006_苦戦
辺りが暗くなり始めた頃、前日と同じような開けた場所に出た。
「中間のヴァルハラよ」
このヴァルハラは、アルテミシアとカリオペのちょうど中間にあるらしい。ザウル湿原の最深部だ。
「ここにしましょう」
エステルが辺りを見回して今日の焚き火の場所を決めると、俺は早々にショルダーバッグから火打ち石の入った小箱を取り出した。
……いつまでも何もできないダメ奴隷でいるわけにはいかない。
「今日は俺が火をおこします!」
俺はエステルに向かって声高に宣言する。絶対に成功してやるという決意表明も兼ねて。
「……どうぞ」
しかし、彼女は腰を下ろしながら関心なさそうに答えた。
……見てろよ。
俺はエステルの素っ気無い態度に一層の闘志を燃やしつつ、昨日彼女がやったように火打石で火をおこす作業に取りかかった。
ほどなくして……
「やった!」
火は意外と簡単に燃え出した。
火打石で作った火種が枯れ木に燃え移り、弱々しい煙を上げている。
さらにそれに息を吹きかけると、ぱちぱちという音を立てながら小さな炎がメラメラと湧き上がった。成功だ!
すると、それを見ていたエステルが、
「なかなかうまいじゃない」
と、珍しく俺を褒めた。
「そうですか!」
……そうでしょう!!
「ええ、これで子供並みの奴隷にレベルアップしたわね」
「……」
俺はその後、少しふて腐れながら夕食の準備を始めた。
料理は昨日と同じだから作るのは簡単だ。
当然味も一緒だが、一日中湿原を歩いて空になった胃袋にとっては何の問題もないだろう。
「今夜の見張りは四番目よ」
食事の後、エステルは例によって他のグループと話し合いを行ない、見張りの順番を決めてきた。
四番目は朝方だ。昨日よりは楽かもしれない。
そうこうしているうちに辺りは真っ暗になった。
空が曇っているせいか星の灯りすらない。
暗闇と疲労が眠気を誘う。
「ふわぁぁ……」
エステルも眠くなったのか大あくびをし、
「さて、寝るか」
と、焚き火の近くで横になった。
「はい」
俺も返事をした後、昨日の言い付けに従い、彼女から五メートルほど離れた所で横になろうとし――
「うわー!!」
その時、静かだったヴァルハラに男性の叫び声が響き渡る。
……な、なんだ!?
びっくりして声のした方を確認すると、川の近くに人影? が見えた。
まったく動かず、その場にぼんやり立っている。
……あの人が叫んだのか?
それにしては緊張感がないような……。もしかして、みんなを脅かそうと冗談のつもりで大声を出したのだろうか? と一瞬不審に思ったのだが、しかし、
「え?」
その影が直後に倒れ込む。それも左右真っ二つになって各々の方向に。
そして、その後ろ側には青白く光る巨大な影が!?
「魔物だ!!」
近くにいた人が逃げながら叫んだ。
魔物の襲来。その事態に寝静まる直前だったヴァルハラ内がにわかに騒然となる。
その出現の仕方があまりにも唐突で、あまりにも衝撃的だったため、多くの者がパニックを起こしたのだ。
軽装の者はおろか、鎧を着た護衛の者まで我先に逃げようとしている。
俺も反射的に逃げようとしたが、しかし、エステルは動じなかった。
彼女は脇に置いてあった杖を素早く引き寄せつつ立ち上がると、目を凝らし、その場でしばらく魔物を観察。落ち着き払っている。
ただ、魔物の正体が判明した途端、急に困惑した表情を浮かべた。
「……何でこんな所にマーシュクロコダイルが!?」
予想外の魔物だったのだろうか?
