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悪なるミタマ 漆黒の茨  作者: 九尾
序章編
4/6

第二の脅威

今度は一か月も掛かってしまいました!

月二回更新が限界かもしれない……。


 眠りから目を覚ますのは、海面から顔を出す感覚に似ていると南花楓は思う。

 水に透けて周りの風景が見えていくように、聴覚、触覚、嗅覚と徐々に五感に感覚が戻りはじめる。やがて息を吹き返すように、晴れやかな覚醒が訪れるのだ。


 けれどその日だけは、どういうわけか普段通りの目覚めを行うことができなかった。

 目蓋が重い。身体が冷たい。思考が霞がかったように曖昧なままで、倦怠感と虚脱感が身体を重力の海に沈める。

 手足を動かすことはもちろん、目を開くことですら億劫だ。起きた場所が、閉め切って太陽の光の当たらない暗い部屋だからかもしれない。


「目覚めたかしら」


 枕の感触がいつもと違う。いつもより少し滑らかで、微妙に左右に傾きがあった。綿のような柔らかさというよりも、肉のような柔らかさだ。

 普段との違いに違和感を覚え、うっすらと開いた視線の先にあったのは、黒い双眸だった。蝋のように白い顔をした女が、黒曜石のような深黒の瞳で花楓を見つめている。

 どうやら花楓は、アルラの膝の上に寝かされているらしかった。


「――っ!」


 申し訳なさで怠惰な気持ちが吹き飛び、がばりと起き上がる。

 しかし花楓の唐突な動きに驚くこともなく、アルラは黒い瞳を眠たげに開いたまま花楓を見つめている。やはり表情からは彼女の心情はくみ取れない。

 ただ、快く思っていないだろうことは想像できた。


「あ、あの! ごめんなさぃた!」


 謝罪をすると同時に頭を下げたところ、畳の上に額をぶつけた。

 目覚めていない脳が、まだ平行感覚を定めきっていないようだ。頭がぼんやりとして、思考もおぼつかない。二日酔いというのは、こんな状態のことを言うのだろうか。


 窓から外を見ようとしたが、雨戸が閉められたままだ。暗い部屋の時計を見ると、時刻は六時を過ぎたころだろうか。


「謝らなくてもいいわ。疲れているだろうから」


 それだけ言うと、アルラは静かに立ち上がり、襖を開いて台所へ向かった。

 花楓の脳はぼんやりと「ああ台所へ行ったんだ」とだけ考えていたが、やがて昨日の状況を少しずつ思い出し、自分が居候という立場にあることを思い出す。

 居候としてせめて役立てることはないか。そう思って台所へ飛び出した。


「起きたか」


 しかし台所にアルラの姿はない。代わりに阿久という男が、白いワイシャツを適当に羽織ってコンロの前に立っている。卵の焼けるような匂いがした。


「少し待ってろ。すぐできる」



 用意された朝食は、目玉焼きと味噌汁、そして魚のソテー。目玉焼きも味噌汁も一般家庭でよく見るものであるのに対し、魚だけはなぜかソテーだ。それもやけに大きく、やけに高級感が漂っている。


 台所に小さなテーブルを準備した阿久は、床の上にどっかりと胡坐をかき、自分の分の箸を準備した。それから左手にある引き出しから割りばしを取り出して、花楓に差し出す。

 阿久は自分の箸を持っている。なのに割り箸が置いてあるのは意外だった。

 たまには誰かがこの家へ来るのだろうか。……いや、来ないだろう。


「食え」


 阿久は食事をとり始めた。

 これまた容姿からは想像のできないようなつつましい食事の仕方であった。口に放り込むようなことはせず、しっかりと箸を運んでいる。口を開けたままものを噛むこともせず、テーブルに零すこともない。

 あと地味に魚を切り分けるのも上手い。


「えっと……いただきます」


 阿久から渡された箸を取り、花楓も食事をとり始める。


「あの、阿久」


「なんだ」


「アルラさんは、いないの?」


 阿久が料理をしていたのと、料理の準備がすぐにできたことから聞くタイミングを逃していたが、この食卓の場にはアルラがいない。先ほど台所に向かったあと、花楓の前から姿を消したままだった。


「あいつは寝てる」


「あたしが、膝枕してもらってたから……」


「いや、いつもこうだ」


 気にするな、と言わんばかりに阿久は目玉焼きを口に運んだ。


「……そっか」


 そこで会話が終わった。

 普段、家族と何か話しながら食事をするということが多かった花楓にとって、食事時に沈黙することにはもの悲しさを感じる。話すことはないか、と頭の中で考えて、いくつか浮かんだ候補の中で、阿久が答えてくれそうな可能性が高い問いをかけていくことにした。


「雨戸、開けないの?」


 昨晩もそうだったが、この家は灯りすらろくに使わない。

 今だって、日が昇る時間だろうに雨戸に光が遮断されている。阿久がつけた電気の光だけが、花楓と阿久を照らしている。


「理由はアルラから聞いたはずだ」


 阿久はそれ以上のことを言うつもりはないようだった。

 花楓は歯切れ悪く肯定し、俯く。それから少し間をあけて、次の問いをすることにした。


「ごはん、美味しいね。阿久って結構、食事には気を遣うんだ」


「生きるってことは、食うってことだ。必要なことは大事にする。誰だってそうだろ」


「うん、……そうだね」


 返答に困った。

 キャッチボールを行う気がないらしい。花楓に目を合わせもしないで、自分の作った料理にばかり目を向けている。


「服もいいの着てるし、ごはんもちゃんといいの食べてる。なのに……なんでこんなアパートに住んでるの?」


 正直この周囲の状態は悪い。

 やたらゴミが捨てられているため、道も汚い。通行人もかなり少なく、そもそもこの周辺に人が住んでいる気配がない。隣の家が黄色いテープで張り巡らされていたのも気にかかる。それと――あの家からはやけに視線を感じたこともだ。

 本当に幽霊でもいたのかもしれない。そう思うと背筋が寒くなる。

 心霊関係のテレビ番組はよく見ることはあったが、体験談を見たり聞いたりすることと、実際に自分が体験することではまるで恐怖の度合いが違う。百聞は一見に如かずとはよくいったものである。

 

