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悪なるミタマ 漆黒の茨  作者: 九尾
序章編
3/6

黒曜石の瞳

 またもや遅れました!

 もうこれ遅刻が当たり前みたいになってるし、今回少し長かったせいで次の投稿が三日後であるという状況になっててもう最高!!

 次こそ遅れないよう頑張って書こうと思います!


「頼る相手、間違えたかも……」


 そう小さく呟いて、南花楓(みなみかえで)は途方に暮れた。


 現在、彼女は、誰とも知れぬ黒衣の男の後ろについて歩いている。


 男の進む道は路地裏ばかりだ。それもかなりの複雑怪奇な道筋で、右か左かと思えば、時には上で下で、道とは思えぬ道を進んでいる。古びた民家と民家の隙間や、小さな工場にある草だらけの駐車場、終いには塀の腐敗した家の庭なども通ることもあった。

 そんな得体の知れぬ道とも言えぬ道を歩き続けてなお、男の服にほとんど汚れがない。舗装されていない道とも思えぬ道を歩くのに慣れている。

 対して、男の後を追う花楓の制服には、ひっつきむしや謎の汚れが多く付着していた。


 ――俺と来るか。


 男は花楓にそう提案した。

 危険だと思い、始めこそ断ろうとしたものだったが、「戦う力がある」と聞き、つい承諾してしまった。あのときはやけに男の口が回っていたものだから、恐ろしい見かけによらずそこそこ優しい性格をしているのだろうかと甘い考えで推測をした。しかし男はあれが夢であったかのように、以降は一切のことを話さなかった。

 ため息もない。舌打ちもない。呼吸の音など、乱れた自分の呼吸にかき消される。


 男は危険だから気を付けろと注意するどころか、一切後ろを見ない。歩幅も合わせようとしないし、花楓のことを気にしているのかどうかもわからない。

 そもそも、花楓が付いてきていることを認識しているのかどうかも怪しい。


 言いえぬ不安を胸に秘めながらも、しかし花楓は男の後ろを付いていくしかなかった。

 あの男の存在は不可思議で言いえぬ恐ろしさを醸し出しているものではあるが――それでも、何もしないよりは幾分もマシだったからだ。


 しかしここにきて、ようやく一抹の懸念を抱き始めた。

 言わずもがな、少女が一人で男の家に行くという状況の危険性である。


 花も恥じらう天下の女子高生が、見知らぬ男に連れまわされている。それだけでなんとも怪しい響きなのに、相手は常に不機嫌と無感情の中間点の表情をした不気味な男だ。着崩した白いワイシャツに赤いネクタイをつけ、黒いコートを羽織っている。それだけならまだしも、コートの端には『アプソン』とラベルが張られているのがまた怪しいのだ。


 アプソンは日本ではあまり知られていない、大英帝国連合の有名ブランドだ。以前、クラスの男子から「兄にアプソンの財布を買ってもらった」などと自慢をされたことがあるから覚えている。財布一つで数十万するとかしないとかだったと思う。


 そんなアプソンの高級な白シャツやネクタイ、コートを、この男は乱雑に着込んでいる。その雑な着方から、服に思い入れなどないのだとわかる。わざわざ高い服を買って乱雑に扱う趣味など理解ができないから、やはりアプソンと知って購入したものだろう。

 ならばこの男はかなりの金持ちなのだろうか――だがこの男が正規の仕事を行っているとは考えにくい。収入源はどこから来ているのだろうか。そう考えたら、思考が嫌な方向へと進むばかりだ。


 やがてその思考は、言いえぬ危機感へと変化していった。


 どう転んでも、この男が自分を守ってくれるとは思えない。この男は警察は頼りにならないというようなことを言っていたが、ならばこの男は警察と何が違うのか。アプソンの服のように、適当に扱われて最後には捨てられるのがオチではないだろうか。だが、だからといって、この男を覗いてしまうと頼りになるものがなくなってしまう。


 他に頼れるものはたくさんいても、頼りになるとは限らないのだ。

 施錠令が解除された今、多くの人々が帝都を歩いている。交番にも警察の姿があるのだが――しかし花楓の抱える問題は、警察がどうにかできるものでもないと思うのだ。

 この男は花楓が見た秘密を見透かしたような言動をとっていた。だから彼を選び、彼に一縷の希望を託している。――託すしかない状態になっている。


 ――果たしてこの男、一体どこまで信頼できるのか。


 花楓を守ってやると大口を叩いたわりに、花楓のことを気に掛けないのはなぜなのか。花楓のことを見透かすような物言いをしたのも、今となっては誘い出すための方便だったのではないか――そんな僅かな不満と疑問が、風船のように膨らみあがっていく。


 そうして男と共に一時間程度の距離を歩いていたとき、不意に道の端に捨てられていた換気扇のフィンが目に入った。

 不燃ごみは一週間に一度だけ回収があり、回収業者によって旧東京へ処理される。その一週間に一度が明日にやってくるものだから、家主がゴミ出しの準備しておいたものであると思われる。

 帝都第六区画では、別段珍しいことでもない。

 しかしそのときはなぜか、無防備に歩く男の後ろ姿を見て花楓は思う。


 ――これで男の頭を叩けば、血をまき散らして死ぬのだろうか。


 それは普段の花楓からは到底想像もできぬ、野蛮な考えだった。

 だがその時の花楓には、その思考が異常なものだとは思えなかった。異常を異常と認識できぬほど壮絶な経験を、ほんの数時間前に体験してしまった。


 それからは路地裏を通って武器になりそうなものを目にするたびに、今襲われたならここに落ちている棒で戦おう、次はあの木の枝で、その次はそこの消火器で――と、花楓は男に襲われたときの対抗策を練るようになっていた。

 そうしたら、目の前の男の背中が小さく見えた。

 武器さえあれば、自分でもなんとかできるのではないかと、根拠のない自信がつきはじめた。――そんな折である。


「俺が信用できないか」


 不意に男は立ち止まり、歩き出してから初めて花楓を見た。

 

 男は一八〇を超える長身の男だ。年齢は花楓よりも少し上だろうか。

 小動物くらいなら視線で殺せるのではないかしらと思うほど鋭い目つきで、射貫くようにギロリと睨まれた。いま周辺に武器になりそうなものはない。対抗策がないため、少しばかり委縮する。


「えっと、それは……」


 花楓は俯いて口ごもった。

 男の視線だけで射殺されそうなほどの恐ろしさがある。


「早く答えろ」


 答えに詰まる花楓を前に、、男の表情はいよいよ不機嫌に変わった。ただでさえ鋭い視線が細められて更に鋭くなり、わずかに釣り上がった唇の隙間から噛みしめられた歯が覗く。


 握る手が汗で濡れた。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。荒い呼吸を繰り返す口が咄嗟に告げたのは、「ごめん」という一言だった。


