《ロザリオ》
日本。帝都第六区画。
人のいない夜の街で、男の死闘は始まった。
否、死闘というには決死の覚悟が不足する。されど激闘というほど激しいものでない。かといって、決闘というには雅に欠ける。
虐殺。この光景を敢えて一言で表すとするならば、おそらくそれが妥当だろう。
「――」
声にならない叫びをあげ、男に向かうは獣の群れだ。
人の形をした獣の群れ。理性のない鬼の群れ。ただ本能に従い、人の血を求める獣鬼の群れ。暗闇に赤い眼を輝かせた、吸血鬼の群れ。
およそ二〇の獣の群れが、ただ一つの敵を目がけ、その牙を剥いている。
異形の群れを前に怯むことなく臆することなく立つ男、久世原阿久。
黒衣を冬の夜風にはためかせ、その赤い瞳で吸血鬼たちを見る。
退屈そうな、冷めた目だ。
「下等な吸血鬼には、永遠に満たされない渇きと、払拭できない死への恐怖があるらしい。お前たちも同じか? 痛いか、苦しいか。生の呪縛から解放されたいと……死にたいと願うのか?」
語りかけるように言った久世原阿久は、前後左右、あるいは上下からも迫る吸血鬼たちから一つの傷も負わされていない状態にあった。
理性を失った吸血鬼が手を抜いているわけでも、ましてやただの一度もその爪牙を久世原阿久に触れさせていないわけでもない。ただ単純な事実だけが、久世原阿久を無傷たらしめていた。
吸血鬼たちの攻撃が、阿久にとってなんら脅威になっていないのだ。
獣の爪では、男の肌を切り裂けぬ。
獣の牙では、男の肉を傷つけられぬ。
そして獣の拳では、男の拳を前に砕け散る。
阿久の拳の一振りが、眼前に迫った中年の女の胸部を貫き、その心臓を抉り取った。
「死にたければ来い。痛みも苦しみも感じる暇なく、その命を消してやる」
阿久が女の心臓を掴んだその手を握ると、浦部のときのように手の内にあったはずの心臓は消え去った。最後に小さな呻きを上げて、女の身体はたちまち灰色にひび割れる。
灰と化し始めた女の残骸を払いのけ、阿久は赤い瞳で数多の敵を見やる。
およそ二〇の獣。老若男女の吸血鬼。すでに数体は始末したから、正確な数は二〇に届かないほどだ。
おそらく彼ら彼女らは、浦部が飛び出してきたあのビル、大型のショッピングモールで買い物でもしていたところだったのだろう。そこに血を求めた浦部が突入し、ありふれた日常風景は地獄へと変貌した。
そして空に浮かぶ満月が、人を鬼へと成らしめた。
吸血鬼の中には特殊装備を付けた警察官が五・六人紛れている。浦部がビルから現れた際にも、同じく特殊装備を付けた警官がいた。その辺りを鑑みると、あのビルには施錠令が布かれたあとで警察が突入したのだと推測できる。
警察部隊の全員が浦部に惨殺される、あるいは吸血鬼に吸血されて全滅という結果になってしまったようだが、雑魚の露払いはしっかりと済ませてくれていたらしい。
つまりここに残っている吸血鬼たちを片付ければ、残すはマキムラだけであると考えても差し支えはないということだ。
吸血鬼たちの攻撃を躱すでもない。阿久はその爪牙を身に受けている。だがその爪牙は阿久の皮膚を貫くことは叶わない。
眼前に迫っていた男の吸血鬼の爪を回し蹴りで弾くと、阿久は身体を小さく丸めた。
「心臓を狙え。まとめて喰らう」
言った瞬間、阿久の背から黒く細い杭のようなものが無数に飛び出した。阿久より突き出した無数の黒い杭は、ただむやみに飛び出したものではなく、周囲に存在する吸血鬼、その半数以上の心臓を的確に貫いている。
「――ご、」
阿久のすぐ横まで迫っていた若い男の吸血鬼が喀血した。
それをきっかけに阿久の周囲にいた吸血鬼たちは呻き、倒れこんだ。
それ以上、吸血鬼たちは動かなかった。次第に皮膚がひび割れて、灰の山を作っていった。
吸血鬼を吸血鬼たらしめる器官が、心臓が失われたのだ。
これで残りは三匹。
同族の死を目撃してもなお、満たされぬ渇きに阿久へ襲い掛かるものがいた。阿久に勝てないと判断して獲物を変えようと逃げるものもいれば、先の傷で動けないものもいた。
残った吸血鬼たちに、阿久は静かに右掌を向けた。
その指の形状が次第に変化し、黒い杭となる。杭は質量を無視して伸縮し、吸い込まれるように吸血鬼たちの胸部へ打ち込まれる。
悲鳴や呻きのあとは、やがて積まれる灰の山だけが残された。
夜風が吹いて、灰が舞う。
彼ら彼女らが生きていた痕跡が、失われていく。
月光の下。
白い灰が舞い散る中で一人佇む阿久の隣には、黒い影が立っていた。
どこから現れたか、それは女だ。黒い女。
長く、サラリとした黒髪と雪のように白い肌。日本人形のように整いながらも、しかし蝋のように無表情の、黒曜石のような瞳をした女だ。
「いつも最後はお前一人だ。お前だけが、俺の横にいる」
「そうね。そうかもしれない。でも、次は違うかもしれない」
阿久の横に並んだ黒い女は、風に揺れる長い黒髪を撫でつけた。
「追わなくていいの?」
追うべき吸血鬼はもういない。となると、女は花楓のことを言っているのだろう。
花楓――南花楓。
「このまま追えば餌は餌のままで終わる。だがここで追わなければ、餌は立派な飯になって俺たちの前に現れる」
