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作者: 短小マン

 風邪を引いた。

 起きると喉がいがらっぽく、埃を吸い込んだみたいに咳が止まらない。頭もボーっとしているし、鼻から鼻水も垂れてくる。熱は三十七度七分、少し熱が出ているようだ。

 だから、今日は休んで医者へ行く。

「しかし、貴女が風邪を引くなんて、本当に久しぶりですね」

「そうだね。たぶん、子どもの頃以来だ」

「それにお医者にかかるのも」

「そうだね。それも、子どもの頃以来だ」

 一度だけ、僕は医者に掛かったことがある。風邪をこじらせて肺炎になって、病院に担ぎ込まれた。その時は本当に大変だった。一週間ぐらい病院で、白い天井を眺めていた。

「弥郡先生のお世話になりますね」

「弥郡先生?」

「あの時の先生の名前ですよ」

「お医者先生って、そんな名前だったっけ」

「そんな名前だったのです」

 この村には病院が一つしかない。弥郡診療所という開業医が、村唯一の医療機関だ。だから、身体の調子が悪いと村人はみんなそこへ行く。

 風邪を引いた僕も例外ではない。

「行ってきます」と僕は弥郡診療所に向かう。

 燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びながら、診療所までの道を進む。途中で出会うのは、普段顔を合わせない村人達だ。買い物に行く主婦、何の仕事をしているのか分からない若者、暇そうな老人、彼らは異物を見るように、僕を見る。

 普段の僕は、太陽が昇るよりも早く出て、電車で村から離れてしまう。この時間帯の村人と顔を合わせる事はない。だから、彼らは僕が珍しいのだろう。

 この村には何もない。観光資源は古い神社と、少し珍しい茄子がとれるくらいだ。外から人が来ることはなく、流れのない川のように淀んでいる。

 だから、この村は少し息苦しい。

 それに熱が上がってきたみたいだ。

 暑さと風邪のだるさと息苦しさ、少しだけ気が遠くなってきた。僕は歩を早める。

 早く医者に行こう。

 弥郡先生に見てもらおう。

 あの、お医者先生はとても良い先生だから。


 子どもの頃、風邪をこじらせて肺炎になったとき、弥郡先生のお世話になった。入院しているとき、毎日のように、先生と顔を合わせた。

 さんざんお世話になっておきながら、僕は先生の名前を知らなかった。子どもだった僕には『弥郡』という名字が読めなかったからだ。見舞いに来る両親や、診療所で働いている看護婦も、先生の事を名前で呼ばなかった。

 だから、僕は先生を『お医者先生』と呼んだ。

 お医者先生は、とても楽しい先生だった。開業して、ちょうど一年目。この村に診療所を開いたのは、それまで無医村だったからだと言っていた。

 航空機が大好きで、診察室に飛行機の写真や模型を飾っていた。そうしたものに興味を示した僕に、おもちゃの飛行機を貸してくれた。

「いいか。これはあくまで、友人として貸すだけだからな?」

 そんな事を言いながら、入院生活に暇を持てあましていた僕に、飛行機の玩具を与えてくれた。その飛行機を、僕は異様に気に入ってしまい、結局、プレゼントという形で貰う事になった。

「いいか、できるだけここに来るんじゃないぞ」

 退院するとき、先生はそう言って僕の頭を撫でた。僕は、その言葉を守って、ここ十年、病気知らずで通してきた。

 けど、十年目にして風邪を引いてしまった。ちょうど季節の変わり目の上に、睡眠時間を削っていた。過労と寒暖の差のシナジーで、見事にやられてしまった。

 結果、僕は十年ぶりに、お医者先生と再会する事になった。

「ここ、だっけ」

 十年ぶりの診療所は、随分と印象が変わっていた。

 記憶よりずっと薄汚れている。十年前は真っ白だった壁は、汚れて灰色になっている。入り口には汚いゴミが落ちている。綺麗だった駐車場は雑草が生え放題だ。

「……掃除する人がいないのか」

 しばらくの間、僕は外で立ち尽くしていた。

 快活なお医者先生と、薄汚い診療所がまるで重ならなかった。だが、よくよく考えてみれば、あれから十年も経っている。新築だった建物も十年も経てば、古びてしまう。

 しかたないよ、と呟きながら診療所に入った。

 だが、中はもっと悲惨だった。待合室のスプリングは全て飛び出していた。窓ガラスは全て壊されていて、蛍光灯は全て割られていた。壁は汚れて、スプレーで落書きされているし、床は妙に粘ついている。診療所は廃墟のようだった。

 待合室にいる患者達は酷く病んでいた。全身が溶けてしまっている男や、分厚い眼鏡を掛けた眼球がない女の子、首を切断された男の子。お腹の破れた妊婦。誰も彼も、明らかな致命傷を負っている。

 場違いなところに来てしまった。これはたかが風邪で、来るべき場所ではなった。そう思ったが、遅かった。受付に座っている、顔のない看護婦が僕を手招きしているからだ。

 帰る機会は失われた。言われるままに診察券と保険証を手渡して、僕は待合室の隅に立つ。妙に寒気がするのは、風邪が悪化したからだろうか。僕は自分の身体を抱いた。

「――さん」

 ぼうっとしていると、呼ばれていた。僕は慌てて「はい」と言う。周りを見ると、他の患者はそのままだ。

「あの、他の患者さんより先ですか?」

「早く診察室に入ってください」

 看護婦は僕の質問には答えずに、診察室へと促した。


「なんだ。久しぶりだなぁ」

 先生は、僕の事を覚えていてくれた。

「十年も無病息災か、全く、医者泣かせな身体をしているじゃないか」と僕の事を褒めてくれた。昔のままの、気持ちのいい先生だ。相変わらずの手際の良さで、雑談を交えながら、僕を診察する。

