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悪なるミタマ 漆黒の茨  作者: 九尾
序章編
2/6

黒衣の男、血濡れの少女

10の倍数を投稿目標にしていましたが、さっそく遅れました!


次こそは! 次こそは……!


「そういえばさー、かえでって昨日のアレ見たー?」

「ん、アレってなに?」


 夕刻のことだ。

 コンビニのイートインで遅れた昼食をとっていた黒衣の男の耳に入ったのは、ダラス越しに聞こえてくる四人の少女の会話だった。

 

 少女たちの服装は制服、それも帝都第六高校のものである。

 第六高校はここらの高校では最も近い。どうやらこのコンビニは、学校帰りの学生に好まれるらしい。周囲には女子高生たち以外にも、学生服の少年少女が目に入る。


「アレだよー、アレー。なんかUMAとかのヤツー」

「あ、それアタシ見た見た! アレほんとやべえよな!」

 

 女子生徒たちの言葉使いは、男の基準からしても乱暴だった。姿を見ずとも社会からはみ出しかけたものたちなのだろうと、なんとなしに感じた。

 実際に目を向けて姿を見てみれば、髪を染めていたり、着崩した制服やきわどいスカートだったり。大きなピアスや髪留め、濃い化粧をしている者たちである。


 そんな集団の中で一人だけ、見た目や立ち振る舞いが異なる少女がいたことに、男は目を細めた。

 

 その少女だけは派手な髪色はしておらず、色素が薄い程度で済まされる髪色だ。他の皆が派手な髪飾りをつけているのに対し、この少女だけは派手さのないピンクのピンで飾っており、化粧をしている気配もない。また、声の大きさも、カバのように大口を開けて馬鹿笑いをする少女たちに比べると、随分とつつましいものである。


 一般の高校生としては普通ともいえる身なりだが、この集団の中では浮いている。

 この集団の中では最も弱い立場にあるのだろう。まるで子犬のようだった。

 子犬のような少女は氷のような冷たさを持つ風を浴び、気を引くために、可愛がられるために小さな声を上げている。


 その様はまるで、他の女子生徒たちに媚びているようで。

 生きるために、自分を押し殺しているようで。


 男には、とても不快なものだった。


 わざわざ自分から不快なものを目にして、不快に思うことはない。

 男は少女たちから意識をそらして空を見た。

 季節は冬だ。

 空にはまだ赤みが射しているだけで、星明りは一つもない。

 ――月も、まだ見えない。


「あたしは弟とみてたけど、なんか嘘っぽくなかったかな?」

「え、マジでー? あたしー、わりと宇宙人信じちゃったんだけど」


 聞きたくもないくだらない会話。

 ガラス越しとはいえ、男の視界の隅に居座り、大声で会話をしている少女たちの声が嫌でも耳に入る。空を見て不快を紛らわしていたというのに、意識が無理やり引きずられた。

 喧しく騒ぎ立てる女子高生たちに男は眉をしかめ、手に持っていた栄養調整食品を口に放り込んで咀嚼する。これで食事は終わりだ。

 吐き捨てるような嘆息を残し、この場を去ろうと足に力を込めたときだった。


「だってアレ――『吸血鬼』って番組欄に書いてあったっしょ?」


 男の足は、立ち上がることを躊躇った。

 

 男はただでさえ寄せた眉間の皺を更に寄せ、「人の噂話をバカにしてはいけないよ」との友人の一言を思い出す。

 黒衣の男にとって、人と関わることは苦手なことだった。

 だから人から直接話を聞く代わりに、せめて街行く人たちの会話くらいは耳にしてみてはどうだろうか――と、つい先ほど友人から提案されていた。


 友人の一言が、そして少女の口から飛び出した吸血鬼という言葉が、男をその場に踏みとどまらせた。


 ――吸血鬼。

 それは現在、この帝都でささやかに噂される都市伝説の一つだ。

 

 都市伝説とは、都市化の進んだ現代に口承される噂話を指す。

 口裂け女、人面犬や赤マントといった妖怪的存在から、こっくりさんやパワースポットのような宗教的な存在・場所など、人知では解明のできない現象や事象をもとに生まれる。

 だが現代において、そうそう耳にするものでもない。

 

 ここ日本では、120年ほど前に第二次世界大戦でアメリカらに敗戦して以降、文明の発達と比例して、神や超常的なものの存在は薄れていった。

 しかし不思議なことに、吸血鬼だけはその存在を消されることはなかった。


 怪異が消えた世界で、なお存在を誇示し続ける怪異。

 それは吸血鬼の存在が科学では解明されておらず、かつ多数の人々によってその存在を信じられていることを表していた。

 

 それだけに、吸血鬼という名は存外に話題に昇る。

 今では書店に行けば吸血鬼関連の書籍が最低でも一つ二つは置いてあるものだ。ときには吸血鬼関連の専門書店すら見かけることだってある。

 少女たちが言ったように、メディアに挙げられることもよくあることだ。


 だから別段、高校生の日常会話に上がってもなんら不思議はない話題だ。

 なんら不思議はない話題だが――黒衣の男は、もうしばらく少女たちの話に耳を傾けることにした。


「実はあたしも吸血鬼出てたから見たの。弟が好きそうだったし」

「あー、わかるー、あたしも吸血鬼目的ー」

「なんだ、やっぱみんな興味あるんだぁ」


 一人に同調する形でそれぞれが意見を発し、やがて満場一致の共感に得体のしれない喜びを感じた高校生たちは笑いあう。


 同調に次ぐ同調。共感に次ぐ共感。

 マジで。わかる。それな。あたしも。だよね。

 似たような言葉ばかりが飛び交う会話、下賤な笑い。

 それらをひたすら聞きしのび、男が新たな展開を待っていたときだった。


「ならさ――『吸血鬼喰い』ってどう思う?」


 不意に告げた一人の言葉に、全員の笑いは静かに止まった。

 その声を発したのは女子高生ではなく、和気あいあいと話している女子高生たちの輪に入り込んだ、一人の男子生徒だった。

 高校生にしてはすらりと高い長身に、たれ目で可愛らしい幼子のような甘いマスクをした細身の少年。一見優等生のようにも見えるため、不良と呼ばれるだろう少女たちと会話をするには、先の少女同様に違和感を覚える。