総てを話せば力を貸してやるとは言った。その言葉に偽りはない。事実、阿久は花楓を死の淵から何度も助けている。だが、命を助けるとは約束していない。
このまま放っておけば、花楓はマキムラによって吸血鬼にされるだろう。しかし吸血鬼を食らう身としては、吸血鬼が増えることになんら問題はないのだ。
「酷いことを言うのね」
女は黒曜石のような瞳で阿久を見た。
その顔に、その瞳に表情はない。表情はないが、感情はあった。
「わたし、花楓のこと好きよ。あの子は、わたしにないものを持っている。きっと、人として大切なもの」
――情、あるいは心というやつだろうか。
しかし、そんなものは果たして必要だろうか。
誰もが幸福で要られる世界など、どこにもない。正義の味方など、どこにもいない。この世界は、悪に満ちているのだから。
騙して殴って踏みつぶして、喰らって、自分が生きる糧にする。そうしなければ、自分が踏まれて食われるだけだ。慣れ合いは要らない。絆だの友情だのというものは、結局のところ踏み落とされないための命綱のようなものだ。
そんな世界に心など――いや、きっと彼女が言いたいことは、そういうことじゃない。
「前のときもそう、貴方は彼を家へ招いたわ。貴方の力で守り切れるように。結局、怖がられてしまったけれど……けれど、あの子は違うかもしれない」
「同じだろう。現にあいつは逃げた」
「違うわ。あの子は逃げたのではなく、貴方を助けるために走ったの」
アルラの黒曜の瞳が、阿久を覗き込んだ。
心の奥底まで覗かれているような気がして、阿久は目を逸らす。
「わたしは花楓を殺したくない。貴方が花楓を守る理由、それだけでは不足かしら」
「……ああ。不足だ」
「残念ね。ならわたし、一人で行くわ」
アルラは阿久に背を向け、歩き出した。今度は阿久が立ち止まる。
「一人では無理だ」
「かもしれない。でも行くわ」
「どうして花楓にそこまでする必要がある」
「わたしにもわからない。わからないけれど、そうね。――きっと、わたしがそうしたいから」
――俺がそうしたかった。それだけだ。
ドクンと、阿久の心臓が撥ねた気がした。
二年前に失ったはずの心臓が、強く鼓動を刻んだ気がした。
いつだったか、そんなことを言って心臓を失くした馬鹿がいたことを思い出す。
記憶の隅に残るいつかの欠片を掘り起こされた阿久は、乾いた笑いを漏らした。
嘲るような、しかしどこか暖かい笑み。
「――行くか、アルラ」
「どこへ、行くのかしら」
アルラの瞳が阿久を見る。
黒曜石のような瞳が、阿久の次の言葉を待っている。
「やりたいことがあるんだろ。俺の力を貸してやる」
月光照らす殺戮の跡。
灰の舞う夜の街で。
二つの黒い影がゆっくりと歩き出した。
◇
久世原阿久に背を向けて吸血鬼の群れから逃げ出した南花楓は、とにかく走った。息が切れても走った。いくら浦部を圧倒した阿久でも、あれだけの数の吸血鬼をどうにかできるとは思わなかったからだ。
助けを呼ぼうと思った。
扉の周囲には多くの警察が待機していることを思い出す。外に出ればきっと警察がいる。警察なら、きっとどうにかしてくれる――。
だが花楓には周辺の道がわからない。知っているのは家の周囲の道だけだ。
だから家族の安全確認を兼ねて、自分の家に寄ることを選択した。家には母がいるはずだ。母なら、第六区画の道を、少なくとも花楓よりは知っている。車だって使える。
きっと、阿久を助けられる。
全力で走った。それでも阿久を助けられる保証などどこにもないから、全力から無理やり力を振り絞って走った。冬だというのに全身が汗で濡れている。冬の冷気が肌を刺す。何度も冷気が行き来する鼻と喉が痛い。
「は、はっ……ぁ」
道の標識に必死で目を張り、なんとか家の近所までたどり着いた。
右隣には公園があった。この公園のジャングルジムからは花楓の家が見えるのだ。小さな頃はよく、あそこから家を見たものだ。
あと少し。あと少しで家に着く。そしたら、阿久を助けられる。
震える足を前に踏み出したとき、声がかかった。
「やっぱり、南さんは来てくれたんだね」
ふと公園のジャングルジムに目をやる。その頂上には一人の少年が座っていた。
高い身長。甘いマスク。わずかに垂れた穏やかな、けれど赤い目が、花楓を捉えている。
「……牧村」
吸血鬼――牧村健二がそこにいた。
牧村はクスリと中性的な笑みを浮かべ、花楓に手を振った。
まるで友達のような馴れ馴れしい仕草に花楓は苛立ちを覚える。友人を目の前で殺した男だ。慣れ親しみたいとは思わない。
「あんた、ここで何してるの」
精一杯睨み付けてやったが、牧村は涼しい顔でへらへらとするばかりだ。
むしろ、嬉しそうにしているようにも見える。
「昨晩に言ったろう、満月の夜に君を迎えに行くって。もし第六区画で施錠令が布かれたら、君なら必ずここへ来ると確信していたんだ。己の危険を顧みることもなく、誰よりも家族を大切にする君。ああ、南さん。やっぱり君はとても美しい」
「満月の夜に迎えに来る」、そして、「施錠令が布かれたら」。
つまり彼は、満月の夜に施錠令が布かれることを予見していたということか?