「あー、風邪だな。喉がけっこう腫れている。ちゃんとうがい手洗いしているか?」

 先生は昔のままだった。

 少し顔色が悪くて、壁に埋まっている事を除けば、昔と何も変わりない。壁には飛行機のポスターが貼ってあるし、戦闘機の模型も置いてある。もっとも、先生が埋まっているのはそのポスターの下なので、ちょっと抱腹絶倒な姿になっているのが偶に傷だ。

「その模型って、スーパーホーネットだったんですね」

「ほぅ。分かるか」

「それなりに。先生のお陰ですよ」

 子どもの頃は、ただ格好良いだけの飛行機だった。けど、先生に玩具を貰ったことが切っ掛けで、僕は航空機が好きになった。だから、先生が卓上に飾っている模型がF/A-18Eであるぐらいは、何とかわかる。

「そうか。じゃあ、俺達は同好の士だな」

「そうなります」

「なら、持っていけよ。これはF/A-18Eの決定版、いいものだ」

 そう言って、先生は僕に模型を手渡した。僕が戸惑っていると「形見分けだ」と押し付けてくる。

「なにを言っているんですか。先生はまだまだ若いですよ」

 そう言うと、先生は困ったように笑いながら、

「そんな事よりも、お前はもうここに来るんじゃないぞ」

 そう言って、僕の頭を撫でてくれた。


 気が付くと、僕は家のベッドで眠っていた。

 枕元には薬局で貰ってきた処方薬と、先生から貰ったスーパーホーネットがある。喉が渇いたので、水飲みに向かうと、途中で姉と遭遇した。

「……帰ってたんだ」

「はい、もう七時ですから」

 気が付けば、外は真っ暗になっていた。先生の所に行ったのが朝方だから、かなり長い時間、寝ていたようだ。

「食欲はありますか?」

「少しなら」

「じゃあ、お粥さん作りますね」

 姉と一緒に食事をする。

 その時の話題は、当然、弥郡先生の話だ。十年ぶりに先生に会った。僕の事を覚えていてくれた。その上、大切な模型まで貰ってしまった。そういう話をした。

「そうですか。それでは後日、お礼に行かないといけませんね」

「そうだね。何かお礼をしないとね」

 僕は、姉に心から同意した。

 先生に喜んで貰えるお土産を持って、土曜日の午後にでも尋ねてみよう。そんな事を計画した。二人で帰りに待ち合わせて、美味しそうな和菓子を買った。

「できれば、羊羹が良かったんだけどね」

「羊羹、とらやのですか?」

「違うよ。空自のパイロットが食べる携帯食に、特別な羊羹があるんだ。井村屋が作ってるやつ。この間、航空祭で見かけたから、買っておけば喜んでくれたのに」

 お土産を持って、二人で診療所に行った。

 そして、僕らは廃病院の前で立ち尽くした。

 近所のご老人に聞いてみると、弥郡先生は二年前に行方知れずになっていたという事だ。そんなこと、僕ら姉妹は知らなかった。両親が亡くなってから、僕らは村の人達との接点が薄くなった。だから、こうしたことも伝わって来なかったのだろう。

「所詮は余所者だったからなぁ、この村が嫌になってどっかに行ったんだろうさ」悪気なく、ご老人はそう言った。

 先生には家族はおらず、親族が現れる事もなかった。だから診療所は、廃墟として放置されている。

「……だったら、貴方を診察してくれたのは誰なんでしょうか」

「それは、先生だったんじゃないかな」

「いなくなった先生が?」

 姉の問いかけに僕は首を振った。

 僕は廃墟となった診療所に入る。中は長椅子のスプリングは飛び出しているし、蛍光灯は全て割られている。壁は酷く汚れていて、変な落書きがされている上に、床は何やらべとついている。

「だ、駄目ですよ。勝手に入ったら!」

 後ろで姉が声を上げる。

 けれど、今はそれどころじゃない。

 診察室のドアを開ける。中は、待合室と同じように荒れ果てているけれど、航空機のポスターは昔と同じように貼ってある。

 それを剥がす。

 下には異様に綺麗な壁があり、転がっていた丸椅子を使って、その壁を壊してみると、中から骸骨が転がり出てきた。

「先生は、勝手にどこかに行ったりしなかったんだよ。ずっとここに居たんだ」

 どういう経緯で先生が、壁に埋め込まれることになったのか僕には分からない。けど、そうなっても先生は、医者としての本分を忘れなかった。

 この病院で、熱に魘された僕が見た患者達は、きっと先生に治療をして貰いに来た、死者達だったのだろう。死者となった先生は、死者の治療をしていたのだ。

 そこに風邪で頭がおかしくなって、生者と死者の区別も付かなくなった僕が迷い込んだ。先生は、そんな僕を放っておけず、治療してくれたのだ。

「ありがとうございます」

 僕は先生にお礼を言う。

 先生は何も言わなかった。


 その後、警察が来て、色々と面倒臭いやり取りの後に、先生は村の共同墓地に入った。僕ら姉妹は警察に事情聴取をされたけれど、それ以上の事は何もなかった。診療所は取り壊されて、村の土地になった。

 結局、先生が壁に埋め込まれた経緯が判明する事はなく、今でも僕の机の上には、F/A-18E スーパーホーネットが載っかっている。

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