◆第52話 森の中の結界
アステリア大陸には年度という概念がなく、またその季節めぐりは地球の北半球と似ているものの、1年は春で始まり、冬で終わる。年が開けておよそひと月の今は、無論春だ。
しかし、藤子たち3人が今走っている森はうっそうと生い茂った木々で日の光の多くが遮られており、かなり気温は低い。風が木々で遮られている分、体感温度との差はないだろうが、走っているので風は受けているのも同然である。
藤子は数日前、見事に己の魔法を使って見せた弟子、ライラに合格を言い渡し、彼女の家庭教師を正式に辞した。その別れ際には、自らが持つ魔法のいくつかを見繕って、教えている。
他の弟子たちからは羨望のまなざしを向けられたが、彼女たちにはまだ早い。それだけ、ライラは藤子にとっても将来有望だったのだ。
そうして藤子は、ライラやハルートらと別れて、ムーンレイス王国の首都クレセントレイクを発ったのである。
そのまま進路を西に取り、昨今情勢が不安定なグランド王国との国境を避けて、一直線にムーンレイスの西隣に位置するシェルドール諸侯連邦を目指している。
向かう理由はいくつかあるが、単純に現在地から一番近いからというのは大きい。あとは、かつて護衛をした商人、ダリルがシェルドールの出身だからという理由もある。昔の伝手をたどって、まずはそこを目指せばいいかと思っているのも事実ではあるが……。
その過程で、この森に踏み込んだのだ。藤子は常に、最短距離で移動する。彼女の道行きを妨げるものなど、何もない。
付き従うしかない弟子たちの心境は、当然ながら藤子は意図的に無視した。
「ねえトーコ、森ってこんなに平和だったっけ?」
森に踏み込んでおよそ1時間。セレンが、戦闘を行く藤子に問いかけた。
それも無理はない。彼女の決して長くはない人生で体験した森と言えば、藤子を追いかけている中で踏み込まざるを得なかった、樹海や魔の森である。
そうした場所では通常、植物系の魔獣や、小動物からなった小型の魔獣、あるいは昆虫系の魔獣で満ちているのだから、命の保証などあるはずもない。
そしてセレンは、当時殺されかけたそうした森の魔獣たちに対して、今の成長した力がどれほど通用するのか、それをひたすら試してみたかった。
道中、平原で出てくるようなものはもはや物の数ではなくなっており、確かな成長の実感を得たかったのである。
ところが、この森は踏み込んでからと言うものまるで魔獣と遭遇しない。時折動物は顔を出すが、動物は魔獣ではない。仮に、生物学的先祖が同じであったとしても、2つの生物は明確に区別されるのがこの世界の常識であった。
「うむ……わしの探知に魔獣は引っかかっておらぬ。つまり、この森には魔獣が存在しないということになるな」
「えぇーっ!? そんなのあるのー!?」
「あるようじゃぞ。ものの本によれば、幻獣が多く住む地域では魔獣がいないらしい」
「……詳しく」
藤子の言葉に反応したのは、今まで無言で付き従っていた輝良だ。
彼女自身、幻獣サファイアドラゴンである。思うところがあるのは当然と言えよう。
「幻獣は魔獣にとって避けるべき脅威なのじゃよ。それだけの存在感を放っておるのじゃ。もっとも輝良は別じゃがな」
「……アタシ、弱いか?」
「お主は4年間、わしの下で何を学んでおったのじゃ」
「…………」
「はいはーい、私わかっちゃったかなーっ!」
黙考した輝良に代わり、嬉々として挙手をするセレン。
直後、虚空を横切る太い枝に顔面をぶつけて盛大に転倒した。そのまま、地面と盛大にスキンシップをはかることになる。悲鳴と共に、後方へと転がっていくセレン。
しかし、藤子と輝良は足を止めない。この木々の生い茂る森の中を、無意識で走り抜けること。それも修行の一環である。
さすがに輝良はちらりと後ろに顔を向けたが、同じ轍は踏むまいとすぐに意識を前に戻した。
彼女は知っている。藤子は、弟子を怪我させて重りをつけた上で谷からつき落とし、さらに上から土砂を流し込むような師匠であると。
「……わかった」
「ほう、言うてみよ」
「アタシは、人間に変化してる。藤子の魔法を常に使ってる。だから、見た目は幻獣ほどの力がない」
「足らんな。ま、及第点かのう」