 どうしてこのアパートに住んでいるのかという花楓の問いに答えず、阿久はいつの間にやら食べ終えていた皿を片付け始めた。

 花楓が一生懸命に阿久とコミュニケーションを取ろうとしていたというのに、この男はそんな心遣いを一切歯牙にもかけない。


「ねえ、話しかけてるのに無視はひどくない?」


 静かに立ち上がった阿久は、静かに花楓を見下した。

 花楓は少しばかり委縮したが、胸を張り、眉を寄せて強く睨み返した。


「聞いてるの?」


「一つ言っておく。俺たちは互いの利害に基づいて行動しているだけだ。仲良しごっこのためじゃない」


「仲良しごっこって……」


「違うのか? なら今の質問になんの意図があった」


「それは、互いの親睦を深めましょう……というか。これから協力関係になるなら、少しくらいお互いのことを知っておいた方がいいじゃない。そっちの方が、お互い信頼できるようになるしさ」


「それが仲良しごっこでなくて何だ」


 阿久が一歩近づく。電灯の小さな光が遮ぎられ、花楓に影が落ちる。


「お前が他者を信頼しようが縋ろうが、それはお前の勝手にすればいい。だが、それを俺に押し付けるのはやめろ」


「なによ、そんな言い方しなくても」


「いいか。世の人間が動く理由は一つ、明確な利益を得るためだ。ならばお前の言う信頼は、俺にどれほどの利益をもたらしてくれる?」


 信頼に、どれほどの利益があるか?

 そんなこと、花楓は考えたこともなかった。人が人を信頼するのに、利益が必要なのだろうか。言葉にできる理由が必要なのだろうか。

 言い返せず下を向いた花楓の瞳を、阿久は上から睨み付けた。


「信頼、信用、共存。助け合いに支えあい――ああ、いい言葉だ。仮にこの世界がそんなものに満ちていたなら、きっと誰もが幸せに生きられただろうな。だがこの世界は悪に満ちている。人は人を憎み、妬み、そして争い殺しあう。一体なぜだと思う?」


「それは……」


 それは――どうしてだろう。

 答えられない。だが、人は他人を憎むだけでも、妬むだけでもないはずだ。

 人が人を憎み争うだけだなんて、悲しすぎるじゃないか。


 ――『どうして花楓なわけ?』


 不意に麻衣の言葉が脳裏をよぎった。

 牧村に殺される前、麻衣は確かに花楓を妬んでいた。そして麻衣に暴力を振るわれた花楓もまた、麻衣に対して憎しみを覚えたのではなかったか。だからこそ、麻衣を挑発するような物言いをしたのではなかったか。


 どうして人は他人を憎み、妬む?

 どうして争い殺しあう?


 戸惑う花楓に、阿久は吊り上がった唇からその答えを紡ぐ。


「この世界に本当の信頼なんてものがないからだ。人の心に善性などないからだ。人の心にあるのは、我欲だけだからだ」


 我欲――その言葉が胸に染み込むような錯覚を覚えた。

 違う、それだけじゃない。それだけであるはずがない。そうであって欲しくない。

 心の奥底で男の言葉に強く反感を覚えたが、言葉にすることはできなかった。仮に言葉にできたところで、この男に通じるとはとても思えない。

 この男は違っている。根本的に何かがずれている。

 ――自分とは違う。


 だが――だが本当に、一人をこの男が望んているというのなら。

 信頼を捨て、自分だけを信じ、自分だけを頼ることが正しいというのなら。


「なら……アルラさんは、――阿久はどうして、アルラさんと一緒にいるの?」


 二人の関係は、一か月やそこらの関係であるようには思えない。決して短くはない期間を共に過ごしているはずだ。


 自分だけを信じ、自分だけを頼るという男。

 ならばなぜ、そんな男の傍らにアルラがいる?


「お前には関係のないことだ」


 少しの沈黙を経て出された阿久の答えは、やはり拒絶だった。


       ◇


 お前には関係ない。

 人間関係を構築する上で最も言ってはいけないと花楓が認識している言葉の一つを冷徹に放った久世原阿久は、あれから悪びれもせずに外へ出かけて行った。

 しかも残していった言葉が「絶対に外へ出るな」の一言である。


「ふざっけんな、あの厨二ファッションのオオカミ気取り!」


 取り残された花楓は、見えなくなった男の背中に思い切り中指を突き立てたあとで親指を下に向け、とにかく腕を上下に振りまくった。十数秒もそんなことを続けていたものだから、無駄に疲れた。


 忌々しい気持ちを舌打ちに乗せて、残った朝食をみっともなく掻きこむ。

 憎らしい男が作った料理だ。美味いわけがない。

 こんなもの、こんなもの! と、できる限り汚らしく咀嚼してやった。どうせだったらテーブルや床にだって食べ散らかしてやろうかとも思ったが、花楓はどうもそこまで悪になりきれないらしい。


 料理を食べ終えたあとは、いつもの癖で皿を洗った。それからとくにやることもなかったので、押し入れに眠っていた布団を干したり、シャワーを浴びたり。アルラが寝ているのであろう部屋を覗き見たりもした。

 アルラなら話し相手になってくれるかもしれないと思ったのだ。

 しかしアルラは部屋にいなかった。

 もしかしたら阿久と一緒に出掛けたのかもしれない。だとしたら、花楓は家に一人残されたらしい。


 話し相手がいないと、こんな状況下では気持ちの切り替えが思うように行えない。思考が沈む。


 ――満月の日に迎えに行くよ。

 牧村の赤い瞳を思い出す。恐怖に押しつぶされそうになる。

 隣の黄色のテープが張り巡らされた家を思い出す。窓からは見えない。壁を隔てた先にある。それなのに、誰かが花楓を見ているような気がした。

 そして、今も。

 あの民家の方向を見る。暗い部屋の壁に隔たれて、何も見えない。


 今は昼だ。外は明るい。

 だから、大丈夫。……大丈夫。


 すがるように雨戸を開いて窓の外へ人の姿を求めても、周辺に人の姿は見えない。

 沈む気持ちを紛らわすために、花楓は部屋の掃除を始めた。



 時刻は昼を回った。

 掃除の際に雨戸を開いた窓から降り注ぐ光が暖かい。季節は冬だが、太陽光はいつの季節でも心地のよいものである。雑巾を片手に、畳についた汚れを取りながら花楓はそんなことを思った。


 太陽の光と、青空を見ていたら、沈んだ気持ちが少しだけ落ち着く。理由もなく安心することができる。

 暗い夜は昨日のことを思い出すからだろうか。それとも、吸血鬼は日の光が苦手だという通説を思い出したからだろうか。


「あーあ、ヒマだぁ」


 本日は金曜日だ。この時間はいつも学校で勉強をしている。学校に行かなければならないと思ったものだが、阿久の方から「外に出るな」と言いつけられてしまっている。下手に外出をするとあの男は怒るだろうし、次に何か問題があれば今度こそ決定的な亀裂になる気がする。