いや、あるいは――。
「もしかして、あんたが施錠令を……」
首を傾げた牧村は、やがて花楓の言葉の意味を捉えたのか、パンと手を叩く。
「察しがいいね。そうとも、ぼくが今日この日に施錠令を布きたいと先生に提案した。新たな英雄の誕生のためにね」
「英雄――なんのことを言ってるの?」
「君のことさ。言ったじゃないか、君は吸血鬼になる資格がある。君ならきっと、誰よりも強い吸血鬼になれるだろうから」
「そのために、施錠令を発令させるような何かをしたってこと?」
「そうとも。そのために、あの二人を敢えて逃がしたんだから」
あの二人?
誰のことかわからない。
眉を顰める花楓にくすくすと笑顔を向けたまま、牧村はジャングルジムから跳んだ。
牧村の跳躍は人のそれをはるかに凌駕している。大きく空中へ飛んだあとは、トン、と子気味のいい音を立て、猫のように軽やかな着地を決めた。
身体を傾けて花楓に身を寄せた牧村は、静かに告げた。
「井本彩名、朝垣薫。今日の夕方四時頃、校門で串刺しになっていた者の名だ」
「――なんで」
花楓の眼が見開かれる。開いた口がふさがらない。
どうしてあの二人が殺された?
一体誰が、何のために?
くく、と腹を抑えて笑いを噛み殺し、牧村は優しく目を細めて花楓を見つめた。
「ぼくが殺したんだ。あいつらを生かす理由なんてどこにもなかったからね」
「なんで……なんで殺したのよ! あんたのこと話さなければ殺さないって言ったのに!」
本当に殺されるべきは自分のはずだ。花楓は阿久に牧村のことを話したのだから。
なのにどうして牧村は花楓を殺さない。なのにどうして、牧村はあの二人を殺した。
噛みつくように叫んだ花楓から一歩距離と取った牧村は、おいおいと笑う。
「そんな態度をとってもいいのかなあ。ぼくは吸血鬼だ。人間には殺せない。そして人間は、ぼくにとってはただの餌で、玩具だ」
「そんなこと聞いてない! なんで殺したのかって聞いてんの!」
やれやれ。呆れたような素振りを見せながらも、牧村は笑顔のままで答えた。
「もともと殺すつもりだったからさ。それにあいつらは君を傷つけた。そんな奴らを生かしては置けない。……まあ、そんなことは今はどうでもいいんだ。もう一度聞くよ。ぼくに対してそんな態度を取っていいのかい。確かにぼくは君を迎えに行くとは言ったけど、君がぼくにそんな態度を取るのなら――ここで殺したっていいんだぜ」
殺す――麻衣のようにか。
首だけになる。醜く死んでいく。
怖いと思う。あんな死に方はしたくないと思う。
だけど。
――大丈夫。花楓はお母さんの子だから。
――自分が正しいと思うことをしなさい。
だけど南花楓は、南正孝の娘で、南椿の娘だから。
だから絶対に屈してやらない。
「あんたの仲間になるくらいなら、死んだ方がマシだ」
花楓は吐き捨てるように言って、牧村を強く睨み付けた。
いつぞやの恐怖はどこにもなかった。ただ花楓の心にあったのは、殺されたという彩名と薫の姿と、目の前で殺された麻衣だった。
麻衣。彩名。薫。あの三人には、それはもちろん気に入らないところもあったけれど、それだけじゃなかった。好きなところが、尊敬できる部分が確かにあった。そんな彼女たちを、花楓の恐怖心を煽るために、施錠令を布くためだけに殺したのだとしたら。
この牧村健二は悪だ。――憎むべき悪に相違ない。
そんな悪に命乞いをするなど、悪の軍門に下るのと同じことだ。
花楓の父なら、母なら、きっとそんなことはしない。だから花楓だって、絶対にしない。
牧村は反抗的な態度を崩さない花楓に苛立ちを見せるでも、驚くでもなく、むしろ満面の笑みで両手を広げて歓喜した。
「――そう、そうだ。それでこそ君だ、南花楓だ! 正しい、君は正しいよ! は、ははははははは! 君は、君だけは絶対に間違えない、絶対に正しい! ああ――まさに! まさに正義の味方だ、英雄なんだ!」
