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悪なるミタマ 漆黒の茨  作者: 九尾
序章編
5/6

第六閉鎖


 阿久の案内で花楓は交番へ向かうことになった。

 唐突に現れた事件の目撃者の存在に、交番は少しばかり慌ただしくなる。

 しかもその事件は、施錠令が発令されるほど残酷で危険な事件であったのだ。学校行かずに何をしている、といった小さな問題もあったが、最終的にはできることなら帝都最大の警察署である帝都第一区画警察署まで足を運んでもらい、事情を聞きたいとまで話が発展する。その結果、花楓は阿久と共にパトカーに乗せられ、二十分ほど車で移動をすることになった。


 第一区画警察署に到着すると、花楓はさっそく小さな取調室に押し込められ、小太りした年配の警官と、ガタイのいい長身の警官とに事情を説明することになった。

 小太りの方はなんだか花楓の言葉を信用していない風である。ガタイのいい警官も、花楓の言葉にうんうんと頷いてはいたものの、どこまで信用しているのかわからない。

 花楓だって現実味がわかないのだから、信用できない気持ちもわからないでもないが、少しくらいは信頼する素振りくらい見せてほしいものである。


 そうして質疑応答に四・五時間もかけたころ、ようやく二人の警察官が取調室から出て行った。代わりに、別の警官がやってきた。


「長い間、お疲れ様でした」


 長時間に及んだ質問のあと、花楓を取調室から出してくれたのは、中年の、優しい笑みを浮かべる目の細い警官だった。

 佐合隆文(さごうたかふみ)。巡査部長だそうだ。

 彼が花楓と阿久を第六区画まで送り届けてくれるという話である。


「あの……なんだか騒がしくないですか?」


 佐合と共に廊下のベンチで休んでいる花楓は、警官たちの動きに疑問を覚えた。

 花楓が取調室へ押し込められる前は、廊下を歩く警官たちに焦りの顔はなく、挨拶をすれば笑顔で挨拶を、人によっては敬礼までして返してくれていた。

 しかし今は挨拶どころか、会釈をしようという警官もいない。皆が皆、自分のことが手一杯という様子で廊下をせわしなく駆け回っている。


「少しばかり――その、問題があったんだ」


 不器用にはにかんだ佐合は、手に持ったペットボトルのお茶と共に、可愛らしいキーホルダーが二つほどつけられたピンクのスマートフォンを花楓に渡した。花楓のスマートフォンだ。

 お礼を告げて花楓はそれらを受け取った。


 花楓のスマートフォンは事件現場から一キロほど離れた場所に落ちていたため、落とし物として処理されていたらしい。すでに履歴などは調べてあるとのことだが、まあそこは捜査のためには仕方のないことだと思う。


「ところで……その問題ってなんなんですか?」


 首を傾げた花楓に、佐合はぎこちない笑みを浮かべた。


「申し訳のない話であるんだけどね、南さんや久世原さんがこちらにお越しいただいた少し後で、その、なんというかね」


 言いよどむ巡査部長の眼には、少しばかりの気まずさと、そして言いえぬ悲しみと怒りの入り混じった感情が垣間見えた気がした。

 悲しみ? 怒り? 

 余計に首を傾げる花楓から佐合は目を逸らした。


「電話の方に、着信があるはずだよ」


 花楓はスマートフォンをつけ、メールの着信画面を開く。

 家族や友人知人からの心配の連絡と、そして最も新しい着信がひとつ。

 そこには『第六区画にて施錠令の発令』とあった。


 ◇


 施錠令とは、日本において帝都にのみ存在する異色の法令である。


 施錠令が発令されると、帝都全域を覆えるほど大きな、防空壁と呼ばれる壁が起動する。これは普段、地の下に姿を隠しているものであるが、施錠令が発令されると同時にその姿を現し始め、特定の区画を一時的に閉鎖する。

 同時に一般市民にも義務が発生する。十分以内に近くにある施設に入り、その姿を隠さなければならないというものだ。

 花楓は何を基準に施錠令が発令されるのか詳しく知らないが、危険犯罪が発生する際に少しでも被害を留めるためなのだと学校で聞いていた。


 施錠令が発令している際に出歩いている者の生存率は現在、政府の調べでは3割を下回っていると聞く。非常に低い。また施錠令発令中に外出しているだけで、重要参考人、捕縛対象、あるいは殺処分対象となるらしい。

 こんな状況の中にわざわざ飛び込もうという人間は、まず正気ではない。


 花楓が生きてきた二十年手前の歳月に施錠令が発令されることは何度か――特にここ二年に集中しているようにも思えたが――施錠令が発令されている最中に意図せずとはいえ出歩いたのは、昨晩の夜が始めてだった。そして、吸血鬼に出会った。

 思えば二年前の満月惨殺事件――あの頃からやたらと吸血鬼が存在するという噂が広まり始めたような気がする。

 つまり、施錠令の役割とは、そういうことなのか?


