◆第30話 騒乱ブルードラゴン 5
この人間は何者?
彼女に残された理性は、思考する。
小さいのにとてつもなく大きく、儚いのにとてつもなく確かで、幼いのにとてつもなく老獪な、そして……楽しそうなのにとてつもなく寂しそうな――。
この人間は、何者? と。
そもそも彼女にとって、人間など取るに足らない存在のはずだった。
期せずして無双の力を得てしまい、サファイアドラゴンへと至った。その力を少し振るえば、人間など塵芥も同然だったはずなのだ。
もちろん、それをいたずらに振るおうと思ったことはなかったけれど。それでも、その力が人間にとっては脅威であることは本能で理解できた。
人間は、脆い。それはブルードラゴンであった時代からの、経験則なのだから。
そのため彼女は、山にこもった。肥大しすぎた力が、怖かった。この力が、人間以外の何かを――あるいは誰かを、傷つけ、あるいは奪ってしまうのではないか。そう、思えて。
されど運命は、彼女を見逃しはしなかった。
ある日地面から噴き出した、極めて濃い瘴気。それに触れ、またも力の奔流にさらされ、彼女の意識は容赦なく打ちすえられた。サファイアドラゴンに至った彼女ですら狂わせる、原液とでも言うべき濃厚な瘴気が、全てを奪った。
そしてその闇に誘われるまま空を奔り。まるでそここそが安住の地であると言わんばかりに、平原へと降り立った。
現れた魔法式が何かもわからぬまま……かすかに残っていた理性が危険だと思ってはいてもなお、彼女は自分を止めることができなかった。
そのまま手を伸ばした彼女は……気が付けば、迷宮の主になっていた――。
「ゥゥゥガアアァァッ!!」
自らの意識しないところで、口が動いた。
理解している。サファイアドラゴンとしての本能が、今まさに、目の前で絢爛豪華に燃え盛る赤華を拒絶していることを。
しかしいずこからともなくたぎるマナをいくら込めても、それはかすかにもぶれなかった。
燃えて、燃えて、ひたすらに燃えて。この世の全てを始まりへ戻さんとするかのような、神々しい輝きと共に、空虚な玉座が赤熱する。
生まれる以前よりその身に宿るブレスを、とにかく放出する。彼女が持つ唯一の魔法であり、種族固有の魔法。絶対の自信を持つ、最強の技。
その膨大な冷気が、花を散らした。嵐にも似た音を奏でながら、儚い一生を終えた花が虚空を舞う。
「甘いな」
刹那、人間が口を開いた。
揺るぎない声。いささかも敗北を疑わぬ、自らに絶大な自信を持つ声。彼女には、そう聞こえた。
「彼女の『薔火』は――」
その声で、人間が言う。赤々と照らされた顔は幼く、また彼女が見たどんな人間よりも老いて見えた。
「――千変万化の生ける炎。逃れることはあたわぬと覚悟せよ!」
人間が、二の句を次いだ。
すると途端に、散った花弁がより一層強く燃え盛り、煉獄のバラ吹雪となって空間を覆い尽くす。
「ガ――ッ――ァァ――……――ア――!――!!」
もはや彼女には、ろくに呼吸をすることすらできなかった。炎という炎が、生物にとって必要な気体すらも奪い尽くしてしまったが為に。
それでもなお逆巻く炎、その彼方から、あの人間が迫ってくる。
新発見に踊る学者か……いたずらの成功を見た子供か……そんな、邪気のない無邪気な笑みを浮かべながら、その右手に、さきはう青い光を称えながら。
「見えた。そこじゃな」
彼女の身体が動く。無意識に、動く。
危ない。
危ない?
そうだ。目の前に迫るものは、脅威だ。これは排除しなければ。
体内でうごめく瘴気が、彼女にそうささやく。そして彼女は、それに抗う術を持たない。
腕を振るう。爪を振るう。尾を振るう。
人間の数倍にも及ぶ身体の、全てが武器だ。その前では、この人間の小さな身体など、ひとたまりもない。
だが……現実はそうはならない。
人間は、その細い腕で彼女の攻撃を受け止める。全力を振り切り、うなる暴力をもってしてもなお、彼女の攻撃は人間に傷を負わせるどころか、わずかにも動かすことができない。
わからない。何が起きているのか。どうなっているのか。
わからない。本当に、わからない。これは、この人間は一体?
