第5話 水曜日の苦悩
スーパーマーケットのレジ横にはATMがあり、賢は店員に詫びて急いでそこで金を引き出し、なんとか支払いを終えた。店員によると彼と同じミスをする客は決して少なくないらしく、手元にカードがない人のための救済策として設置したそうだ。手数料をとられることを除けば、極めて便利でありがたいものだ。
「よし!なんだか気分がいいから腕によりをかけて作るよ!」
「それは楽しみだなぁ。私が手伝うことはある?」
居候している自覚から遥はこの家に貢献することを申し出たが、賢にはある計画があったため、座ってテレビでも見ていてくれと言われた。珍しくエプロンを着た賢はフライパンや包丁、まな板を取り出し、手早く下ごしらえを進めた。軽快な音で刻まれる食材の中に玉葱があったらしく、離れた遥の目からも涙が出てくる。
「買い物前に訊くべきだけど、苦手な食べ物ってある?」
賢は『苦手だから食べたくないもの』よりも『アレルギーがあるから食べられないもの』を訊き出そうとして、ふと疑問が浮かんだ。
「天使にアレルギーってあるの?」
「ある人もいるけど私にはないよ」
天使とは人間より知能が発達しており、次世代的な生活をしているものだと思っていたが、彼女に限らず多くの天使が人間と同じような特徴を持っていると判明した。心配事がなくなった賢は再び調理を進め、食材の入ったフライパンを火にかけた。
「よし、じゃあここで一発フランベをしようか」
賢はケーキ作りのために買ったブランデーをこぼしたフライパンを軽く揺すった。すると炎がおこり、カウンター越しに見ていた遥を驚かせた。香りづけのためにするこの工程は必須ではなく、単に彼が楽しい要素を入れたかったからだと思われる。賢が幼いころ好んで見ていたテレビ番組でやっていたのを真似てみたが、これは自分には危険で対処しきれない事態が起きるかもしれないという恐れを抱かせた。
「手が燃えるかと思った…」
賢は驚きのあまり消してしまったガスコンロの火を再びおこし、最終工程へと進んだ。それから数分で料理は完成し、テーブルには彼の渾身の作品が並べられた。
「オムライスとサラダ!」
オムライスは玉子の成形に苦労するが、賢は慣れているのだろう、見事な楕円形が炒飯の上に乗っている。遥には自分のより質が劣った料理だとは思えず、空腹が彼の料理を欲しがっているのがわかった。
「ごちそうさまでした」
桐矢家では料理をした者が片づけをするルールがあり、賢が二人分の皿を洗うはずだが、遥はこの後に賢が漫画を描くことを期待して手伝った。彼女がこの家に来てから初めて漫画を描く賢だが、彼はペンを握ってすぐに作業の手を止めた。
「どうしたの?」
賢は頭を抱え、遥の肩を両手で掴んだ。向かい合って見えた彼の顔には、じわりと汗が浮かんでいる。
「続きのアイディアが…浮かばないんだ」
賢は幼少期の遥との思い出を基に将来である今から先の話を漫画にしている。つまり話を構成するのは彼の妄想であり、妄想のいくつかが叶ってしまっている現在はそれを素直に漫画にしてよいのかを悩んでいる。妄想が現実になったとき、彼の作品は創作から記録へと変化したのだ。勿論、彼は妄想を尽かしておらず漫画を描き続けることはできるのだが、創作した話を現実に望んでしまわないか、作品を読んだ遥がそれを叶えようと気を遣ってしまわないか、今まで考えることもなかった心配が彼を苛んだ。それをすべて回避できる話は、今の賢には浮かんでいなかった。
遥のほうも、賢の悩みの一因が自分であることに辛い思いをしていた。自分が彼と再会しなければ、彼は漫画を描き続けることができただろう。自分はどうするべきなのか、彼女には考える時間が必要だった。ただ、二人に共通することは、別れたくないということだけだった。
フランベは危険なので軽い気持ちでやらないようにしましょう。