第3話 今はまだその壁は高く
三年が経った。
え、いや、うん、いきなりめちゃくちゃ時間が飛んだ自覚はあるよ、わかってる。めっちゃキング○リムゾンされたよね。
でも、イベントらしいイベントが特になかったんだ。印象に残るようなことがなくって、だからうん、仕方ないんだ。
ともあれ三年が経ちました。父さんは事前に聞いていた通り、滅多に帰ってこない。本当に二、三か月に一回くらいだ。ぼくはさほど気にはならないけど、母さんがさみしそうなのであの女たらしにはもうちょっと帰宅頻度を上げてもらいたいところだ。
まあその辺りの話は長くなるから、一旦は置いといて。この間にわかったことは数知れない。
まず、当然だけど三歳になったので歩き回ることができる。家の中をあっちこっち探検しまくって、この家の中のことは大体把握した。
我が家は石造りの三階建て。中央で直角に曲がっているので、空から見るとL字状に見えるはず。要所要所にコンクリートが使われているみたいなので、セメントによる工法は確立されているんだろう。
三階は、使用人が住込みで使っている部屋がまとめられている。
二階は、ぼくたち家族の部屋と、父さんが使う執務室、それからそこに繋がる書庫。
一階は、応接室や来客用の寝室、それから食堂。
面積的には、そうだなあ……小学校と似たような感じかな? 地域によって差はあるだろうから、一概には言えないけど……。
そんな我が家の外観は、美しい。屋根は青く塗られ、壁は白い。青空に、降り注ぐ陽光というシチュエーションがとてもよく似合うそれは、どことなくフランスのシャトーを髣髴とさせる。
庭もかなり広い。生前でいう建売住宅くらいなら、十数軒は平気で入ると思う。家の玄関から門までは、軽く400mくらいありそうで、トラック不要で陸上ができる。それ以外の敷地は多くが花壇や植え込みになっていて、かくれんぼや鬼ごっこをするには格好の立地だろう。
門から外にはまだ出たことがないけど、そこからは街を見下ろすことができるので、小高い丘に建っていることは間違いない。
その周囲は山と川で固められていて、防衛という点から見てもそれなりの立地なのは間違いないだろう。
うん……めっちゃ豪邸ですね、これ。ぼくも全容を知った時は唖然とした。こんな規模の家、生前じゃ考えられないよ。
と同時に、自分がどういう立ち位置なのかも気になった。だって門から見える街並みを見てみると、この家クラスの建物なんて城塞に付随してる砦くらいしか見当たらないんだ。
もしかしなくてもうちの父さんは、国の要職にある立場と見ていいだろう。最低でも貴族、もしかしたら……いや、これは考えないでおこう。
「にーたまっ」
門で街並みと、その外円部に広がる果樹園らしきものを眺めるぼくの後ろから、とてとてという足音と共に、舌ったらずな声が聞こえてきた。
振り返ればそこには、ワンピースを思わせる貫頭衣タイプの子供服に身を包んだティーアがいた。目の覚めるような赤い髪と、母さんにうり二つの赤い目が特徴の女の子だ。
傍らには、使用人でも最年長の侍従長、フィーネ。いわゆるばあやっていうポジションの人だね。
ぼくが振り返ると同時に、ティーアがぼくに飛び込んでくる。それを正面から抱きとめて、ぼくは笑った。
「ティーア、どうしたの?」
「かーたまが、にーたまよんで、って」
母さんがぼくを?
