の成績と近所の評判ばかり気にして止まない母。
そんな母は僕よりもPTA活動に夢中だ。
2人とも僕がいつも見ているモザイクのことを知らない。
父と母の顔にもいつもモザイクが在るから本当の顔を知らない。
自分の顔だって鏡越しに見るとモザイクがかかっているのだから。
かなり徹底した病気だ。
だから、友達がいない。
そして、僕は成績がそこそこいい。
そして、僕は素行がそこそこいい。
だから、たまに告白されることもある。
でも、モザイクのかかった顔の告白に答える勇気など僕にはなかった。
病的な日々も小学校から中学校へと否応なしに進められる。
相変わらずのモザイクは消えないが、口元と髪型で友達を見分ける術を得た僕は一見普通の中学生に見えた。
そして、中学生と言えば、思春期という名の性成熟期を迎えるわけだ。
もう経験したと豪語する強者もいれば、お前がかよと意外なヒーローが現れたりする。
学校一可愛いと評判の女の子を見に行っても、口元しか見えないから僕が萌えることはなかった。
人の顔を見たことのない僕。
つまらなくて。
息苦しくて。
学校も足早に帰る。
そして、引きこもる。
そんな日々、通学路にある店ができた。
【Eden】
意味は天国。
性成熟期を迎えた僕でも分かる大人の店だ。
僕は帰り道、その店の前を通る。
そして、僕は初めてモザイクの取れた人の顔を見たんだ。
アミ(仮名・24才)
彼女のプロフィールはそれが全てだった。
【Eden】で働く彼女。
この街で。
この世界で。
僕は完璧な顔を見た。
モザイクのかかってないアミさんは綺麗だった。
突然、道端でじっと見る僕にアミさんは警戒した顔で言う。
何か用?
いや、ただ綺麗で。
子供のくせに。
言葉が続かない代わりに僕の頬を伝う涙。
初めて見た、モザイクの取れた顔に、この綺麗な顔に感動したのだ。
アミさんは突然泣き出す僕に何故かアイスを1本買ってくれた。
ポツリポツリと話すアミさん。
アミ(仮名・24才)と言う。
源氏名よ。
本当の名前は教えない。
あんたは?名前は?
本当の名前を教えてくれないくせに?
年上の特権よ。
アミさんが小さく笑ってできる笑い皺が心地よかった。
アミさんには弟がいるらしい。
遠く離れた故郷で。
アミさんの家族は暮らしている。
1人いかがわしい店で働いて。
仕送りをしている。
見掛けと仕事の派手さよりも地味なアパート。
僕は学校帰りにアミさんの部屋に寄るようになる。
思春期という名の性成熟期。
そうしたことももちろん期待した。
でも、それよりもアミさんの顔が見たくて。
僕はアミさんの部屋でアミさんの話を聞く。
中学生の僕には難しい社会の話も。
中学生の僕でも分かる簡単な話も。
新鮮で。
愛おしくて。
たった1度だけアミさんの肩に触れたことがある。
まるで兄弟喧嘩、いや、擬似兄弟喧嘩をして。
ムキになって。
僕はアミさんに近づき過ぎた。
鼓動が鳴り止まなくて。
ゆっくりと流れる時間。
甲高いベルの音が2回。
ベルを鳴らしたのは郵便配達で。
3流小説のような展開に。
僕もアミさんも素に戻って。
擬似兄弟の枠の中に入っていった。
それで良かったと思う。
僕はアミさんの身体にあるアザを知っているから。
階段で転んだのよ。
油跳ねしちゃって。
彼女の言い訳の数よりもアザの数が日々増えていく。
僕の知らない彼女の世界が在るから。
そんなことは最初から分かっているよ。
アミさんには僕の顔がどう映っているのだろうか。
鏡に映る僕の顔には未だモザイクがかかっていた。
僕の頭からアミさんのことが離れなくなった。
モザイクだらけの世界でアミさんだけが真実だった。
そう思ったら、僕はアミさんの部屋の前に立っていた。
月が夜空を支配して。
僕をあからさまにしている。
僕はベルを2回鳴らす。
チェーンロックを不用心に外したまま、アミさんはドアを開ける。
昼間は見えないアミさんの顔が在って。
足下にはクロコダイルのゴルフシューズが在った。
父はゴルフの時は必ずクロコダイルのゴルフシューズで。
出張先でゴルフ接待があるから、今日履いていく。
朝、そんなことを言っていた。
クロコダイルのゴルフシューズのくたびれ具合も父と同じに見える。
アミさんは冷たく言う。
もう新聞なんていらないから。
しつこいわね。
ガチャンと音を立てて、ドアが閉まる。
きっとこの部屋の中に父がいて。
仕事人間のくせに。
出張だと言っていたくせに。
家族がいるくせに。
アミさんをなんで傷つける?
アザを幾つも作って。
アミさんはなんであの部屋にいる?
僕には分からないから。
僕は家に帰り。
父のゴルフクラブを持って。
アミさんの部屋に急ぐ。
コンクリートの道路でゴルフクラブを引きずると、火花が出て、かっこよかった。
アミさんの部屋の前で。
僕は2回ベルを鳴らす。
ガンガンと音がして。
出てきたのは父ではなかった。
いかにもヤクザチックな男で。
クロコダイルのゴルフシューズを履いている。
なんだ?お前?
