第15話 彼らの秘密
無事に紙を作り上げた日の夜。
ぼくは早速数枚の紙を寮に持ち込み、今後のことを考えていた。
紙の改良は、今後も努めていくべき最重要課題の1つだ。紙は原稿になることはもちろん、印刷後の本そのものにもなるからね。
とはいえ、紙だけに注力するわけにもいかない。他にも必要なものはたくさんあるからして……ある程度のところまで進んだら、次のものの作成を並行していくほうがいいだろう。
「じゃあその紙の改良を、具体的にどこまで進めるか、だなあ」
ペンにインクを付けた状態で、ぼくはふむん、と小さくうなる。
藤子ちゃんからもらった、地球製品は今回は待機だ。何せ、ここは個室じゃない。あんなオーパーツを、人前で使うわけにはいかない。
シェルシェ先輩は寮内の会合があるとかで席を外しているんだけど、いつ帰ってくるかわからないしね。
ぼくとしては、この新しい紙にシャーペンで書いた時どうなるかを調べたくはあるんだけど……。
「……まあ何はさておき、やっぱりインクのにじみ具合をもっと少なくするのが最優先か」
にじみ、と書いて一人で頷くぼくである。
「サイズ剤といえば、松脂が一番簡単だろうって藤子ちゃんは言ってたけど……あるのかなあ……松……」
何せここは、小麦粉が小麦からじゃなくて、果実から採取されるような世界だもんね。羊皮紙も、カムシジって動物の肉をうすーくスライスして乾燥させただけでできるような世界だ。
地球にないものはあるけれど、あるものがない。よくよく考えるまでもなく、異世界なんだからこれはある意味当然なんだよね。
「……いっそ松脂は無視して、一気に中性紙まで飛んだほうがいいかなあ? 松脂だと結局酸性紙になっちゃうから、あまりお勧めできないとも言ってたし……」
酸性紙と中性紙。何がどう違うのかと思うかもしれない。けれどこの違いは、ものすごく大きな問題だったりするのだ。
……ごめん、全部藤子ちゃんの受け売り。
藤子ちゃんいわく。
酸性紙の寿命は、せいぜい50年程度。100年も経ったら、ボロボロで読むに堪えない状態になってしまうのだという。
どうしてそんなことが起こるのかというと、そもそも紙の主成分であるセルロースが酸に弱いんだとか。具体的にどうして弱いかは、小難しくて右から左で覚えてないんだけど、ともかく酸によって紙はもろくなり、劣化が急激に進んでしまうという。
そしてこの酸をもたらすのが、インクにじみを防ぐためのサイズ剤である松脂……正確には、それを効率よく定着させるために使う硫酸アルミニウム、というわけだ。
この酸性紙の強度の問題が発覚したのが、どうやら20世紀に入ってかららしい。ちょうど、硫酸アルミニウムを使った定着方法が一般化した頃に作られた紙製品が、劣化しきって使えなくなってしまったことで発覚したんだとか。
この問題を解決するために、硫酸アルミニウムを使わないで済むサイズ剤の開発が進められて……21世紀に入ってからは、紙全体に占める酸性紙の量はだいぶ減ったらしい。
代わって数を増したのが、中性紙だ。こちらの寿命は、酸性紙の4~6倍はあると言うから、その差は歴然としている。
ちなみに、和紙はそもそもインクのにじみを気にする必要がない紙なので、サイズ剤は使われない。明治に入るまで、墨で文字を書いていた日本人にとって、そんな技術は不要だったんだね。
だから、和紙は最初から中性紙で、洋紙に比べて寿命が長い。これが洋紙に比べて優れていると思われている要素でもあるらしいよ。
とまあそんなわけで……将来を見据えるならば、手っ取り早い酸性紙で満足するよりも、その先である中性紙を目指したほうがいいのかもしれない。
どうせインクで文字を書くこの世界じゃ、インクにじみ対策をしないという選択肢がないんだからね。
「センカ草にしろカムシジにしろ、なーんかこの世界って妙におあつらえ向きな生物が揃ってるし……案外そっちに適したものもいたりしてね」
呟いてから、いくらなんでもなあ、とも思うぼくであった。
そこに、後ろから声がかかる。
「何を書いてるの?」
「先輩」
シェルシェ先輩だ。会合が終わって、戻ってきたんだね。普段は常時学校の制服という倹約家な彼だけど、さすがにもう夜になった今はラフに寝間着だ。
……誰だい、中世のヨーロッパは寝る時と言えば裸だったはず、ショタとして脂の乗り始めてる先輩の全裸ゼッヒ・ジップデークレとか思った人は。