 花楓があの男を嫌う分にはまだ関係の修復が可能だが、あの男に嫌われれば完全に他人以下の関係になるだろう。いっそ他人以下の関係になれば楽なのだろうが、牧村という脅威がまだ去っていない手前、そうも言っていられないのがもどかしい。


「……めんどくさい男。あれで束縛癖もあるとか、絶対モテないよ」


 雑巾を片手に奮闘していた絵の具のような汚れを落とし、次はどの汚れを落としてやろうかと和室を見回すと、ところどころに黒い水垢のような汚れが付いている。古い建物であるため致し方ないとは思うが、部屋の主も率先して部屋を綺麗にしようとは思っていないことが伺える。

 せっかく若い男女の同居の場なのだ。もう少し綺麗にすればいいのにと思う。


 家には人生が宿る、と花楓は考えている。

 例えば壁についた傷一つにしても、傷がついたときのエピソードがあるものだ。アルバムに写真を残せばそのときの記憶が蘇るように、家の傷でも記憶が蘇る。

 暖かい場所。自分の居場所。生きた証、記憶の拠り所。

 それが、花楓にとっての家という場所だ。


 衣食住が大切であるとはよく言われているが、その通りだ。衣服や食事だけでなく、住む環境も生きる上でとても大切なものだ。現に花楓は、住む家一つで生きることへの意識が大きく変わったのだから。

 そしてその住居に住む家族もまた、等しく大切なものだ。


「……会いたいよ」


 家族に会いたい。会って、いつもと同じ毎日に戻りたい。だが、「話せば殺す」という牧村の言葉が呪いのように染みつき、日常に帰ることを許さない。


 家族に会えば、花楓はどうしていたのか聞かれるだろう。そして家族の暖かさに包まれていたら、きっと花楓は家族にすべてを話してしまう。父と母はすべてを話さなくてもいいというだろうけれど、ほかの誰でもない花楓が口を開くだろう。


 父や母のように、素直にまっすぐ生きていたいという強くありたい思いがある。

 危険を無視して、人に話してしまえば楽になれるという逃避に縋る弱い思いがある。


 家に帰ったらきっと話してしまう。そして話してしまったら……首だけになった麻衣の姿が脳裏に浮かんで、花楓は首を横に振る。


 寒い。冷たい。――一人は寂しい。


 両足を抱え込んで部屋の隅に視線を向けた。そこにも黒いシミがあった。そのシミがなんだか自分の部屋にあるシミに似ていて、無性に泣きたくなった。


「みんなに、会いたいよ……」


 下手に外出するのは――怖い。あの牧村がいつ何時、花楓の前に現れるかわからない。仮に学校で遭遇しようものなら、それこそここに来た意味がない。

 だから学校に行くべきでないという阿久の言葉はきっと正しい。


「……そういえば連絡、まだしてなかった」


 制服のポケットをまさぐる。

 さきほど勝手にシャワーを借りたが、服ばかりは替えがなかった。だからといってあの男のワイシャツを着用するのも嫌だったから、しぶしぶ昨日の下着と昨日の制服を着用している状態だ。

 スマートフォンは学校指定のコートか、カーディガンのポケットに入れておいたはずである。

 しかし出てこない。他のポケットを探っても、ポケットすべてを引っ張り出しても、スマートフォンは出てこない。


 ――落とした。


 血の気が抜けたような思いだった。

 花楓はこれまで無断で外泊などしたことがない。加えて麻衣が死んでしまったこともある。きっと親からいくつも心配や安全確認の連絡が来ているに違いない。

 そう思ったら止まらなかった。

 何かをしなければいけない衝動に駆られ、己のすべきことを考える。真っ先に思いついたのは、スマートフォンを見つければいいということだった。


「探さなきゃ!」


 慌てて部屋を飛び出し、ドアノブに手をかけた瞬間、玄関の扉が勝手に開いた。

 そこに広がる黒一色が、花楓の外出を阻んでいる。


 視線を上げる。黒く鋭い視線が、花楓を見下ろしている。


「外へ出るなと言ったはずだが」


 外出していたはずの、久世原阿久だ。


「あたし、スマホ落とした! お父さんとお母さんに連絡しないと!」


 今の花楓には、阿久の言いつけなど気にしている余裕がなかった。立ちはだかる男の脇を抜けて走り出そうとしたとき、腕が掴まれた。走り出した勢いを止めることができなかった花楓は、片腕を掴まれたまま倒れこんだ。

 とても強い力だ。花楓の力では振り払えない。

 それでも必死で爪を立て、男の腕を引きはがそうと抵抗する。


「落ち着け。電話なら俺が貸してやる」


 はじめこそ花楓は自分のでなければダメだと叫び散らしていたが、次第に自分のものでなくてもいいのだと思い至る。

 落ち着いた花楓の前に、阿久はポケットから取り出したスマートフォンを差し出した。

 しばらく阿久とスマートフォンの間で視線を往復させた花楓は、大きく深呼吸を行って「ごめん」と呟いた。


「えっと……かけていいの?」


「俺は中にいる。終わったら入れ」


 阿久はそのまま花楓に見向きもせず家に入り、静かに扉を閉めた。

 他者など自分に関係ないといったことを言っていた気がするが、こういう気遣いはできるらしい。阿久の気持ちを少しだけ嬉しく思いながら、花楓は自宅の番号を打ち込んだ。


「……」


 しばらくコールが鳴り響く。それからようやく、誰かが電話に出た。


『も、もしもし?』


 不安に震えた女性の声だった。

 普段とはまるで声の様子が違ったが、母・椿(つばき)のものだとわかった。


「あの、お母さん。花楓です」


『花楓、無事だったの!?』


 静かに告げた花楓とは違って、椿の声はかなり興奮したものだった。

 普段は胸を張って「大丈夫」を口癖にしている母がここまで動揺している様子は、花楓も初めて見る。


「ごめん、連絡遅れちゃって。携帯落としちゃったみたいで」


『もう、心配させて! ああ、でも、無事で良かった――』


「ごめん。……ごめんなさい」


 花楓は押しつぶれそうな声で、しかしはっきりと謝罪した。

 家族に心配をさせたのはわかっていた。だからこそ、しっかりと謝罪する。自分が大変な目に合っていたからというのは、心配させた言い訳にはならない。


 罪悪感に胸が押しつぶされそうになる花楓を、椿は責めようとしなかった。

 その代わり、優しく諭すような声で問う。


『それで、今はどこにいるの? 学校……じゃないわよね、先生から連絡が来たし』


「……ごめん、いまちょっと事情があって、学校には行けてない。家にもしばらくは帰れないと思う。その……友達っていうか、助けてくれる人のところにいるんだ」


 話すべきことを話せない。申し訳ないという思いで押しつぶれそうになる。いっそすべてを話してしまいたい。そうしたらきっと、この重石から解放される。だけど、話してしまってはここにいる意味がない。