どういうことかな、とは思ったけど、ティーアはまだ三歳。これ以上の説明は難しいだろうから……ぼくはちらりとフィーネに目を向ける。
「依頼があったとのことで、ベリー様が間もなくご出立なさいます。その前にセフィ坊ちゃまのお顔も見たい、と……」
なるほど、そういうことか。
「ん、わかったよ。それじゃあ中に戻ろう、ティーア」
「うんっ」
そしてぼくはティーアの手を取ると、並んで家へと向かう。その後ろに、きっとほほえましい表情を浮かべたフィーネが続いている。
兄妹仲はご覧の通り、良好だ。まあ、ぼくの精神年齢は31歳だからね。3歳の妹を邪険にしようなんてこれっぽっちも思わないし、そもそも死ぬほどかわいいのでそんな気にもならない。
ぼくが超がつく早熟だからか、家中で叱られるのはもっぱらティーアだけど……自分の異常性はぼくが一番理解してるから、どうしてもかばっちゃうのもあるよね。
何かあるとすぐぼくのところに飛んでくるし、ぼくと同じことをしたがる。ああもう、ティーアかわいい。妹かわいすぎる。
うちの妹がこんなにかわいいはずが、……いやいや、バカ言ってんじゃないよ。妹はかわいいよ。もう目に入れても痛くないよ。
ぼくがそうやって猫かわいがりをしてるせいか、ティーアはかなりお兄ちゃんっ子だ。最初に覚えた言葉も、父さんでも母さんでもなく、兄様だったレベルだ。まったく、兄冥利につきるね。
そうやってティーアと一緒に家に入ると、エントランスでは既に武装した母さんが最後の確認を行っていた。早速声をかける。
「母さん、また仕事だって?」
「セフィ。ああ、そうだ。どうやらハガネオオカミの群れが畑を荒らしているらしくてな。このままでは収穫への悪影響は避けられない」
ぼくの言葉に、母さんは頷く。
母さんもそうだけど、もはやうちの人間はぼくが言葉を流暢に話していることには疑問を持っていない。
歳に不相応な落ち着きやら語彙やらを持っていることも、特に気にされていない。完全に慣れていて、ぼくとの会話はわりと大人がするようなものがほとんどになっている。
「そっか……じゃあしょうがないね。どれくらいかかりそう?」
「群れの規模によるな。だが通常なら群れの数は多くても十頭前後、遅くとも三日後には戻れるだろう」
「三日ね……わかった。気をつけてね」
「ああ、もちろん。無理はしないさ」
皆さん、ご覧ください。鎧を身に着け、大剣を背に担いでなお、にっと笑う余裕を残すこの幼女こそ、ぼくたちの母さんです。
鎧は、西洋の甲冑や日本の具足ともまた違う。あえて言うなら聖闘士○矢の聖衣みたいな感じで、完全には全身を覆っていない。それ以外のところはボディスーツを思わせるぴっちりとしたもので、ぶっちゃけて言うと、その筋の人からすると相当エロく見えると思う。
大剣に至っては肉厚幅広、それこそどこぞのガ○ツかクラ○ドか、と言わんばかりの、ドチャクソでかい逸品だ。付け加えて言うと、大人の使用人よりもでかいので、二メートルはほぼ間違いないと思う。
なんという強靭な肉体。とてもそうは見えないけど、彼女はなんと戦いの最前線で戦うヘビーアタッカーなのです。ぼくも最初この姿を見た時は、目が飛び出るかと思うくらい驚いたよ。
普段はこういう、凛々しさあふれる幼女騎士なんですけどね……。父さんが絡むと途端に「なのです」口調のデレデレ幼女になってしまうので、なんていうかこう、……なんだろうね、このかわいすぎる生き物は?