残念ながら、全裸で寝る習慣はヨーロッパ全域にあったものではない……というか、そもそも肌をさらすと言う行為は忌避されていたので、そんな地域のほうが稀だったみたいだよ。あ、ちなみにそこまで稀じゃなかったの、フランスね。
「今後のことをまとめておこうと思いまして。やっぱり考えごとは文字にしたほうがはかどります」
「もうそんな先のことまで考えてるの? セフィ君はすごいなあ……」
「いやあ、決してそういうわけじゃ……」
単に前世の知識があるだけですから。藤子ちゃんっていうチートな助っ人がいるだけですから。
ぼくはそんな大した人間じゃないんですよ。……もちろん、そんなことは言えないんだけど。
「ボクも見せてもらっていいかな?」
「もちろん。どうぞ……と言っても、まだ途中なんですけど」
書きかけの計画書を差し出しながら、ぼくは空いた手で後ろ頭をかく。
それでも先輩は、紙を受け取りながらそんなことないよ、と小さく笑った。
「……やっぱり、インクがにじむのが一番の問題だよね。羊皮紙はむしろにじまなかったから……」
「そうなんですよ。あれさえ解決できれば、紙の存在価値は一気に上がるはずです」
「カムシジが完全に絶滅する前に、その技術を確立しておきたいところだよね」
先輩に頷いて、それからぼくは「ん?」と思う。
「……絶滅?」
「ああそうか、シエルだとそもそもカムシジが生息できないから知らないんだね。あー……その、カムシジなんだけど、羊皮紙目当ての乱獲が続きすぎて、絶滅しかかってるんだ」
「マジすか……。え、ってか家畜じゃなかったんですか?」
「うん。気性が荒い上に群れる性質がないから、家畜にできないんだよ。繁殖期も短いし……」
「全然ダメじゃないですか、それ。それなのに乱獲しまくったんですか?」
「まあね……それだけ羊皮紙の需要があったんだよ。セントラルとムーンレイスでほぼ同時期に印刷機が開発されてから、余計拍車がかかったんだったかな、確か……」
「うわあ……」
つまり、
元々羊皮紙自体が多く作れない→印刷機ができたので羊皮紙の需要が高まる→需要に応じてカムシジ乱獲→カムシジが絶滅寸前←イマココ!
ってことか。
地球で言うと、象牙やサイの角みたいな感じかなあ……。上流階級の生活必需品に近い羊皮紙の需要は、そういった嗜好品の比ではなかったかもと思うけど……。
人間の活動も自然の一環とはいえ、どこか切ない話だ……カムシジにとっても災難だろうな。どんな見た目か、ぜんっぜん知らないけど。
「でもセフィ君が開発したこの……えーっと、紙、か。これがあれば、そんなことで悩む必要はなくなるもんね、すごい発明だよ。しかも材料があの雑草ってのがまた……」
「まだまだですよ。にじみの問題もそうですけど、もっと大量生産するための効率化も必要だし、あとは目的に応じて紙の種類を作り分けたりとか……」
「随分と先のことまで見据えてるんだね……ボクより君のほうがよほど『天才』だよ」
「い、いや……そんな大それたものじゃないんで……」
イヤイヤっと両手と首を振って、全力でそうじゃないとアッピルする。
何せぼくの力でやったことじゃないんだ。二度目になるけど、ぼくはそんな大した人間じゃない。
「あはは、じゃあそういうことにしておこう。というより……たぶん、本当に『そうじゃない』んだろうから」
「……っ?」
振っていた手が、思わず止まった。
先輩の発言が、そこを強調しているように聞こえた。そこに、何かを見抜いているような調子があった。
そう思ったら、次に飛んできた先輩の言葉が、妙に空恐ろしく感じるのであった。
「ねえセフィ君、一つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「は、はい……なんでしょう?」
先輩の口調は、いつもと全く変わらないんだけど。なんでか、ぼくは怖いものを感じている……。
そんなぼくの心境を知ってか知らずか、先輩は、やっぱりいつものように優しく笑う。
「セフィ君ってさ……もしかして転生者なんじゃない?」
「……――っ!?」
今底こそ、ぼくは完全に動きを止めた。いや、止めざるを得なかったと言うか。呼吸すら、一瞬忘れてしまったくらいだ。
バレた? なんで? どうして?
父さんにも母さんにも気づかれてなかったのに?