混乱する彼女の目の前に、遂にその人間はやってきた。彼女にとっては目玉一つ程度の、本当に眼前である。
その姿を、縦割れの瞳で凝視する。目が、合った。
全てが赤く染まる、そんな中でこの人間の左目だけが――いかなる色にも染まらぬと言わんばかりに、青々と輝いていた。
それが暗黒の中でたった独り、無数の生命を育む母なる星の姿の生き写しであることを、彼女は知らない。
それでも。
いや、だからこそ。
彼女はその幽玄な、青の王たる青の瞳に、残っていた理性のすべてを奪われた。
「あるべきところへ還るがよい――解呪!」
人間が、そう宣言した。それと同時に、彼女の逆鱗――喉元に唯一存在する、逆に生じた鱗に触れる。
刹那――彼女はあの時感じた、瘴気のうねりとは正反対の感覚を味わうことになる。
彼女の意識が、理性が……静かに浮き上がっていく――。
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藤子がサファイアドラゴンに触れたその瞬間から、目でわかるほどの変化が起きていた。
周囲の濃密な瘴気が一気にサファイアドラゴンの体内へと吸い込まれていったかと思うと、今度は猛烈な勢いで吹き出し、それに合わせて空間がねじれ始めたのである。
魔法的に優れた感覚を持つハルートには、それがどういうことなのかよくわかっていた。
「――っ! セレン君、ダンジョンが消滅するぞ、揺れに備えてしゃがみたまえ!」
「えっ? あ、う、うんっ!」
ハルートがしゃがみ踏ん張るようにするのを見て、セレンも続く。
それに一拍ほど遅れて、空間がサファイアドラゴンの喉元を中心にして一気に収束した。
人間という生き物がその目で確認することができるのは、それまで。そこから先はしばらく、空間と空間の間、本来物質があるべきではない次元を泳ぐことになる。
時間にしたら、それは数十分の出来事だ。しかし当事者の相対的な感覚では、たった数秒に短縮される。
やがて別次元を突破し、あるべき空間へ戻った時、そこはダンジョンの入り口があった平原の真ん中にたたずんでいることになるのであった。
時間は既に夜。日は落ち、真上に登った月の光が平原を静かに照らしていた。
「……は、へ……」
ダンジョン初体験のセレンが、そのとてつもない経験に呆然とする。
ダンジョンの消滅に際してしゃがんだ時のままの姿勢で、風が吹き抜ける平原をぼんやりと見つめることしかできない。
一方のハルートは、慣れているのだろう。すっと立ち上がり、いまだにブルードラゴンたちが眠りに落ちていることを確認しながら、夜にもかかわらず、部下たちが急ピッチで進駐を進めている様子を見て、ほっと息をつく。
そしてそんな2人の後ろに、藤子が優雅に着地した。青く輝く光の粒子が、夜風に舞って消えていく。
「……ほう、もう来ておったか。お主の部下か?」
「ああ。どうやら、思っていたより早く議会が動いたみたいだね」
「ふむ……なればわしの出番はここまでじゃな」
「おいおい、今回の功績第一は君じゃあないか。というより、今回のものは私が背負えるような重さではないのだけどね?」
「公権力は嫌いでのう。上手く取り繕っておいてくれ」
「上手く、ってね……まあいいか、なんとかしてみよう」
そしてやれやれ、と肩をすくめて見せながら、ハルートは後ろに目線を向ける。
そこには……ぐったりと力を失ったサファイアドラゴンが、その巨体を地面に横たえていた。
「……しかし本当に『ダンジョン化』を解呪してしまうとは」
「まあまあじゃったな。あれより難解な魔法式など、腐るほど見てきたわ」
「あれをまあまあと呼ぶのかい……」
呆れるハルートを尻目に、藤子はサファイアドラゴンの眼前へと歩み寄る。
その気配を察してか、ドラゴンが気怠そうに目を開けた。藤子の背の、半分近くはあろうかという大きな瞳が、半開きで現れる。眠そうな、青い瞳だ。
その瞳と、視線を合わせながら藤子は言う。
「よう、身体に支障はないか?」
そのままそっとその顔をなでて、静かにサファイアドラゴンの様子をうかがう。
ドラゴンはしばらく、何かを考えるかのようにゆっくりと瞬きをしていた。その間、特に暴れるわけでもなく、ただ藤子のなでるがままに任せて。
