第5話 目指せ言文一致
「……ふー……」
ぼくは読み終わった本をそっと閉じ、小さく、けれど長いため息をついた。
本のタイトルは「永遠王伝説」。シエル王国の始祖であるユーディー王の、山あり谷ありな人生をつづった一大叙事詩だ。この国では最もポピュラーな物語らしい。
前世でいうと、ギルガメッシュ叙事詩とかアーサー王伝説の類かな。まあ、文学ってのはえてして神話やら歴史やらから始まるものだから、それは別にいい。
ぼくがため息をついたのは、内容そのものではなくって、その文章のほうだ。
何が問題かって? ん……じゃあ序文を一節抜き出すよ?
『世に言ふ永遠王は、名をユーディー、此れなり。彼家、ハイウィンド家なれば天下に聞こえし武門の誉れいと高く、いとけなき頃よりかしづかるること甚だ少なく、御父君自らこそかたく養い給ふれ』
お分かりいただけるだろうか。文章がまるっきり古文なのだ。いや、正しくは話し言葉とまったく形態が違う、なんだけども。それを表現するために、あえて古文だと言わせてもらった。
文字が読めるようになってから今日にいたるまで、うちの書庫にあった本は一通り読んだけど、そのどれもがこういう形式で書かれていたので、とても面倒だった。
話し言葉と書き言葉の法則や言葉遣いが違う。これがどれほどわかりづらいかは、中高での古文の授業を思い出してもらえればわかっていただけると思う。
ぼく自身がまだヴィニス語に完全には慣れていないことを抜きにしても、これはいくらなんでもわかりづらすぎる。これじゃあ物語に必要な情緒や間の空気を表現なんて、できやしない。それに、漫画を描くとなるとセリフでめちゃくちゃ苦労することは間違いない。
こうした、書き言葉と話し言葉が剥離した状態のことを、ダイグロシアという。正確に言うと、一つの社会で二つの言語が異なる機能で使われていることだけど、その辺りは割愛。ともあれこの状態になっていたのが、かつての日本語だ。
実は、江戸時代の話し言葉、特に後期のものは現代とあまり違いがなかったと言われている。細かい言葉の意味は違ったり、明治以降に造られた言葉は当然使われていなかったけれど、おおむねその話し方やイントネーション、発音は変わらなかったそうだ。ということは、単語にさえ気をつければ現代人は江戸時代にタイムスリップしても、少なくとも会話の上ではなんとかなることになる。
けれど、書き言葉となるとそうはいかない。江戸時代に書かれた書物を紐解こうとしても、現代人の大半がそれを読めないだろう。でも、当時の人にとって文章はそう書くものだったし、そう読むものだったのだ。そう、話し言葉と書き言葉がまったく違う言語のような状態だったわけだ。
いや、恐らくだけど、それ以前は話し言葉と書き言葉が一致していたんだと思う。この書き言葉と同じような言葉が話されていた時期があったはずなんだ。
でも、言葉は生き物だ。少しずつだけど確かに、時間をかけてその形を変えていく。その変化に、書き言葉の方がついてこれなかったんだろう。それが、江戸時代ごろには既に顕著になっていた。そんな風にぼくは思う。
そして、それと同じ状態がこの世界では起きているんじゃないだろうか。きっとこの世界も、いつかのどこかではこの書き言葉が話し言葉だった時期があったんだろうと……。
いやまあ、単に書き言葉も覚えれば解決する問題ではあるよ。少なくとも日常生活の上では。
でもこの書き言葉じゃ、ぼくの目指す漫画の表現はできそうにないのだ。
だって、考えてみてほしい。君は、
「お前は『やめてそれだけは!』と言う」
「やめてッ! やめてそれだけはッ! はっ」
の名シーンを、古文で出されてどれだけ感じ入ることができる?