 吸血鬼の被害を、押しとどめるための――。


 第六区画――花楓の家がある場所だ。父の職場も、弟の学校も。

 もしそこに施錠令が出されたのなら、家族が危ない。

 花楓は駆け出した。制止する佐合の声など、耳にも入らない。


 警察署を走り回った花楓は、まず阿久の姿を探した。

 あの男の姿は目立つ。町中にいても目立つが、警察署などでは余計に目立つ。


「阿久!」


 久世原阿久は警察署の待合室のようなところで、いかにも無実ですといった傲慢不敵な表情をして、三人分ほどの座席を無駄に占拠するという傲慢不敵な態度で周囲の人々から視線を集めていた。

 だが今の花楓には、そんなことはどうでもいい。


「阿久、第六区画で施錠令が発令された!」


 花楓は叫びながら阿久に駆け寄った。

 退屈そうに大きな欠伸をした阿久は、「知ってる」と眉間に皺を寄せた。


「だが見てみろ、警察が動いているだろ。お前の家族もなんとかなるんじゃないのか」


 突き放すような物言いに腹が立つが、阿久の不真面目な態度は少しだけ花楓を冷静にさせた。阿久同様に大声を出したことで視線を集めた自覚をした花楓は、顔を少しだけ赤くして声のボリュームを下げる。


「警察が動いて、何とかなるものなの?」


「さてな」


「さてなじゃないでしょ!」


 花楓は恍けるように言った阿久の胸倉を掴んだ。

 再び周囲の視線が集まった。「すみません、なんでもありません」と愛嬌の笑顔を振りまき、誤魔化しておく。


「いい? あたしは今から第六区画に行く。あんたも来て」


 花楓の腕を疎ましそうに振り払った阿久は、フンと鼻を鳴らす。


「わからんな。そんなに家族が大事か。お前は自分の命よりも、家族が大事なのか?」


「大事。自分の命より、家族が」


 花楓の睨み付けるような視線に眉をひそめた阿久は、椅子にもたれかかった姿勢のまま肩をすくめた。


「まあいい。だが一つ言っておくと、俺だってここで時間を無為にしたかったわけじゃない。そこらの警官に第六区画へ帰せと言ったんだがな、一般市民は立ち入り禁止になっちまった。施錠令が解除されるまで待てだとよ」


「送り迎えなんかなくったって、あんたいつも歩いてるでしょ」


「俺にとって、あのまますぐに閉鎖区域へ行くにはリスクがあった。無駄な体力を使うくらいなら、ここでヒマをした方がマシだと考えたわけだ」


「……リスク?」


 知らなくていい、と阿久は手を振った。それから静かに手を伸ばし、花楓の肩を引き寄せる。


「俺はあと一時間程したらここを出る予定だ」


 それでは遅い。

 あの黒いパーカーの少年が、自分の家族を襲うことがあるかもしれない。行くなら今すぐにでも行くべきだ。


「もしお前が俺を今すぐ動かしたいのなら、足を出せ。簡単な話だろ」


「……タクシーでも呼べってこと?」


「何を言ってる。ここにはタダで使える足が腐るほどあるだろうが」


 阿久の視線の先には、慌ただしくしている警察官たちの姿がある。

 そして後ろからは、あの巡査部長が駆け足で現れた。


「南さん、君、突然走り出してどうしたんだい!」


 ――見ろ、使えそうな足が来た。

 花楓のすぐ横で、悪魔が呟いたような気がした。


 ◇


「私にも家族がいるからね、南さんが家族を心配する気持ちはよくわかっているつもりだよ」


 車の運転席で、子供を優しく諭すように佐合は告げる。


「でも、だからといって施錠令の布かれた第六区画へ向かったところで、できることは残念ながらないと思うんだ。下手に危険な場所へ駈け込んでしまったら、結局南さんも家族に心配されることになる。それでは本末転倒だと、私はそう思うよ」