「あ、牧村くん……」


 女子生徒の誰かが、熱に充てられたような声でそう呼んだ。

 するとその熱が伝播したのか、他の女子生徒たちもまた牧村と呼ばれた少年を見て、自分の身なりを正すなどの仕草を行う。

 ただ一人――あの地味なピンをした子犬のような少女だけは、牧村の登場に一歩引いているようだったが。


「ええと、吸血鬼喰い?」


 玉虫色の髪色をした、つり眼の少女が問うた。少女たちはなかなか個性的な身なりをしているが、おそらくこの少女の自己主張が一番激しい。

 彼女はいじらしさを強調しようと、玉虫色の髪をかき回しながら、過剰に瞬きをして上目遣いをする。そうして少年――牧村の気を引こうとしているのが見え透けている。

 少女たちのグループで最も強い力を持っているのは、おそらくこの玉虫色だろう。


「そうだね」牧村は柔らかな笑みで、玉虫色の問いを肯定した。


「昨日の番組、実はぼくも見たんだよね。吸血鬼の方はいるのかもって思ったけど、そのあとでやってたモノはどうなんだろうって」


 みんなはどう思うか、と玉虫色が背後の女子たちに問いかける。

 すると、赤いメッシュを入れた金髪の少女が、真っ赤なマニキュアで染まった指を口に当て、大きな口を開けた。

 

「あたしはぁ、ちょーっと、信じちゃうかも?」

 

 赤メッシュの少女もまた、牧村の顔色を伺っている。

 口と同時に鼻の穴も大きく広がる様は、カバのようだ。


「そっか。ぼくは反対に、吸血鬼喰いはいないんじゃないかなって思ったよ」


 カバ女に、牧村は朗らかな笑顔で答えた。

 選ぶ方を間違えた、という表情で固まるカバ女。口を開閉しながらも声を出さない彼女に代わって、「マジでー」と、ナマケモノのようにのんびりとした声が、代わりに場をつないだ。

 色素の薄い白同然の髪を、派手な金色のシュシュで一つにまとめて肩に流している、のっぺりとした顔の少女だ。垂れた目元の下には、大きな泣きぼくろ。顔もどこか、ナマケモノに似ている。


「あたしもいないって思ったよー。おんなじー」


 ナマケモノは数センチほどもある長いまつ毛をぱちくりと動かし、髪色と同様に白い唇で満面の笑みを形作った。

 ナマケモノに牧村が快く笑顔を返したのを見て、カバ女は即座に口紅で真っ赤になった口を大きく広げた。鼻の穴もやはり広がった。


「あ! いや、……やっぱ居ないかも?」


「なにそれ。結局、彩奈はどっちなの?」


 責め立てるような玉虫色の声に、カバ女は委縮する。


 そうして口々に意見を告げる女子生徒たちの話は混乱していった。

 誰が会話の主導権を握るか、誰が少年と話すのか――そんな女子生徒たちの牽制によって、不意に生まれた静寂。

 

「ところで」その静寂にうまく言葉を差し込んだ者がいた。牧村だ。

 少女らの誰もが沈黙し、少年の言葉に耳を傾ける。


「南さんは――どう思う?」


 少年はこれまで一言も発さなかった一人の少女に声を掛けた。

 決して地味ではないが、他の自己主張の激しい少女たちと比べると目立たないあの子犬のような少女。――南と言うらしい。

 

 少年のたった一言で、全員の視線が南に集中する。

 ほとんどが嫌悪や苛立ちの視線だ。

 南という少女が、彼女らに好かれていないことが一目瞭然だった。


「えっと、あたしは」


 女子高生たちの眼を気にして怯える子犬のように小さくなった南は、ポツリと告げた。


「あたしは――居ると思う」


「それはどうしてかな?」


 間髪入れずに牧村の返しが入った。

 今の一言で会話が終わると思っていた南はチワワのように目を大きく開いた。

 視線を右往左往させ「あ」とか「う」とか意味を持たない声を出したあとで、ようやく一息吸って自分の意見を述べる。


「あ、いや、だってさ。もし本当に吸血鬼がいるなら、それを退治する正義の味方がいた方が……いいでしょ?」


 沈黙が訪れた。

 

 玉虫色とカバ女は蔑むような様子で南を見ているし、ナマケモノもフォローのしようがないと言った表情で首を斜め上に傾けている。話を振った牧村本人も、どう切り返していいのかわからない様子だった。


「えっと……何でもない。今のは忘れて」


 そういって南が顔を真っ赤にすると、玉虫色とカバ女が途端に吹き出した。まるで示し合わせたように、似たような姿勢で腹を抱えて笑いだす。

 ナマケモノだけは「笑ったら可哀相だよー」と言っていたが、その口元だけは笑いを隠していなかった。

 

 少女たちの眼を見ずとも声でわかる。

 牧村を除く誰もが、南のことを見下していた。

 

 言いようもない苛立ちを感じた黒衣の男は、その場を立った。


 口々に「正義の味方などありえない」と批判する玉虫色とカバ女の金切り声。

 そんな彼女らをなだめ、南という少女を気遣うそぶりを見せるナマケモノ。


 男がその場に背を向けてなお、少女たちの嗤い声が耳にまとわりついている。


 胸に渦巻く苛立ちはきっと、南を嗤う少女たちと。


「正義の味方なんぞ、いる訳がない」


 都合のいい現実ばかりを見ようとする、少女へ向けられたものだった。


 正義の味方。そんなものは存在しないと男は考える。

 この世は悪に満ちている。その事実は変わりようがなく、変えようもない。存在するものは、悪か、それを超える悪だけだ。

 仮にこの世に『正義の味方』がいるとするならば、殺人によって命を失うものは居ないだろう。仮に『英雄』などという救いの象徴があるならば、悪徳に嘆き悲しむものは居ないだろう。