逆上した牧村に殺されると思っていただけに、予想外の反応に驚きを隠せない。
言葉を失った花楓に、興奮した牧村は溶けそうなほど弛んだ笑みを浮かべた。
「この世の中、正しいことを正しいと、間違っていることを間違っているといえる人間がどれほどいることか。そして正しいと思えることを行動に移せる人間が、一体どれほどいることか! ……いないんだよ。そんな人間はどこにもいない。だって誰もぼくを助けてくれなかった。誰もぼくの心の叫びに気付いてくれなかった! ――でも、君だけは違ったんだ。君はぼくの声に気付いてくれた。君だけが、ぼくに手を差し伸べてくれた。助けてくれた! 君が! 君だけが! この穢れた世界で唯一の輝きなんだ!」
「あんた、何を言ってんの……?」
意味がわからない。ついていけない。
牧村が一体何を思っているのか、何を目的としているのか、花楓にはまるで理解ができない。
花楓は一歩、牧村から距離を取った。
だがそんな花楓の様子にも気づかず、牧村は笑い続けた。
「君は正しい。君だけは正しい。そして君の正しさは、この世の何よりも美しい。綺麗だ、南さん。君は綺麗だ。美しい、そして正しい。だから君は今の君のままでいなければならない。歳を取ってはいけない。成長してはいけない。穢れてはいけない。今のままこの世界にあり続け、そして永遠の輝きとならなければいけないんだ!」
ほとんど一息でひとしきり語った牧村は、ほうと艶やかな白い息を吐く。
それから優しく目を細め、花楓に手を伸ばした。
「吸血鬼として生まれ変わってくれ、南花楓。噂に聞く第二真祖のように、弱者を救える力を、悪を滅ぼす力を、君に与えたい。そして新たな輝きの誕生を、ぼくはこの命を以て祝福しよう。南花楓が最初に滅ぼすべき悪の名は――牧村健二だ!」
「だから……だから何を言ってるのよ! 意味わかんない、あたしはただの人間だよ、英雄や正義の味方なんかじゃない! あたしには、そんなこと――」
「できるとも! いいや、君にしかできないことなんだ! 君は正しい! 君はぼくの正義だ、英雄なんだ! これからも、そうあるべきなんだ! だからぼくは悪を演じた! 悪になった! 君を吸血鬼にすると決めた! そのために、ぼくは!」
「そのために麻衣を……麻衣たちを殺したっていうの?」
「ああ、ああそうだとも! 総ては君のためだ! 英雄の誕生のため――世界のためだ!」
「無理だよ、意味わかんない! あたしは、正義の味方だなんて、英雄だなんて、そんな器じゃない。変だよあんた……狂ってる」
熱弁を繰り返す牧村から目を逸らし、花楓は唇を噛みしめた。
「そうだね、狂っている。ぼくの心はとっくに君に狂わされてしまったよ。だから――殺してくれ。ぼくを殺せ、悪を殺せ! この世界の不幸を、理不尽を、打ち砕いてくれ!」
興奮する牧村の腕が花楓の両肩を掴んだ。
とても強い力だ。肩に指が食い込み、骨が軋む。ただでさえ男女の違いから力の強さが違うのに、相手は吸血鬼だ。アスファルトを容易に砕くほどの筋力を持っている。そんな化けものを前に――しかし花楓は諦めることはしなかった。
牧村はまだ何かを言っている。聞いたところで、どうせ意味など理解できない。浦部と同じだ。聞くだけ無駄だ。
だから牧村については考えない。それよりも、この場を乗り切るために何ができるかを、必死で思考する。
まず思いついたのは吸血鬼の弱点だった。
十字架、太陽――はダメだ。牧村は平気で昼間に外を歩く。だったら、他は……にんにく、水、あと、あと――火!
昼間のことを思い出す。浦部が吹き飛んだあとの、阿久の腕。
酷い火傷の跡のような、あの腕。あの傷を牧村の全身に負わせることができるなら、この状況を打破できるかもしれない。
「どうしてだ花楓! ぼくはこんなにも、君のために死にたいと望んでいるのに!」
うるさい。うるさい! 勝手な私情を押し付けるな黙っていろ!