 すみません、小さく謝罪すると、「いやいや、謝ることじゃないよ」とほほ笑んだ。


「人を心配することは悪いことなんかじゃない。それだけその人を大切に思っているってことなんだから、それは素敵なことだ。ただ、それで盲目になりすぎてしまうといけない。一つのことだけしか見えなくなると、別の大切なものを失うことだってある」


 バックミラーから見えた佐合の口が、いくらかの皺を刻んでいる。

 後部座席――佐合の真後ろに座る花楓は、はい、と委縮した。


 花楓は阿久の言う通り、警察を使って第六区画手前まで送ってもらうことにした。

 しかし佐合は警察官だ。警察官が政府の決まり事を破るわけにはいかないと言って、第六区画には送らないと譲らなかった。そこで妥協案として提案したのが、送るのは閉鎖区画の手前まででいい、というものだ。これには佐合も素直にノーと言えなかったらしく、そういうことならば、と了承してくれた。阿久もまた、それなら許してやろうとやけに上から了承した。


 そうして「閉鎖区画に入ってはいけない」という遠まわしの説教を続けられた花楓は、阿久と共にようやく第一区画から第六区画へ繋がる道の手前にあるコンビニで下ろされた。

 パトカーの姿が曲がり角で見えなくなったことに安堵の息を吐く。


「それで、これからどうするの?」


 ともに車を降りた男に問う。

 男が視線を向けた先――茜色に染まり始めた空の下に、『第六閉鎖』と大きく書かれた巨大な鋼鉄の壁が行く手を阻んでいる。


 花楓たちの正面にある第六区画へ入るための扉には、『亥』と表記されている。ガッチリと鋼鉄によって閉じられている上、警官たちが扉の前で立ちふさがっている。

 これでは侵入しようにも警察に止められることは明白だ。そこで「どうする」と花楓は問うたのだが、阿久は当たり前のように何も言わず歩き出した。


「待ってよ。今行っても、扉のとこには警察がたくさんいるし、入れないでしょ?」


「丑と寅の扉の間に隠し扉がある」


 防空壁は区画ごとに存在するが、その区画ごとに存在する防空壁の扉には、『()』から『()』までの十二支の名が冠されている。丑と寅の間というと、亥の扉から歩いて数十分といったところか。


 三〇分前後の時間を歩くと、阿久は壁の前に立った。左右には丑と寅の扉があり、それぞれ警察が張り付いている。しかしこの扉、というか壁の周辺に警察はいなかった。

 背後に旧東京が存在しているからだろうか。


 花楓たちの背後に見えるのは、巨大な壁と巨大なビル群。

 壁は施錠令とはまた異なる、常時そびえている巨大なものだ。旧東京へ侵入しようとするものを阻んでいる。もっとも、今のご時世に旧東京へ足を運ぼうというモノ好きなんて、施錠令の布かれた区画に飛び込むようなものだ。普通の人は近寄ろうともしない。

 ビル群の方は、言うまでもない。かつて東京と呼ばれた都市に住む人々を支えた、生活の残滓である。


 幅にしておよそ車一台分の道で立ち止まった阿久は、ペタペタと壁に触れている。


「ねえ、本当にこんなところが通れるの?」


「ああ、通れる。二年前に、俺が穴をあけたからな」


 そうしてしばらく壁に触れていると、不意に大きな音がして壁が開いた。どうやら、壁に酷似したプラスチックのようなもので穴を誤魔化していたらしい。


「ちょっと、これ、大丈夫なの?」


「何に対しての問題を心配しているのかはわからんが、問題ない」


 ――持つべきものは、利用(つか)える友だ。

 それだけ言って、阿久は第六区への侵入した。



 帝都第六区画。第一区画のすぐ下で、第七区画の左隣に位置する区画である。帝都で最も居住者が多いことで知られている。そのため第六区画周辺では、平日の夕方になると交通量が途端に多くなる。他の地区で働いている者たちが戻ってくるのだ。

 当然、花楓らを乗せたパトカーも交通規制による渋滞に捕まっていたため、今では時刻は十九時近くなっている。先ほどまでは茜色だった空も、今ではとうに暗くなっていた。


 花楓の眼に映る第六区画は、やはり普段の第六区画とは違う。

 生活感はどこかしらに存在しているが、決定的に人の存在がない。大通りには鞄や帽子、あるいは子供の靴などがちらほらと見受けられるが、それを身にまとっていたはずの人間の姿が一切見えないことに、並みならぬ異質と恐怖を感じる。