 そして仮に『神』がいるならば――今ここに、自分のような人間は居ないのだ。

 この世界に救いはない。希望もない。あるのはただ、己のみ。それが男にとっての総てで、男にとっての生きる理由だ。


 彼の名は、久世原阿久(くぜはらあく)

 この世界に望まれずして生まれ落ちた、惨めで無意味な一人の男だ。


       ◇


 帝都という日本の大都市がある。


 帝都は旧東京を囲うドーナツ型の都市で、その外周は、まるで隔離されるかように巨大な壁に覆われている。帝都を周囲から孤立させるその壁は、帝都防空壁と呼ばれていた。戦争対策・テロリスト対策と称して、50年ほど前にNVCという大企業が作りあげたものである。

 風の噂では、この防空壁は核にすら耐えうる強度であるという。


 帝都には、旧東京より上部分に一から五、旧東京より下部分には六から十までの番号が割り振られており、それに呼応する巨大な防空壁と、それぞれの番号の振られた(ゲート)が存在する。

 帝都には市区町村のうち区が割り振られているのだが、区はそのまま防空壁にある門の番号を用いて呼称されていた。

 

 廃墟となった旧都市を中心として、門の番号によって割り振られた閉鎖区間。

 それはまるで――巨大な実験場ではないか。


 ――あるいは、実験場であったというべきなのかもしれないが。


 そんな帝都の地下には、壁内部の不要物を廃棄することを目的とした下水道がある。

 この下水道は、壁に囲まれた帝都の汚水のみならず、不燃の産業廃棄物や、使用不可となった医薬品などを外へ、あるいは旧東京へ押し出すという重大な役割を担っている。あまりに多くのものが廃棄されるため、下水道から有害物質が溢れるというのもよくある話だ。

 下水道はその役割の多さゆえ、帝都中の至るところに蜘蛛の巣のように張り巡らされており、また産業廃棄物も処理することから出入りも容易なものとなっている。


 人の寄り付かない帝都の下水道には、一人の男の影があった。


 肩ほどまでに伸ばした長い黒髪を揺らした、黒衣の男。

 体格はどちらかといえば痩せているように見えるが、コートの内側にある筋肉は多少なりとも鍛えてあるようである。その身長は180に近づいていおり、下水道の狭い道は窮屈そうだ。目つきは鋭く、表情も苛立っているのか決して穏やかではない。

 それは暗い下水道を照らすスマートフォンの灯りが小さく、周囲がロクに見えないからか。あるいは、下水道独特の悪臭が原因か。


「……臭ぇ」


 男――久世原阿久は吐き捨てるように言って、更に眉間に皺を寄せた。


 帝都第六区画の下水道は、五・六メートルのトンネルのような場所だ。

 ここは汚水のみを流すための下水道である。ゴミの廃棄は禁じられている区画であるため、人がかろうじて二人ほど通れる程度の道幅が左右に存在している。

 壁にはコケだかカビだかわからない薄緑の汚れがあり、トンネルの中心には汚水が大きな溝から溢れんばかりに流れている。ところどころ、その汚水は道を汚しているのが、また不快感を際立てていた。


 少女らの会話を聞くことで時間を無為にした彼は、せめて何かしらの情報を得られないものかと人気のない路地裏を歩き回っていた。

 路地裏の探索が単なる暇つぶしと言えばそれまでだし、身体を動かすための口実であったと言えなくもない。

 ただ――明確な目的はあった。

 路地裏ではあまりに目的の成果が見られなかったため、阿久は思い切って下水道へ踏み切った。そうしてここまで足を運んできた次第である。


 始めこそあまりの悪臭のため引き返そうと考えていたものだったが、下水道を進むにつれて、阿久は少しずつ興味を抱いていった。


 いくらなんでも、臭いが酷すぎる。

 ここの汚水は都市の雨水のみならず、帝都に住む人々の生活水の総てもここから流し出されている。加えて水に紛れて捨てられた小さなゴミなど余計なものまで流しているものだから、自然と嫌な臭いを発するものだ。

 しかしここの臭いは、それとは一線を架している。

 これは――そう、腐りかけた肉の臭いだ。

 

 探していたものが見つかるかもしれない。

 そう思って先に進んだ阿久が目にしたものは、まさに探していたものだった。


 それは下水の底に、隠すように沈んでいた。

 始めは大きな気泡の類だと思った。何かしらの汚れが茶色の泡となって引っかかっていることに、疑問を抱くことはなかったのだ。

 だが近づけば近づくほど、阿久は泡ではないことを理解した。

 小さなソファーほどの塊が、ダムの役割を果たして下水の水をせき止めている。

 それは汚い絵の具をぶちまけて雑に着色をした風船のようなものでもあった。


 その絵の具が布で、風船のようなものは汚水を吸って膨れ上がった肉であると気づくのに、さほど時間はかからなかった。


 阿久は目を細めて、茶色の塊を軽く蹴り転がす。

 汚水に隠れていたものは、裏返ることでその正体を顕わにした。

 

 ――両手足を縛られた、少年の死体であった。


「こいつが《ロザリオ》。なるほど――反吐が出る」


 死体は、目測で十五・六歳。身長は一七〇手前の少年のものだ。運動部であるのか、肉体はそこそこ引き締められている。足の筋肉が特に付いているところを見ると、陸上部かだったのかもしれない。服装は運動服のままだった。

 殺されたのが部活の途中だったのか、あるいは帰りだったのか。

 胸には帝都第六高校、佐藤と書いてある。

 

 水死体は皮膚や肉が水を吸ってしまうために原型を大きく変えてしまうらしい。だがこの死体は水に付けられて日が浅いのか、原型は辛うじて保っている。その臭いは、下水道の汚水と相まって、鼻を摘みたくなるほどのものだが。

 

 次に見るべきは少年の死因だ。

 両手足はテープのようなもので縛られているが、流血や怪我の跡は見当たらない。もしか服に隠れている傷があるかもしれないが、おそらく原因は別にある。

 