けれども、その表情はすぐに精悍なものへと変貌する。
彼女は辺りを見回してヴァルハラ全体の状況をざっと確認した後、
「荷物を持って隠れてなさい!」
と、早口で俺に指示を与え、自身は魔物に向かって猛然と走り出した。
彼女の指示に従い、俺は簡単にしまえる物を急いでショルダーバッグに詰め込むと、近くにあった岩の陰に隠れ、そっと辺りをうかがった。
魔物は川から岸に上がって大暴れしている。
その動きに合わせるようにして、逃げ惑っている人達の影が右往左往。
そして、時々悲鳴と血しぶきが上がる。
その魔物はワニのように細長い頭をしていた。
体もワニのようだが、後ろ足が異様に大きく、二本足で立ち上がっている。
体長は四メートルほどはあろうか。まるで恐竜のようだ。
動きも速く、逃げ惑う人達を背後から鋭い牙と爪で攻撃している。
すでに三、四人がやられているようだ。
魔物はさらに内陸に進出し、逃げ遅れた人に噛み付こうと大きな口を開けた。
その時、
「氷の茨!」
という声が聞こえ、ほぼ同時に魔物の体に氷の網目模様ができ始める。
昨日ダークベアの動きを止めたのと同じ魔法をエステルが使ったのだ。
その網目模様は猛烈な速さで成長し、魔物の動きを急速に鈍化させていく。まるで昆虫を絡め取る蜘蛛の糸のように。
そして終には魔物の自由を完全に奪い取ってしまった。
……す、すげぇ。
あんな大きな魔物でさえ、エステルの魔法にはかなわないのか。
俺は彼女の実力に改めて感心しつつ、大暴れしていた魔物の動きが止まった事にひとまずは胸をなで下ろした。後は氷の矢か何かでトドメを刺すだけだ。
が、そう簡単ではなかった。
カシャーン!!
そんな破裂音が鳴り響き、直後、魔物の表面に展開していた網目模様が崩れ出したのだ。粉々になってバラバラと。恐らく魔物が力ずくで氷の呪縛を破ったのだろう。
「ちいっ!」
エステルが悔しげな声を上げる。
自由を取り戻した魔物は攻撃目標をエステルに変え、物凄い勢いで彼女に迫った。
彼女は後退しながら呪文を唱え、振り返りざまに叫ぶ。
「風の刃!」
すると、彼女の杖から白い手裏剣のようなものが飛び出し、回転しながら猛スピードで魔物の首の辺りにぶち当たった。
……今度こそやったか?
しかし、残念ながら魔物に特別な変化はなかった。その硬い皮膚には傷ひとつ付いていない。
「風の初等魔法じゃだめか!」
とうとう魔物は彼女との間合いを詰め、牙や爪で攻撃を開始する。
彼女は魔物の攻撃に晒されながらも巧みにそれをかわし、隙をみてまた呪文を唱えているようだ。
けれども発動までには至らず、じりじりと後退している。
……だ、大丈夫なのか!?
エステルが攻撃を受けそうになるたびにハラハラする。
彼女はどう見ても苦戦している。
うまく魔物の攻撃をかわしてはいるが、魔法で攻撃することができないでいる。
魔法が使えなければ、ウィザードは普通の人とそれほど変わらないだろう。
……誰か、いないのか。
俺は焦りつつ彼女に加勢してくれる人がいないか周囲に目を走らせた。
が、悲しいことに人影ひとつ見当たらない。
葦の茂みに逃げ込んだ連中の中には武器を持った者も何人かはいたはずなのに。
あの魔物は間道で遭遇するダークベアやマーシュドッグに比べてはるかに強い。
恐らく彼らにとってもあの魔物の出現は予想外だったのだろう。
その間にも、魔物はエステルをヴァルハラの隅へと少しずつ追い込んでいく。
葦の壁に押し付けて、すばしっこい彼女の動きを止める気なのだ。
……このままじゃエステルはやられる。何とかしないと。
俺は居ても立ってもいられなくなり、たまたま足元に転がっていたこぶし大の石を掴むと、岩の陰から飛び出した。
そして、背を向けている魔物に狙いを定め、
「うりゃっ!!」
と、渾身の力で投げつける。俺ができる精一杯の攻撃だ。
その石はわずかに放物線を描きながら飛んでいき、狙い通り魔物の背中に命中する。
「よっしゃ!」
俺は軽くガッツポーズをとりつつ、魔物の反撃に備えて身構えた。のだが、むなしい事に魔物は俺の攻撃など完全に無視。何事もなかったかのようにエステルへの攻撃を続けている。
……くそっ!
石じゃだめだ。
俺は、今度は石以外で投げつける物がないか周りを素早く探り、近くの焚き火の中で燃え盛っている手ごろな木片があることに気付くと、それを強引に掴み取って魔物に投げつけた。動物なら火に弱いだろうと咄嗟に考えてのことだ。
その木片は火の粉を撒き散らしつつ暗闇の宙を飛び、魔物の尻尾の根元辺りに当たった。
「どうだ!!」
すかさず魔物を大声で挑発。
「…………」
すると、魔物はエステルへの攻撃を止め、首だけを動かしてギロッと俺を睨みつける。
「うっ!?」
その目は、瞳孔が縦に細長い爬虫類独特のものだった。その余りにも冷徹な眼差しに、俺は闘志を一気にそがれ、ヘビに睨まれたカエルのように恐怖で動けなくなってしまう。
そんな怖気づいた俺を見て、大した相手ではないと判断したのか魔物は睨むのを止め、再びエステルの方に向き直った。
その直後だった。
「風の剣!」
エステルの叫ぶ声と共に、白い半月形の板のような物が魔物の首の辺りを猛スピードで通り抜けたのは!