男がそう言って。
僕を掴んで、部屋の中に投げ捨てる。
そこにはアザだらけのアミさんが下着姿でいた。
背中が痛い。
そう思ったら、みぞおちに蹴りが入る。
怖い。
そう思ったら、今度は床に投げ捨てられる。
△◎#@▼×!?
男が何を言っているか分からなかった。
でも、男は膝から落ちて、うずくまって。
前のめりに倒れていく。
そこにはアザだらけで。
下着姿のアミさんが立っていた。
アミさんの手には包丁が握られて。
男の返り血で真っ赤に染まっている。
そして。
それから
アミさんは何回も男の背中を差した。
その度に男は電気ショックを受けたようにビクッとしていたが。
じきに動かなくなった。
逃げて。
早く逃げて。
アミさんがそう言って。
僕はゴルフクラブを持って。
モザイクだらけの街を走っていった。
どれくらい走れば、夜が明けるのか?
どれくらい走れば、此処から逃げられるのか?
どれくらい走れば、モザイクが消えてなくなるのか?
僕は走って。
走って。
たどり着いた。
階段を上って。
上って。
部屋に飛び込んだ。
何の音も聞こえないまま、夜が明ける。
数日間、学校も休んだ。
ワイドショーがアミさんの写真を映して。
モザイクのかかった【Eden】を映して。
モザイクのかかったアパートを映して。
どうして、このような事件が起きてしまったのか?
レポーターがそう締めて。
ポップな通販のコマーシャルが入る。
アミさんは僕のことを一言も喋っていない。
だから、警察も僕のところに来ることもなかった。
あの男がヤクザで。
ろくでなしの薬漬けで。
DVでアミさんが苦しんでいて。
どうしようもなくて。
犯行に及んだ。
計画性もなくて。
突発的な自己防衛のために。
起こった事故であり。
殺意はなかった。
十分に反省しており。
温かい目で更生を見守るべきであり。
情状酌量の余地もあって。
あっさりと決着がついて。
控訴することもなくて。
社会はこの事件を忘れて。
アミさんは服役している。
僕はと言えば、相変わらずのモザイクだらけの世界にいた。
中学校から高校へ。
高校から大学へ。
大学から父のコネで就職へ。
毎日、満員電車に乗って。
毎日、繰り返しの仕事をする。
たまに付き合いでコンパに出掛けることもある。
でも、みんなモザイクだらけの顔で誰がどれでもいいって感じだ。
そんなモザイクの女の子の性行為をした後、決まって、自己嫌悪に陥る。
そして、1人で部屋に引きこもり、アミさんのことだけを考えて、自慰行為をする。
モザイクだらけの世界で9年が過ぎた。
僕もアミさんと同じ24才になった。
いつもと同じ時間の電車をホームで待っている。
またモザイクだらけの乗客に溢れた電車に乗るんだ。
そう考えたら、嫌気がした。
そして、通過電車が風を起こして。
空間を撃ち抜くように通っていく。
僕は向かい側のホームに走りだしていた。
通過電車の隙間に見えた顔。
モザイクだらけの街で。
唯一、モザイクのかからない顔が在った。
アミさんが向かい側のホームのベンチに座っている。
通過電車が通過したと同時にアミさんの座るベンチへとたどり着いて。
まるで月9のドラマのように。
僕はアミさんを抱き締める。
大きくなったじゃん。
アミさんはそう言って。
僕の耳を軽く噛んだ。
あれから9年。
過ぎてしまった時間を埋めるかのように。
2人は互いの愛を貪りあう。
抱き合って。
触れ合って。
舌を絡めて。
手をつないで。
僕はアミさんの中で何回も射精して。
アミさんは何回も絶頂に達した。
夜が明ける。
目覚めるとアミさんがいた。
あの時と変わらないアミさん。
僕にとって唯一のモザイクのない世界。
結婚しよう。
僕は言う。
子供のくせに。
アミさんは言う。
9年前と変わらない2人がそこにいた。
朝の満員電車を待つホーム。
僕はあくびをした。
せっかくだから、今日ぐらい仕事なんか休んでもいいのに。
僕がいくら言っても。
仕事は行かんといかん。
ついでに年上の言うことは聞かんといかん。
アミさんがそう言う。
だから、仕事に行くことにした。
でも、今度ゆっくり休みを取って。
アミさんと旅行に行こう。
モザイクだらけの世界でも。
アミさんがいるから。
眠そうな顔して、缶コーヒー買ってくるわ。
嬉しそうに走っていくアミさん。
僕は大きくあくびをして。
ついでに背伸びをした。
トン。
僕は突然、背中を押される。
◎▼※@!?
僕は線路の中に落ちる。
そして、僕は言葉を忘れたまま、振り向くと。
モザイクだらけの乗客の間にアミさんがいた。
その手には缶コーヒーを持っていないし。
それよりも他の人と同じようにモザイクがかかっている。
僕には人の顔の上半分が見えない。
ずっと昔から。
物心つく頃から。
モザイクのかかったアミさんの口元が動く。
う
ら
ぎ
り
も
の
電車が急ブレーキをかけて。
僕は痛みを感じる暇もなく、ただの肉片となった。
【おしまい】