 溺死――否、絞殺だ。

 首飾りのロザリオ、その鎖が死体の首に食い込んでいた。


 ロザリオには一本のボールペンが引っ掛けられている。どうも、引っ掛けたボールペンをくるくると回して鎖を捻じり、ゆっくりと締め付け窒息死させたようである。

 何が楽しくてこんな異常な殺人を犯しているかは知らないが、悪趣味にも程がある。


 だが阿久にとって重要なのは、死体を見つけたという事実でも、また死体となった少年の死因でもなく、死体の首に存在している傷跡だった。

 少年の首――それも最も血液が通う頸動脈には、二つの注射痕のようなものがある。

 直接の死因は絞殺であっても、その前後に肝心な行為が行われていたのだと容易に推測できた。

 

 これで今月、阿久が首に二つの注射痕のような傷を残した死体を見つけたのは二件目だ。

 もっとも、前回発見した死体は全身の血液を抜かれて死んでいたものである。《ロザリオ》の被害者に遭遇したのは、阿久も初めての経験だ。

 友人の話では、ここ半年間で《ロザリオ》の被害は実に六件近い。

 この佐藤という少年で七件目になるのだろう。実に、月に一人のペースで《ロザリオ》は人を殺していることになる。

 

 阿久は懐中電灯代わりに扱っていたスマートフォンの電話帳を開く。そこには一件だけ電話番号が登録されているが、名前は登録されていない。

 唯一の番号を迷わずにタップし、電話を入れた。

 下水道の電波がどんなものかと思ったが、その心配は杞憂に終わる。

 数回のコールの後、電話は繋がった。


「悠斗、俺だ」


 繋がって早々、阿久はそう告げた。


『……君かい。あまり考えたくはないが、君が連絡してきたということは……そういうことなのだろうね』


 電話に出た声は若い男のものだった。

 言葉の節々に荒々しさが混じる阿久とは違い、その男の声は落ち着きを感じさせるものだ。少しばかり、早口が目立つものではあったのだが。

 今は忙しくしているのだろうか。

 そう思ったが、阿久は自分には関係のないことだと切り捨てた。


「処理班を送れ」


『やはり見つけたのか。――場所は』


 いきなりの命令口調にも、悠斗と呼ばれた男は普段通りに対応した。

 先ほどから早口であることを鑑みると、どうも急いでいる様子だ。要件だけでも早く済ませようと、阿久は必要な情報だけを告げることにする。


「場所はいつも通りGPSで拾え。死因はおそらく、ロザリオによる窒息死だ」


『またGPSかい。一応これは人権の侵害ということで犯罪に含まれるんだが……今更君に言っても同じことか』


 大きなため息の後、「それで」と悠斗は続けた。


『ロザリオ――ロザリオとボールペンかい?』


「ああ、そうだ」


 カタカタとせわしなくキーボードを叩く音と共に、呻きに近いため息が聞こえた。


『《ロザリオ》の件は了解した。至急、処理班をそちらへ向かわせるよ。ただ――君もできるだけ早く、その場を離れてくれ』


「言われなくてもそうするが」


 どうやら早くも、GPSで阿久の居場所を特定したらしい。

 だが不自然だ。早口に加えて、普段は犠牲者の連絡をしてもなんら指示をしない彼が、今回だけはこの場を離れろと指示をした。

 阿久が眉をひそめて電話を切ろうとしたときだった。


 「待ってくれ」と阿久を止める声が響いた。


 下水道ほど閉鎖された空間には、その声はやけに大きく反響した。

 こんな所に顔を出す物好きもいないだろうとは思うが、目の前に死体があるのだ。下手に声を聞かれて何者かに見つかりでもすれば、厄介なことになる。


 阿久は速足で現場を離れ始めた。

 この話を早めに切り上げようと、電話を耳に当てる。


「今度は何の用だ」


『来た道を戻るのはやめてくれ』


「なぜ」


 阿久は自分のすぐ横にある鉄の梯子を見た。地上へ続く穴には、三メートルほどの通路が確保されている。

 ここを登れば、第六区の路地裏に出られるはずだ。

 路地裏ならば人通りも少ない。逃げ道として活用するには申し分ない。


 しかし悠斗はこの梯子を用いず、死体の奥にある出口へ進めという。


『三〇〇メートルほど先に進めば、もう少し広い路地に出ることができる。それから一キロほど北に向かって、アプソンという店で衣服を着替えてほしい』


 と一息で言った後で、悠斗は付け足すように続けた。


『もちろん服は準備してある。君が好みそうなものをリストアップしたから好きなものを選んでくれ。ぼくの奢りだ』


「アプソン? 一キロ? どういうことだ」


 たしかに下水道の匂いが酷いために服を変えたいとは思うが、どうして服を変える場所とタイミングまで指示されなければならないのか。

 要求の多さに疑問をぶつけようとしたとき、悠斗が答えた。


『警察が至る所にいる。どうも君の頭上には、できたての骸があるらしい』


 ――なるほど、と頷く。

 確かに警察に捕まるのは厄介だ。

 阿久は決して万人受けする容姿をしていない。全身黒に包まれたヴィジュアル系寄りの服装。それに加えて、生まれ持った三白眼とつり眼が、人相を悪くするのにかなりの貢献をしている。

 街を歩いていて職務質問を受けたのも、一度や二度ではなかった。

 そんな男が事故現場付近にうろついていたら――それも下水道から這い上がってきたものであったら、警察だって放ってはおくまい。


「――そいつも《ロザリオ》の被害者か」


 悠斗は事件があったから警察が居ると言った。

 ではその被害は、誰によってもたらされたものか。あまりに安直な考えではあるが、阿久はつい今しがた目にした死体を彷彿とさせた。


『確証はないが、おそらくは違うだろう』


「理由は」


『《ロザリオ》の被害者は、すでに君が見つけているからだ。これまでの《ロザリオ》のペースを考えると、可能性はかなり低い。それに《ロザリオ》は、吸い殻を下水に捨てる傾向があり……いや、そんなことは今はどうでもいい』