藤子も返事は急かさない。そもそも、このドラゴンがどこまで人の言語に通じているかがわからないのだし。
それでも人と同じように接したのは、解呪の瞬間、ドラゴンの瞳に明確な理性と感情を見たからに他ならない。
人だとか獣だとか、そんな見た目のことは問題ではない。藤子とて、見た目は人でも不老不死の化け物である。知性生命体である以上、藤子にとってはすべて等しく同じ存在だ。
「……何、した……?」
沈黙ののち、ドラゴンが口を開いた。人と変わらぬヴィニス語が、異形の口から紡ぎだされた。やや片言ではあるが、それは確かに言葉だ。
それに驚いたのは、今までぼんやりとしていたセレンだ。彼女にとって、魔獣が口を利くことはそれだけの衝撃なのだろう。
「お主を蝕んでいた『ダンジョン化』の魔法を解いた。それだけのことよ」
だが藤子にとっては、既知のことである。動じることなく、静かに質問に答えた。
「……助けた? 人間が? なんで?」
「目的は『ダンジョン化』の解析であって、お主は結果的に助かったに過ぎんさ」
「……お前、正直な人間だな」
「うむ、嘘は大嫌いでのう」
そう言って、得意げに藤子は笑った。
それを見て、ドラゴンもかすかに鳴き声を上げる。それはあたかも、人が笑うかのような仕草であった。
やがて、ドラゴンがのそりと身体を起こした。
それを見て、セレンが身体をこわばらせ、ハルートが笑いながらそれをなだめる。
「……アタシの仲間、みんな寝てるのか?」
周囲を見渡して、それは言う。
その問いを、藤子はあっさりと肯定する。
「うむ。お主のダンジョンに延々と攻撃をしておってな。中に入るにあたって邪魔であった故、眠らせた」
「……攻撃?」
「ああ。よくはわからんが、入り口に向けてブレスを撃ち続けておったぞ。お主をどうにかしようとしていたのではないかのう」
「ああ……そういうことか……」
藤子の言葉に、ドラゴンはため息交じりに首を振った。
その仕草に、藤子だけでなくハルートやセレンも首を傾げる。そして、続く言葉がないかと無言を続ける。
「……人間、お前の魔法、どれくらい続く?」
「盛大に眠らせてやったからのう。夜が明けるまではこのままだと思うぞ」
「朝まで。……じゃあ、十分だ。逃げなきゃ……」
「はあ?」
「逃げるぅ?」
予想していなかったドラゴンの言葉に、ハルートとセレンが目を丸くした。
するとドラゴンは、そちらに目を向けて首を傾げる。
「わしの仲間じゃ、安心せい」
それを見た藤子の言葉に、ドラゴンは納得したように頷く。
それから翼をやや広げながら、ため息交じりに話し始めた。
「……アタシ、なりたくてサファイアドラゴンになったわけじゃなくて……。ただ、……よくわからないけど、いつも通り暮らしてたら、いきなり瘴気がわいて。それを浴びて、こうなっただけ。
でも、仲間にとってアタシくらいの歳でサファイアドラゴンになるのは、珍しい、くて……勝手に、ボス扱いされた」
「ふむ。一番の何がいかん?」
「……人間、お前ならわかるだろ? 自分の力が強すぎて、勝手に、誰かが挑んでくる……手加減しても、しきれない。
それで、その誰かを、殺す。……面倒、それに、アタシ、そんなことはしたくない……誰も傷つけたくない」
そう言うと、ドラゴンは世をはかなむかのように、空に輝く月を仰いだ。
強くなったが故の、強いものにしかわからない悩みと言えばよいか。強さを望まないものがそれを手に入れた時に陥る症状かと、藤子は内心で頷く。
しかし同時に、彼女は思う。
莫迦か、と。
そのまま無言で、藤子はドラゴンの腹に右拳を一発叩きつけた。
威力は彼女なりに手加減したが、それでもドラゴンの身体は一瞬宙に浮いた。
そして突然の暴力に、ドラゴンはもちろんハルート達も目を点にして、その様子を見つめる。
「かふっっ!? な、何すんだ!?」
「わからん。わしにはまったくわからん」
「は……!?」
「己の身の程もわきまえず、いたずらに戦いを挑んで死ぬような奴なぞ、所詮その程度の器。死んで当然の大莫迦よ。何を気に病む必要がある?」
ドラゴンの青い瞳をにらんで、藤子は腰に手を当てた。
その後ろでハルートが唖然とし、セレンがそうだと言わんばかりに頷いている。