頭の中で叫んで、花楓は牧村のことを頭から離す。
あの火傷……そう、火だ。火なら効果があるかもしれない。
そう思った花楓は周囲に火を思考の中で探した。ポケットには火が出るものなど入れていない。近くにも、何ひとつない。もし火があるなら、近くの民家にでも飛び込むしかないか――。
と、必死で抵抗していたときだった。
「知らなかったよ。君、殺されたいと思っていたんだねえ」
ぼぎゅ。近くでハスキーな高い男の声がしたと思えば、そのすぐあとで奇妙な音がした。スライムの塊に手を突っ込みでもすれば、こんな音がするのだろうか。
音がしたあと、花楓の半身に暖かいものが降りかかった。
赤い液体だ。――血だ。
見れば、花楓の肩を抑えていた牧村の左肩から先が消滅している。ドサリ、と遅れて何かが落ちる音がした。牧村の左腕だった。
「あ――え?」
牧村が背後を見る。花楓も釣られるようにそちらを向いた。
牧村の背後に立っていたその男は、随分と奇妙な男だった。
白く化粧された顔。眼の周囲は青く彩られ、右目の下には黒い星が描かれており、赤く丸い鼻がついている。唇は鱈子のように厚く、これまた赤い化粧を施されている。白く丸みのあるフリルのついた道化服、そして赤い三角帽。
それらが牧村の返り血を浴びて真紅に染まる。
道化師――ピエロ。
ふひひ、と耳障りな笑いを漏らした。
「先生――なんで」
牧村に先生と呼ばれたピエロは、「そうだねえ」と首を傾げ、まるで今理由を考えたかのように人差し指を立てた。
「ほら、あの浦部くんがなかなか帰ってこないものだから、ぼくとしては心配になったんだよねェ。しかし、アレだ。君は随分とかっこいいことを考えるねェ」
ピエロは牧村に笑顔で語り、その笑顔のまま花楓を見た。
屈託のない笑顔だ。男の年齢は二十後半から三十ほどの年齢に見えるが、その笑顔はまさに童子のものに似ている。
その純粋すぎる笑顔が、逆に不気味だった。
「そこの彼女が英雄の器たりえるとみて、吸血鬼の力を与えることで真なる英雄に生まれ変わらせようとは。そして自分が彼女の最初の礎となろうとは。なるほどねェ、これまで君が女性の吸血鬼を生み出そうと試みてきたのは、つまりは彼女のための実験だったというわけだねェ」
ピエロは花楓に触れようと手を伸ばす。花楓は身体をひいてそれを避けた。牧村は残った右腕でピエロの腕を払い、花楓に触れさせまいとした。
牧村の行動に驚く花楓だったが、ピエロの方は少年のように笑うばかりだ。
「しかしだ、君の行動には一つ問題があるんだよねェ。実はこれまで君と彼女のやり取りを見せてもらっていたのだけれど、君の言う通り彼女の勇気は本物だ。友人を殺された怒りは正しいものだ。まさに正義の味方、英雄そのものの行為だねェ。まるで第二真祖、あのムカつく小娘だ。そしてそんな正義に殺されたいと願う君の思いもまた、ある意味でとても純粋な思いだねェ。好きな相手に殺されるということは、おそらくこの世界で最も幸福なことだから」
だけど――。
ピエロは呟く。花楓には、初めてピエロがその瞳に怒りを宿らせたように見えた。
牧村を肯定した際の笑顔はどこかに消える。ピエロはその腕をゆっくりと伸ばし――牧村の胸に差し込んだ。
「ごブッ」
牧村の吐血を顔に浴び、しかしピエロは拭うこともなく、牧村の肉体を隣の壁に押し付けた。とっさに花楓は横に跳び、回避することに成功する。
牧村と衝突した壁に亀裂が入った。
「なあ教えてくれよ牧村健二。君はそうまでして英雄を求めながら、どうして彼女を英雄に仕立てようとした? どうして己が英雄足りえようとしなかった?」
「それ、は――」
「言わなくていい。ぼくにはわかってるからねェ。君には彼女への尊敬があり羨望があり恋慕があり、そして彼女に英雄としてあってほしいという傲慢があり、なによりも自分が英雄としてあるための努力をしたくないという怠慢があったんだ。だからねェ、君自身がいくら正しいことをしていると思っていても、英雄を生み出す礎になるのだと息巻いていても、君のしていることは結局、世界なんかのためじゃなく、ただの悪行なんだよねェ」
図星だったのだろうか。
牧村の眼が大きく見開かれ、そしてその瞳から一筋の涙が零れた。
牧村は言葉を返す代わりに、ぎりぎりと歯を噛みしめている。そんな様を見て、ピエロは「ふひひ」と意地悪く嗤った。
「そんな悪党がねェ、どうして女の子に英雄たれ、なんて言えるのかねェ。ふひひッ。結局君は! 自分が英雄になれないから、英雄の役割を他人に押し付けた! だって楽だからねェ、努力しなくていいからねェ! なんと烏滸がましい! 他力本願も甚だしい! そしてなによりッ!」
ピエロの腕がさらに牧村の胸に差し込まれた。
そしてその両腕を大きく広げ、ピエロは牧村の肉体を大きく両断する。
「牧村健二。――それは男らしくないよねェ」
全身に真紅の血液を浴びたピエロは小さく呟いた。
牧村であったものの一つ――首のついた右半身が横に転がっている。そして涙を流す牧村の視線は、花楓に向けられていた。
牧村が怖がっているように見えた。謝罪しているようにも見えた。様々な感情が入り混じった泣き顔だった。
「牧村ぁ!」
思わず花楓は牧村に駆け寄る。半分が欠けた体のうち、残った右手を取った。
牧村の腕はとても冷たい。そして、とても乾いている。
――これが、吸血鬼の死だ。
阿久に見せられた死を思い出す。
浦部の死。何も残らない、灰だけの死だ。
牧村もきっと、あのような灰になる。だから崩れてしまわないように、壊れてしまわないように、優しく牧村の手を握った。
「大丈夫だから、まだ生きてる、大丈夫だから――」
こういうとき、どうすればいいのか。
人工呼吸? 心臓マッサージ?