「どうでもよくはないだろう」


 現状、《ロザリオ》は一か月に一人を殺している。すべて同じ手口――両手足を縛り、ロザリオの首飾りにボールペンを引っ掛けて回し、じっくりと絞め殺すものだ。死体は必ず下水道に捨てられている。

 もし《ロザリオ》がこれまで守ってきたルールを自ら破り、この前提条件が覆ろうとしているのなら、それは由々しき事態だ。

 《ロザリオ》は自制が効かない状態になっている可能性が高い。


 自制が効かなくなった《ロザリオ》は、より多くの人を殺すだろう。

 その被害者は――月に一人や二人では済むまい。


 だがそれを、悠斗は再びどうでもいいことなのだと切り捨てる。


『言ったはずだ、警察が真上にいる。事件は起きたばかりのようだから、下水道を捜索しないとも限らない。……加害者のことなどは、後で調べればいい』


「後? 近くにロザリオがいるかもしれないのにか?」


『そうだとも。今はなにより、君が捕まらないことの方が大事だ』


 殺人犯を見つけることよりも、阿久が警察に捕まらないかどうかが、悠斗にとっては心配すべきことらしい。

 普段はあっけらかんとしているくせに、一度でも誰かの心配を始めると、悠斗のそれはもう止まらない。絶対の意思をもって対象を危険から切り離そうとする。

 悪い癖だと阿久は思う。

 少なくとも、久世原阿久という男に、氷川悠斗という男が心配をする価値はない。


「警察なんぞ、どうとでもなるだろうが。仮に俺が捕まったとして、それこそ後でお前が釈放すればいい」


『いいや、ダメだ。これまでのことから、君が無実の一般人を装うには姿が目撃されすぎている。日本の警察だって無能じゃない。仮に君の正体がバレようものなら、教会からも狙われるかもしれないんだぞ』


「……ああ、そうかよ」

 

 これはもうどうしようもない。ここで我を通して悠斗との関係を悪くするのも不本意だ。阿久は大人しく悠斗の指示に従うことにした。

 舌打ちをして、水死体の奥へ向かうために歩きだす。

 たしか三〇〇メートルとか言っていたか。急げば三分程度で出口へたどり着くだろう。


 ダムの役割を果たす水死体を流し目に横切って、阿久は悠斗に問いかける。

 

「こっちで大丈夫なんだろうな」


『ああ、問題ない――少し(まず)いな。第六区画で『施錠令』が発令された』


 悠斗が忌々しげに告げると同時だった。

 びび、と大きな警報を鳴らし、阿久のスマートフォンが大きく震えた。

 まるで地震速報のようにも思えるが、実態は異なる。


「おいおい、冗談じゃねえ」


 その警報は『施錠令』の発令を知らせるものだった。


 施錠令とは、日本において帝都のみに存在する法令の一つである。

 この法令の目的はただ一つ――一般市民の安全確保だ。


 施錠令が発令されると、一般市民は十分以内に近くにある施設に入り、その姿を隠さなければならないという義務が発生する。こうして外をうろつき回っているところが目撃されようものなら、まず間違いなく危険人物として断定され、警察の厄介になるだろう。


 早々にこの場を切り上げた方がいい。

 そう判断した阿久がさらに足を速めたときだった。


「こちら第七部隊、第六区画の下水道にて捜索を開始します」


 背後から聞こえる声に、阿久は思わず足を止めた。

 それは偶然か必然か、先ほど阿久が登ろうとしていた梯子の方だった。


 振り返り、声の発生源に目をやった。

 先ほど悠斗に依頼した処理班が早くもやってきたのだろうか。それならばいい、逃げずにいても無問題だ。だが警察であったなら――。


「……下水道北西方向に、人影らしきものを発見。確保します」


 阿久の眼に映ったのは、見慣れた全身白衣の男たちではなかった。懐中電灯の光をちらつかせながら梯子を下り、溝の横道に着地した三人の男たち。それが阿久の方向にライトを照らし、視線を向けた。

 紺色の制服に身を包んだ彼らは、下水道の汚染物質対策で鼻口を囲う程度のガスマスクをつけている。そのため普段の身なりとは若干異なっているが、間違いはない。


 ――警察だ。

 

 それも特殊部隊なのだろうか、拳銃ではなく大きなライフルを抱え、上半身には防弾チョッキのようなものを身に着けている。

 彼らの視線が、懐中電灯の光と共に阿久に向けられた。


 まばゆい光に阿久が目を細めたとき、警察は下水道の水を溢れさせる異物を発見する。

 

「なんだこれは。……人?」

 

 警官たちが目に留めたのは、《ロザリオ》の被害者だ。


 殺人現場のすぐ下にある下水道に転がる死体。下水道を歩く不審者。

 暗闇で未知の犯人を追う警官たちが、この状況下で行き着く結論は一つ。


 ――この死体、そして地上にて発生した殺人事件の犯人は、目の前の不審者だ。


「両手を挙げろ!」

「おい、そこのお前だ!」

「止まれ! 止まらなければ撃つぞ!」


 ジャキ、と音がした。

 拳銃の安全装置が解除されたのだろう。


「どのみち撃つつもりだろうに、よく言うぜ」


 これはいよいよ拙い。最悪の事態だ。

 警官たちの横暴な物言いを無視し、阿久は再び早歩きを開始した。

 右手には未だスマートフォンが握られている。そこから悠斗の「見つかったのか」という、喉から絞りしたような声が聞こえたが、無視をした。


「止まれというのが聞こえないのか!」

「そこのお前! 待て! 待てと言っているんだ!」

「――下水道にて不審者を発見。増援をお願いします」


 阿久はもちろん、警官の呼びかけに答えず背を向ける。

 だがその中で、この場を切り抜けるヒントを見つけた。


 警官たちは言った。

 止まれ。『そこのお前』。――『不審者』。

 

 そこの『男』とは、誰一人として言っていない。

 

 これまでの生涯、阿久は女と間違われることなど一度もなかった。しかしここは光の届かぬ下水道。たかが三本の懐中電灯の光では、体格や顔つきだけで性別の判断ができないようだ。