 もし詳細を聞かれたら電話を切ろう。そうしたら、口を滑らせることもない。

 花楓は強く唇を噛みしめた。


 数秒が経過したあと、椿は諭すように問うた。


『連絡は、これからも取れそう?』


 椿には他にも言いたいこと、聞きたいことがたくさんあったはずだ。麻衣の死だってニュースなどで伝わっていると思う。けれど聞かなかった。その心遣いがどうしようもなく嬉しく、同じくらい自分が情けないと思った。

 だから花楓も、大切なことだけは伝えようと決めた。


「うん。だからまた連絡するね。それで、いつか全部話すから。帰ったときに、全部話すから」


『わかった、待ってるわね。だから、ちゃんと帰ってきなさい』


 ――ありがとう。

 その言葉が自然に言えた。

 家に帰らない理由、学校に行かない理由、それらすべてを答えなくても、自分なら大丈夫だからと信頼してくれる母の心遣いが、本当に暖かかった。


 それからは、とりとめのない話をした。

 何を話したかなんて、次の日には忘れてしまうような話だ。

 それでもその時間は、花楓にとって大切なものだった。今あるこの時間を大切にしたいと思えるもので、そして、この非日常から抜け出す明確な理由になりえるものだった。

 

『電話、切るわね。お父さんや和希にも花楓の無事を教えてあげないといけないから』


「うん、ごめんなさい。ありがとう、お母さん」


 そうしてどこかもの悲しさを感じつつも電話を切ろうとした花楓の耳に、「ダイジョーブ!」という母の大きな声が届いた。

 電話越しにも聞こえる声に驚き、花楓は再び電話を耳に当てる。


『大丈夫だよ、花楓。花楓はお母さんの子だもの、きっと大丈夫。胸を張って、正しいと思える所へ進んでいきなさい』


 それは椿の口癖のようなものだった。

 辛いとき、苦しいとき、泣きたいとき。そんなときには、椿は必ず花楓の隣で「大丈夫」だと言って背中を叩いてくれた。大丈夫だから、やりたいようにやりなさいと応援してくれた。そして、立ち上がる力をくれた。

 なんの根拠もない言葉ではあるけれど――根拠はなくとも意味はある。


「お母さんがそう言ってくれるなら、あたしはダイジョーブだね!」


 怖かった。苦しかった。どうしようもない闇の深みにはまって、抜け出せないと思っていた。けれど母の一言が、視界のすべてを照らしてくれた気がした。


 絶対に大丈夫!

 最後に母の言葉が聞こえて、電話が切れた。

 時間にしてほんの数分の会話であったが、その数分が花楓を変えたことは確かだ。

 無駄じゃない。家族への信頼は、絶対に無駄なんかじゃない。


 電話を終えた花楓は振り返る。

 目の前にあるはずの204号の扉が、やけに遠く感じた。


 日常に帰りたい。では、その日常に帰るためにはどうするか。

 逃げてばかりでは何も変わりはしない。他人に頼るばかりでも、何も変わらない。自分が変えていくしか、世界を変える方法はない。だとするならば。


 ――話せば殺す。

 牧村の言葉が蘇る。なのになぜだろうか、今は震えてはいなかった。


「あたしなら大丈夫。だってあたしは、お母さんの子だから」


 目を閉じた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。自然と拳が強く握られた。

 それから「よし」と目を開き、心を決めた。


 南花楓は扉を開き、前に進むことを選択した。

 その選択の意味するところを、考えようともしないままに。


       ◇


「……で、あたし、ふっつうーに外でてきたわけだけど、ダイジョブなの?」


 そういって隣を歩く男を小さな体で懸命に追うのは花楓だ。

 隣の男はやはり無表情に不快の色を混ぜたような顔をしており、耳には先ほど花楓が借りたスマートフォンを添えている。何者かと電話をしている様子ではあるが、花楓の問いには答えてくれてはいる状況だ。

 今朝の様子であれば確実に花楓を無視をしていただろうに、どうしてこうまで気が変わったのだろうか。思い当たる節はないでもないが、だからといって、ここまで――。


 花楓が母・椿との電話を終えたあとのことだ。

 阿久は花楓の電話中に簡素な昼食を準備していたらしく、朝と同様に二人で黙々と食べることになった。このときもまたアルラがいないのが気にかかったが、「いつものことだ」と返されて会話が終わった。

 阿久とアルラの関係は――アルラという女は、なんだかよくわからない。


 食事が終わって早々、阿久はまた出かけるといって扉に手をかける。その背中に、花楓は声をかけた。


「あたしに、できることはある?」


「なんの話だ」


 花楓の声に阿久の足は止まった。顔だけを花楓に向けて、見定めるように、その黒い瞳がゆっくりと花楓を映す。


 花楓と阿久の間に、『アレ』をのぞいて共通の話題はない。おそらく阿久は、それがわかっていて問いを投げかけた。花楓の決意を試しているのだと思う。


 強く両手を握った。汗でじっとりと濡れていた。

 それでも、阿久の前から逃げることはやめなかった。

 もともと考えていたことがあった。そもそも花楓が阿久について来たのは、孤独を紛らわしたかったからじゃない。唐突に現れた牧村という異常。それに対応するためにどうするかを、頭のどこかで考えていたからだ。