 寒い。冬なのだから当然と言えば当然だが、人のいない街ほど不気味なものはない。


「ねえ、どこに向かってるの?」


 花楓は家族の安全の確認と保護のため、阿久を連れてここまで来た。阿久が吸血鬼に対してどのような対抗手段を持ち合わせているかは知らないが、阿久には吸血鬼の少年を吹き飛ばしたという実績がある。そのため阿久には真っ先に家族の元へ向かってもらいたいと要求した。

 だが阿久は、何よりも先に確認しなければならないことがあるという。

 花楓の問いに阿久は告げた。


「路地裏だ」


 あの路地裏――昼間に吸血鬼の少年と遭遇した場所のことだろうか。

 それ以上は何も言わない阿久の背中を、花楓は追うしかなかった。


 路地裏へ到着すると、そこにはあの少年と交戦した際の傷が残されている。少年の流血もだ。しかし、それ以外のものはとくには見つからなかった。

 次いで向かったのは、阿久と花楓が少年を振りまくために向かった大通りだ。

 ここは高層ビルがいくらか立ち並んでおり、その中心に大きなスクランブルの十字交差点が存在している。しかし。


「――なに、これ」


 誰一人として存在しない十字路は、酷い量の血液で赤く染まっていた。

 血液だけではない。人の腕や足、そして首と思しきものまで転がっている。何人が殺されたのかはわからないが、おそらく十数人では済むまい。

 まるで二年前に起きた大量殺人事件の――満月惨殺事件の再来だ。


 満月惨殺事件以降、日本では満月の夜に外を歩いてはならないという規則が課せられた。第六区画では何かしらの問題が発生して施錠令が発令されたようだが、おそらく他の区画でも施錠令が発令される頃である。今、この帝都で屋外に出ているのは、阿久と、花楓と、そして人ならぬ異形だけなのかもしれない。

 

 空を見る。満月だ。

 丸い月と小さな電灯だけが、血に染まった第六区画を照らしている。

 いつもは綺麗だと思うその月が、今日だけは不気味なものに見えた。

 

「この死体……奴が俺たちを追って暴れたらしい。だから施錠令が布かれた」


「じゃあ、まさか――」


 佐合は花楓たちが第一区画警察署に来た少し後に施錠令が発令されたと言っていた。それが意味するところはつまり、花楓たちが路地裏を去った直後にあの少年が人を殺して回っていたということだろうか。


 夜の街並みに残る惨劇の痕跡は、数多の人々の悲鳴と絶望を想像させるに十分な代物だった。


 死んだ麻衣の顔が思い浮かんだ。

 そこに並んで、顔も知らないたくさんの人たちが思い浮かんだ。


「――あたしのせいで、みんなが死んだの?」


「ああ――そうだぜェ」


 シー、ハア。独特の呼吸音を鳴らして花楓の問いに答えたものは、高層ビルの数十回からガラスを割って飛び出した二つの影のうちの一つだった。

 ドン、と大きな音を立てて着地する。

 あの黒いパーカーの少年だ。昼とは違ってフードはかぶっていない。白髪の隙間から覗く真紅の瞳が、闇に輝いている。


 少しあとで、どしゃり、と音を立て、少年の背後には別の何かが落ちて飛び散った。

 人の形だった。たぶん人だ。悲鳴も上げていた。少年が飛び降りると同時に、ビルから放り投げられたのだろう。

 服装から察するに、警備員か警察だと思う。

 花楓は新しく刻まれた死から目を逸らした。


「よォ。久しぶりだなァ、クソ野郎」


 シー、ハア。暗闇で白い息を吐き出した少年の視線は阿久に向けられている。

 ボタボタと音を立て、口から赤い液体が滴った。


「よくもまァ、人間の分際で俺をあそこまで追い詰めたもんだ。いや、アレは焦ったぜ。まさかあばらがイカれるほどの一撃を人間から受けるなんざ、思ってもみなかったからなァ。もし日の光と大量の餌がなかったら、死んでたかもしれねェ」