 言ってからハッとする。

 この場で謝罪するということは、男が信用できないというのと同義だ。

 だが男は――少しだけだが不機嫌な顔を緩めていった。


「それでいい。本当に信用できるのは自分だけだ」


 それはどういう意味なのか、花楓にはよくわからない。

 ただ意味を言葉通りに取るのなら、悲しいことだと思った。

 だが男を疑ってかかった今の花楓が言ったところで、説得力は欠片もない。黙り込む。


 男は花楓に背を向け、再び歩き出した。

 先ほどまで小さく見えていた背中は、どうしようもないほど大きく見えた。


「そこらにある鉄パイプでもなんでも拾え、武器を持て。俺が危険だと感じたら、あるいは敵と断ずるものが現れたら、迷わずそいつを使えばいい」


 これまで一言も話そうとすらしなかったのに、どうして今更助言を与えてくれるのだろうか。それも、この男にとっては不利益にしかならない助言だ。


 競歩で進む男の隣になんとか駆け足で並び、花楓はその表情を見た。

 男は眉をしかめた。しかし花楓の表情から「どうして」という問いを読み取ったのだろう。眉間の苛立ちを隠さないままではあったが、静かに答えた。


「俺はお前に利用価値を見出した。お前は俺に利用価値を見出した。それだけの話だ」


「でも、だからって……」


 だからといって、どうして男の善意を踏みにじろうとした自分を許せるのか。

 どうしてそんな自分を咎めず、それどころかそれでいいと肯定するのか。


 そんな花楓の不安を、男はそれこそ理解できないと唸った。


「利益無くして人助けを行う奴の方が、俺にはよっぽど不気味に見える」


 お前もそうだろう――と男の瞳が告げている。

 その通りだ。だからこそ、花楓はこの男に助けを求め、今こうしてこの男の横にいる。そしてこの男を信用するそぶりを見せながら、利益にならなければ殺すための算段を頭の中で組み立てていたのだ。


「あたしは、その……」


 今更ながらに自分が行おうとしていた行為への恐ろしさと、男への罪悪感が込み上げる。これから先の言葉が思いつかない。何も言えない。

 ただ、この男は変わっている。通常の人間とは異なる思考を持っている。それだけは理解することができた。

 この男のことは理解できない。理解できないが――この異常な精神の状況下では、理解できないものほど信用できそうだと、なぜか思った。


       ◇


「ねぇ、さっきからどうしてこんな道を歩いてるの?」

「どこに向かってるの?」

「こっちに、何かがあるの?」

「ねえ、教えてよ」


 ほんのわずかな会話をしてから、数十分が経過した。

 あれから男は花楓のことを追い払わんばかりの速度で歩いた。ほぼ小走りでなんとか男についていった花楓は、尾を振る子犬のように何度か話しかけた。

 男が答えることは一度もなかった。


 人一人がようやく通れるような狭い道から出た花楓の目に見えたのは、大きく開けた一本の道だった。


 その道は車が辛うじてすれ違えるくらいの道幅であるため、実際には大きく開けたというほどのものではないのだが、これまで狭い場所ばかりを歩いてきた花楓からすると十分に広い。


 制服についたすすのような汚れを払いつつ、花楓は開けた道へ駆けて出る。

 道を出たが、人気は一切ない。施錠令が布かれた先の区画と同じだ。

 その道の正面には、二階建てのアパートが建っていた。


 コンクリート建てのアパートだ。薄汚れた小さな塀が周囲を囲っており、ひとつ錆びれた青いドアが取り付けられている。掠れた光を放つ街灯のすぐ隣にあるドアの横には『不法投棄禁止』と書かれた看板が掲げられ、いくらかの不燃物が放棄されていた。

 アパートの扉付近にある街灯を除けば、この周辺を照らす光は月の光を覗いて一切存在しない。アパートの部屋からも、明かりの一つも見えない。ただただ暗く、不気味だ。

 加えて、左隣に建っている木造の民家に張り巡らされた黄色のテープが、ドラマなどで見かける立ち入り禁止のテープを彷彿とさせて、嫌な想像を掻き立てる。


 ――まるで、幽霊屋敷。


 こんなときこそ、男にはさっさと別の場所へ移動してくれと願ったが、肝心の男はその場で立ち止まる。すぐに歩き出したかと思えば――そのアパートに向けて歩き出した。


 あのアパートが住居であるなど冗談ではないと花楓は思ったが、道もわからない場違いのところで一人取り残されることを考えると、それこそ冗談ではなかった。


 周囲に危険がないか見渡す。幽霊や悪霊の類は見えない。自分に霊感がなくてよかったと胸をなでおろす。人の気配もない。闇の中に何かが潜んでいるかもしれないという恐怖にとらわれそうになったが、闇の中は深く覗き込まないことにした。


 安堵とも逃避とも知れぬため息をつき、子犬のような少女は黒衣の男のあとを追う。


      ◇


 男と共に、花楓はギチギチと年代を感じさせる青いドアをくぐった。もとは綺麗な青色であったのだろうが、今では色あせてところどころ錆びついている。

 アパートの庭ともいえぬ狭い空間に出ると、本当に管理された場所なのか怪しいほどに草が敷き詰められていた。その背丈は、大きいものでは花楓の胸元まで伸びている。狭すぎる庭の手前には、ところどころ草がつき出した不躾な階段が伸びていおり、そこから二階の部屋へ上れるらしい。階段の塗装は欠片を残してほとんどが剥がれ、錆びきって爛れた鉄がその身を外気に晒している。

 アパートの壁は、外からみた塀とさほど変わらず、黒い血が垂れたような汚れがそこらについている。心霊番組などを見る折にはよく目にする汚れだが、実際に目にすると相当に気持ちが悪かった。


 装飾も塗装もとうに禿げ、もはや茶色く変色した狭い階段を、男は当たり前のように登っていく。男が足を踏み出す度、木造の階段のように悲鳴を上げた。だが階段の悲鳴を気にも留めず、男はさっさと登ってしまう。

 このいつ壊れるとも知れない階段を昇るかどうか悩み、花楓はきょろきょろと周囲を見渡した。そこで目に入ったのは、先の木造の民家である。

 すぐ塀を挟んだ左手に、黄色のテープを張り巡らされた民家の屋根が覗いていたのだ。よく見れば、窓の上部分が微妙に見える。覗こうと思えば、あの窓の中から部屋の様子を覗くこともできるだろう。


 部屋の中で、血を流して倒れる長い黒髪の女性を想像した。


 ぶるぶる、と小さな身体を震わせ、思考を振り払う。花楓はできるだけ左手の民家を目にいれないよう目を細め、しっかりと手すりを掴み、階段と黒衣の男だけを視界に入れて階段を登る。

 ギチギチと嫌な音がした。女子高生の中でも軽い方だと自負している花楓ですら、一歩踏みしめるだけで、階段が今にも抜け落ちそうなほど軋んでいるのだ。


 ――もう嫌だ。

 そう思うと同時に、ふと疑問がよぎった。


 高級ブランドの服をまとうような男が、どうしてこんなアパートに住んでいる?