「………………」
魔物の動きがぴたりと止まった。
辺りはしんと静まり返り、その静けさに誘われて岩や葦の陰に隠れていた人達が頭だけを出して周りの様子をうかがっている。
「………………」
魔物はそのまましばらく動かなかった。
が、ふと首の辺りが不自然にスライドしたように見えた途端、頭があらぬ方向に傾き、そのまま地面にドスンと落下。
さらに頭を失った胴体も、バランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。
「やった!!」
俺は嬉しさのあまり思わず声を上げてしまった。
何せ、このヴァルハラを恐怖に陥れた魔物をついに倒すことができたのだから。
周りからも歓声や拍手が沸き起こっている。
「はぁ、はぁ、はぁ、……」
エステルも安堵した表情を浮かべていたが、呼吸が激しく乱れていたせいか、その場でしばらく立ち尽くしていた。
まあ、あれだけの魔物の攻撃を避け続けていたのだから、それも当然だろう。
ただその後、急に鋭い視線を俺に向けたかと思うと、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。
「何で出てきたの!」
助けたつもりだったのだが、なぜか怒っているようだ。
「すみません、つい」
俺は怒られる理由もわからないまま、申し訳程度に頭を下げた。
「隠れてろって言っておいたでしょ!」
「すみません。エステル様が苦戦していたので助けようと思ったんです」
「私を助けようなんて百年早いわよ!」
……彼女のプライドを傷つけてしまったのか。
「すみません」
俺は何度も謝ったが、彼女はまったく取り合わず、唐突に俺の右手首を掴むと、強引に手のひらを上に向けさせた。
「えっ!?」
俺は一瞬目を疑った。
俺の手のひらには、いつの間にか黒く汚れた水ぶくれがあちこちにできていたのだ。
……さっき燃えている木片を掴んだ時に火傷したのか?
あの時は無我夢中だったから気付かなかった。
でも、戦闘中だったはずのエステルは気付いていた……。
エステルはショルダーバッグから綺麗な白い布を一枚取り出してそれを川の水に浸し、
「氷の矢!」
近くの地面に放った氷の矢を細かく砕いてその布で包み込んだ。
「これを持っていなさい」
俺は彼女に言われるがまま、火傷した右手でそれを持った。
……ああ。
冷気が手の芯まで染み渡っていくのを感じる。
「……ありがとうございます」
自然と感謝の言葉が出た。
彼女は俺の手を心配してくれているのだ。
「あなたは私を助けようなんて考えないで、戦闘が終わるまでずっと隠れていればいいの。あんな魔物に襲われたら、あなたなんて一瞬であの世行きよ」
もうエステルの言葉に、先ほどのような強い怒気は含まれていなかった。
「すみません。出すぎた真似をしました」
俺は自分の行動を恥じつつ頭を下げた。彼女は苦戦などしていなかったのだ。そうでなければ、俺の火傷に気付けるはずはない。
「………………」
ただその後、彼女は急に黙り込んで、そのままぼんやりと俺の右手を見つめ続けている。何か考え事でもしているかように。
「……どうしたんですか?」
不審に思って声をかけると、彼女ははっとして慌てて横を向き、少し恥ずかしそうに俯いた後、そっと呟いた。
「……でも、……今回はありがとう」
火傷の痛みが、すっと消えたような気がした。
周りでは逃げ惑っていた人達が戻ってきて、後片付けている。
死んでしまった仲間がいるグループは、遺体をヴァルハラの端の方に寝かせていた。
明日そこに埋葬するらしい。
ヴァルハラの端には、湿地帯を抜けられずに死んだ人達のお墓が幾つもある。
実はそれがこの場所の名の由来らしい。
まあ、お墓といっても、土を少し盛り上げてあるだけの簡素なものなのだが。
しばらくすると、周りの人達も後片付けを終えたのか、静かになった。
手の火傷も、エステルの処置のおかげでだいぶいいようだ。
「私達ももう寝ましょう」
エステルはそう言って焚き火の近くで横になった。
「はい。おやすみなさいませ」
挨拶をした後、俺も寝ようと彼女から五メートルほど離れた所に向かい始める。
すると、
「そんなに離れなくてもいいわ。その辺で寝なさい」
と、彼女は寝たまま自分から三メートルほどの所を指差す。
「はい」