 きっと母なら、そうしただろうから。そして母の子である自分も、そうしなければならないと思ったから。


 大丈夫。きっと、自分ならば大丈夫。


 胸で言い聞かせて大きく息を吸った。

 帰るために、決めたことがある。怯えているだけでは先には進めない。

 はっきりとした声で、言葉で、伝えなければならない。


「――吸血鬼、知ってるんでしょ?」


 花楓は、阿久が昨夜に言っていたことを覚えている。

 帝都には吸血鬼がいるらしいと。

 そして阿久は――その吸血鬼と戦う力があると。


「理由はわからないけど、あんたは吸血鬼を追ってる」


 阿久の目が細められる。

 久世原阿久は言っていた。信じられるのは己のみ。頼ることができるのも己のみ。

 そしてこうも言っていた。世の人間が動く理由は一つだと。


「あたしは吸血鬼を見た。それが誰で、どこに住んでるかも教えられる。だから」


 ――『世の人間が動く理由は一つ、明確な利益を得るためだ』


「あたしは持ってる情報を全部出す。その代わり――あんたの力を借してほしい」


 この男を相手に、怯んではならない。

 強く胸を張れ。自分は対等であると思わせろ。

 この男に利用され――そしてこの男を利用しろ。

 久世原阿久が南花楓に望むものは、きっとそれだから。


 花楓の言葉に、男は視線だけでなく体を向けた。

 その足が一歩、また一歩と近づき、鋭い眼光が見下ろすように花楓を突き刺した。


 足が震える。だが弱さは見せない。見せてはならない。

 歯を食いしばれ。全身に力を入れろ。

 睨む男の目を、花楓は渾身の力で睨み返した。


 男の口が、わずかに吊り上がった。


「電話一つで随分と威勢よくなったもんだ」


 あまり強気で出すぎるのも、失敗だったのだろうか。

 花楓の戸惑いが、揺れる視線に現れ始めたときだった。


「いいぜ、乗せられてやる。お前は知ってるモン全部吐け。そうすれば」


 男は口を三日月に歪ませた。


「――俺たちの力を、貸してやる」


 それは嗜虐や愉悦の含まれたような、邪悪な笑み。けれどそれ以上に、この男に任せておけばどうにかなると理由のない安心感を与えられる、不敵な笑みだった――。



 こうして、南花楓は久世原阿久の協力を得ることに成功した。

 ここで機を逃しては先がないと、花楓はとにかく昨晩に自分が見た光景についてできるだけ細かく説明する。阿久は相槌の一つも打つことはしなかったが、聞いているのかどうか確認をとると、しっかりと聞いているらしかった。

 そして花楓の話を聞いた阿久は、再びドアノブに手をかけた。


「外に出る。確かめたいことがある」


 そうして今現在、阿久と花楓は二人で真昼の帝都に繰り出している。

 しかし花楓の服装はといえば、制服のままだった。制服で歩くこと自体に不満はないのだが、学校をサボっている身としては問題があるだろうと思い、花楓は問うたわけである。


「……で、ふっつうーに出てきたわけだけど、ダイジョブなの?」


「日の下を歩く吸血鬼の話を知ってるか」


「聞いたことない」


「そういうことだ」


「いや聞きたいことはそういうことじゃないんだけど」


 微妙にかみ合わない会話はそこで打ち切られてしまった。

 いっそ女子高生を連れまわした男性とかいって警察に捕まり、ニュースで顔を全国に知らしめられたあとで後悔すればいいだと思い、花楓はそれ以上何もいわなかった。


 不意に阿久は立ち止まり、目の前にあった古びたドアの前に立つ。

 どうも先ほどから路地裏を歩きながら電話に勤しんでいたのは、このドアを見つけるためであったらしい。「見つかった」と告げると同時に電話を切り、阿久はためらいもなくドアを開いた。


「この部屋、何かあるの?」


 阿久の背中越しにドアの先をのぞいてみると、十畳ほどの大きさの倉庫のような部屋があり、そこにはどういうわけか、女性ものの服が乱雑に放置されていた。


 冬用のコートはステンカラー、ダウン、ダッフル、トレンチなど。インナーはカットソーやらブラウスやらワンピースやら……冬物とはいえ実に多くのものが散乱している。

 もちろんズボンやスカートも存在しており、果ては下着までもが揃えられていた。


「……えっと、なにこれ」


「制服のままでの外出はまずい。加えて俺の容姿も万人受けするものじゃない。警察に目をつけられるのは面倒だ」


「あ、自分の容姿が一般的ではない自覚はあったんだ」


 ぽつりと本音を零してしまった。阿久は何も言わなかったが、たぶん聞こえている。

 それはともかく、と花楓は話題をすり替えて誤魔化すことにした。


「もう一度聞くんだけど、なにこれ」


「好きなものを着ればいい。気に入ったものがあれば鞄に詰めて持っていけ」


「いや、そういうことじゃないんだけど」


 阿久が指差した先には、安物からブランド品まで女性用バッグが集められていた。その横には靴までもが準備されている。

 さすがに化粧品の類はおいていないようだが、これだけのものを集めるには、それこそ店の商品全部を買い取るくらいのことをしなければならないだろう。


「えーっと……阿久って金持ちの御曹司か何か?」


 阿久が答えることはなかった。その代わり、部屋を出る際に一言を残していった。


「持つべきものは利用できる相手だ」――と。


 それから花楓は、うんうんと小一時間ほど服の組み合わせに悩み続けた。

 花楓だって年頃の女の子だ。男にさほど興味はなくとも、服には興味がある。服だって人間の幸福につながる衣食住の一つ、衣なのだから、大切にしない理由はない。


 あまりの数であるため気に入った服を見つけるのも一苦労だし、整理されていないために靴下や下着をそろえるのも大変で、嫌でも長い時間をかけてしまう。

 下着姿のまま服を見比べ、うんうんと唸ってかれこれ一時間が経過した頃だろうか。

 鼻歌交じりに次に試着する服を選んでいると、ノックもなくドアが開かれた。すぐに近くにあったコートで体を隠したが、たぶん遅い。


 ドアを開いて部屋を覗いていたのは、やはり阿久だ。さすがに待ちかねたらしく、歯をむき出した彼から「いい加減にしろ」とのありがたい言葉をいただいた。

 しかしこちとら、花も恥じらう女子高生である。うら若き乙女の下着姿を拝んでおいて、この男は他にいうことは何もないのか、と憤怒の視線をぶつけた。

 わかっていたことだが、阿久は涼しい顔をしたままドアを閉じていった。


「あと五分で出ろ」


「はいはい、遅くて悪うございましたね!」


 ドア越しに中指を立てたあと、花楓はいそいそと服の見繕いを再開した。


 結局、五分という時間制限をつけられたせいで、セミロングの髪はそのままに、白のセーターの上からベージュのPコートを羽織り、下は厚めのタイツにショートパンツという、比較的ラフな格好で花楓は外に出ることになった。