「やはり吸血したか。一体、何人殺した?」


 呟いた阿久は、一歩、少年に向けて足を進めた。

 花楓は離れていく阿久の背中を見る。そして、阿久の右腕を見る。その腕は依然、ひどい火傷を負ったままだ。その右腕で、一体あの化け物とどう戦うというのか。


 そもそも、この男は奇妙の塊だった。

 この男は何のために吸血鬼の情報を集める。何のために吸血鬼を探す。

 そしてなにより、この男は吸血鬼とどのように戦うというのか。

 この男は吸血鬼と戦う力があると言いながら、吸血鬼打倒の武器は何一つ所有しているようには見えない。花楓が見たところ、家にはアルラがいることと、必要最低限の生活用品があるだけだ。隠し部屋などがあるようにも見えない。


 ならばこの男は、一体何者なのか。


 シー……ハア。

 大きく呼吸をした少年は、「いい、いいぜェお前」とニンマリ笑った。


「なァ、クソ野郎。俺は浦部ってんだ。浦部貴久(うらべたかひさ)だ。俺は名乗った。教えろ。てめェの名を教えてくれよ。この俺に。てめェを殺す、この俺に」


 阿久は名乗る代わりに静かに問うた。


「名なんぞ知っても意味はない。人を食らったお前に、喰われる番が回ってきたんだ」


 阿久が口を釣り上げた。あの不敵な笑みだ。

 対する浦部は首を傾げたあと、しばらく時間をかけて阿久の言葉の意味を理解したのだろう。沈黙を経て、やがて腹を抱えて笑いだした。


「は、はは、はははははは! 調子に乗るなよクソが! ああクソ、名前を聞いた俺が馬鹿だった! てめェは病気だ、それも並の病気じゃねェ! 吸血鬼を食う? お前が? 無理だ無茶だ無謀だ無思慮だすべて無意味な妄言だ! シー、ハア……要らねェ。てめェの名前なんぞ要らねェ。気狂いは牧村とあのピエロだけで十分だ。もう死ねよお前。ああ死ね、死ねばいい。ここで! 病気に穢れた脳髄を! ぶちまけろォ!」


 昼に見せた速度の比ではない。燕が飛ぶような速度で浦部が駆けた。

 突き出された手刀か風を切り、阿久の左胸を容易く貫いた。

 阿久の心臓部には大きく穴が開き、そこから血が流れだす。

 だがこの状況下で驚愕に目を見開いたのは阿久ではなく、浦部の方だった。


「お前、これ――鼓動が」


「悪いな。俺の心臓はそこじゃない」


 口から赤い血を零しながら告げた阿久は、静かに己の胸を貫いた浦部の腕を右腕で掴んだ。それから――阿久の影から白と黒の何かが現れて、阿久の体の内へ入り込んだように、花楓には見えた。

 己の眼を疑う花楓の目の前で、阿久の白く膨れ上がった火傷の腕がみるみると修復されていった。まるで火傷などなかったかのように腕が綺麗になるころ、今度は阿久の瞳の色に変化が生じた。