「あ、な……いや……なななっ……」
「……図星みたいだね」
ぼくの取り乱しように、先輩はもう一度くすりと笑った。それからぼくの肩にその小さな手を置いて、力強く首を振る。
「大丈夫、怖がらなくていいよ。君に何かをするつもりなんてない、それはこれから先も変わらないよ。ただ……」
ただ? という問いは、ぼくの口からは出なかった。心臓がバクバク言っている音だけが妙にはっきりと聞こえる中で、口が動かなかったのだ。
「……ただ、秘密は共有しておいたほうがいいと思っただけだから」
「ひ、秘密、ですか……」
「……あ、ごめん、さっきの言い方も御幣を招く言い方だったね。何も君の秘密を強引に聞き出そうとか、そういうつもりで確認したんじゃないんだ。実はね?」
そこで先輩は、とびきり優しい笑顔を見せると、ぼくの唇に人差し指をそっと当てる。
そして、そんな彼の口から飛び出た言葉に……ぼくはそれまでとは全く違う驚きで、飛び上がりかけた。
「ボクも転生者なんだ」
「ええぇぇ――っむぐう!?」
「夜だよ……」
予想していたのか、先輩は苦笑しながらぼくの口を手でふさいだ。
それから少しだけぼくたちはそうしていたけど、先輩がいいかな? と聞いてきたので頷き……そこで、ぼくは解放される。
「……せ、先輩……」
「うん。……驚かせてごめんね。ボクも誰にも言ってないから、無理はないけどさ……」
そうして、先輩は語りだした。ぼくはそれを、じっと聞く側に徹する。
「実はね、小人族は稀に転生者が生まれる種族なんだ。小人族の中でも迷信に近い扱いをされてるから、信じてる人はあまりいないけど……いるのは本当だよ。
ボクも自分がそうなるまで信じてなかったけど……君やボクの存在がその証拠だ。他の種族ではそういう話は聞かないけど、ボク個人は小人族だけの特殊な性質だと思ってる。
なんでかっていうと、小人族の守護神が生と死を司る死神、マティアス様だからだ」
先輩は説明する。死神とはつまり、死んだ魂を預かり、新たな魂として生まれかえることを仕事にする神なのだと言う。その神が、小人族の守護神をしているのだから、特別な加護があってもおかしくない。その発現が、転生者という存在ではないか、と。
なるほどと思うところもある。けれど同時に、首を傾げるところもある。
まず、ぼくは確かに小人族の血を引いているけど、厳密には人間族とのハーフ。純血じゃない。そんな存在に、そこまで神様が気にかけてくれるだろうか?
そして何より、ぼくの魂はこの世界のものじゃない。地球という、少なくともファンタジーとは縁のない世界のものだ。そんな魂を、わざわざここまで持ってきて転生させる。そんな面倒なことをするだろうか?
「天才なんて周りは言うけど、別に天才ってわけじゃないんだよね。ただ前世の記憶と知識がそのままあるからこそ、年齢にふさわしくない活躍ができるだけのことなんだ。君もそうでしょ?」
「ええ……それは、はい……」
けれどまさか、その言葉を他人から聞くことになるなんて、思ってもみなかったよ。
でも考えてみれば確かに、先輩は神々の5色も持っていないのに、あらゆる分野に秀でている。これはつまり、そういう経緯があるからこそなんだろう。
「ボクはね、元々冒険者をしてて、ゴールドまでは行ったそこそこのベテランではあったんだけど……調子に乗って神話級ダンジョンに挑んだときに、仲間をかばって死んじゃってね。そんな前世だから……」
言いながら、先輩は右手を開いてそっと目の前に掲げた。すると、そこに美しく洗練された魔法式が、マナの実動を伴って組みあがっていく。
それは、メン=ティの魔導書が一つ、風の上級魔法ウィンドムーンのものだった。詠唱文なしでこれほどの精度を構築するのは、相当に難しい。父さんも、ここまできれいではなかった。
「……こういう物騒な技術だけはやたら得意なんだよ」
そう言って苦笑した先輩は、次の瞬間には組み上げていた魔法式をその場でかき消してしまっていた。
「はあ……なるほど……」
「でも今度の人生は、5色を獲得できなかったからね。技術はあっても、マナの許容量があまり増えないことを考えると、冒険者として大成するのはちょっと難しいね」
全魔法は使えるけどMPは少ない、賢者とか月の民みたいな性能ってことか……。デカントでMP増やさないとな……。
……まったくどうでもいいことを考えることはできるんだね、この頭。
「……ぼくは」
まだ少し混乱した頭を整理しながら、ぼくは口を開いた。
「その、前世は……画家、でした」
「へえ……じゃあ、今の君のマナに関する技術は転生してから身に着けたもの?」
その問いに、ぼくは無言で頷く。
まさか、前世にはマナなんてものは存在しませんでしたとは言えない。言わないほうがいいだろう。
だから、前世のことも「画家」とぼかした。この世界から見たら、異世界である地球のことはあまり口にして回るようなことじゃないだろう。
そもそも、紙を作ったことすらこの世界にとっては歴史を変える出来事だ。これに匹敵した知識を持っていると思われたら、どんな目に合うかわかったものじゃない。
「まあまったく売れない……鳴かず飛ばずだったんですけども。どうも今までのものじゃぼくの描きたいものは描けなくって……それで、代わりになるものを探して偶然見つけたのが、紙だったんです」
後半は完全な嘘だけど。それっぽい理由ではあるだろう。
嘘でごまかすのはあまり気分のいいものではないけどね……。
「なるほどなあ……確かに芸術家っていう人たちは道具一つからこだわるイメージがあるよ。君にとっては新しい画材のつもりだったんだね」
「はい。ただ作る前に死んじゃいましてね。理論はできてたんですけど……」
「ははあ……じゃあ君にとって、今度の人生はその夢をもう一度目指すものなんだね」
「はい、その通りです」
表面的なな部分はさっき言った通り、嘘だ。けれど、先輩がたどり着いたぼくの「根本」は、嘘じゃない。
そうだ、ぼくの夢は……漫画家として成功すること。そして前世でそれができなかったぼくにとって、今度の人生はそれに向けてもう一度走るために存在するんだ。
それにしても、先輩は察しがいい。冒険者というのは、それくらい観察力がないとやっていけないんだろうか。それとも、それだけ長い人生経験があるんだろうか?