「ティーア。母さんはしばらく留守にするが、お兄ちゃんの言うことをしっかり守るんだぞ」
「あいっ」
「よし、いい子だ。……セフィ、お前はあえて何か言う必要もないと思うが……家を頼んだぞ」
「うん、任せてよ」
「フィーネ、皆を頼む」
「お任せください、ベリー様」
それから使用人の一人一人に一言を申し添えて、母さんは皮の鞄を腰に巻く。準備は万端のようだ。そしてぼくたちは、門の前まで母さんを見送りに出る。
「では行ってくる!」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「いってぁっしゃーい!」
ぶんぶんと大きく手を振るティーアを筆頭に、ぼくたちは手を振る。やがて母さんの小さな身体が丘を下りきるまで、ぼくたちはそれを続けていた。
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母さんの職業は、冒険者だ。とはいえ定住しているので、その呼称は少しそぐわない。言うなれば、何でも屋と言ったほうが正しいか。
冒険者ギルド、というものがこの世界にはあるという。この大陸にある全国家をカバーする大規模な組織で、各都市に店を構え、さまざまな依頼が持ち込まれては、誰かがそれを請け負うのだという。
モンスターをハントするゲームや、MMORPGでおなじみのアレだね。ぼくとしては、ギルドというと中世ヨーロッパの徒弟制度、そこに付随する業者集団というイメージが強いんだけど、ところ変われば言葉の意味も変わるってことかな。
母さんはそこに登録している冒険者で、この道25年の大ベテランだ。階級も上から二番目のミスリルクラスで、この街どころかこの国でも一番腕の立つ剣士らしい。
彼女が自主練してるところを何度も見ていたけど……いや、これが噂にたがわぬ超絶技巧。
実際に敵と戦っているところを見たことがあるわけではないけど、まったく目でとらえられない速度であの大剣を振り回し、自分の身長以上の跳躍をしてのけ、縦横無尽に動き回る姿は説得力がありすぎた。そりゃあ、使用人からあれだけ尊敬の目で見られるのも当然ってわけだね。
ちなみに、たまに父さんが帰ってくると、二人で乱取り稽古らしきことをしてるんだけど……父さんも人間やめてるレベルの強さ。もう現役じゃないって笑いながら言ってたけど、あれで引退レベルなら、全盛期はどんだけ強かったんだよ。
いや、その強さが母さんが惚れた理由の一つではあるらしいんだけどさ……。ドラゴ○ボールかってレベルの気弾ぶっ放しまくるし、スタプラかってくらいめっちゃラッシュかますし。っていうか、グラップラーだったんですね、お父さん……。
ともあれそんなわけで、母さんは時折街のギルドから出される依頼を受けて生活費を稼いでいる。依頼の内容で収入は大きく左右されるが、そもそも母さんレベルの人間に舞い込んでくる依頼は相応の代物なので、持ち帰ってくる額はかなりのものになる。
さすがにぼくを産んで最初の一年はなかったけどね。
さて……ここで誰もが首を傾げただろう。あの幼女がこの道25年だと……? とね。
うん。ぼくもびっくりしたんだけどね……あの人……今年で35歳らしいですよ……。
若作りにもほどがある! と思った皆さん。ご安心ください、これにはちゃんと理由があるんです。
彼女、実は一般的な「人間」ではないらしい。彼女は小人族と呼ばれる少数種族で、成人しても人間の子供くらいの見た目のままなのだという。だから、一児の母となってもあれだけ若々しい姿を保っているのだ。
まあその、アレな言い方をすると合法ロリってやつですね。どうやら、ぼくはなかなかにけしからん世界に転生してしまったようだよ。
ちなみに、父さんは普通の人間だ。彼のような種族は人間族と呼ばれていて、話を聞く限りでは、地球人が人間と言われて思い浮かべる人間と違いはない種族のようだ。
つまりぼくは、人間族と小人族のハーフということになる。
他にもいろんな種族がいるらしいけど、少なくとも身近なところにはいないので、今後が楽しみだ。エルフとかドワーフとかケモノとか、そんな種族がいてくれるなら、一オタクとしてはとても嬉しい……。
「にーたま、おはなし、おはなしして?」
この世界にいる人種についての本を読みながら、まだ見ぬファンタジー種族にぼくが心を躍らせていると、後からティーアが裾をつかんで言ってくる。
ここは書庫。最近のぼくの居場所だ。ここでぼくは、ひたすら本を読む生活を最近送っている。