 彼の容姿を見る限り、まだ二〇を超えたかどうかといったところ。花楓と五年も離れていないはずだ。

 家族は――彼の親は、このことをどう思っているのだろう。


「あのさ……親は?」


 おそらく左手の民家から気を紛らわしたいという気持ちもあったのだろう。花楓は何度か「聞くぞ、聞くぞ」と胸の中で決意を固め、いよいよ勇気を振り絞って聞いてみた。

 だが男からの返事はない。階段の軋む音に自分の小さな声がかき消されたか、無視をされたのだと思った。

 しかし男は不意に立ち止まる。花楓はぶつかりそうになったところ、済んでのところで手すりを掴んで止まった。


 男は問いには答えない。

 ただ空に移る月を見ていた。


 つられるように花楓も月を見た。

 少しだけ欠けた丸い月だ。

 日のない闇の世界で、誰もを等しく照らす月。

 もうすぐ――満月だ。


「どっかでくたばってんじゃねぇか」


 吐き捨てるようにそれだけ言って、男は背中を向けた。

 今の一言が、家族に対する返答であったのだと遅れて気付く。

 だが花楓が余計なことを聞いたと謝罪する暇もないまま、男は階段を登っていった。

 

 それから階段を登り切った花楓は、汚いアスファルトの廊下へ出た。

 ようやく人が通れる程度の道幅だ。そんな道幅を軽々と歩いていく男の後ろを、花楓は必死でついていく。

 怖かった。背後にあるあの民家の窓から――誰かがこちらを見ているような気がした。


 シー、と歯の隙間から呼吸をするような音が聞こえた気がした。


 

 男が廊下で突然立ち止まったため、隣の民家を気にしていた花楓は止まりきれず、大きな背中にぶつかって尻もちをついた。

 204号の前。一番階段から離れた部屋だ。

 男は鍵も出さずにドアノブを回す。施錠はしていないようだった。

 不用心だ。


「帰った」


 ドアを開き、男は呟くように言った。

 

 電気のつけられていない、暗い部屋だ。

 主が今帰ったのだから、暗くて当然ではあるが。


 花楓はそっと部屋の中を覗き込みながら、男が部屋に入るのを待つ。広い部屋ではないが、二人くらいなら問題なく生活できそうだ。、入り口正面にダイニング、左側に二つの和室がある2LDKだった。

 今更ながら、男に同居者がいるという考え方を欠いていたなと花楓は思う。どうやら一人暮らしであるらしいので安心する。――いや、ある意味で安心はできないのかもしれないが。

 男が電気も付けずに部屋へ踏み込むと、あとを追うように花楓も玄関に入った。聞こえるかどうかという小声で「お邪魔します」と小声で呟き、靴を脱いだときだ。


「お帰りなさい」


 正面にある台所で、黒い何かが蠢いた。

 ひぃと、花楓の喉が勝手に引き攣った悲鳴を上げる。


 ひたひたと、台所にいたそれがこちらに歩いてきた。

 まず目に入ったのは黒い二つの点だ。それが目のようにこちらを覗いている。

 次に目に入ったのは黒く長い何か。蛇のようにも見える。


 ――女だ。

 十数秒見つめ続けて、花楓は灯りのない部屋でようやくそう判断できた。


 長く、サラリとした黒髪と雪のように白い肌。日本人形のように整いながらも、しかし蝋のように無表情の不気味な女だ。服かもわからぬ黒い布のようなものを部分部分でベルトで絞め、その身にまとっている。日本人的な容姿であるのに和服でないのが、また和と洋の不調和を強調していると花楓は感じた。

 またその布やベルトのところどころにはアクセサリとも思えぬ珍妙な銀の鎖が取り付けられており、一層、女の異質を醸し出していた。


 ――人を呪い殺す呪縛霊。

 先の幽霊屋敷が脳裏をよぎる。


 恐怖に身じろぎ一つできない自分の姿が、女の黒い瞳に映された。


「この子、何かしら」


 目蓋が半分閉じられた、眠そうな眼。それが値踏みでもするように事細かに花楓を舐めた。


「今日は泊める」


「……」


 花楓から視線を移し、黒い女は男を見た。


「わかったわ」


 少しの間のあと、無機質な声で言って、女は再び台所に戻った。

 とんとん、とんとん。包丁の子気味のいい音が暗闇に響く。


 会話を終えた男が廊下を進むと、ついと花楓の手も伸びた。どうやら気付かないうちに、花楓は男のコートの裾を握っていたらしい。

 慌てて靴を脱ぎ、お邪魔しますと囁くように告げて、花楓は男にぴたりとくっついた。


 男はそんな花楓の様子を気にかけることなく、奥の和室に向けて歩を進める。花楓は男についていく。だが奥の和室へ行くためには、女の後ろを通らなければならない。

 すれ違いざまに、台所へ立つ女の手元を見た。

 部屋が暗いのでよくは分からないが、赤い何かを切っている。


 一瞬、人間でも切り刻んでいる山姥(やまんば)村の住人か何かなのではないかと疑ったが――どうやら人参か何かを切っているらしかった。

 安堵のため息が出る。思いのほか大きな音で、すぐに口をつぐんだときだった。


「ねぇ」


 黒い女が口を開く。

 花楓は小さな身体をバネのように跳ねさせた。


「な、なんでしょう!」


 震えながらも、精一杯の勇気を振り絞って出した声はしかし、暗闇に沈んでいった。

 黒い女の視線はもとより花楓にはなく、初めから男の方に向けられていた。


「下準備が終わったわ」


「そうか」


 二人は入れ替わるように場所を変えた。女は男が入ろうとした和室に入り、男は女が切っていた人参らしきものを鍋に放り込んでボッとコンロに火をつけた。


 何を考えての事か、男は調理を始めた。

 女が入っていった左手の襖は開きっぱなしだ。


「え、えと……」


 どこにいればいいのだろう。

 行き場のない不安と恐怖から困惑していると、閉じきっていない和室の襖の隅から、黒い瞳が花楓を見ていた。


 月光のみが照らす暗い部屋に、黒い女。此方を見つめる黒い双眸。

 ――まさしく幽霊だ。

 

 冬だというのに握った手のひらはじっとりと汗ばんでいる。身体はまるで金縛りにでもあったかのように動かない。


 彼女は数分ほど花楓をじっと見つめ、ようやく「入らないの」と問うた。

 だが何を言っているのか理解ができない。


「……部屋」


 感情のない瞳に、抑揚のない声。

 黒い女はそれだけ言って、襖の奥へ消えた。


「え、あ……は、はい!」


 数秒もの時間をかけて意味を理解した花楓が部屋に入ると、女は押し入れから取り出した座布団を差し出した。

 暗いためよく見えないが、それなりに質のいい座布団だと思う。ボロアパートから出たものであるから、どんなボロ座布団が出るものかと思ったが、破れている様子はない。


「あ、りがとう……ございます」

 

 座布団を敷き、ぎこちのない正座をした。

 それから部屋を見まわし、襖を閉めなけれならないという考えに思い至る。できるだけ静かに、ゆっくりと襖を閉めると、襖の奥で電球に明かりを灯す音が聞えた気がした。


 暗い部屋で、花楓は黒い女と二人きりになる。

 あの男も大概難しいが、表情が読めるため人間味を感じる。まだ話しやすい。だが眼前のこの女は、それこそ人形のように表情がない。蝋に塗り固められたような白い顔は言うまでもなく、蝋に埋め込まれた黒曜石のような瞳からも、一切の感情が読み取れない。


 人の顔色を伺う癖のついている花楓にとって、感情の読めない相手ほど恐ろしいものはなかった。


「アルラよ」


 お互いに正座をしたまま黙り込んだ狭い和室で、女がぽつりと言った。

 異質にすぎる幽霊のような女と閉鎖された暗闇に閉じ込められた花楓は、緊張と恐怖のあまり何を言ったのか聞き取れない。


「アルラ」


 女はもう一度言った。

 何を言っているのか、改めて聞いてもわからない。


「えと、それが何か……」


 花楓は問うた。

 笑いでも恐怖でもない、我ながらなんだこれと思うような、奇妙な震え声だった。


「名前よ。わたしの」


「え、あ!」


 アルラというのが、どうやら女の名前らしい。日本人的な顔つきをしていたため、てっきり日本人の名前が出てくると思っていた。

 せめてこのあとは失礼がないように、自分も早く名前を名乗らなければならないと、花楓はパニックになる。「あの」「その」などといった言葉にもならない声を発しながら、深呼吸を繰り返して、最後にようやく言った。