「……?」
藤子の即答に、輝良は首を傾げた。
直後、目の前に迫ってきた大木を縦に両断して生じた隙間を潜り抜ける。甲高い鳥の悲鳴が響き、複数のはばたきが森の中にこだました。
さらに、彼女たちの後方から飛んできた大声に、周囲の獣たちが一斉に逃げ出す。
「むあーっ! 待って待って、待ってってばー!」
セレンである。その全身を、赤いオーラが包んでいた。
走る速度は、直前までの比ではない。一度引き離された距離を詰めるために、全力で走っているのだ。
すなわち、マナによる身体強化だ。普段ならば、闘技は武器にマナを乗せて振るうが、これを自らの身体に用いることで能力を上げるのである。
ただし、闘技は魔法と比べると効率が悪い。そのため、全身にマナを乗せて疾走すれば、早々のガス欠は必至だ。
セレンもそれは理解しており、藤子たちに追いついたと見るや強化を解いて、最初の速度を維持する。それでも、息はかなり上がっている。
「と……っ、トーコ、私、わかっちゃったよ!」
「言うてみよ」
「トーコの、……修行法は、必要な時以外は、力を隠すのが、大前提だから……っ、ハア、ふう、それが染みついてる私たちは、パッと見っ、ただの人間にしか見えない!」
「お主も足らんのう……及第点ではあるが」
「えーっ、うそー!?」
藤子の答えに、セレンは悲鳴に近い声を上げ、……今度は、枝にやられることなくかいくぐって見せた。
一方、並走する輝良は内心でなるほど、と頷く。
確かに藤子は、力をことさらひけらかすような方法を嫌う。特に、自身のマナの総量を相手に見せる行為は論外だと、輝良はこの4年で叩きこまれた。
おかげで彼女は、同族に決闘を挑まれることも、求婚されることもなくなったが、それは同時に、未知の敵と戦う場合において最初の駆け引きとなるからなのだと、今になって思い至った彼女である。
そしてつまりは、己の回答とセレンの回答。2つが合わさってようやく、藤子が望む答えなのだろうと納得したのであった。
同時に、ならば今、無防備に背中を向けているようにしか見えない藤子は、どれほどまでの力を隠しているのかとも考え、小さく身震いした。
と。
不意に藤子が速度を落とし、その探知の精度を一気に上げた。続いていたセレンと輝良はその気配を察知して、同じく周囲への気配探知を密にする。藤子がそうしたからには、相応の危険があると同時に判断したのである。
2人のそれは藤子の見よう見まねであり、劣化コピーと言ってもいい。しかし実のところ、この世界ではそれでも最高級の技術に比肩するのだが、これは余談である。
藤子が、遂に足を止めた。弟子2人はそれに従い、辺りを見渡す。
そこは、何の変哲もない森の中だ。今まで走り抜けてきた道中と、別段違いはない。
しかし、藤子がわざわざ足を止めたのであれば、何か意味があるはずだ。セレンと輝良は、そう考えた。藤子の行動には多くの場合必ず意味を伴うことを、嫌と言う程に思い知らされているから。
「……ここじゃな」
一方藤子は、弟子たちのお粗末な(繰り返すが、この世界ではこれでも最高級である)索敵に苦笑しながらも、ある一点に目を向けていた。
大木。どっしりと構えた太い幹は少しもゆがむことなく、まっすぐに天に向かって伸びている。地球の杉に近しい外見であり、日本ならば十分に神木として通用しそうな木だ。
そこに藤子は、手を伸ばした。その二色の瞳に映る空間の歪みを、解きほぐしながら。
そして、それは起こった。
ただの木であるはずのその表面が裂け、奥へと続く通路が現れたのである。
「うえっ!?」
「何、これ……!?」
「やはりあったな。ムーンレイスの禁書はさすが、信憑性十分じゃのう。まあ、結界としては中の下といったところか……」
驚愕する弟子を無視して、藤子は笑みを浮かべてさらにその歪みを動かす。
すると程なくして、その穴は空間そのものにまで及んだ。その向こうには……なんと、街が見えるではないか。
目を見張るセレン、そして輝良。
だが藤子は、やはりそんな2人を気にすることもなく、自らが開いた穴へと足を踏み入れた。
「参るぞ」
「え……あ、う、うん!」
「わ、わかった……」