最近文字を母さんやフィーネに教えてもらっているので、復習と予習を兼ねて書庫に出入りしているのだ。まだうまく読めるわけじゃないけど、こういうのは反復練習あるのみだからね。
ただ、読めなくても目的があるぼくはともかく、普通の三歳児にとって読めない本なんて面白くもなんともないわけで……ティーアはこうやって、ぼくを呼びに来るというわけだ。
かわいい妹のお願いだ、邪魔だと思うわけがない。元々熱中したら周りが見えなくなるような性質でもなかったし、急ぐほどここの書庫には本がないからね。
本にフィーネお手製のしおりをはさみつつ、ぼくはティーアに向き直る。その脳裏で、これだけの規模の家にある本の数が、三ケタに届かないっていうのが末恐ろしいと思いながら。
……本という媒体が広く流布し始めるのは、洋の東西を問わず印刷技術が発達し始めてからだ。それまでは、本なんて知識人階級のものでしかなかったし、だからこそ識字率も極めて低かったのだ。
他方、その知識人階級というのは主に聖職者や上流階級に当たり、我が家も恐らくそこに含まれると思われる家の規模を誇るけれども……そんな我が家ですらこの程度しか蔵書がないということは、まったく嫌な予感しかしないとしか言いようがない。
しかもその一冊一冊は大きさがまばらで、高さはもちろん幅も、そして装丁に至っても統一感がまるでない。中身も、文字はどう見ても手書きだし、紙もどう見ても羊皮紙。百歩譲っても、この世界の印刷装丁技術が中世ないしは近世ヨーロッパレベルだということは間違いないだろう。
いや、ここにある本がすべて古文書という可能性を考えればワンチャン……。
……ないだろうなあ。どう見ても新しいんだもんね……。ああ、ぼくの夢が遠ざかっていく……現実はなんて厳しいんだろう……。
けど、考えても仕方ない。目の前の現実からは逃げられないのだから。それに、まだ可能性はある。世界は広いはずだ、もしかして技術が進んでいる地域もあるかもしれない。
「よーし、それじゃあ戻ろうか」
「あいっ!」
不安を押し殺しながら、ぼくはティーアに笑いかける。返ってきた天使のような笑顔、本当に癒されるわあー。
ここで抱き上げることができればいいんだけどね、あいにくぼくもまだ身体は三歳児なのでそれはできない。代わりに彼女の頭をなでて、笑うのが手一杯だ。
書庫を出て道中、階段でティーアが転げ落ちないように見守りながら、ぼくにとってもまだ大きい階段を下りていく。目指す場所は食堂だ。
なぜ部屋じゃなくてそこなのかというと、ぼくがティーアに話すお話が、使用人たちにも人気だからだ。
普通なら、子供にはおとぎ話やら童話やらを話すらしいんだけどね。グリム童話みたいに、地域ごとに集積された昔話っていうやつがこの世界にもあるんだとかで。
でも、それよりもティーアはぼくが話すお話のほうを好む。なぜかというと……。
「それじゃ、どんなお話にしよっか」
「にーたま、わたしホクトがいーの」
「そーか、それじゃこないだの続きにしよう。えーと、昔々あるところに……胸に七つの傷跡を持つ男がいました」
皆さん、もうおわかりだろう。そう、ぼくが話すのは、地球で文化侵食すらしかねないほど人気となったクールジャパンの象徴、漫画なのだ。
手塚治虫が初めて以降、長年に渡って洗練されてきた日本の漫画。その中でも歴史に燦然と輝く有名な漫画を語るのだから、面白くないわけがない。
そしてそれは、いつしかティーアだけに留まらず使用人たちにも広まり……こうやって、食堂でみんなに語り聞かせるようになっていたというわけだ。
言葉でしか説明できないので、正直つらいところがいっぱいある。漫画の持ち味は、やっぱりぱっと見て状況がすぐにわかるという、絵が持つストレートな説得力だ。それがないのだから、不便極まりない。
せめて一枚絵でも用意できるなら、紙芝居みたいにしてもっと語りの幅も増えるんだけどな……。
でも、今のところこの世界に転生してから、いわゆる紙は見てない。羊皮紙ばっかりだ。文字を覚える時に使っているのは、地面と木の棒だ。まったく、漫画家志望としてはお先真っ暗すぎる世界だ。
ただ、そう捨てたもんじゃないとも思うことはある。
それは、身振り手振りを入れながら話すぼくの語りを、その場にいる全員が固唾を飲んで聞き入ってくれていることだ。そこに、老若男女の別はない。つまり、この世界の人たちの感性は、地球人とさほど違いはないのだ。
だからこそ、希望はある。空想の物語を楽しむことができる土壌があるなら、そこに漫画の種が実を結ぶ可能性は大いにあるのだから。
紙がない? 筆記具がない?