 体格を悟らせない大きなコート、そして肩ほどもある長い髪が、どうやら性別を誤魔化してくれているらしい。

 

 であれば、やりようはある。

 

 阿久は右手を左胸に当てた。

 そこに己の心臓の鼓動はない。生を刻む時計の音を感じない。

 ただ、言葉にできぬ空虚があるだけだ。

 だが。


「――撒け」


 阿久の小さな呟きは、闇に溶け。

 阿久の左胸に、ドクンと、鼓動が生まれた気がした。


「――右、右だ! 逃がすな!」

「いつの間に移動した! 反対側に居るぞ!」

「至急通達する。不審者は黒衣の女だ。再度通達する、黒衣の『女』――」


 そう叫んで警官たちが向かったのは、阿久とはまるで反対の方向だ。


 彼らは下水道の闇の中、何を見て、何を追っているのか。

 それはおそらく、阿久にしかわからない。


「もういい、結果は上々だ」


 背後で警察の足音が遠のくのを聞きながら、黒衣の男は口を三日月に歪めた。

 その胸にはもう――心臓の鼓動はない。


       ◇


「誰だよ、警察に下水道も探索するよう指示した馬鹿は。さすがに焦った」


 下水道を切り抜けたあと、アプソンという衣服店で服を変えた阿久は、冗談交じりにそう言った。

 すると、電話の先にいる男は予想外に重苦しい雰囲気を醸し出して告白した。


『……すまない、ぼくだ』


「はあ? なにがだ」


『ぼくが、警察に下水道も探索しろと指示をした』


「……なぜだ」


『ぼくたちが追っているモノは日の光を好まない。そもそも施錠令が彼らに対抗するための手段の一つなのだから、探せる場所は探すべきだと……ぼくがそう提案したんだ。……すまない、今回はそれが裏目に出てしまった』


「まあいい。次からそういうことは先に言え」


 ここで悠斗を追及したところで仕方がない。

 阿久と悠斗が追っているモノは、彼の言うように日の光を嫌い、暗闇を好むものが多い。警察の目的が一般市民を守ることであるなら、彼の指示が警察の助けになることは間違いないだろう。

 もっとも。


「――警察がどうにかできるとは、思わねえがな」


 小さく嘆息した阿久は、施錠令の解除されていない夜の街に足を踏み出した。


 施錠令はまだ解除されていない。

 アプソンとかいう衣服店の店員は、外に出るという阿久を「危険だから」と止めようとした。しかし一睨みをくれてやると、すぐに引き下がった。

 もとより阿久のような男を助ける義務も義理も店員にはない。もし下手に止めようとして暴力などを振るわれようものなら、その親切は割りに合わない。

 店員は正しい判断をしたと言えるだろう。

 

 誰もいない夜の帝都を一人歩く阿久に、「ところで」と悠斗の声がかかる。


『ロザリオの件なのだが』


「なるべく音は立てたくない。早く済ませろ」


『……君、まだ施錠令は解除されていないぞ』


 阿久が外を歩いていることを察したのだろう。悠斗はいさめるように言った。


「何度も言わせるな。引きこもるだけ時間の無駄だ」


 施錠令。一般的に考えて、悪くない法だとは思う。

 だが阿久には不要だ。

 殺人犯を恐れて家に籠るなど、時間の無駄に他ならない。

 仮にその殺人犯が――人にあらずとも。


 大きく嘆息した悠斗は、「ロザリオの件だ」と話を続けた。

 施錠令を布かれた街を歩くな、と警告するのは諦めたらしい。


『こちらで教会のデータと照らし合わせてみたのだけれどね、ロザリオにボールペンをひっかけ、絞殺するという悪辣な手口を行うのは一人しか該当しない。もっとも、他に何人も存在するとは考えたくはないけれどね。……しかし困った。これが事実だとすると、なかなかに厄介な事案だったよ』


「勿体ぶるな」


『――彼らは《第九真祖》の被害者である可能性が極めて高い』


「第九か」


 悠斗の位置特定の連絡を受け、そして一つの事実を告げられた。

 第九――それが意味するものが何なのかを阿久は知っている。

 さほど動揺することもなかったことに、逆に悠斗が驚いていた。


『ところでこれは推論なのだがね。第九と言えば妊娠女性を狙った《赤子喰い》で有名だったらしいけどね、今では若い男性を狙った《ロザリオ》ばかりが増えて、《赤子喰い》は姿を消している。これは第九は世代が変わったことを意味しているのではないかな』


「世代の交代? 何の話をしている」


『第九の下で、《ロザリオ》と全く同じ手口を行う血族がいたそうだ。二年ほど前から第九の《赤子喰い》は身を潜め、逆に《ロザリオ》の方は件数が増えている。これが意味することは第九の交代だと――ぼくはそう考えた』


 なるほど、その理屈は理解できる。

 仮に第九が居なくなったとすれば、第九の部下が表に出てくることも納得だ。

 上司がいなくなれば調子づく人間というのは、どこにでもいる。


『もっとも、第九は神出鬼没で有名だ。一年間どこにも姿を現さないという事例がある。さすがに二年もの間、姿を隠すということはこれまでなかったそうだけどね。だからあくまでも僕の推測だ。参考程度にとどめておいてくれ。……また何かわかったら連絡する』