 手には白のトートバックを抱え、中には今後使うかもしれない下着の替えや服、あとは着替えたあとの制服などが詰めてある。


「はいはぁい、すみませんでしたぁ、お待たせしましたぁ」


 花楓が唇を尖らせてドアを開く頃には、阿久の姿はもう眼前にない。慌てて周囲を見渡すと、すでに一人で歩きだしている。


「ちょっと、置いてかないでよ! あたしどこ行くかわからないんですけど!」


 花楓の問いに答えることもないまま阿久は歩を進める。相変わらず路地裏を選んで通ろうとしていたが、花楓が阿久に追いつく直前で、なぜかその足を止める。

 目の前で突然停止された花楓はそのまま阿久の背中にぶつかった。


「なに、なんで止まるの!」


「――花楓、一つ聞きたいことがある」


 阿久は立ち止まったまま正面を見ている。

 後ろからでは、なにを見ているのかよくわからない。


「なによ、いきなりさぁ」


「お前の言っていたマキムラという男は――昼間はどうしていた?」


 なんだかその問いに嫌な予感がした。先ほどまで阿久に抱いた小さな怒りは冷水をかけられたように消え、冷静になった花楓の感覚には異常が感じ取れた。

 正面に、何かがいるだと思った。


「学校、来てたけど……」


「そうか」


 言い終わるが早いか、阿久は足をゆっくりと肩幅に開く。

 正面にいる何かを警戒しているようだ。

 花楓は嫌な予感を感じながらも、阿久の背中越しに先を覗いた。


 十数メートルほど先にいたのは、全身を黒で包み込んだ白髪の少年だった。

 年は十六くらいだろうか。パーカーとジャージという、ラフな姿をしている。パーカーのポケットには赤黒くなった気色の悪い包帯を巻いた両手を差し込んでおり、背中はネコ科動物のように丸めている。

 かぶっているフードと黒いマスクのため、顔は見えない。


 黒いマスクが微妙に揺れていることから、ぶつぶつと何かを呟いていることだけはわかったが、肝心の内容を聞き取ることはできなかった。あるいは独り言であろうか。


 顔を上げた少年は、見定めるように花楓を睨む。シー、と啜るように息を吸い、ハアとため息のような息を吐いた。


「なるほど、南花楓――遠目からでも感じてはいたが、シー、想像以上にキメェな」


 マスク越しにもわかるほど大きく開けた口で嘔吐の真似事をし、斜めに顔を落とした少年は、花楓を見てそういった。


「その口、その目、その仕草。……ああ、キメェ。吐き気がする。シー、ダメだ、ダメだぜコイツは。いかにも他人に縋りたいですっていう怠惰な顔だ。尻尾振ってりゃ餌が貰えることを知っちまった家畜の顔だ。こんな奴を俺らン中に入れるってんだから、あのクソは正気じゃねェ。そう、正気じゃねェ、正気の沙汰じゃアねェんだ。だから病気だっつってんだがなァ、シー、あのクソは――牧村はそれを理解しようともしやしねェ」


 何を言っているのか、よくわからなかった。

 ただ花楓は自分がこの少年に尋常でなく悪い印象を与えていること、そしてこの少年が何かしらの形で牧村健二と関係を持っていることだけはうっすらと理解できた。

 動揺を隠せない花楓の眼前で、少年はポケットから出した右腕を、フードの中に差し込んだ。差し込んだその腕で己の首に爪を突き立て、バリバリと首の右後ろを掻き毟る。

 腕に巻かれた包帯の赤黒い色は、少年の首から流れた血が付着したものだ。


「俺は牧村みてェな、孤独が好きですって顔した病気野郎が気に食わねえって話したのになァ。そんでこの女みたいに病原菌そもものみたいなヤツは駆除しなきゃいけねェって話もしたのになァ。シー、したよなァ。ああ、したさ、したに決まってる! 俺が間違える訳がねェ。だから俺はわざわざ、こうして出たくもねえ外に出てやったんだからな。クソみたいな日差しの下に、クソみたいな病原菌がうじゃうじゃいる外に出てやったんだからなァ……」


「……何を、言っているの?」


 彼が何を言っているのか理解できない。

 彼を同じ人間として見ることができない。これが同じ人間であると理解したくない。

 この少年は致命的に何かが違っているのだ。阿久とはまた別の――いや、比較対象にすらならない。これはそもそも、人を人たらしめるものを欠きすぎている。

 

 花楓の問いに答えることなく、少年はやはり言葉を続けた。

 すでに右後ろの皮膚は完全に破れ、流血が少年の腕をつたっている。

 流血しても少年は首を掻き毟ることをやめない。どころか、口調と同様に掻き毟る行為もまた激しさを増していく。


「ああクソ、クソクソクソ! 汚ェ、臭ェ、気色悪ィ! 病気野郎の牧村ですら御免だってのに、次のヤツは病原菌そのものってか! こんなん持ち込まれたら空気が腐るだろうが殺すぞ! シー、シー、ハア、シー、さすがのキチガイピエロも、ここまでの奴を許可するとは思えねェ。……あー……いや、許可する訳がねェな。ハア。なら――」


 少年が唐突に掻き毟る腕を止めた。

 フードに隠されたその瞳が花楓を見る。


「ここでヤッちまっても問題ねェよな?」


 少年の体が弾かれるように動いた。

 十数メートルの距離がまるでなかったかのように詰められる。

 花楓は意図せず、眼前に現れた少年のフードの中を覗くことになった。


「なんで? 今――昼なのに」


 黒い少年。その瞳は、真紅。


 少年が一気に花楓との距離を詰め、その腕を延ばした。

 あまりに唐突すぎる行動、そして予想できたとして対応が不可能とも思われる超常的な速度。花楓は恐怖を感じる暇もないまま、あの麻衣のように首を引きちぎられるのだろうかと、ぼうっとした頭で考えていた時だった。

 どこからか加わった力によって花楓の体が後方へ弾き飛ばされ、アスファルトの上を転がった。強く頭を打ちはしたが、首が吹き飛ぶことはなかった。きちんと頭と体はついている。


「おいおいおい、おォい! 俺の邪魔するってこたァ殺されたいってことだよな。シー。てめェも病気か、病気なんだな?」


 路上に倒れこんだ花楓の眼に入ったものは、少年が路地裏にある壁に突き刺さった自らの腕を易々と引き抜く様だった。

 花楓を突き飛ばしたのであろう男は――正面から相対する久世原阿久は、手刀で容易にアスファルトを貫くような化け物を前に武器を出すでもなく、ただ佇んでいる。


「てめェ、孤独を望んだ眼をしてんなァ。いいぜ、わかる。お前の気持ちはほんの欠片だが、わかったような気がするぜ。ああ、安心してくれ、全部わかってるなんて烏滸がましいことを言うつもりはねェ。てめェがその女をかばった理由だけは、俺には皆目わからねェからな」