 赤黒く変化を続ける阿久の瞳が、浦部の戸惑う表情を映している。

 対する阿久は冷静に、自らが掴んでいるその腕を、豆腐のごとく握りつぶした。


「あ――ぁぁああああああッ」


 腕が骨まで擦り潰され、完全に切断された。

 血しぶきを迸らせる右腕を抑えながら、浦部は阿久を睨み付けた。


「なんだよコレ、なんでてめェにこんな力が――なんなんだよ、てめェは!」


「さて。それは俺にもわからんが……どうも俺たちは、こう呼ばれているらしい」


 阿久は自らに突き刺さった浦部の腕を引き抜く。同時に逆再生のように傷口がたちまちふさがり、浦部の攻撃そのものが、なかったことのように消え去った。


「《吸血鬼喰い(クルースニク)》、ってな」


 血に塗れた街に夜風が吹いた。

 満月の夜、黒衣をはためかせる男の髪の隙間から覗いたその瞳。

 その色は――どこまでも深い赤だった。


「ふざけるなァアアアアア!」


 その叫びは怒りか、あるいは、恐怖を紛らわすための己へ向けた鼓舞だったのか。

 口が裂けんばかりの激情をまき散らし、浦部は目の前に立つ異常に向けて残った左腕を伸ばした。


 それからのことは、まるで時が止まったかのようだった。


 阿久は止まった虫でも踏みつぶすかのようなゆっくりとした動作で、払うように浦部の腕を弾き飛ばした。肩から千切れた浦部の腕が宙に舞う。

 そしてがら空きになったその胴に、強く握った右腕を差し込んだ。

 阿久の腕が、浦部の肉体を破壊する音がした。

 ただの一撃。しかしその一撃で浦部は口から吐き出された血液で俯いた白い顔を赤く染め、病的な紫紺の唇は呻きを吐いた。

 浦部の肉体がくの字に曲がったと思った次の瞬間のことだ。浦部の肉体は幾度もアスファルトに体を打ち付け、破壊しながら転がっていた。


 アスファルトの欠片を散らかして、花楓の眼の前で浦部は回転の動きを止めた。

 虫の息だった。シー、ハア。あの呼吸音を荒く何度も繰り返している。

 動揺に揺れる赤い瞳が阿久を睨んだ。


「ふざ、けんな。シー、シー、ハア。あいつは病気だ、病気なんだ。誰かと一緒じゃなきゃ生きていけねェ、一人じゃ生きていけねェんだ。俺以下の存在なんだ。そんな奴にどうして俺が負ける、一人で完成された俺にどうして負ける理由がある。負けねェ、俺が負ける訳がねェ。……そうだ、偶然だ。ああそうだ、偶然! 何かの間違いだ!」


「いや、必然だ」


 浦部に向かって歩きながら、黒衣の男は冷めた目でそう言った。

 情熱を現すはずの赤色が、この時ばかりは嫌に冷めた色に見えた。

 血はある。涙はある。なのに――心がない。

 花楓には、そう見えた。


「黙れ、黙れ黙れ! 一人では何もできない劣等が、俺に話しかけるな!」


「劣等か……確かにな。俺は惨めで無意味な劣等だ。だがだからこそ、俺たちはお前を殺す」


 阿久は立ち止まり、左腕だけで浦部を持ち上げた。

 浦部の肉体はもうボロボロだ。昼時の比ではない。白い肌を全身から流れる血が赤く染め、腕に巻いた包帯は濡れてぐしゃぐしゃになっている。それらはあるいは浦部の流したものだけではなく、浦部が殺した者たちの血でもあるのだろうが、それでも、浦部に再起は不可能であろうことは花楓にもわかる。

 もう十分だろう。これ以上は、手を加える必要はない。


「阿久、もう――」


 しかしそんな花楓の思いが言葉になる間もなく。

 阿久は、静かに持ち上げた浦部の左胸に、己の腕を差し込んだ。


「お前を喰らって、糧にする」


 浦部の胸に差し込まれた腕が、握り拳を形作ったまま貫通した。

 花楓の身体に死の雨が降りかかる。

 肉が破れる音を聞いた。骨が砕ける音を聞いた。内臓が千切れる音を聞いた。血が降り注ぐ音を聞いた。

 そして、心臓の鼓動を、聞いた。


 浦部の身体を貫いた阿久の拳の中には、今もまだ脈動する心臓があった。


「――」


 浦部の身体が痙攣するように跳ねた。


 伝説の存在、吸血鬼。

 不死身、不老不死、人の血を吸う鬼と恐れられた吸血鬼には、一般的に弱点とされるものが多い。

 銀に聖水、日光、十字架。にんにく。そして――心臓だ。


 阿久の腕が浦部の心臓を潰すように握った。

 そこに心臓はなく、あるのは握り拳のみだ。潰された心臓の残骸ひとつ阿久の腕から零れることはなく、それは阿久の腕の中に存在しなかったかのように消え去っていた。

 だが潰されようとも消えようとも、それは浦部にとって、心臓をなくしたという事実に変わりがないことで。


「――ぁ」


 ビシリ、と壁に罅が入るような音がした。

 近くに割れるようなものはない。その音は、浦部の足からしたものだった。

 浦部の白い足がアスファルトに落ち、さながら砂のように崩れて小さな山を作った。 ピシピシ……断続的な音が続き、やがて阿久の腕から大きな砂のような塊がこぼれて、花楓の前に大きな山を作る。