「そもそも力を制御できぬ、なぞ未熟者の言うことよ。己の力を御してこそ一人前。それができぬのであれば、お主の器もそれまでだったというだけのこと。
じゃが……お主は鍛錬したのか? その力を得てから、己を磨いたのか?」
「…………」
「しておらぬであろう? 故に殴った。わしは無精者が、嘘と同じくらい大嫌いでな。……まあ、この先はお主の生きる道、わしから言うことはこれ以上ないが。
己の生きる道は後悔のないよう選んだほうがいいぞ。全てのものはいずれ死ぬのだからな。……無論、年寄の説教なぞ受け流せるのも若さの特権じゃが」
最後にそう締めくくって、藤子は踵を返した。
ドラゴンは、そのまま凍りついたかのように硬直している。ぐるぐると、瞳だけがせわしなく語いていた。
そんなドラゴンには目もくれず、藤子はハルートへ改めて向かい合う。
「では、すまんが後は任せたぞ。これは借り故、後で埋め合わせるからのう」
「あ、ああ……わかった。では、とびきり面倒な埋め合わせを考えておくとしよう」
驚きの連続を浴びせられてもなお、すぐにそう返せる柔軟性はさすが皇族と言ったところか。
もはや見慣れた、ハルートの軽い苦笑に笑いを返しながら、藤子はその腰辺りを軽く叩いてやる。
それから、
「わしらの宿はここじゃ。何かあれば呼んでくれ。数カ月ほどはクレセントレイクにいるからのう」
そう言って、宿泊先を書いた紙きれを手渡すのであった。
「うむ……おお、『湖上の月亭』か。いいところに泊まっているじゃあないか」
「大図書館に一番近い場所を選んだだけよ、他意はない。金はうなるほどあるしな」
「ミスリルはさすがだね……、と、そうだ。今回の依頼はどうするかね? 非公式だったが……」
「ああ……うむ……そうじゃな、事後報告で処理しておこう。報酬は『禁書の閲覧権』で頼む」
「ま……た、無茶を言うね君は! はっはっは、まあでも、やってみるよ。君に見せたところで、君の持つ技術や知識のほうがよほど上質だろうしね……」
一瞬絶句しながらも、ハルートは絞り出して笑う。
そして、お返しとばかりに藤子の肩を叩いた。こちらは恐らく、ほぼ全力で。もちろん、その程度では動じることもない藤子であるが。
「頼んだぞ。……さて、では戻るぞセレン!」
「あ、う、うん!」
藤子に呼ばれ、即座にしゃきっと背筋と伸ばすセレン。それから一直線に、藤子の手を握りにやってきた。
「……なんのつもりじゃ?」
「また1人だけ飛んでくつもりでしょー! もうその手は食わないんだもんね!」
「はあ? あの程度……って、おい、スライム化してまとわりつくでない! こら!」
屋根の上に取り残されたことを、しっかり根に持っていたセレンであった。
藤子にとってはあまりにも些事すぎて、呆れることしきりである。そのまま彼女は、セレンによってスライムまみれになってしまった。
そんな藤子の肩に、ハルートが手を置いて笑った。
「一本取られたね、トーコ殿?」
その顔は、よくやったと言いたげであった。
「はははっ、そうじゃな。世の中思い通りにはいかぬものよ。それが醍醐味でもあるがな。……やれやれ、仕方ないのう」
ハルートに屈託なく笑い返しながら、藤子はその手から光の粒子を振りまく。その瞬間、セレンごと彼女の身体が空へと浮かんでいく。
だんだんと小さくなるハルートを見下ろしながら、藤子は彼へ手を降った。
「では……高いところながら、我らこれにて失礼仕りますれば。殿下、いずれまたお目にかかれることを楽しみにいたしておりますぞ!」
そして、不意に敬語でもって対応し……また目を丸くしたハルートにしてやったりと笑い、一気に上空へと舞い上がった。
最後に一瞬、後ろを振り返り……そして、ドラゴンが静かに考え込んでいる姿を一瞥してから、藤子たちはクレセントレイクに身体を向けて、夜空を切り裂いていく。
かくして、クレセントレイクを騒がせたブルードラゴンの騒動は、一夜のうちに解決をみたのであった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
ここで一旦今回の藤子編はおしまいです。次回からセフィ編に戻ります。
……思ってた以上にかかってしまった。4話くらいで終わらせるはずだったんだけど、あっれー?
藤子ってサブだった、ような……(目をそむけながら