あれは自分たちと同じ言葉で話されたから、より名シーンとして認知されているんだろうとぼくは思うんだよ。
ご存じの通り、漫画は目で見てわかる形で人と人が会話する。会話、なんだ。だったら、それは話し言葉であってしかるべきじゃないだろうか? 漫画の会話シーンというのは、小説のそれよりもさらに現実的なのだから。
会話っていうのはそもそも、「意味のないもの」も多く含まれているのが普通だ。そしてその「意味のないもの」は、「それでも意味があるもの」でもある。漫画はそれをリアルに、そして生きたまま抜き出す文化なのだ。それこそ、漫画を多様な表現媒体足らしめているものの一つだとぼくは思う。
「これは二葉亭四迷になるしかないなあ……」
もう一度ため息をつきながら、ぼくはつぶやいた。
かつてこの問題に取り組んだ彼らは、こういう心境だったのかもしれない。
そしてもし、その問題の直下に手塚治虫がいたとしたら、彼はどう考えただろうか……?
「にーさま!」
「やあ、ティーア。どうかした?」
が、ぼくの思考はティーアが割って入って止められた。
「そろそろとーさまが来るって。降りてきて、ってかーさまが」
「そっか、そりゃ急がなきゃ。ありがとう」
「えへへー」
言い忘れていたけど、ぼくらは先日5歳になった。ティーアの滑舌もだいぶよくなったし、表情も言葉の表現も、より豊かになった。可愛さにはますます磨きがかかっている。
そうだよ、このかわいさを「いとうつくし」だけで表現できるわけないんだよな。
うん、決めたぞ。ぼくは言文一致運動を始める!
父さんが身分の高い人だろうことは間違いないし、せっかくだから今日、早速話してみよう!
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父さんがうちに滞在している期間は短い。長くても十日くらいで、短いときには一日だった時もある。
けれどうちにいる間の父さんは何か仕事をするという様子はなく、ただひたすら家族と過ごす時間を楽しんでいる様子だ。
それは食卓を囲んでいるときに顕著で、家族団らんで過ごすこの時間はぼくにとっても楽しい。なので、この時間はあまり小難しい話はしないことにしている。そういう話をしても、ティーアが面白くないからだ。
というわけで、ねらい目としては食後。それもティーアがおねむになってから父さんたちが眠るまでが、チャンスタイムと言える。
……と思って粘ろうとしてたんだけど、まだ身体が子供だからか、普通に耐え切れず眠っちゃいました。
ま、まあまだ時間はあるよ……と思ってあくる朝。ティーアはまだまだ夢の中な時間帯。ぼくはあくびを噛み殺しながら、いつも通り食堂へ降りた。
とはいえこの時間帯は、まだ誰もいない。食堂には、だけどね。
ぼくは顔を洗ってから、庭へ出る。そこでは……向かい合ったまま、ヨガにも似たポーズでピタリと静止している両親の姿が。
……いや、別にカルトなアレではなくて修行の一環ね。準備運動みたいな、そんなものらしい。その身体は、金にも銀にも見える不思議な色のオーラによって静かに、そして緩やかに包まれている。
まあその……なんだね。今まで言及するタイミングがなくて延ばし延ばしになってたけど、っていうかなんとなく察してくれてたとは思うけど。
この世界、普通に魔法が存在する。マナという通常は不可視の物質を利用してあれこれするものらしい。あのオーラは、二人の体内に循環しているマナの奔流が外に出たものだ。訓練すれば見えるようになる、というのは地球ではありえない性質の物質だ。
今二人がやっているのは、そのマナをより効率よく循環させるようにするもので……そうだね、ハン○ーハン○ーで言うところの練ですね。
どう見ても子供な見た目の母さんが超力持ちなのもこの力をうまく使っているからだし、父さんがどこぞの野菜人みたいなエネルギー弾をぶちかませるのもこれを利用しているからだ。
厳密に言うと、これらの技と魔法は区別されているらしいんだけど、詳細はまだ教えてもらっていないのでよくわからない。
そうこうしているうちに、二人がポージングを解いた。そして、静かに呼吸を整えながら徒手空拳で身構える。
それからしばらく、二人はにらみ合う。動きはしない。ただ構えたまま、正面で向かい合ったままだ。ただし、本当に何もしていないというわけでもない。