 シー、ハア。独特の呼吸音を立てた少年は、壁から引き抜いた腕をふたたびフードの中へ差し込み、その首をバリバリと掻き始めた。


「なあ……お前、この世界は腐ってるとは思わねえか。煩わしいよな、鬱陶しいよな、邪魔なだけだよなァ、他人ってやつはよ。なのにどいつもこいつもおかしいんだ、狂ってんだ。病気だよ、俺はこいつを勝手に共生病って呼んでるがな」


 少年の言葉に、阿久は耳を傾けているのかいないのか、花楓にはわからない。

 ただ阿久の反応がないことをいいことに、少年は自分の理論を首からあふれる血液と共に垂れ流し続けた。


「てめェ一人いれば世界は完結する。だから神サマは人を分けて他人を作った。人が人を理解できないようにだ。なのにどうして他人を理解しようとする……ああ、煩わしいよな! どいつもこいつも騒がしんだ煩いんだ! 他人を求めるな他人に共感するな他人を理解しようとするな、他人と同調することを美徳にするな! 死ね、ああ死ね、はやく人類みんな死ね! そして俺を――俺をはやく一人にしてくれ」


「一つ聞かせろ」


 少年が恍惚な表情で語り終えたとき、ぽつりと阿久が言った。


「お前の目的は花楓を殺すことか」


「あ、んん? ……あア、花楓……南花楓――そう、そいつは殺さなきゃならねェ。俺の城に病原菌は要らねェ。本当ならあの病気野郎も要らねェが――」


「そうか。なら」


 言い終わるが早いか、阿久はすぐそばに落ちていた鉄骨を拾い上げ。


「俺たちは敵同士だ」


 情けも容赦もなく、少年の顔面を殴りつけた。

 

 だが鉄骨は少年の顔を中心にしてくの字に折れ曲がるばかりだった。鉄骨の上にある赤い目が以外そうに折れ曲がった鉄骨を見て、それから阿久を見る。

 その目は先ほどのような感情的な目ではなく、虚ろなものだ。


「シー……ハア――悪かった、謝る。謝ろう、謝るべきだ。勘違いだ。俺はてめェを見誤っっていた。てめェは俺とは違ったよ。そこらの奴らと同じだ、病気だ。目を見ればわかった筈なんだがなァ、どうやら外出自体が久々すぎて目が曇っちまったらしい。ああ、悪い、今ならしっかりとわかるぜ。てめェは孤独を求めちゃいるが、そいつは表面上だけのモンなんだ。心の奥底では、てめェも他人との繋がりとやらを――」


「お前ごときが俺を語るな」


 言った瞬間、阿久は自身の拳で少年に殴りかかった。

 あまりに無謀だ。鉄骨とぶつかれば鉄骨が捻じ曲がるような体を持つ化け物に、生身で挑もうなどと。

 花楓の予想通り、阿久の拳は容易に少年に払われた。そうして体のバランスを崩したところに回し蹴りを打ち込まれ、花楓とは反対の方向へ無残に吹き飛んだ。身体が真っ二つに切断されなかったのは、もはや奇跡というべきだろう。

 阿久! 花楓は叫んだが、阿久からの反応はない。


 少年は阿久を睨み付け、ゆっくりと鎌首をもたげるように頭の位置を落とした。


「てめェ、もしかして気にしてんのか? 孤独を望む一方で、孤独を望まない自分ってやつによ。ハァッ、意識してるだけマシだがよ、結局てめェも病気じゃねェか。こりゃあ、世界もいよいよ破滅だな。どいつもこいつも病気に侵されてやがる。クソ牧村も、あのキチガイピエロも、お前も! マトモな人間なんて、俺だけじゃねェか」


 一歩、また一歩と少年は阿久に向けて足を進める。

 首をバリバリと掻きむしる。シー、ハアと独特の呼吸音を響かせる。


「人間は俺一人でいい。世界は俺一人でいい。病気は移るし、厄介だ。てめェだって、自分が病気だと自覚してまで生きていたくはないだろう。だから、こいつは俺の慈悲だ」


 少年は、自分よりも大きな男を見下し、影を落とした。

 阿久逃げて、そう叫んだ花楓の声も、阿久には届いていない。仰向けに転がったまま、小さく呻くばかりだ。

 だがその口元だけは――笑みの形に歪んでいる。


「俺に、影を落としたな」


「は?」


 少年が首を傾げた直後、激しい肉がぶつかるような音とともに、少年の肉体が、投げ飛ばされたボロ雑巾のように吹き飛び、花楓の頭上を通過した。

 少年の手足は周囲の壁にぶつかりながら吹き飛ぶ方向を微妙に変化させつつも、最後には大きく壁にぶつかって、固いコンクリートへ蜘蛛の巣状の亀裂を入れる。


「ごッ――ォ……!?」


 真紅の瞳が驚愕に開かれる。驚愕が怒りに変わる前に、少年の肉体は路地裏のアスファルトに落下し、首から流れる量とは比較にならないほどの血液をぶちまけた。


「え、何、一体何が――」


 唖然としていた花楓の襟首を、何者かが掴んで持ち上げる。

 阿久だ。


「行くぞ。奴はまだ死んでない」


 それから花楓は半ば引きずられるように阿久に連れられて行った。

 やがて路地裏を抜け、人込みに紛れた頃だった。

 ここなら吸血鬼は追ってこないだろうと阿久が告げ、ようやく掴まれていた襟が解放される。久々に圧迫を感じない呼吸ができた。だがこの男が安らぎの時間を与えてくれるわけもない。花楓は深呼吸をする間もなく、さくさくと人の群れを押し分けて歩き出した阿久の背中を懸命に追う。