だったらいっそ……ぼくが作ってしまえばいい。最近は、そう思うようになった。男は度胸、なんでもやってみるもんさ……とは、某ツナギのナイスガイの名言だ。使い道は違うけど。
そんなことを考えながら、ぼくの語りは少しずつ佳境に入っていく。誰かがごくりと生唾を飲む音が聞こえた。
「『てめえらの血の色は何色だーッ!!』
絶望に満ちた街の中に、彼の怒声が響き渡ります。そしてその手刀が、空気を切り裂き悪漢たちを打ちのめします。強い! 圧倒的な実力差! 人々の顔に希望が戻ってきました。
しかし……それも長くは続きません。やつが現れたのです。人の何倍もある馬にまたがる、暴力の象徴。拳王が、怒れるレイの前に立ちはだかりました……!
続くッ」
「えーっ!」
ぴしゃりと物語を止めたぼくに、ティーアが不服そうに口をとがらせる。
ふふふ、気になるかい? けど、おあいにく様だ。物語はいいところで句切る、それが連載漫画の常とう手段なのさ……!
「続きはまた今度ね」
「うー……」
ぷくぅとほっぺを膨らませるティーア。けれどそうしながらも、「わかった」と頷く。ものわかりがいい妹を、ぼくは笑顔でなでて応じるのだ。
「はい、どうぞ」
そんなぼくに、フィーネが水差しとコップを持ってきた。
「いつもありがとう、フィーネ」
彼女にも笑顔を返して、ぼくはコップに水を注いで一口にあおる。
……やっぱり、長々と話し続けるのは相応に疲れるんだよね。一応、ぼく三歳児だし。
「坊ちゃまのお話はいつも面白いです。よくそんなにも思いつきますね」
「いや、まあ、うん……」
まさかパクってるとは口が裂けても言えないので、ここは笑ってごまかすしかない。
フィーネのそんな振りに始まって、今回この場にいた使用人たちからも感想が次々に上がる。
やはりどんなに虐げられようと屈しない彼女と、一度悪堕ちしながらも義星としての使命に目覚めた彼は人気が高い。
拳王様登場したし、そろそろ後者の彼は死ぬんですけどね……。不満めっちゃ言われそう。ううん、原作改変はあまり好みではないんだけど、……いや、確かに異世界だから、著作権もクソもないけど……。
「あーあ、聞いておしまいっていうのがもったいないわ」
「本当にねー。見てわかる形になってればいいのにね」
そんなやり取りが行われている。
うーん……この世界って、もしかして小説の類もまだないんだろうか?