「か、花楓です。南花楓……」


「――南花楓。覚えたわ」


 黒い女は――アルラはやはり表情を変えない。声にも抑揚がなく、感情が読めない。


「彼は『あく』」


 襖の奥で調理らしきものを始めた男の方向を指し、アルラが言った。

 花楓は「悪?」と思わず聞き返した。


阿吽(あうん)()に、久しいの()で、阿久(あく)


 どうやら阿久というのが、あの男の名前らしい。

 それきり会話が終わった。


 どうにも、彼女――アルラは感情が読めないため話しにくい。

 何か話さなければ、とは思ったが、頭に浮かぶのは理解できないアルラへの恐怖と、そしてあの民家のことばかりだ。

 かといって、まさか貴方は幽霊なのですか、などと聞けるわけもない。


 花楓が思考の迷路に迷っていたとき、蝋人形の白い唇が静かに開いた。


「花楓。何か聞きたいことはあるかしら」


 黒い瞳が花楓を見る。

 やはり表情は読めない。人形のようだ。

 長い髪の、置物のような女。


「じゃあ、一つだけ……」


しばらくの間のあと、花楓はおずおずと右手を上げた。


「どうしてこの家は、電気をつけないんですか」


 純粋な疑問だ。いくら猫目といえど、夜に電灯の一つもつけない人間はいない。

 電気が通っていないなどの理由があれば話は別だが、先ほど阿久という男はコンロに火をつけていたし、襖を締めたあとは灯りを使用しているようだった。

 となれば、阿久は――あるいはアルラは、何かしらの理由があって灯りを嫌っている。


 明るい場所が苦手なのだろうか。

 だとしたら、それでは、まるで。

 まるで――アレだ。


 制服についた赤が視界に入る。

 ぞわりと、血の気がよだつ。

 花楓は強く首を横に振り、何も考えないことにした。


「暗い方が、心地がいいからよ」


 花楓の思考を払うように、アルラが言った。


「わたしは身体が弱いから。明るいのは、苦手なの」


 彼女は目に見えて血色がよくない。肌も蝋のように白く、彼女の血色は月明りだけでもわかるほどなのだから、相当だ。


 だが――それだけか?

 明るいのが苦手なのは、それだけが理由か?


 花楓の身体が更にこわばる。

 そんな花楓の左手に、アルラの右手が重ねられた。


 いつのまに移動したか、アルラは花楓の眼の前にいた。

 吐息のかかる距離で、アルラの瞳が花楓を覗いた。その漆黒の瞳に吸い込まれるように、花楓もまたアルラの瞳を見つめた。

 アルラの瞳の中に映る、花楓の小さな瞳。その中に、アルラの姿は見えない。


「次は、わたしの番ね」


 つい――と、アルラの指がかえでの喉を撫でた。

 花楓の身体が跳ねる。

 それは、驚きか。反射か。それとも――恐怖か。


「どうしてあなたは、此処へ来たの」


 黒曜石のような瞳が花楓を見つめる。花楓を映す。

 黒い瞳、それ以外のものが目に入らない。

 花楓はなぜかそれが、とても心地の良いものに思えた。


「あたしは……」


 うまく言葉にできない。思考が鈍る。何を言っていいのかわからない。

 ただ――どうしてここへ来たのか、その理由は告げてはならないことはわかっている。

 そんな花楓の心の壁すら、黒い瞳は覗いていた。


 この瞳から眼をそらさなければ、引きつけられる。吸い込まれる。

 けれど抗うことはできなかった。

 抗う必要はない。黒曜の如き漆黒の瞳に委ねていれさえすれば、それでいい――。

 自分らしからぬ投げやりな感情が、胸のうちに渦巻き始めた。


「よくここまで来たわね。辛かったでしょう」


 女の言葉が、墨のように何かを黒く染めた。

 女の瞳に映る自分の姿はもう見えない。ただ――自分の瞳も、黒曜石のようになっているのではないかと思った。


「怖い思いをしたのでしょう」


 ――ああ。ああそうだ。そうだった。怖い思いをした。

 だからどうしていいかわからずに、あの阿久という男に縋ったのだ。


「血の匂いがする。誰かが死んだのね」


 その通りだ。目の前で死んだ。殺された。

 だが誰に殺されたのかを言ってはならない。


「可哀相、震えているわね。でも安心しなさい、ここに奴らは来ない」


 どうして来ないのか、とは思わなかった。

 その女の言葉に嘘はないと、どうしてか信じることができた。もしかしたら、信じていたいという気持ちが逃避を求めたのかもしれない。


 小さく涙がこぼれた。

 あの時には流せなかった涙。それが今、ようやく自分の頬をつたった。

 胸にあるのは恐怖ではなく、安心だ。ここにきて安心できたことがどうしようもなく嬉しかった。救われたような気持になった。

 そんな花楓の背中を優しくさすり、黒い瞳は静かに告げる。


「大方、話せば殺されると脅されているのでしょう」


「――」


 花楓は僅かに身体を跳ねさせた。

 しかしアルラはなんでも知っているといった様子だ。やはり無表情でその瞳の奥底は読めないが、それでも「この人ならば」と心の片隅で考える。

 左手に重ねられたアルラの右手は、暖かかった。


「大丈夫」――囁くアルラの声に身体が痺れる。

 蕩けるような甘い吐息が、花楓を優しく包みこむ。

 そこには母の胸に抱かれるような心地よさがあった。


「奴らは臆病だもの。姿を隠さなければ生きてはいけない。だから存在を口外されないように口止めをするの。教えて頂戴、貴方は見たのでしょう」


 奴ら――そう、奴ら。

 人の世に隠れ、人の命を吸って生きながらえる影なる存在。

 奴らを、奴らの一人を。


「――吸血鬼を、見たのでしょう?」


 その一言によって、花楓の何かが崩れていった。


 人の生を踏みつけ、その血によって生きながらえる悪意。

 人の世に隠れ住む悪鬼――吸血鬼。


 冷静に考えてみれば、本当に吸血鬼が人よりも優れているのなら、隠れる必要などどこにもない。もし吸血鬼が堂々と存在を知らしめていたのなら、おそらくとっくにこの世は吸血鬼に満ち満ちて、人は家畜に成り下がっているはずなのだ。