いや、違う、とにかく今は、血を止めないと。
必死で何かできることを探す花楓を、牧村は首を横に振って制した。
「南さん。君は、やっぱり……優しいなあ」
「こんなときにお世辞とかいらない! とにかく今は――」
まずは止血。自分の羽織ったコートを脱ぎ、牧村の消し飛んだ左半身に当てた花楓の腕を、牧村はそっと止めた。しかし花楓は牧村の手を振り払って血を止めようとする。
そんな花楓の手を、牧村は強く握った。少し痛かった。けれど振り払うことはしなかった。振り払えないと思った。
「ずっと、君が好きだった。君に焦がれていた。君のようになりたいと思っていた……でも、ぼくは弱かったから。君みたいには、なれなかったよ」
苦笑したその頬に、亀裂が走る。
牧村の腕が灰となり、ボロボロと崩れていった。離れたその手を掴もうとしても、水でも掴もうとするように指の隙間から零れていく。
「君は、普通に生きて。それがきっと――正しい」
「ちょっと! ちょっと牧村!」
それきり牧村は何も言わなくなった。唇がひび割れ、額に亀裂が入り、その顔が灰となって完全に崩れ去った。残されたのは牧村の来ていた服と、牧村だった灰だけだ。
死んだ。これはもう蘇らない。
吸血鬼のことを詳しく知らない花楓にも、そのことだけはわかった。
へたりこんだ花楓の背後から、「ふひひ」というあの笑いが聞こえる。ピエロが花楓に歩み寄っているのだ。
花楓は立ち上がってピエロを睨み付けた。
「なんで、殺したの」
牧村を殺したこのピエロに、恐怖はなかった。
ただ、理不尽への怒りがあった。
もし牧村がこの男に出会うことがなければ、吸血鬼にならなかったのではないか?
そして吸血鬼にならなければ、牧村は人間としてこれまで通りに生活できたのではないか?
本当に、牧村だけが悪人だったのか?
――違う。
確かに牧村は悪だった。麻衣を殺し、彩名を殺し、薫を殺した。花楓だって吸血鬼にしようとした。けどそれは全部、吸血鬼としての力を手に入れてしまったからだ。
本当の悪は、牧村に吸血鬼の力を渡し、その悪行を許容したものではないのか。
眼前の――このピエロなのではないか?