「あの……先輩の前世って、享年は……」
「享年? えーと、48……だったかなあ。引退記念のつもりで挑んだダンジョンで死んだから、世話ないけどね」
そう言って、先輩は苦笑がてら肩をすくめた。
48っすか……わーお、ダブルスコアとまではいかないけど、相当な年齢差……。
ってことは、先輩は今7歳だから、都合55歳か……そりゃあ落ち着くってものだよね……。
「ちなみにセフィ君は?」
「あ、ぼくは28でした。3日連続で徹夜したのはやっぱりダメだったみたいで……」
「……それは無茶しすぎでしょ……」
「恐縮でーす……」
ぼくの言葉……と、態度がおかしかったのか、先輩はくすくすと笑う。
いつの間にか、ぼくたちの間にあった、どこか張り詰めたような空気は消えていた。
「……それにしても、まさかぼく以外にも転生者がいたなんて……」
「ボクも驚きだよ。自分以外の転生者に会うなんて、まったく想像もしてなかったから」
ぼくは異世界からだけど、という言葉を喉元で飲み込んで、頷く。
「転生者は転生者なりに、大変なことも多いよね。やりたいことのほとんどが、周りにとっておかしいことが多いから」
「そうですねー、ぼくの場合モノがモノなんで、余計ですね……」
「だろうね。でも、君のやろうとしていることに深い意味があることは、理解できたから。今後はしっかり協力するよ」
「……ありがとうございます。でもそれじゃ、先輩にはメリットが何も」
「いいんだ、ボクも今度の人生はのんびりするつもりだったから。君みたいな人と知り合えただけでも十分だよ。
それに、言ったでしょ? 秘密は共有したほうがいい、って。ボクらのこの秘密は、わかる人にしかわからないものだからね」
そう言って、先輩はまたにこりと笑った。いつも通りの、優しげな笑みだ。
その様子に、どうも妙な感覚を覚えてしまう。
「……先輩って、本当に男ですか?」
「あはは、今は、ね。前世は女だったよ」
「うわあ、そういうことですか! 道理で動作がやたら女性っぽいと思った!」
TSものじゃない! リアルでそんな人見ることになるなんて思ってもみなかったよ!
「そう言わないでよ。違う性別の身体で生活するって、大変なんだから」
「いや、うん、わかりますけど……ある程度の想像はできますけど……」
つまりこれはあれだよね。擬似的ではあるけれど、同室で女の人と同居してるようなものか……。
身体が子供じゃなかったら、間違いが起こりかねないな……!
いや、ぼくはノンケだからそんなことありえないけど……! 何せノンケだから……!
「一緒に寝る?」
「いや、それはさすがにやめといたほうがいいと思います! さすがに!」
「あはは、冗談だよ。でもセフィ君、改めて」
くすくす笑いながら、先輩は右手を差し出してきた。
「よろしく。ね?」
「……はい、先輩」
その手を取って、握手。それは、初めて出会って、初めてこの部屋で交わした挨拶と同じだった。
こういうところで、以前やったことをさりげなく繰り返す手法は、上手いね。さすが、「先輩」だ。
かくしてぼくは、「転生者」という秘密を共有した、強力な仲間を得たのであった。
……自分がまだ、たくさんの秘密を抱えていることを隠しながら。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
紙に関するあれこれは、一旦ここで区切りです。
そして、明らかになるシェルシェの素性。まあ、藤子が以前「魂の色から言ってかなり歳を重ねている」と見抜いているので、今更な感じもしますが。
あと、以前にもあとがきで書きましたが、「異世界からの転生者」は後にも先にもセフィだけです。シェルシェはあくまでも「この世界における転生者」なので、この世界以上のことはわかりません。
それでもチートレベルの技術や知識を引き継いでいることは間違いないんですけどね。