あの状態で二人はマナを巧みに動かし、それで組手を行っている。確かにこれなら音も出ないし、動き回らないから庭も荒れない。まだ寝ている人も多い時間帯にやるには、これくらいでなければ意味がないだろう。
そして推測だけど、マナを正確に動かすと言うことは、個人の力量に直結した行為なんだろうと思う。
その辺りのことに気づいたのはここ一年くらいなんだけどね。見えるようになってからは、なるほどと頷くことも多い。
最近になってそれが見えるようになった理由は、単に慣れたんだろう。将来の目標が漫画家なので別に強さを極めるつもりはないんだけど、「マナを使うことで健康が維持できるんじゃ?」と思って見よう見まねでいろいろしていたからね。門前の小僧ってやつだ。
そうして、両親は組手を。ぼくはそれを観察しながら真似を。そんなことをしながら、朝の静かな時間は流れていく。これが、父さんがいる時のぼくの一日の始まりだ。
「いやー、やはり歳には勝てんな。年々ベリーの相手をするのがつらくなるよ」
「そそ、そんなことないのです。アルは今でもとっても強いのです」
満足したのか、一連の稽古を終えた二人は、いつものように最高レベルにイチャつきながらぼくに近づいてくる。朝からよくもまあ、そんなくっつきひっつき、キスの雨あられを降らせられるもんだと感心するよ、お二人さん。
毎度ながらこの夫婦は、お約束とも言えるレベルで似たような会話を繰り返した上で、その都度最高に甘い空気を大量生産してくれる。今日び中高生のカップルでももっとドライだぞ。……いや、彼女いない歴33年だけど……。
とはいえ、さすがにぼくを目の前にして無視するほどの閉鎖空間ではない。
「セフィ、おはよう」
「うん、おはよう。父さん、母さん」
「今日も俺たちを見ていろいろやっていたようだな。どうだ、どれくらいできるようになった?」
言いながら、父さんはぼくを抱き上げる。
「マナの動きは見えるようになったよ。母さんのほうが量は多いけど、父さんのほうが動きがスムーズで複雑に見える、かな」
「その歳でもうマナが見えるのか!? おいおい、どうしようなベリー。この子は本当に何をやらせてもうまくやってしまうな」
「ふふふん、これも両親が優秀だからなのです」
ない胸をえっへんと張る母さんは、自分だけじゃなく暗に父さんも褒めてるんだろうなあ……。
っていうか、5歳でマナが見えるのは相当すごいことなの?
「すごいことなの?」
「すごいも何も……俺がマナを知覚できるようになったのは12か13か……それくらいだったぞ」
「私は11のころなのです」
なるほど、そりゃすごい。
あれだけの動きをするこの二人の、単純に二倍以上早いってことか……。もしかしてぼく、努力する方向をそっちに向けたら二人より強くなれるの?
「まだ早いとは思っていたが、この分だと魔法や闘技を教え始めても問題なさそうだな……」
「とうぎ?」
「ああ。んー……大まかに言うと、魔法は他者へ効果を及ぼす技術、闘技は自身にのみ効果を及ぼす技術のことだ」
「じゃあ、母さんがいつも使ってるのは闘技ってこと?」
そうだ、と頷く父さんに連れられ、ぼくたちは食堂に戻ってきた。いつの間にか、フィーネをはじめ使用人たちが朝食の準備を進めている。
「どうだセフィ、覚えてみるか?」
ぼくを席に着け、使用人から受け取ったタオル(厳密には違うけど)で汗をぬぐいながら、父さんが言う。
黒曜石のような目が、どことなく期待していると言っているように見えた。
だからというわけではないけど、ぼくは頷いた。
「興味、あるよ」
せっかく魔法やら何やらがあるファンタジーの世界なんだからね。やってみたいと思うのは、オタクのサガってやつだ。
それに、前もちらっと言ったけど、人生に無駄な経験なんてない。やってみて、損なんてあるわけないのだ。
「そうか! それじゃあ、今日は父さんと魔法の練習してみるか?」
「あっ、ずるいのです、私だってセフィと剣の稽古したいのです!」
「うーん、確かにそれもありだな。やはり剣は重要だしな……」
ここで口論にならないのが、この夫婦のすごいところだよね。普通なら、「いや俺が」「いや私が」ってなりそうなものだけどねえ。互いの意見を尊重できるのは素晴らしいことだと思う、うん。
ていうか、父さん? あなた魔法も使えるんですか? とてもそうは見えない……どう控えめに見ても前衛ジョブ間違いなしだよ?