花楓に歩み寄ったピエロは一八〇ほどの図体を曲げ、ぬう、と花楓にその半身を傾けた。
ピエロの顔が、花楓の目前に迫る。それでも花楓は、ピエロを睨むことをやめなかった。
「おや、君は彼が死んで嬉しくないのかい。君の友達を殺したんだろう、牧村は。それだけじゃなく、君を吸血鬼にもしようとした。君にとって迷惑でしかない奴じゃないか」
「そんなことあんたには関係ないでしょ! 答えなさいよ、なんで殺したの! 仲間だったんでしょ!」
「仲間……」
ふむ、と腕を組んだピエロはしばらく考え込み、やがて人差し指を立てて言った。
「確かに彼は仲間、いや、血を分けた兄弟――ああいや、血を分けた家族ともいうべき存在だ。彼を吸血鬼にしたのはぼくだから……うん。ぼくは彼の第二の親とも言えるねェ」
「血を分けたって……そんなに近い存在だったのに、どうして殺したの!」
「簡単なことだよ。誰かと群れるのは男らしくない。ぼくは群れたくなかった。一人になりたかった。だから殺した。それだけの理由だ」
「――は?」
ふひひ、と笑ったピエロは、胸に手を当て、空を見上げた。
曇り空だ。星は見えない。
「もともとぼくは家族がほしかった。母親代わりのヴィーデ様がいなくなってからは一人になってしまったからねェ。もちろんパパはいる。いつもぼくを叱るよ。お前はバカだ、お前はオカマだ、どうせ男を好きになる変態だってねェ。だけど、パパがあるとき言ったんだ。男らしくありたいのなら、家族を作ってみろって。だからぼくは牧村健二や浦部貴久を眷属にした」
「だったら、どうして一人になろうとしたのよ」
「だけどあるとき、パパが言ったんだ。群れを作るのは弱いものがすることだ、それは男らしくない、ってねェ」
「そんな、矛盾してるじゃない! 家族を作れって言って、次は一人になれって……あんた、おかしいとは思わなかったの!?」
「おかしいわけない、パパの言うことなんだからそれは絶対だ。大事なのは男らしくあること。それだけだ」
こいつも――異常だ。
しかしあの浦部や牧村はまだマシだ。狂っていたとはいえ、自分の意志がしっかりと存在していた。だがこのピエロに自分の意志はない。
命令があれば殺しも厭わぬ、常軌を逸した信仰心。狂った道化師。
これはまさしく。
「キチガイピエロ……!」
花楓が呟いたとき、ピエロは猫の手のように丸めた両手を口元にかざし、「ふひひ」と深いな笑いを漏らした。何がおかしいか。怒りに歯をむき出した花楓の右手を道化は指差している。まるで気づいていないことがおかしいと言わんばかりだ。
右手を見た。
何かが、花楓の右手を貫いていた。
十字架だ。鎖に繋がれた十字架が花楓の右掌に突き刺さり、貫通している。
ボタボタ、と右手から零れたものがアスファルトの上で小さな血溜りになる。
「は――ぅ、あ、ぁあぁああ!」
十字架の貫通された右手。それを視認した直後、痛覚が遅れてやってきた。
腕を貫かれた痛みに悶える花楓の視線には、じゃらじゃらと十字架に繋がれた鎖と、そして左手が映っている。その左掌もまた、同じような十字架に貫かれていた。
じゃらら……鎖が擦れる音がしたかと思えば、花楓の肉体は貫かれた両腕から後方へ引き寄せられる。
最後には十字の形で背後にあった壁に押し付けられた。どうも鎖に繋がれた十字架は、背後にある壁から伸びているらしい。両腕が十字架に引かれ、足が浮く。
まるで磔だ。両手を杭で貫かれたキリストだ。
「あッ、あ、ぁあ――」
あまりの激痛に声が出なかった。呼吸をすることも忘れた。しかし酸素を求めて胸は上下し、喘ぐような吐息だけが口から漏れる。
歯を食いしばって痛みに耐え、少しずつ呼吸ができるようになった。ものを考える余裕が少しばかりできたとき、眼前のピエロはニンマリと笑って近づいていた。腰に手を当て、不格好に左右へ振りながらのスキップだ。途中で、牧村であった灰を踏みつぶした。
トン、と最後に軽やかに跳んだ道化は、ポケットから何かを取り出す。
ロザリオ。鎖のついた――ロザリオの首飾り。
「本来、ボクは女の子のことをあまり気にかけない。だからこういった場面の時には見逃すことが常なのだけれど、特例だ。ボクは君を殺すことにした」
慣れた手つきで道化が奇術を行う魔術師の如く手首を動かすと、花楓の首にロザリオがかけられた。両腕を封じられて動けない花楓は、されるがままだ。
「だって、勝てない相手を前に立ち向かう君の姿は――とても男らしい」
鼻歌を歌いだしたピエロは、ポケットから取り出したボールペンを掌の上で一回転させた。そのあとで、鎖の間にボールペンを差し込む。
くるくる――ピエロはボールペンをご機嫌な様子で回し始めた。
「ところで知っているかい。人間にとって苦しい死に方の一番目は溺死らしい。その次は焼死で、次が窒息死なんだってねェ。ちなみに、ぼくはもし殺すなら窒息させるのが一番好きだ。溺死では声が聴けないし、焼死では苦しむ顔が見られない。だけど――窒息死なら、最後まで苦しむ声と顔が間近で楽しめるからねェ」
くるくる、くるくる。ゆっくりと、ボールペンが回る。