 世界を支配するのが吸血鬼ではないということは、吸血鬼の力がまだ人類に及んでいないということに他ならない。


 黒曜の瞳の言う通りだ。

 吸血鬼は人に隠れなければ生きてはいけない。だから花楓に、あの路地裏でのことを執拗に口止めしたのだ。


「もう怖がらなくていい。貴方はもう大丈夫」


 目の前の女の言葉には、明確な根拠があるように感じられた。

 路地裏の出来事から初めて心が救われた気がして、かえではまた涙を流した。


 流れた涙を、黒い女が美しい指先で掬いとる。


「話さなくてもいい。ただ、思い出してくれるだけでいい――」


 まるで墨だ。白い和紙に色を塗り込む黒い墨。

 黒い女の言葉が、花楓の瞳を黒曜の黒へと染めていく。


 女の瞳に花楓の瞳が映っている。黒い瞳だ。

 その瞳の中に女の姿はない。その代わり、花楓の黒い瞳が映っていた。

 花楓の瞳に映る花楓の瞳。そのまた瞳に映る、花楓の瞳。

 万華鏡のような不可思議の世界へ、花楓の意識は堕ちていく――。


       ☆


 南花楓が学校で特に親しくしているのは、俗に不良のレッテルを張られた三人の少女だった。


 リーダー格である、玉虫色の髪をした麻衣。

 カバみたいに大口を開けるクセがある彩奈。

 ナマケモノみたいにのんびりとしている薫。

 随分と派手な格好をしている彼女らだが、花楓は彼女らのことが好きだった。


 麻衣はいざというときにみんなの先頭に立って守ってくれるし、義理堅い。誰に対しても強気の性格で、大切だと思うものはしっかりと守ってくれるアネゴ肌だ。彼女の言葉はどこか強い言葉を持っていて、人徳もある。そんな麻衣だからこそ、花楓たちも胸を張って彼女と友人であると言えるのだ。

 成績はさほどよくないが、それは勉強をしないだけで、実際記憶力はいい方だ。彼女は非常に人脈が広く、学生のみならずホストやキャバ嬢などとも挨拶を交わすが、一度会っただけの相手でも、人の顔と名前を間違えたところは見たことがない。

 少しばかり恋愛に盲目的なところがあるが、それもまた麻衣のチャームポイントであると花楓は思っている。


 彩奈はいろいろとおおざっぱだ。人生適当にやればいいということをモットーにしており、何に対してもやる気がない。髪を染めるのが面倒だからとメッシュが中途半端になっているのもよくあることだ。

 だが彼女が適当だからこそ、肩肘張らずに接することができることもある。

 愛すべきバカ、というのは友人に対して悪い評価に取られるるかもしれないが、決して悪い意味ではない。本人に直接伝えても、バカの部分には突っ込まず、「愛されてるなー」と笑えるほど器の広い性格をしている。


 薫はよくも悪くもマイペースだ。どんなに急ぎの要件があっても決して急ぐことはせず、常に自分のペースで動いている。しかし考えるべきことはきちんと考えているらしく、人間関係に亀裂が入りそうなときにはすかさず仲介に入ることができる。

 薫の独特な間があると、相手に殴りかかりそうなほど怒っていても気持ちが萎えるというのは麻衣の談だが、花楓もその通りだと思う。彩奈が愛すべきバカだというのなら、薫は間を取り持つ癒しキャラだった。


 そんないつものメンバーで学校帰りにコンビニへ寄ったとき、件のテレビ番組の話で盛り上がることができた。


 花楓は弟の怖がる姿見たさに心霊番組などを一緒に見ることが多いため、UMAの特集があると朝食の席で母から聞いたときからテレビをつけようと決めていた。

 しかし普段、麻衣たちはテレビを見ない。テレビを見るくらいなら深夜徘徊をして誰かと遊んでいる。仮に見るにしても、基本的には芸能人の出るバラエティか、音楽番組ばかりだ。

 だがそんな彼女たちも、この日だけは「いつもこの手の番組を花楓が見ているから、明日の会話のネタにしよう」という思いで、同じ番組を目にしていたのだ。

 花楓はそんな心遣いがなんだか嬉しくて、また全員が同じ気持ちでいたことによる一体感が嬉しくて、人目も気にせずに盛り上がってしまったのだ。

 しかし――。


「ならさ――『吸血鬼喰い』ってどう思う?」


 しかし牧村健二の一言は、南花楓の日常に亀裂を入れた。


 牧村健二は、ほんの一か月ほど前までは学校でも目立たない少年だった。

 身長は高く、顔も良かったからそれなりに女子人気はあったが、気弱でオタク趣味、自分に自信が持てないのか、どうも頼りない節があった。そのため男子からの受けは悪く、弄られキャラというよりは、虐められキャラという印象を周りに与えていた。

 花楓は男子たちの牧村弄りが何となく気に入らなかったから、たまに牧村を庇うことがあった。

「虐められているなら先生に言った方がいいよ」と忠告もした。

 その度に牧村は虐められていないと主張したのだが――実際のところはわからない。


 そんなある日、牧村が学校を休んだ時期があった。たしか一週間ほどだったか。

 やっぱり虐められているんじゃないだろうか、これから不登校になるのだろうか、などと花楓は心配して電話の一つ二つは入れたものだが、連絡はつかなかった。

 一週間後、牧村は何食わぬ顔で登校してきた。


 否、何食わぬ、というのは適切ではないか。あの弱気だった牧村が別人のような顔をして、これまで自分を弄ってきた男たちを部下のように付き従えて、学校へ現れたのだ。


 それからの牧村は、人が変わったように立場を変えていった。

 学校の不良たちを付き従え、まるで学校の頂点に君臨する国王のような顔をするようになった。これまで牧村の友人であった男子たちとの付き合いはなくなり、代わりに優等生面している裏でよくない者たちと付き合うようになったようだ。

 悪い噂もたくさん聞くようになった。


 人は変われば変わるものだ。だが自分には関係ない。

 花楓にとって彼の変化は、これまで庇っていた相手が、庇う必要のないほど強くなっただけのことだ。今まで通りの学校生活を続けることになんの支障もない。

 ――そのはずだった。

 しかし牧村はどういうわけか、やたらと花楓に近づいてくるようになったのだ。


 決して自意識過剰になっているわけではないが――おそらく牧村は花楓に好意を抱いているのだろう。花楓は男子生徒から好意を寄せられることが多かったから、経験則でそれがわかった。

 だが下手に付き合えば女の友情間に不要な亀裂が入るかもしれないし、そもそも花楓は牧村がどうこう以前に、恋愛にさほど興味がなかった。

 だから花楓にとって、牧村は鬱陶しい男子の一人でしかなかった。


 しかし麻衣にとっては――あるいは、彩奈や薫にとっても、そうではなかった。


 地味だった頃とは違い、牧村は喧嘩をするようにもなった。

 幼さを感じさせる甘いマスクには傷一つないため、不良たちを牛耳るばかりで喧嘩をしないと思われているが、そうではない。強すぎて、相手が牧村に傷一つつけることすら叶わないのだ。

 そんな牧村のことを、彼女らは異性として気にかけるようになっていたのだろう。牧村が花楓にアプローチをするたびに、少しずつ彼女たちの態度が変わっていった。

 恋愛一つで友情が壊れる――悲しいが、女の間ではたまにあることだ。


 UMA関連の話が次第にこじれ、麻衣たちは花楓を責め立てるような口調になった。

 しかしそれを牧村が庇うものだから、麻衣たちは面白くない。余計に花楓を責め立てるような物言いをして、関係が悪化していくばかりだ。

 薫は何度か止めようとはしてくれたが、心の底では止まらなくてもいいと思っていたのだと思う。あるいは、牧村のご機嫌伺いかもしれないが。

 決定的な亀裂を生んだのは、会話が終わって解散しようとなったときだった。


 牧村が花楓だけを食事に誘った。

 