慌てて2人が続いた後、その後方では藤子が開けた穴が静かに閉じていく。が、それを気に留めるものはここにはいなかった。
そのまましばらくは、無味乾燥とした通路が続いていたが、やがて街は3人の目の前にしかと現れる。それは、突然目の前に接近してきたような感覚を伴っていた。
教会を思わせるフォルムの尖塔が、彼方に見える。どうやら街は、それを取り囲むようにして構築されているようだ。
城門の類はない。防柵すら見当たらない。アステリア大陸では、魔獣の存在のためにそうした機構は街に不可欠だが、ここはそうではないらしい。
「……止まれ」
藤子たち一行が街の目前まで来たところで、そんな声がかけられた。
それは、街の前に立ちはだかるようにして鎮座している巨大な生物からかけられたものである。
その姿に、藤子は面白そうに一瞥をくれ、セレンと輝良は思わず身構えた。
それは、見る角度によって黄色にも緑にも見える、不可思議な輝きの鱗をまとった竜――幻獣ペリドットドラゴンだった。
竜は続ける。
「ここは幻獣の街インティス。召喚士でもないものが如何なる用件で、また如何なる手段で踏み込んだのか」
そこで竜はあぎとを開いた。その口腔には、迸る雷の魔法式が組み上がっている。このまま彼がそうしようと思えば、暴虐以外の何物でもない破壊のブレスが放たれるだろう。
その瞳は、猜疑と覚悟の色を帯びていた。竜は、さらに問う。
「答えよ、人間。回答次第では、その身を滅ぼすことになるだろう」
その圧倒的な存在感の前では、なるほど人間は簡単に滅びるだろう。
しかしその前に立つものは、ただの人間でない。藤子は言うに及ばず、セレンにしろ輝良にしろ、非常識の数段階も上を行く圧倒的な力を日常的に体感している。
そのため、3人がはっきりと動じる様子はほとんどなかった。セレンと輝良が身構え警戒をしたのは、彼我の実力差をはかる経験が不足しているからに他ならない。
もう少し丹念に竜を観察する余裕があれば、その竜の力が決して圧倒的なものではないと気付けただろう。そう、死ぬ気で戦えば相討ちに持ち込むことができるくらいには。
そしてその程度の実力では、藤子への脅しにはまったくならない。
彼女は心の中で笑う。わしを脅すならば神を連れてこい、と。
「無礼は承知、されどわしはこの世の因果、法則から外れた者。この街の守りが、単にわしに通用しなかっただけのことよ」
「……では人間、偶然に迷い込んだと言うか」
「否。道行に幻獣の街があると聞き、興味本位で訪うた。我が連れに幻獣がいるが故に」
「……何?」
藤子の言葉に、竜は首を傾げた。それから、藤子の後ろに控える2人に目を向ける。
まずはセレンに。次いで輝良へ。かと思えば、またセレンへ。それを数回繰り返して、竜は目を見開いた。
「……そこな青い娘はもしや、サファイアドラゴンか」
「……そう、だけど」
「問おう。何故結界の外で人の姿をしているのか?」
「……? トーコの魔法。変化の魔法で、人間に化けてる」
「トーコ? これなるダブルの娘か」
「然り」
藤子の答えを聞いて、竜はしばし沈黙した。
それは数分に及んだが、後半においてはその瞳から、少しずつ猜疑心が消えていく様が見えていた。
「……なれば、トーコという人間。もう一つ聞こう。お前は何処より来たりし者か」
「外より。八大神の統治が及ばぬ異世界、地球こそ我が故郷」
「チキュウ……! その名は……、確かに、我らが戴いた先代の幻獣王様が聞いた、救い主の世界……!」
揺るぎなく、藤子は即答した。
その言葉に、セレンと輝良がまたしても目を見開く。
しかし目の前の竜は、発射直前にしていたブレスの式を解くと、口を閉じて居住まいを正した。
「無礼をお許しいただきたい。我が名はシイル、幻獣王様よりインティスの街を預かる者。さあ、中へどうぞ」
そうして、竜――シイルは静かに道を開けたのであった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
先に展開が動いたのは藤子のほうでした……って前章もそうか。外に出て動いてるから、やっぱり藤子編のほうが物語は動かしやすいんですよね。
今章では、幻獣やメン=ティの魔導書以外の魔法についても触っていけたらなあと思います。




