第1話 殺戮天使が舞い降りた
桐矢賢は今日も仲間のいる部室のドアを開けた。背負う鞄の中には超人気作品『ファイト☆はるかちゃん』の最新話が入っている。
『ファイト☆はるかちゃん』とは賢が幼稚園に通っていた頃、近くに住んでいた女の子『はるか』を主人公とした学園コメディ漫画である。初公開は去年の八月で、当時は会長はじめ多くの仲間に酷評された。『単純につまらない』『キャラがあんまり可愛くない』『同じギャグを違うキャラにやらせてるだけ』などとコケにされていたのに描き続けることに頑なだったのは、彼がはるかとの思い出を漫画として残したかったからであろう。彼ははるかに恋をしていた。それが彼の情熱の炎を燃やし続け、誹りを乗り越える勢いを与え、熱狂的なファンがつくほどの素晴らしい作品に昇華させた。
賢が数ページの最新話を皆に配ると、誰もが夢中になって読み始めた。しばらくして聞こえるページをめくる音や笑い声が賢には心地いい。
「あの締め方はずるいよ。次回が気になるじゃないか」
「あっという間に読んじゃうから短く感じるね。もっと長くする気はないの?」
誰もが彼の作品づくりを後押しするコメントをした。毎回心をすり減らし、それを恋心で補う日々はもうなくて、見てくれる仲間の期待に応えつつ、自分の理想とする作品を作ろうという意欲が彼を刺激している。すっかりプロ気分でコンピュータに向かい、昼飯の合図があるまで夢中で描き続けた。午後も彼の熱は冷めず、気づけば外が暗くなっていた。家に帰っても創作の勢いは衰えず、彼は一日にして新たなエピソードを完成させた。
次の日の朝、賢が配達の牛乳を取りに玄関ドアを開けると、向こう側に人がいた。清楚な格好をした小柄な女の子は黒いショートカットの髪を揺らし、ぺこりとお辞儀をした。彼女に憶えのない賢は定型文で彼女に問うた。すると、こう返って来た。
「あら、憶えていないの?私は賢のこと、憶えているのに」
賢は眉をひそめた。見知らぬ少女に呼び捨てにされたことへの不快感ではなく、少女が自分のことを『憶えている』と言ったことへの訝しみである。牛乳が温くなる前に冷蔵庫に入れたい賢が少女から離れようと別れの言葉を言うと、彼女はドアを手で止めて呟いた。
「あれだけ確かめ合ったのに」
その言葉が耳に届いて刹那、賢は脳裏に起きた強い衝撃に悶えた。焦点が少女の顔に定まったとき、彼は思い出していた。
「はるか…」
失望に曇る表情が一転して晴れ、少女は腕組みをして胸を反らした。
「もう、忘れるなんてひどいよっ」
彼女との思い出が賢の中で溢れ出る。と同時に、彼女への疑問が浮かぶ。
「どうして今、俺のところに来たの」
賢は彼女の転居によって別々の小学校に進み、話す機会を失い、今まで紡いできた太い縁の糸が切れることを恐れた。だから彼女との繋がりとしての漫画を描いた。それはきっと彼なりの強がりで、心の奥底ではもう縁は切れたものだと決まっていたのだろう。虚しい足掻きで自分を慰める日々は、漫画が完結した先の未来を生きる彼を支えない…そんな彼の懸念は今、打ち砕かれた。漫画が繋ぎ止めた縁を喜んだ彼の問いに対する答え、それは…
「賢を、殺しに来たの」
別れの言葉は必要なかったのだろう。はるか…遥は一歩で賢との距離を殺し、右手の指をまっすぐ伸ばして彼へと突き出した。
「ッ!」
咄嗟に飛び退き、早く出た左手を構える。彼女からは尋常ならざる意志を感じる。きっと、冗談ではない―そう理解したとき、彼の脚は震えだした。優しくて、穏やかで、愛おしい…そんなあの頃の彼女の面影は、今は見えない。彼は左手を封じられ、顔面で拳を受けた。視界がぶれ、壁に凭れる。
「なんで…」
絞りだした声は彼女に届いていた。肩を掴んだ遥は右手の爪を賢の首に突き立て、静かに答えた。
「私が、天使だからだよ」