 明らかに麻衣が苛立っていたし、彩奈や薫もいい顔をしていなかった。

 花楓はもちろん断った。しかし牧村がしつこく食い下がってくる。

 麻衣が「じゃあアタシたちと一緒に。それなら花楓もいいよね」と提案したが、牧村は「それはいやだ」と首を横に振る。


「なんで花楓なの? こいつは弱いし、アタシに頼ってばっかだよ。牧村くんが気に欠けるほど大した奴じゃない」


 どうやら麻衣の中で、花楓はそういう評価らしい。

 花楓は友達だと思っていただけに、少し傷ついた。けれど、大きなショックを受けていない当たり、自分も心から友達だったとは思っていなかったのかもしれない。

 花楓にとって、心から友達と言えるのは――今も昔も一人だけなのだろう。


 結局、花楓は牧村の誘いを断り続けた。

「なら次の機会に」と牧村が諦め、解散したそのあとだ。

 路地裏に麻衣に引っ張られ、花楓は路地裏まで連れられた。


「なんでアンタなわけ? アタシが牧村くんのこと好きなの知ってんでしょ?」


「知ってるよ。だから誘いを断ったんじゃない」


「は、そりゃてめェがイキりたいだけだろうが!」


 バチン、と音がした。

 麻衣が花楓の頬を叩いたのだと理解するのに、すこし時間がかかった。


「お前みたいなブラコン野郎はさぁ、弟とイチャついてればいいわけ、わかる? だから牧村くんには関わるなつってんだろ! クソ、いつまでも誕生日にもらったダッサいピンなんかつけやがって。気持ち悪ィんだよ、お前ら姉弟は」


 麻衣は恋愛に関しては盲目だ。思うようにいかないことがあると、自分よりも別のことに理由を押し付ける節がある。だからこのときもきっと、花楓に理由を押し付けたかったのだろう。

 普段の花楓ならばそれでも構わなかった。自分が叩かれるだけでこの友情が守られるなら、それは安いものだ。


 ――だが、麻衣は花楓の家族を気持ち悪いと称した。

 花楓の大切なものをバカにした。


 人には誰しも踏み込まれたくない領域がある。

 南花楓にとって、家族のことが――とくに弟のことがそれだった。

 

 花楓の中で、何かがふっ切れた気がした。


「何を勘違いしてるのか知らないけど、あたしは牧村にマジで興味ないから」


 冷たい声で誰かが言った。

 それが自分の口から出た声であったのだと理解するのに、少し時間がかかった。

 理解して、花楓は小さく笑った。


 麻衣の表情はあまりに滑稽だった。これまで子犬だと思っていた女が、初めて反抗心を見せた――そのことに驚いたような顔だ。

 少しだけ気分を良くした花楓は、無意識に回る舌に身を任せて言葉を続ける。


「知ってる? あたしからあいつに話しかけたことなんて、ほとんどないんだよ。なのにあいつったら、いつもいつもあたしに話しかけてくる。こっちは嫌なのに、そんな気遣いもできやしない。ちょっとした空気も読めないんだから、どうしようもないよね」


「牧村くんを、悪く言うなよ!」


 花楓は麻衣に腹部を蹴りつけられた。

 蹴られた拍子に呻き声が出る。

 自分でも笑いそうになるほど、みっともない声だった。


「そうだよね、牧村くんが悪く言われたら、麻衣の男を見る眼がないってことが証明されちゃうもんね。自分がバカだって――公然と言いふらしているのがバレるもんね?」


「な――」


 麻衣だけじゃない。他の二人も絶句している。

 ――ああ、そうか。誰も南花楓の本性を知らなかったのか。

 ただ都合のいい子犬、そんな風に思っていたのか。

 別に花楓は子犬でよかった。見せかけの友情でも、彼女たちと共にいることは嫌いじゃなかった。こうして気持ちを紛らわしているのは、何も花楓だけじゃない。

 だが――都合のいいバカ犬だと舐められていたのなら、話は違う。


「――滑稽だね」


「この野郎ォ!」


 再び花楓は腹部を蹴りつけられた。

 顔の傷は見つかりやすいから、腹を攻撃するといい――とは、かつての麻衣の談だ。

 腹には腸を中心に柔らかい臓器が詰まっている。それらがクッションとなって、アザなどが残りにくいのだという。だから麻衣は腹を狙う。それさえわかれば、防御のしようもあるというものだ。


「ねえ知ってる? 牧村ってね、今じゃ女をとかっかえひっかえなんだって。で、牧村と付き合ったことのある女子は、みんな死んでる。ほとんどの女子がリストカットして、血がなくなってるらしいよ。――あんたが好きな牧村ってのは、そういう男。それでもまだ牧村が好きって言える?」


 麻衣の蹴りが防御を抜け、花楓の言葉を遮った。

 けれど一度高ぶった感情の波は止められなかった。何度か咳をしたのち花楓は続ける。


「まだ好きって言えるならいっそ、あたしが頼んであげようか?「麻衣は牧村くんのことが好きだから、付き合ってあげて」ってさあ。牧村はあたしが大好きだから、あたしが付き合ってあげるって条件付けたら、言うこと聞くかもしれないよ」


「……花楓。それ、どういう意味」


「男に見向きもされない麻衣に、モテるあたしが慈悲をあげるってこと」


 激高した麻衣の蹴りが、花楓を蹴りつけた。やはり腹だった。だが蹴りつけられた勢いを腕だけで殺すことはできず、花楓の身体はアスファルトに転がった。

 蹴られた腹部が痛い。防御に使った腕が痛い。


 けれどここで負けを認めたら、学校における自分の立場がなくなる。家族を貶されたことを見過ごすことになる。

 それこそ牧村を使えば多少の立場はとれるのだろうが、それでは胸を張って友人の隣を歩けない。あんな男に依存するくらいなら、いっそ死んだ方がいい。

 だから花楓は、精一杯の嫌味を込めて笑ってやった。


「ねえ、どんな気分? これまで下に見てた女に、好きな人の心を奪われるのは」


「この――クソ花楓ェ!」


「ちょ、麻衣やめな!」

「そ、そーだよ! さすがにまずいって!」


 激怒して花楓に襲い掛かろうとする麻衣。残る二人は懸命に麻衣を抑えるが、麻衣は白い怒気を口から吐き出して、反対に二人を睨みつけた。


「お前らは、どっちの味方なんだよ!」


 急に向けられた矛先に、彩奈と薫は息を呑む。


「お前らも牧村くんが好きってアタシは知ってんだぞ。好きな人がこんなブラコン野郎にボロクソ言われて、何も思わねえのかよ! それでもお前ら、好きって言えんのか!」


 まずい、と花楓は思う。

 激情に駆られて牧村を貶したが、牧村を気にかけていたのは麻衣だけではなく、彩奈と薫も同じだ。花楓だけが、あの男を一方的に嫌っていただけだ。

 加えて、麻衣の怒りはもっともなものである。

 少々盲目的ではあるが、想い人を貶した相手への怒りは一般に通用する正当な怒りだ。そして正当性の伴う怒りは、伝播する。


 彩奈と薫の視線は、わずかな熱をもって花楓を見た。

 正当な怒りによる報復。正当な怒りによる攻撃。その熱に浮かされている。


「や、ば――」


 完全に花楓の失策だった。

 いつものようにへらへらしていたら、きっとこんなことにはならなかった。例え家族をバカにされたとして、これまでのように、子犬のままでいられたら――そしたらきっと、また今日と同じ明日がやってきた。