 見ればそれは砂ではなかった、灰だ。

 白い灰。炭の燃え滓のような灰。


 大きく衣服がはためく音がする。阿久が腕に纏わりつく黒いパーカーを放った音だ。パーカーは強い風に煽られて、ビルの隙間へと飛んで行った。

 花楓の前に残されたのは、白い灰の山と、いくらかの包帯と、黒いジャージだ。それらはすべて、先ほどまでここにいた浦部が着ていたものだ。

 肝心の浦部の姿はもう、どこにもない。


「これが吸血鬼の死だ。奴らは生き物とは違い、死の直前で留まっているような状態にある。吸血鬼が残すのは人を殺した事実と、衣服と、この灰だ」


 夜の街には、血痕があった。死体があった。

 生きていたものがいたことの、痕跡があった。

 だが浦部の存在は、風に吹かれた灰がどこかに行ってしまえば、それはもうどこにもなくなる。ただ殺戮があったという事実が残るばかりだ。

 夢や幻、あるいは幽霊のように浦部は姿を消してしまった。


 阿久は静かに歩み寄る。襟首を掴み、花楓を立ち上がらせた。


「俺が怖いか。恐ろしいか」


 花楓は首を横に振った。

 阿久は花楓のために戦った。それが一体どうして、人殺しと責められる。

 阿久が浦部を殺さなければ、花楓は死んでいただろうから。


 だが、浦部ももとは人間だった。

 そして牧村も。


 阿久は言っていた。吸血鬼には二種類のものがあると。

 もともと吸血鬼であったもの――真祖。

 人が吸血鬼になったもの――眷属。


 人であったものを殺すのは――正しいのか?

 吸血鬼にも意思がある。吸血鬼にも心がある。

 それをすべて吸血鬼だからと断罪して、殺してしまってもいいのか?


「餌に感情は要らない」


 阿久が襟首を離した。膝から崩れ落ちる。


「お前が餌、俺が狩人。餌は何も考えなくていい、何も背負わなくていい。ただそこにあれば、餌は餌として機能する。だから」


 だから、何だろう。

 阿久はしばらく言葉に詰まった。そして次の言葉を告げる前に、突然、背後に目を向けた。

 視線の先には、浦部が現れたあのビルがある。


 ――しん。

 ガラスが震えるような、奇妙な音がした。


 ――しん。

 次は先ほどよりも大きな音だった。


 阿久は背中を向けたまま、小さく言った。


「花楓。一つ言い忘れていたことがある。吸血鬼に血を吸われたものは、満月の夜にのみ、吸血鬼として蘇る。満月の夜に全区画で施錠令が布かれるのには、そういう理由がある」


 ――しん。

 またこの音だ。阿久の見つめるあのビルの方から聞こえている気がする。


「そして今宵は満月。マキムラがお前をお仲間に引き入れるつもりなら、今日、この場以外にないはずだ。だが今の俺には余裕がなくなった。悪いがそれまで、一人で生きろ」


 ――がしゃん。

 今度は決定的にこれまでとは違う音がした。

 ビルのガラスが割れる音だった。あの浦部が飛び出してきたビルだ。その窓という窓がほぼ同時に破壊され、砕けた窓から蟷螂の卵が孵るがごとく、何かがあふれ出す。


 蟷螂の幼体――赤く光る眼。

 吸血鬼だ。

 口から鋭い牙を覗かせて、文字通り血走った赤い眼で獲物を求めている。


 その数、実に二〇は下らない。

 だが阿久は昼うことも臆することもなく、二〇を超える敵を前に、その拳を強く握りしめた。


「ま、待って! あれだけの数を同時に相手にするつもり!?」


「そうだ。だから早く行け」


「無理だよ!」


 浦部一人であの強さだったのだ。確かに阿久は浦部を圧倒するだけの力を持っていたが、だからといって二〇を超える敵を相手にするなんて無謀に過ぎる。

 勝ち目なんてあるわけがない。


「無理か……もし本当にそうだったらどうする。俺と一緒にお前も死ぬか?」


 花楓はしばらく返答に困ったあと、首を横に振った。


 だろうな――そう言って、阿久は口をつぐんだ。

 その視線は、あの吸血鬼の群れに向けられている。


「お前は家族のためにここへきたんだろう。俺の心配をする暇はないはずだ」


 花楓は息を呑む。

 その通りだ。花楓は家族を助けるために阿久を利用した。だからここで阿久を心配して家族を助けられないようでは本末転倒だ。

 歯を噛みしめて、震える足で立ち上がる。


「待ってて。助けを、呼んでくるから!」


 そう言い放ち、花楓は阿久に背を向け走り出した。


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