「……ねえ、文字でつづられた物語の本ってないの?」
気になったので聞いてみる。わからないことは聞くに限る。所詮は一時の恥だ。
「シエルには……ほとんどないですねえ……」
その場の全員が、申し訳なさそうに口をそろえた。
シエルとは、ぼくが今住んでいる国の名前だ。シエル王国。意味は天空。実際、標高は高いところにある。そして……この大陸の最貧国だ。
これが、ぼくがまだワンチャンあると思っている理由でもある。今ぼくが見聞きしている技術は、要するにここらで一番遅れているものだからね。
そしてそれは、「シエルには」という言葉づかいからも察することができる。
「シエルには、ってことは、他の国ならある?」
「そうですね、セントラルやムーンレイスなら多少は……」
「なんでも、セントラルではインサツキという道具があるようです。それを使えば、手で書かなくとも文字を紙に書けるのだとか」
印刷機! ってことは、小説もあるよね? さすが大国!
文字を印刷するってなると、初期の活版印刷かな? グーテンベルクはこの世界にもいたんだね!
まあ、ぼくが求めるのはオフセット印刷とかレーザープリンターとか、そのレベルのものだから、ある意味でぼくの期待はこれで完全に砕かれたと言ってもいい……。
先進国がようやく文字を印刷する段階の技術じゃあ、漫画を作るなんて夢のまた夢だろうなあ。絵はきっと、銅板を削った原版が使われてるんだろうね……。
それでも、土壌があるのとないのとでは大違いなはずだ。「印刷」という言葉があるなら、周囲の理解も得やすいはずだし。
ちなみに補足が遅れたけど、セントラルとムーンレイスというのはこの大陸の二大大国のことだ。アメリカとロシアみたいなもんだね。
セントラルについては、以前父さんが「帝国」と言った地域がそれらしい。
詳しいことはまだよくわからないけど、セントラルは確かお隣だったはずだから、いつか行ってみたいね。大山脈が間にあるけどね……。
まあそれは置いておこう。細かいことは機会があれば、その時だ。
「でも、紙は貴重品ですし」
「セントラルは印刷機の輸出を禁じてるみたいですし」
「……前途多難だなあ」
ぼくの前に立ちはだかる壁が巨大すぎる件。この世界に超大型巨人はいませんかね?
いや……まあ、いないだろうね。
だったらやっぱり、ぼくがなるしかないのか。……やるしかない、か。
どれだけかかるんだろう。地球じゃ、およそ500年かけて発達させてきた技術体系だ、想像もつかない。きっと、ぼくが生きている間じゃ無理だろう。
最低限の技術で妥協するとしても、そこまで押し上げるまで……ぼくの寿命は持つだろうか?
考えるだけでもぞっとする。ぼくにあるのは、生前創作で利用できそうと思って身に着けた、広く浅い知識だけだ。劇的に現状を変えるような、超能力なんて一つもない。
でも、夢をかなえるためにはそれを乗り越えてすべてやり遂げる必要がある……。
「……にーたま? こあい……」
ぼくがじっと考え込んでいると、いつの間にかティーアがぼくの顔を覗き込んでいた。
心配そうにぼくを見つめる、美しい赤い瞳。そこに映りこむぼくの顔は、確かに三歳児には怖いかもしれない。
いや、あるいは敏感にぼくの考えていることの片鱗を感じたのか。子供の直感はバカにならない。
「ああ。なんでもないよ、ティーア。ちょっと難しいこと考えてただけだから」
だからそう言って、努めて優しく笑ってぼくはティーアを抱き寄せる。そしてその頭をなでる。
それに安心したのか、ティーアはすぐに相好を崩すと、きゃっきゃと笑い始めた。
その笑顔に心底ほっとするのは、彼女を筆頭に、今ぼくを取り巻く環境が幸せだからだろう。
けれど、この世界で漫画家を志すとなると、そうした幸せをすべてなげうたなければならないかもしれない。
ぼくに、そんな覚悟ができるだろうか?
……答えは、まだ出ない。
当作品を読んでいただきありがとうございます。
感想、誤字脱字報告、意見など、何でも大歓迎です!
ティーアの性格は、ちょっかいかけまくる系おてんば娘とどっちにしようか悩みましたが、今の形に落ち着きました。
してから思いましたが、このまま行くとお兄様系妹キャラになるのでは……(汗