「その……言いたくないならいいんだけど、少しくらいは状況の説明ほしいかなって」


 吸血鬼を前にして立ち向かった阿久とは違い、花楓は怯えることしかできなかった。

 図々しい態度でものを聞くなんてことはできないが、それでも聞くべきこと、聞きたいことがたくさんある。

 あの少年は何なのか、吸血鬼であるならどうして昼に動けるのか。

 一体阿久は、どのようにしてあの少年を吹き飛ばしたのか。

 そしてなにより――。


「あの、その腕は……」


 その腕は、どうしたのか。

 歩く阿久の右腕は、ひどい火傷でもしたかのように白く膨れ上がっているのだ。

 コートに隠れて見えない肘から上の部分から流血があるのか、白い肌から流れる赤い血が嫌に痛々しい。


 花楓の問いに阿久はしばらく黙り込んでいたが、「昨日からだ」とようやく口を開いた。


「昨晩からお前が何者かに追われているのはわかっていた。俺はてっきり、そいつがマキムラという吸血鬼だと踏んでいたんだがな」


 腕のことは聞かれたくないことらしい。

 下手に機嫌を損ねると話が聞けなくなると思い、花楓は腕のことは今は話題から外すことにした。


「あのさ、それってもしかして、隣にいた?」


「気付いていたのか」


「ちゃんと気付けてたかって言われると、怪しいけど」


 隣――幽霊屋敷のことだ。あそこから感じた視線のことを告げてみると、その通りだと阿久は頷いた。

 阿久は花楓に外出をしたと見せかけて、家を見張りつつ隣の家の捜索をしていたらしいのだ。吸血鬼は昼間に行動することが少ないし、大概は太陽の下に出せば殺すことができるのだという。だがあの少年がこうして花楓の前に姿を現したところを見ると、阿久の捜索は無駄に終わってしまったようだが。


「どうやら、お前を狙っている化け物は一匹だけではないらしい」


「……吸血鬼に人気があっても嬉しくないよ。それより阿久、その腕は」


 その腕はどうしたのか。花楓の質問に、阿久は答えなかった。


 次に阿久の足が止まったのは、そこそこ人目のある運動公園に来たときだった。

 公園では母親に見守られている小さな子供たちが砂場や遊具で遊んでいる。他にはゲートボールを楽しんでいる老人たち、ランニングをしている大人の姿などがある。


 そんな人たちにどこか冷たい視線を向けた阿久は、右腕をコートの内側に隠すようにしてどっかりとベンチに腰を下ろし、空を見上げた。

 花楓も阿久の隣に腰を下ろし、空を見上げる。

 天気は悪くない。周囲の笑顔を浮かべる人々を見ても、平和そのものだ。

 まるで昨夜のことが、そして今のことが夢のようだった。だが花楓には、現実の表と裏、そのギャップがどうしようもなく気持ち悪いことのように思えた。


「いいか、花楓」


 不意に阿久が口を開いた。

 え、なに、と戸惑うような声を返す。


「吸血鬼になる奴には、大きく二種類ある。もともと吸血鬼であるもの――真祖(しんそ)と呼ばれているものと、そして真祖に血を吸われた元人間だ」


「う、うん」


 唐突に始まった説明に戸惑った。

 真祖とそれ以外がある、ということだけ頭の中で理解する間に、阿久は間髪入れずに言葉を続ける。


「真祖については、今は考えなくていい。眷属――マキムラ、あとさっきのガキ、加えてガキが言っていたキチガイピエロってのが、おそらくはそれだ」


「え、と……その眷属が、元人間ってやつ?」


「そうだ。そして眷属が吸血鬼になった場合、その能力は眷属を吸血鬼にした真祖、あるいは眷属に依存する」


 眷属が眷属に依存する? なんだかよくわからない。

 少し考えて頭の中を整理し、花楓はなんとなく理解する。

 例えば牧村が吸血鬼になったとするならば、その能力は牧村を吸血鬼にした吸血鬼の能力に依存する、ということか。

 今にして思えば牧村は日の下でもどうということもなく歩いていた。

 これが意味することはつまり――。


「つまり日光が得意な吸血鬼もいるってこと? で、あの牧村とかあの男の子は日光が得意な吸血鬼に吸血鬼にされた? だから日光とか関係ない? ……吸血鬼なのに?」


「詳細はまだわからんが、おそらくはそうだろうな」


「なら、昼も全然安全じゃないじゃんか!」


 そうだな、と阿久はうなずいた。

 だからあの少年から逃げる際には、人の多い道を選んだのか。

 確かアルラが言っていた。吸血鬼は存在を隠したいがために、人目を気にするのだと。あの少年が人目を気にしているとはとても思えないが――もしかしたら『病気』とかいうのが嫌で追ってこなかったのかもしれない。


「もう。なんで昼なら安全とか言ったのよ」


「お前が言わなかったからだ」


 何を、と花楓は頬を膨らませる。


「マキムラってのが日光の下を歩くことだ」


「だって聞かれなかったんだもん!」


 吸血鬼は基本日光が弱点であるとされている。なのに日光が得意な吸血鬼もいると考えるなど、いったい誰が予想する。吸血鬼なんて存在を知ったのは、そもそもつい昨日のことだというのに。


「……ねえ、あんたホントに吸血鬼に詳しいの?」


「さてな。詳しくなかったらどうする、家に帰るか」


「それは……しないけど。あんたの家に泊まるけど」


 それは家族を危険にさらさない処置でもあった。

 牧村だけでなく、あの少年にまで狙われているとわかった以上、余計に家族の元には帰れない。せめて、この状況を打破するまでは。

 乗り越えるべき壁が余計に大きくなったこの状況下。花楓は俯いた。

 だがそんな花楓を気にかけないまま阿久はベンチから立ち上がり、「そろそろ行くぞ」といってさっさと歩きだしてしまった。同行人の意向は聞かない主義らしい。

 大丈夫。心の中で言い聞かせて、花楓も阿久の後を追った。


「で、今度はどこに向かっているの?」


「電話を落としたんだろ。だったら警察に届けを出せばいい」


「そんなことしたら昨日のこと聞かれるんじゃない? あたし、なんて話せばいいのかわかんないけど」


「お前は悪いことをしたわけじゃない。それどころか殺人事件の重要な目撃者だ。早めに情報を提示した方が逆に疑われることはないはずだ」


「目撃者があたししかいないなら、ウソついてるなって思われそうなものだけど」


「話を聞く限り、お前のオトモダチは首を千切られたんだろ。警察だって馬鹿じゃねえ、あれを一人の少女がやったなんて考えたりはしないだろうよ。共犯の線は捨てきれてないかもしれないが、それこそ警察に顔を出せばほぼ解決する」


 なるほど、と花楓は頷いた。

 何も考えていないように見えて、どうやらこの男はそこそこものを考えているらしい。


「それに……建物の中なら、影がある」


 阿久は右腕を抑えながらそう言った。


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