 いつ壊れるとも知れぬ友情を胸に抱き、牧村の存在を疎ましく思う毎日が。


 三人を同時に敵に回した花楓が、せめて何か抵抗の手段はないかと思考を回し、抗おうとしたときだった。


「何をしているんだい」


 その場に、一人の少年が現れた。

 少年はいつもの甘いマスクをしているが、その表情はまるで違う。

 普段の笑顔は欠片もなく――ただ不満と怒りと、そして愉悦が見て取れた。


「ま――きむら、くん」


 喉に詰まったような声を、麻衣は無理やり押し出した。

 花楓を庇うように現れたのは、渦中の人物――牧村健二だった。


 牧村は花楓を守るように前に立ち、顔についた切り傷から流れる血をぬぐう。


「ひどいことを。南さんが一体、何をしたっていうんだ」


「これは、違ッ、その――そいつが、花楓が! 牧村くんを悪く言うから!」


「へえ。なんて?」


「これまで付き合った女を、リスカさせてるって!」


「ああ、それはちょっと違う。もっと正確に言うなら」


 牧村の言葉が止まった。

 それから――バヅンと、この場に似つかわしくない奇妙な音がした。

 少しだけ、ゴムを無理やり引きちぎったときの音に似ていると思った。とても太いゴムを千切ったら、ちょうどこんな音がするのだろうか。


 音に次いで、花楓の前に雨が降り注いだ。

 季節は冬。雨が降るなら冷たいもののはずなのに、それは暖かい雨だった。

 麻衣だったものからこぼれだす、赤い雨。


「――え?」


 花楓の呆けた呟きと同時に、麻衣だったものはアスファルトに倒れ込み、ビクビクと痙攣しながら、頭部のない首から大量の血液をまき散らしている。そしてその首から上は、目の前に立つ牧村の手に握られていた。


「もっと正確に言うなら、彼女たちは『成り』きれずに死んだんだ」


 そういって、牧村は狂気に染まった赤い瞳を花楓に向けた。

 その瞳は優しいものであったが、心の奥に見え隠れする感情は慈愛とは違うと思った。さながら、獲物を前に舌なめずりをする、おぞましい怪物の興奮だ。


 牧村は自分の頬に付いた返り血を、指ですくって舐めた。その口の端には、人のものとは思えぬ鋭い牙がある。


「――おエ。やっぱりこの女はダメだ、不ッ味いな。生きていても何の役にも立たなかったけど、死んでも餌にすらならないなんて、本当にどうしようもない女だ」


 牧村の腕から放られた麻衣の首が、空気の抜けたサッカーボールのような音を立てて花楓の前に落ちる。思わず後ずさった花楓は、麻衣の首と視線をぶつけることになった。


 麻衣の顔は、それはひどいものだった。唐突な衝撃によって白目を剥いた眼球は、今にも零れ落ちそうなほどに飛び出しており、鼻はねじ曲がって平らになって、唇はまるで歯のように無数に縦に切れ、そこらから血液が流れ出している。

 ごぼりと音を立て、微妙に開いた口から赤い泡がアスファルトに落ちて、弾けた。


 花楓は弾けた血泡にかからないように、慌てて足を下げた。

 先ほどまで友人であったものが、瞬く間にB級スプラッタのような死体に変貌している。つい先ほどまでの姿も、つい先ほど与えられた屈辱を考えれば決して快いものではなかったが、それでも今の姿に比べればよっぽどマシだ。


 この死体は端的に――ただただ醜かった。


 そして花楓は、人は死によってここまで醜くなれることに恐怖した。いや、まだ醜悪の恐怖は始まったばかりだ。ここから腐敗が始まり、蛆が沸き、皮は崩れて内側からは肉が覗き、そしてこぼれた眼球に鴉が群れる――そんな様を不意に想像してしまった。

 想像すると同時にツンとした血の匂いが鼻腔に広がる。また、自分の腹の奥底からは別のツンとした匂いを感じた気がした。


「う……おェ――」


 自覚した瞬間、ナニカがたちまち胃からせり上がり、うめき声とも叫び声ともとれる奇声をあげて、花楓は吐いた。

 先ほどコンビニで購入した菓子を吐いた。昼に食べた母の弁当を吐いた。それでもまだ吐き足りない。もはや胃液だけになっても、花楓は吐き続けた。

 ――嫌だ。吐きながらそう思った。

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 胸にある誇りを捨ててまで生きていたくない、つい先ほどまでそう思っていたはずなのに、今では牧村に依存してでも生きていたいと願っている。

 目の前のシタイのように、醜くなんてなりたくない。


 そんな花楓の心情を察したか、麻衣の首を花楓の視界から外すように蹴りつけた牧村は、静かにしゃがみ込んで花楓に笑顔を向けた。

 血のように赤い瞳が、恐怖におびえる花楓を映している。


「安心してよ、南さん」


 この異常な状況下で笑顔を向ける牧村こそが最大の異常であったが、花楓にとって牧村の笑顔こそが唯一の日常の象徴だった。

 麻衣であったものから目をそらし、その横で花楓のように這いつくばって嘔吐する二人の姿から目をそらし、花楓は牧村の笑顔だけを見た。それ以外の総てを視界から外した。そうでなければ――正常な精神を保てなかった。


「君だけはこんな風に殺したりはしない。君は綺麗だ。だから君は、綺麗なままでいるのが正しい」


 こくこく、花楓は小刻みに首を上下に振った。

 言葉の意味はよくわからなかった。ただ肯定しておけば、麻衣のような無様を晒すことがないとだけ認識していた。


「君だけはまだ――殺さない」


 歯がかみ合わない。腕が震える。体に力が入らない。コンビニで用は足していたから、かろうじて失禁していないことだけが救いだった。


 目の前の男に嫌われてはならない。目の前の男を不快に思わせてはならない。

 仮にこの男の怒りを買ったなら――。

 花楓は麻衣の死に顔を思い出し、腹部に何かが再びこみあがるのを感じた。すぐに思い出すのを辞めて、深呼吸をした。


 その様に満足したのか、「いい子だ」と普段の甘いマスクで微笑んだ牧村は、ゆっくりと立ち上がって彩奈と薫を見た。彼女らはまだ嘔吐しており、牧村に意識を向ける余裕がないらしい。

 それでも、牧村は自分の言葉を聞いていて当たり前だとばかりに口を開いた。


「しかし許せないのは、南さんを乱暴に扱った君らだよね。まったく、一体何を考えているのかねえ。さっきだって、ぼくは南さんと話しがしたかったのに、君らはいちいち会話に割り込んでくるんだ。面倒ったらなかったよ」


 彩奈も薫も、こみあがる胃液すらもう残っておらず、胃液の代わりに身体中の空気という空気を絞り出して嗚咽している。

 反応のない二人に、牧村は甘いマスクを不快に歪めた。しかしそれでも伝えることは伝えるべきだとして、小さな舌打ちをした後に告げる。


「いいかい、このことは他言無用だよ。もし誰かに言いふらそうものなら、ぼくは君たちを殺す。君たちの家族を殺す。そして話を聞いたやつも殺す。そいつらの家族も知人も全員ぶち殺す。どう殺すかは――あの首を見ればわかるだろ?」


 しかし二人の女子高生に反応はない。二人ともまだ嗚咽を繰り返している。

 もしか、嗚咽することだけに意識を向けることで、麻衣の死を、そしてこの非日常から逃避しようとしているのかもしれない。だがそんな悲しい努力は、無為に牧村の怒りを買って自体を悪化させるだけに終わる。


