第96話 地上動乱
霞、紬、渚が22時まで仕事をして、締め作業を終えていつも通り三人で店から帰る途中のことだった。人通りの減った通りでは滅多に人とすれ違わない。さほど狭い道ではないし、そのようなところを避けているつもりだった。それでも決意の固い人は行動を起こすのだ。突然の襲撃に遭った三人は近隣住民の通報によって病院に搬送された。比較的傷の浅い霞のスマホから連絡があってそれを知ることができた。タクシーですぐに移動した賢、勝、遥の三人はそれぞれの状態を確かめた。紬と渚は致命傷は負っていないが、復帰までに長い時間を要する怪我ということだ。霞によると相手は複数の男で、鈍器を所持していたとのこと。霞は複数箇所の打撲で済んだが、紬と渚は近隣住民が気づかなければ致命傷を負っていたかもしれなかった。それを聞いた賢は憤り、犯人捜しを始めようとした。
「落ち着け。そういうのは専門家の仕事だ。お前は三人のケアに徹しろ。身体はお前にはどうしようもできないが精神なら少しはどうにかできる」
「そうだね…」
「賢以外が狙われたか…」
賢を倒すために邪魔な仲間から先に倒すというのは考えられる作戦だ。今回それが実行に移されたということだろうか。
「いや、天使じゃない。掲示板がどうとか言ってたような…」
霞は側頭部を打たれたので耳が聞こえにくくなっていた。それでも耳に入った単語を覚えていて、賢にヒントを与えた。賢は関係者から紬と渚の最新の状態を聞くと、ひとまずの安心をして家に戻った。彼がするべきことは掲示板を調べることだ。この怪現象を研究している人たちは『密かに国家転覆を狙っているのでは』とか『上級国民ばかり狙われているから下級によるものだ』とか仮説を立てているが、どれもはっきりと調べたものではなさそうだ。誰も捉えられていないことが彼らの恐怖心を煽っているらしく、未知の脅威から自分たちを護ってくれる存在を希求していた。
賢は考えた。霞が天使でないと言ったから、今回の犯人は地上の人だ。確かに霞たちを狙うなら容赦なく一撃で殺す能力を持った上級天使が送られるだろう。それに、武器に鈍器を使っていたというのも引っかかる。これまで会った天使は鈍器ではなく刃物を持っていた。刃物でも鈍器でも簡単に手に入るが、刃物は扱いに慣れていないと自分を傷つけかねない。扱いに慣れていないのなら鈍器を選んでもおかしくない。
「どうしてあの三人を…無差別か、知ってる人なのか…」
「知ってる人ってったら店の客だねぇ。最近トラブルになったとか、そういう話はないのかね」
光は心の揺らぎを抑えようとしてか、賢の背中に被さって画面を見た。
「普通の人なら三人が思ったより強いってなったら退くと思うんだけど、そうじゃないってことはよほど強い殺意があったか、攻略法を知っているかのどっちかだね。でも天使じゃないってことは後者は消えるかな。客でもそこまでのことは知らないでしょ」
誰もが仲間が傷ついたことで心が怒りや悲しみで不安定になっていて、いつも頼れるリーダーとして振る舞ってくれた賢に寄り添うことでそれを整えようとしている。
「警察が動いてるからその報告を待つけど…何かの陰謀だとしたら俺らにまで及ぶ可能性がある。ここを知られたら困るから霞が復活しても仕事を休んでもらって、外に出るのはもともとここに住んでる俺だけにしよう」
「それなら俺も行こう。仕事に関しては問題ない。後で埋め合わせをすれば引き受けてくれる人がいる」
「それは助かる。大人がいたほうがいいからね」
こういうとき自分が子供であることが恨めしい。難しいことを息子から引き継いだ勝は彼をしばらく休ませることにした。
「お前が決意をもってやるとは言え、今の状況はあまりにも大きな負担をかける。こういうことは大人に任せるべきだ。お前はみんなと一緒にいろ」
やはり父は頼もしい。心が楽になった賢は光たちと一緒に部屋で眠った。