「その時は頼む」


 そう言って阿久は今度こそ電話を切った。


 空を見上げる。

 空に浮かぶは子望月。

 金色の光が阿久を照らしている。

 空の上から、誰もを同じ顔で見つめている。


 満月の日は――近い。


       ◇


 十八時頃に発令された施錠令は、二十時を回っても解除されることはなかった。

 これは早めに店を出て正解だったな、と思いながら阿久が帰路を進んでいたときだった。


「助けて!」


 何者かがすぐ横の路地裏から飛び出し、阿久に縋りついてきた。

 一人の少女だ。セミロングの髪にはピンクのピンを一つだけつけている。

 その顔には、どこかで見覚えがあるような気がした。


「お願い、助けて!」


 黙り込む阿久に、少女はもう一度助けを求めた。

 その必死の形相が、見知った顔とあまりに異なっていたから気づくことができなかったらしい。この少女は、夕方にコンビニで見かけた子犬のような少女だ。

 確か――南だったか。


「助けて! 追われてるの!」


 阿久に声が届いていないとでも思ったのか、三度目の助けを求められた。

 しかし助けを求められても困る。

 阿久は施錠令によって時間を無駄にするのが気に入らないから、わざわざ危険な夜の帝都を歩いているのだ。どうしてこんな少女を助ける理由がある。


「他の誰かに頼め」


 阿久は正面に立った少女を横に退けたが、少女は阿久の服に縋りついて阿久を止める。


「誰もいないから貴方に頼んでるの!」


 施錠令が布かれているから当たり前だ。むしろ人がいる状況こそが異常な事態だ。施錠令が布かれた夜の帝都で一人歩く男に助けを求めるあたり、そこらの判断がしっかりとできていないのだろう。


 この少女は施錠令が布かれていることも知らずに走り回っていた。となれば、少女を追っているのは警察かもしれない。ただ助けてほしいというだけでも面倒だというのに、警察まで引き連れているとなれば余計に面倒だ。


 そもそも、助けろと言われても何から助けてほしいのかわからない。

 胸倉を掴み、路上に放り投げようとした時だった。

 少女の制服の隅に汚れが見えた。

 赤い汚れ。赤い染み。――返り血。


「……なんだ。怒りに任せて人でも殺したのか」


 一般の少女が、やたらと自分のような男に助けを求めるなどおかしいと思っていたのだ。

 常人が見かければ、まず近づきたくない容姿をしている自覚がある阿久にとって、自分に近づいてくる人間はロクでもないものばかりだと認識している。

 しかしこの少女は良くも悪くも普通の少女だ。ロクでもない部分が見当たらず、逆に怪しく見えていたのだが――人を殺しているなら、話は別だ。


 先ほど目にした時には、子犬のように震えているだけの印象を受けたものだ。しかし返り血を浴びて一人でいるところを見ると、もしか、あの女友達を殺してきたのだろうか。


 だとすれば、今、布かれている施錠令は――。


「ち、違う!」


 そんな阿久の想像は、中途で少女に止められた。

 阿久は怪訝な顔をして少女の眼を見る。その眼には、純粋な怯えがあった。

 人を殺めた怯えでも、強者に立ち向かって無駄に終わった結果の怯えでもない。そこにあるのは、純粋な他者への怯え。弱者の恐怖だ。


 阿久は僅かな高揚が一瞬のうちに落胆に変わるのを感じた。

 やはり弱者は弱者。強いものに巻かれるだけのもの。

 この少女も同じだ。自分がいい餌になると知っていて、首を差し出しているのだ。


「退け。邪魔だ」


 少女を突き飛ばして阿久は先へ進む。

 人を殺したわけではないなら、阿久ではなく警官にでも助けを求めればいいのだ。交番など帝都にはそこらにある。もっとも施錠令が解除されていない状態だ。交番勤務の警官も、今は現場に駆り出されているかもしれないが。


 気持ちを切り替えて足を踏み出す阿久。

 しばらくはなんの疑問もなく歩いていたが、背後に足音を聞いて立ち止まる。


 誰かが息を呑んだ。


「なんだお前」


 振り向くと、あの少女が捨てられた子犬のように付いてきている。小さな身体を震わせて、阿久の眼を見つめた。

 縋るような眼。誰かが助けてくれる――そんな期待を抱いた眼だ。

 

 阿久はそんな姿勢が気に食わない。

 どうして頼る。どうして縋る。一度でも突き放されただろう。それでも助けてもらえるなどと思うのは、愚者の思考だ。

 甘ったれた少女の考えを改めさせようと、心に深い傷でも刻み込んでやろうかと考えたときだった。


「……ちは、だめ」


「は?」


 聞き取れないような声で少女が言った。


「そっちは、だめなの! 危ないの!」


 今度は大きな声だった。

 少女は両手を強く握って震えているが、眼だけは揺るがなかった。阿久の眼をしっかりと見つめている。

 強く睨んでやったが、少女が怯むことはなかった。

 怯むことはなかったが――その眼からは確かな恐怖が伝わった。だがその恐怖は、阿久に向けたものではない。


「……お前、何を怖がってる?」


 問いに少女は答えない。

 唇を固く閉ざし、じっとアスファルトを見つめたあと、ふるふると首を横に振った。


「この先は、行っちゃだめ」


 何度か問いかけるが、少女は頑として口を割らない。ただ執拗に、阿久に先へ行くなと言うばかりだ。

 

 阿久が向かっているのは自分の家だ。今日の仕事は終わったのだから、他の誰にも帰宅を邪魔される筋合いはない。まして初対面の少女に警告されたからと、家に帰ることを辞めるつもりはさらさらない。


 少女を無視して阿久は歩き出す。

 そっちは行っちゃいけない。何度も少女は警告し、しまいには阿久の腕にしがみついてまで止めようとしてきた。


「何がしたいんだ、お前は」


 この少女は何度振り払っても付いてくる。

 阿久が振り払うたびに少女は転び、怪我をした。

 それでもしがみつき、阿久を止めようと行動する。

 喋れないわけでもないだろうに、聞いても答えない。ひたすら阿久の帰宅ばかり邪魔をする。行動の理由がわからないうえに、どうしてここまでするのかも不明だ。

 あのアプソンの店員のように、こんな男は適当に見限っておけばいいのだ。

 

 何がしたいのかわからない。

 わからないまま、阿久は少女を引きずりながら歩いた。

 

 そうこうしているうちに、施錠令が解除された。

 帝都の街には人の姿がちらほらと現れ、ものの数分で人だかりができた。施錠令によって外に出られなかったものたちが、一斉に帰宅を開始するのだ。狭くはない道幅も、人が溢れるほど、ごったがえしている。

 

 それでも、少女は阿久の腕から離れなかった。

 そっちには行かないで。そればかりを繰り返していた。

 