「聞いているのかブス共が!」


 牧村はこれまでの甘いマスクを完全に崩壊させ、怒りで歯をむき出しにした。

 それから這いつくばる二人の少女の長い髪をひっつかみ、その顔を無理やり上げて血走った赤い瞳でにらみつけた。


「ぼくがあの女を殺したことは黙ってろ。言えば殺す。いいか!」


 言えば殺す。逆に解釈すれば、言わなければ殺されない。そう判断した二人の少女は、口から涎と胃液が混じったものを垂らし、泣きながら首を縦に振った。


「よし、よぉし、いい子だ。さあ、行っていいよ。ぼくは南さんと少し話があるからね」


 従順な二人の姿勢を見て機嫌をよくした牧村は、犬にするように二人の髪をくしゃくしゃと撫でたあと、ポンと頭を叩いた。

 そんな牧村の仕草に頭が追い付かなかったのか、二人は呆けたままだ。


「なあ、ぼくは「行け」って言ったよな?」


 そんな二人に、牧村は再び眉間に皺を寄せて不快を示す。

 これは不味いと悟ったか、二人は脱兎のごとくに逃げ出した。途中、彩奈は足をもつれさせて転んだ。しかし薫の方は普段のマイペースをどこかに吹き飛ばし、わき目もふらず、彩奈を見捨てて逃げて行った。

 残された彩奈は恐怖に染まった瞳を牧村に向ける。牧村はどうやら追う気はないらしい。彩奈への不快を舌打ちで表現する。そんな牧村の態度を見て、急がなければ殺されると悟ったのだろう。彩奈は立ち上がってその場を逃げ出し、花楓だけが残された。


「ようやく二人きりになれたね、南さん」


 こくこく、花楓はうなずいた。

 言葉にすることはできないと思った。きっと今何かを話そうとしたら、喉が震えて思うように声が出ないかもしれないからだ。もし伝えようとした言葉が伝わらずに牧村が不満を感じれば、それだけで花楓は殺される可能性がある。

 怯える花楓に、牧村は優しく告げた。


「家族のためなのかな。やっぱり君は残ってくれた、安心するよ。君は強いね。優しくて、強い」


 違う、強くなんかない。

 花楓は弱い人間だ。弱いからこそ、つい先ほどまでの強気を捨て、こうして無様に命乞いをしているのだから。


「だからぼくは、君に惚れたんだ」


 いつもの甘いマスクで微笑んだ牧村は、花楓の頬を愛しそうに撫で、その口の端から鋭い牙を覗かせた。


「ぼくにとって、君は特別だ。だから満月の日に迎えに来るよ。それまで、このことは誰に話してもいけない。もし話してしまったら――あとはわかるよね? 君の家族は……」


 諭すような声。

 脳裏に蘇るのは、麻衣の首。

 花楓は必死で首を縦に振ると、牧村は満足そうな顔をして立ち上がった。


「そろそろぼくは行くよ。君も早めにここを離れた方がいい。血の匂いは、余計なものを呼び寄せるからね」


 次に花楓が我を取り戻したのは、日が沈み、牧村はとうに去った後だった。


 転がった麻衣だったもの。それをなんとか供養してあげたいと心の片隅で思ったが、そんなことをしている余裕は花楓にはなかった。血の匂いは余計なものを呼び寄せる、そういった牧村の声が耳に残っている。

 花楓の服には、麻衣の血液がわずかだが付着している。もしかしたらこの血の匂いを嗅ぎつかれて、牧村のようなモノが自分を追ってくるかもしれない、そう思ったのだ。


 家族には危険を及ぼしたくない、家には帰れない。けれど一人は嫌だ、孤独と恐怖に押しつぶされて、今にも死んでしまいそうだ。あまりに常識離れした現実に脳がついては行けず、呆けた頭では悲しみの涙も出ない。

 花楓は一人、ふらふらと夜の帝都を歩き出した。


 一人行く当てもないままふらつく花楓は何度か男たちに声を掛けられたが、恐怖に犯された頭ではマトモな返事を返すこともままならなかった。また、服に付いた若干の返り血も功を奏したのかもしれない。おそらくは異常者、あるい障碍者だと判断されたのだろう。幸運にも、そんな花楓の相手をしようというもの好きは居なかった。

 人に合わないように路地裏を歩いた。そして人恋しくなって路地の表に出てみれば、誰もいない。必死で人を探した。

 歩いた。家には帰れない。けれど血を追って何かが来るかもしれない。それに殺されては、生きながらえた意味がない。

 歩けば歩くほど、花楓は正気を取り戻した。そして正気を取り戻すほど、あの異常な事態から都合のいい思考に逃げた。しかし服に付着した返り血か、そんな逃避を許さない。

 どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。

 逃げ道も救いもない地獄のような思考の迷路で、花楓は一つの希望を見つけた。


 それがあの黒衣の男――久世原阿久だった。


       ☆


『幕間・悪』


 あれから眠りについた少女を膝の上で寝かせた女は、その瞳から零れる涙をぬぐった。

 少女の瞳から流れる涙。それは死への恐怖によるものか。牧村という少年への恐怖によるものか。それとも――友と信じた少女との、離別の悲しみか。


「読み取れたか」


 襖が開かれ、黒衣の男が部屋に顔を覗かせた。少女が寝付いたタイミングを見計らったのだろう。

 女は視線を男から少女の寝顔に落として、その頭を優しく撫でた。


「ええ。この子、見ているわ」


「そうか。なら連れてきて正解だったな」


 少しだけ満足気な表情を見せた男に、女は疑問を覚える。

 少女の頭を撫でながら、感情のない声で問うた。


「どうして――連れてきたの?」


「使えそうだったからだ」


「使うだけなら、連れてこなくてもいいでしょう」


 女の言葉はもっともだ。

 使うだけなら――吸血鬼をおびき出すための餌にするだけなら、わざわざこの家に連れてくる必要はない。そもそも彼らの目的は人を守ることではなく、吸血鬼を見つけ出すことにあるからだ。

 下手に家に招くよりも、通常通りの行動をさせて監視した方が、よっぽど効率的だ。そちらの方が吸血鬼も油断する上に、面倒もない。餌が殺されてしまうかもしれないというリスクは高いが、それこそ男には関係のない話のはずだ。


 なのになぜ、男は面倒な方法を選ぶのか。

 女の問いに男は少し考え込むようにして、結局、何も言うことはなかった。


「前のときもそう。貴方は彼を家に招いたわ。でも、結局――」


「俺のやり方が不満か」


 男が女の言葉を遮った。

 これ以上は言われたくないという男の意思が伝わった。


「……不満はないわ。わたしは貴方に従うだけ。けれど」


 女は息を止めた。

 白い日本人形。蝋に埋め込まれた色のない黒曜石。

 だが色のないはずの黒曜石は月の光を浴びて、僅かに悲しみの青を帯びている。

 止めた呼吸を、再び始める。


「この子もきっと、貴方を恐れる。それが少しだけ、悲しい」


 男は何も答えない。

 その代わりに静かに立ち上がり、部屋を出た。

 きっと今夜も、月を見るために外へ出るのだろう。


 男の後姿を見送った女は、窓の外に浮かぶ月を見た。

 月の光が、女の黒曜の瞳をわずかに青くする。


 月は誰にでも同じ顔をする。

 女にも、膝の上で眠る少女にも。

 そして――あの男にも。


「阿久は――優しい人。だから」


 女の小さな呟きは、祈りは。

 空に浮かぶ月には届かない。


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