回るたびに鎖が絡み、花楓の首が絞めつけられる。最初は大した苦しみではなくとも、次第に気道が圧迫され、吸い込める空気の量が減る。嫌でも呼吸が荒くなる。
「は、はッ――ァ」
喉が圧迫されて痛い。呼吸ができなくなる。途切れ途切れになった呼吸では十分に酸素を取り入れられず、苦しい。
少しずつ意識が薄れていく。あまりの苦しさに喉を掻き毟りたくなる。だが両腕をふさがれ、壁に磔になっている花楓には成す術はなく。
ただ、自分が死に近づいていることだけはわかった。
あまりに無力だ。何もできない。悔しくて涙が零れる。
「この、悪魔……!」
花楓の最後の足掻きを、道化は満面の笑みで受け入れた。
「ああ――その顔だァ。その声、その怒り、その恐怖が見たかった!」
朦朧とする意識を繋ぎ止めるために、そして自分の無力から生まれる悔しさに、花楓は強く歯を噛みしめた。
もし、自分に力があったなら。
もし、この道化を倒せるだけの力があったなら。
牧村の言う通り、花楓は正義の味方になれただろうか――。
――力が、欲しいのかしら。
声が聞こえた気がした。
その声はどこか無機質で、感情のない声だ。
ああ、力が欲しい。欲しいとも。
自分の一存で人を殺し、仲間を殺し、悪びれもせずにのうのうと生きている殺人道化。
人ならざる力を持つ外道を、倒せるだけの力が欲しい。
「そう。なら――」
――ぬるり、と電灯に照らされた花楓の影が小さく揺れ始めた。
次第に影の揺らぎは大きくなり、泥沼を掻き雑ぜたように澱んだ波紋が一つ。
波紋が起きた花楓の影から、骨のような、白く細いものが姿を現した。
一つ、二つ、三つ、四つ。――そして最後に、もう一つ。
それは、指だ。細く綺麗な、けれど骨のように白い指。
指に続いて掌が、手首が、細腕が。現れ――伸びる。
「花楓。わたしたちが、貴方に力を貸してあげる」
花楓の影から現れた、骨のように白い手を持つ何者かは、這い上がるように、生まれたての肉体を外気に晒す。
どぷりと闇から抜け出して、最後の髪が、空気に触れた。
揺れる黒い髪、黒い服。雪のように白い肌。
道化と花楓の間に割り込むように現れた女は、花楓の首を圧迫させる原因となっていたボールペンをへし折り、そして掌底突きを繰り出して道化の肉体を大きく後退させた。
道化はまさか、花楓の影の中から新たな障害が現れるなど考えてもみなかったらしい。不意を突かれた形で顎に下方からの一撃を受け、十数メートルの後退をする。
「怖い思いをさせたわね。でも、もう大丈夫。あとはわたしたちに任せればいい」
そう言って黒く長い髪を揺らし、女は花楓に一度だけ目を合わせた。
黒曜石のような瞳を持つ女――アルラだ。
咳き込みながらもなんとか呼吸を再開した花楓は、どうして、と疑問を浮かべる。
花楓は阿久に連れられてここへ来た。だから阿久が来るなら理解できる。だがどうしてアルラがここへいるのか。そしてどうして、自分の影から姿を現したのか。
酸素の足りない状況下で目にしたことだ。どこまでが現実なのかはわからないが――と、そこで花楓は、自分が四つん這いになる形で荒い呼吸を繰り返していることに気が付いた。
右手には十字架など刺さっていない。左手にもだ。血の一滴も流れていない。そして花楓を背後の壁に拘束した鎖の姿もない。
目に映るのは、首に掛けられたロザリオと、路上に捨てられている砕けたペンだけだ。慌ててロザリオを外し、慌てて放り投げた。
「今の、なに――」
「知らなくていい。お前には関係のないことだ」
黒い革靴が、視線の下がった花楓の前に現れた。
目線を上げる。黒いスキニーパンツに黒いコート。黒、黒、黒――全身を漆黒に染めたその男、久世原阿久。
阿久は、花楓を庇うように道化の前に立つ。
「一ヶ月遅れの仮装催事か。俺も混ぜてくれよ、キチガイピエロ」
「そうね……わたしたちの仮装は吸血鬼を狩る悪鬼でどうかしら」
男――久世原阿久の横に、アルラが並んだ。
ピエロはアルラの掌底を受けた顎をわずかにさすり、首を回して異常がないかどうかを確認する。うん、と頷いて、ようやく阿久とアルラの二人を見た。
「ふーん……か弱い女の子を助ける騎士のつもりなのかな。ピンチに駆けつけるのはとても男らしいけれど、二人掛かりというのはどうにも――男らしくない」
ふひ、と笑って道化が二者の間に存在していた距離を一気に詰める。
その鋭い爪が阿久に向けて振り下ろされようとしたときだ。
「いいえ、違うわ」
アルラは静かに阿久へともたれかかった。だがその体が阿久に触れることはなく、どころか阿久の肉体の内へと入り込んでいく。
夢でも見ているような心地だった。まるで初めからアルラという女がいなかったかのように、その姿は花楓の前から完全に消え去った。
だがアルラがいなくなると同時、阿久の身体には変化が生じる。
瞳が赤く染まった。
爪は獣のように鋭く尖り、その口からは犬歯の如き牙が覗いている。
「お前の相手は、俺たち一人だ」
あの不敵な笑みを見せた真紅の眼を持つ黒衣の男は、迫る道化師の顔面を殴り飛ばす。
小さな呻き声を上げた道化は無様に吹き飛び、背後にあった家の塀に突っ込んだ。
「狂い哭き叫べよ、吸血鬼。お前が喰われる番が来た」