       ◇


「……お前が隠していたのはアレか」


 人混みを切り開くようにして押しのけ、車道に出た阿久。

 その目の前には、人の群れがあった。

 その群れを御するように警官たちが路地裏を黄色いテープで閉鎖し、何かを隠蔽している。

 場所は先ほど阿久が死体を見つけた下水道の上あたりだ。近くには下水道の入口があることだろう。

 あの路地裏にあるもの。殺人現場。

 おそらく警察出動の原因であり、施錠令の原因。

 そして――少女が何度も阿久を止めた理由だ。

 

「――」


 阿久の腕を引く少女の腕から、力が抜けるのがわかった。

 これまで阿久の徒歩を妨害してきた力はどこへ行ったのか。少女は阿久の横にしゃがみ込み、身体を強く抱きしめて震え出した。


「お前、何かを知ってるな」


 びくり、と少女がひときわ大きく跳ねた。

 しかしすぐに首を左右に振り、否定を示した。


 阿久は少女に頭の位置を合わせるようにしゃがみ込み、静かに告げた。


「知ってることがあるなら言え」


 少女は口を堅く閉ざして泣きそうな顔をしている。顔面を蒼白にして、額から汗を流し、どうしようもない恐怖に耐えている。それでも――何も話そうとしない。話せば楽になるはずだ。不幸も、恐怖も、口に出せば緩和されるものだ。しかし少女が口を開くことはない。

 両手を使ってまで口を閉じるその少女から、阿久は固い決意を感じた。


 ただ震えているだけではない。

 この少女は、自分にとって大切なもののために恐怖と戦っている。

 阿久を巻き込むまいという、正義のためか。

 己の身を守るための、自衛のためか。

 それはわからない。わからないし、どうでもいい。

 ただ一つ、少女は己の意思を貫こうとしている。阿久にとって、少女に好感を抱くのはそれだけの理由だった。


「気が変わった。お前を助けてやる」


 少女は首を横に振った。


「やっぱり、いい」


 震える声を絞り出し、少女は立ち上がった。

 足はガタガタと震えている。生まれたてのキリンのようだ。倒れそうになる少女の身体を、阿久が支えた。


「だったらどうする。一人で恐怖に震えているか?」


「それは……」


 阿久は支えた少女の肩を支えて、身体をわずかに持ち上げた。

 少女の視線があの事故現場へ向けられるよう、意図的に位置を調整した。

 少女の顔がこわばった。阿久のコートが、より強く掴まれる。


「――お前は、俺をここに連れてきたくなかったんだろう。あれだけ雑に扱ったのに、見ず知らずの男を助けようとするとは優しいもんだ」


 嘘だ。欠片も思っていない。

 こういうときのコツは、ノーと言わせず、イエスと言わせることだ。否定を重ねさせれば、肯定してもいいことでも否定してしまうのが人間。反対に、肯定ばかりを続けていれば、否定すべきときにも肯定してしまうのが人間。そういうものらしい。

 だから今は、肯定させる。そのために拾えるものは総て拾う。


「怖いんだろう」


 震えながら、少女は小さく頷いた。


「あそこで、恐ろしいことが起きたんだよな」


 小さく頷く。


「だからお前は、俺を助けようとした。ここに来ないようにしたんだ」


 小さく頷く。

 先ほどよりも、頷くまでの時間が短かった。

 だが結果は上々だ。いくらか推測の部分もあったが、問題はない。


「何か知ってるんだろ。でも、何も言えない」


 一度小さく頷いて、それから何度か頷いた。


「言えないのが、もどかしい」


 ――大きく一度、頷く。


 少しずつ、頷く感覚が短くなってきた。


 阿久が問いかけているのは、何も特別なことではない。これまでの少女の行動、言葉から推測できることを、淡々と疑問にして述べているだけに過ぎない。

 それでも少女は不思議に思うことなく、二択の問題で肯定を続けていた。

 そろそろいいだろう。次の問いを最後にする。


「――助けてほしいんだろう? お前が俺に、そう言った」


 首を縦に振ろうとして――少女は躊躇った。

 肯定することはしなかった。代わりに否定もしなかった。


「なあ、昨日テレビで見たんだが、帝都には吸血鬼ってのが居るらしい」


 これも嘘だ。阿久の家にテレビなど置いていない。

 だが鎌をかけて正解だった。

 少女は一層身体を小さく丸め、両手で耳を覆った。呼吸は激しく乱れ、胸が大きく上下する。目眩がするのか、阿久に寄りかかってきた。


 少女を包み込むように、阿久は抱きかかえてやる。

 そして耳を封じるその手を退かし――耳元で告げた。


「見たんだな」


 少女はこれまでにないほど激しく首を横に振った。

 知らないという態度ではなく、知られてはならないという態度だ。

 これ以上詮索されてはいけないと考えたのか、少女が阿久の腕を懸命に振りほどこうとした。阿久があまり力を入れていなかったから、少女の腕である程度は簡単にほどけたのが幸いしたのだろう。声を出されなかったのは僥倖だった。

 近くには人だかり、そして警察がいる。あまり時間はかけられない。

 

 阿久は、そっと少女に耳打ちした。


「俺には、ソレと戦うための力がある。だが他のやつらではダメだ。警察でも奴らは手に負えない」


 ――ドクン。

 少女の心臓が跳ねた。

 強く跳ねた心臓とは対照に、少女はゆっくりと顔を上げて阿久を見た。

 その瞳に怯えはなく、恐怖もない。

 ただ一つ、一縷の希望だけがある。

 

「俺と来い。命が惜しければな」


 少女の口から答えはすぐにはでなかった。

 だが、少女の瞳が迷うこともなかった。

 一縷の希望を見つけ、その希望に縋ったまま動かない。――動けない。

 助けを請うべきか否か、頭では必死で悩んでいるつもりなのだろうが、その眼はすでに答えを出している。

 

 結局は我が身可愛さに怠惰へ堕ちる。そしてこの少女は、道具となるのだ。

 阿久はこみ上げる笑いに口元を歪ませた。


「もう一度聞く。――俺と来るか」

 

 少女はしばらく考えたのち、小さく、だがしっかりと頷いた。



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