いやま、それはさておこう。ここはこじれだす前に、本人の意思を伝えておいたほうがいいだろうしね。
「ぼく、魔法のほうが気になる」
「そうか!」
「そうかぁ……」
どちらがどちらかは言うまでもない。
ごめんよ母さん……剣もやってみたいけど、やっぱり男の子としては魔法にあこがれるんだい。
でもぼくの中身は大人だ。母さんと同い年くらいだ。
「母さん、剣は父さんがいないときに教えてほしいな」
そう、フォローを入れることも忘れない。
すると母さん、途端に表情を明るくして、
「そ、そーか! うんっ、そうだな、そうしようっ」
こくこくと頷くのだった。これでよし、と。
「それじゃ、朝食の後は魔法を……いや待てよ、うちって魔法書置いてあったっけか?」
魔法書! やはりそういうのがあるんですか、父さん!
詠唱文とかそういうのが載ってるのかな? 夢が広がりんぐですね。ええ、とっても。
……そうだ、魔法「書」っていうからにはきっと本なんだろうし、言文一致についての話もそこでしたほうが効率いいよね。これで魔法書だけ話し言葉の形式で書かれているなんてことは、いくらなんでもないだろうし。
……あ、でも。
「それらしいのは書庫にはなかったと思うけど……」
少なくとも、書庫の本は全部読んだからね。それは間違いないはずだ。
「そうか……じゃあ、買ってこないとな……」
売ってるんだ!?
思わず背筋が伸びた。いやでも、冷静になって考えれば、ゲームでも売ってるやつは売ってるか……。
「ん、お前も来るか?」
が、ぼくのその反応を、父さんは「一緒に行きたい」ものだと思ったらしい。
勘違いではあるけど、その申し出はぼくにとって渡りに船だった。常々、家から出てみたいと思っていたのだ。
「うん!」
「……そうだな、ずっと家の中というのもつまらんだろう。街の様子を見るのも勉強だ」
「でもアル、その、街はまだ……」
乗り気の父さんに対して、母さんは妙に躊躇している。
なんだろう? そんなに治安が悪い街なんだろうか? 門から見ている限り、そんな風には見えないけど……。
「なーに、大丈夫だよ。俺はガキの頃からのお忍び名人だ、うまくやるさ」
「でも、セフィが……」
「いやいや、セフィは俺と違ってまだ知られてない、何もしなくても十分だろう。それに、引退はしたが俺だって元ミスリル冒険者だぜ?」
「……そう、ですね」
父さんの説得に、母さんが折れた。
どうやら、母さんが気にしているのは要人が下手に市井に出るのはやめておいたほうがいいのでは、ということみたいだ。
確かに、うちはかなりの上流階級だろうから、拉致されたりしたら大変だろう。身代金目的ならまだしも、政治に影響が出るような事態となれば一大事だ。父さんなら大抵の相手も蹴散らせるだろう(ていうかあなたもミスリルだったんですか)が、ぼくは荒事に対しては何もできないからね。
なるほど、それでぼくやティーアは箱入りなんだなあ。わからなくもないけど、ぼくにしてみれば街の様子は是が非でも見ておきたいんだよね。
父さんが言った「お忍び名人」ってのも、もしかしてそういうことかな? どこの上様かお奉行か。ちりめん問屋の御隠居……は、まだそんな歳じゃなかったね。
ともあれこの世界の、一般人の生活がどうなってるのか? それはぼくにとって、調べておかないといけないことの一つだ。
娯楽は、ある程度生活に余裕がないと発達しないからね。もしそういう土壌がないとなれば、それこそ先に生活水準そのものの向上を進めないといけない。そんなことをしていたら、漫画家なんて夢のまた夢だ。
「よし! そうと決まればフィーネ、すまないがいくつか服を用意しておいてくれるか? セフィの分もな」
「かしこまりました」
かくして、ぼくの街初体験が始まろうとしていた。
なお、その後起きてきたティーアが、ぼくと一緒にいたいと全力で泣きわめいたので、彼女も連れて行くことになりましたとさ。
当作品を読んでいただきありがとうございます。
感想、誤字脱字報告、意見など、何でも大歓迎です!
話し言葉と書き言葉に関する部分は、ボク自身の推測も多々あります。
実際とは異なる可能性が高いので、ご了承ください。