後日警察から犯人が捕まったとの報告があった。彼らは最近の怪死事件で仲間を殺されており、犯人が捕まらないことや捜査を打ち切った警察、対応を急がない社会への怒りを示すために無差別な攻撃を実行したという。おそらく他の場所でも同じような人がいて、連鎖的に人が傷ついたり死んだりするだろうと考えられる。嫌な時期を迎えたのだ。
「人の技とは思えないんですよ。ここまで完璧に人殺しをして、我々が手がかりにするものを残さない。被害者がもれなく死んでるし、目撃者もいないから話も聞けない。こちらとしてはもう詰みです。文句を言われたってどうしようもできねっすよ」
若い警察官が困り顔で言った。怒りの矛先が自分たちに向かうので心配だという。
「大変ですよね、警察も…警戒を怠るなとしか言えないですもんね」
「ええ、本当に…とにかく、ご家族の方が早く回復することを祈ってます」
紬と渚はまだ完治していないものの、はっきりと会話ができるようになっていた。
「油断しましたよ。3人ともこんな平和な場所でボコボコにされるなんて思ってないっすもん」
「酷い話よ。憂さ晴らしの矛先がどうしてわたしたちになるのかしら」
「正直俺もこの街の平和を疑ってなかった。でも人って思ったより凶暴なんだね」
賢に非はない。が、今後のことを考える責任はある。根本的な解決なら天使の襲撃を止めるしかないのだが、その方法がわからない。
しばらく見なかったハヤテが戻ってきた。彼は霞たちのことを知ると表情を曇らせ、自分の無力を嘆いた。
「僕はまだ使命を失ってないから天界に行ける。けどその方法はまったく未知、神がかった力によってそれがなされているとしか聞いてない。おそらく解析は無理だ。つまり僕だけが君らの願いを叶えられる…でも残念なことに僕より強い人はたくさんいる」
「天界にハヤテと同じ志を持つ人はいないの?」
「少しならいるけど、説得するのは極めて難しい。武勲を立てたり文明の発展に多大な寄与をした人には相応しい相手が用意され、その子供は将来を嘱望されて育てられる。それが育ったのが今の大老会っていう幹部のメンバーだ」
「大老会?」
「ああ、八傑っていうのが現役の最高戦闘員集団で、大老会は大戦で勝利したときの将軍とか、現在にも続く事業や文明を導いてる人で構成されている。名前の通り年上ばかりだ」
実績のある人の集まりであることは共通しているが、第一線にいるかということが異なる。ハヤテによるとその構成員は産まれたときから天界の重要人物として最高の教育を受ける。つまり強い思想があるということで、後発の八傑では説得することが極めて難しいという。
「ただ僕は、人は生きていく中で考えを変えられると思う。将来に期待を寄せられて強い思想を叩き込まれても、まったく違う考えの人に触れれば改まるところがあるだろうから、そういう機会が多かった大老の中には表側だけでやってる人がいるかもしれない…っていうのは希望なんだけどね」
打開策があるとすれば大老を頼ることだとハヤテが言ったので、大老がいかに威厳のある人かをある程度知っている遥たちは説得を依頼した。ハヤテは頭を抱えたが、自分の望みを叶えるのにも役立つとして受け入れた。
「もともと共存の中に悪意っていう名の綻びが生じて人は分断された。正義のみを保とうとするのが天界なんだけど、人が心を持つ限りそれは無理だってのは誰もが潜在的にわかってると思うんだ…たとえ天使だとしても」
人間と天使との分断は人類史の一部だという。天使がそう呼ばれるようになった理由があるのだが、詳しいことはもう誰も知らず、文献も失われたと聞いた。ハヤテは誰もが失敗を赦されなかったときのことを思い出せるとして、大老の記憶を呼び起こして人は完璧になるべきではないことを説くと言った。
「僕一人に託されるのは荷が重いけど…僕の戦いでもある」
ハヤテは天界に戻った。彼の表情から強い意志を感じた賢はハヤテの成功を信じて紬と渚のことに集中することにした。