俺は言われた通り、少しだけ彼女に近付いて横になった。
******
……誰かが俺の肩を軽く叩いている気がする。
目を開けると、また知らない男が俺の前に立っていた。
「交代の時間だ」
「……あっ、はい」
そういえばすっかり忘れていたが、四番目の見張りだった。
俺は立ち上がり、見張りの場所に向かおうとした。
すると、何故か寝ているはずのエステルもむくっと起き上がる。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
「いいえ、今日は私も付き合うわ」
そう言うと、彼女は俺の後についてきた。
俺が見張りの場所にあった丸太に座ると、彼女は俺のすぐ隣りに、俺とは反対方向を向いて座った。
まだ辺りは真っ暗で、所々、焚き火の炎だけがうっすら赤く揺らめいている。
今日の見張りは夜明けまでだから、ろうそくで時間を計る必要はない。
「……………………」
「……………………」
俺とエステルはしばらく無言で辺りを見回していた。
「……手の具合はどお?」
「エステル様のおかげで、もう全然大丈夫です」
「そう、……それはよかった」
「ありがとうございました」
「うん……」
また静寂が俺達を包んだ。
……ちょっと寒いな。
イバンから聞いた話では、この世界にも春夏秋冬があり、今は初夏で日中は汗ばむような陽気なのだが、しかし、朝方はまだ少し風が冷たかった。
奴隷服は上下とも薄手だから結構寒いのだ。
俺は体を小さくして寒さに耐えていた。
するとその時、エステルが急にもごもごと何かを呟く。
「……え、何ですか?」
よく聞き取れなかったので聞き返した。途端、
「炎の弾」
彼女の目の前に小さな火の玉が現れる。
「えっ!?」
俺は驚いて思わず仰け反ったが、彼女は気にせず、その火の玉を近くの焚き火跡に向けて放った。
ボウォッ!
焚き火跡は、命を吹き込まれたかのように激しい炎を上げる。
「……ちょっと寒いから火をつけたのよ」
エステルは事も無げに言った。
……温かい。
俺の背中がその火のおかげで一気に温かくなった。これなら全然寒くない。
……でも昨日、エステルは魔法を使うのは結構疲れるから、普段は道具を使うと言っていたような。
それに今、彼女は厚手のローブにマントを羽織っている。
火で暖を取るほど寒さは感じていなかっただろう。
…………この人は、絶対に優しい人だ。
普段は奴隷の俺に対して冷然としているが、火傷の処置といい、この火といい、実際はさり気なく俺を気遣ってくれている。
……もう「優しい人」を取り消すのは止めにしよう。
俺はそう誓った。
そして、この人が俺を買ってくれたことに心から感謝した。
******
東の地平線が赤紫色に染まってきた。間もなく日の出だ。
他のグループの人達も少しずつ動き始めている。
「うんっ」
エステルは立ち上がって大きく伸びをすると、
「さて、見張りはもういいわね」
と、俺達が元いた焚き火の方に向かってスタスタと歩き出した。
今日は昨日とは打って変わってスカッと晴れ渡った。
そんな爽やかな空の下で仲間を葬った人達が静かに祈りを捧げている。
俺達は朝食を済ませると、早々にこの不吉なヴァルハラを後にしたのだった。
間道では、今日もダークベアやマーシュドッグが頻繁に出現したが、その度にエステルがあっさり倒していく。
湿地帯に入った頃はおっかなびっくりだった俺も、だいぶこの状況に慣れてきた。
「……昨日、ワニの魔物を倒したあの魔法、すごかったですね」
前を歩くエステルに自分から話しかけられるほどに。
「え? ああ、あれは風の中等魔法だからね」
「いつも使う氷の矢の魔法とは違うんですか?」
「あれは水の初等魔法」
「……水の? ……初等魔法?」
俺がちんぷんかんぷんな顔をしていると、エステルは歩きながらウィザードの魔法について詳しく教えてくれた。
この世界には、精霊魔法、光明魔法、暗黒魔法など、その魔法の力の拠りどころとなるものによって幾つかの魔法が存在する。
その内、ウィザードが使うのは主に精霊魔法だ。
精霊魔法は、火、水、風、土の各精霊が司る元素を呪文によって操る技で、主に目標を攻撃するための魔法らしい。
また、精霊魔法は威力の違いにより、初等、中等、高等に分かれていて、四元素の内、一つでも中等以上の魔法が使えればウィザードを名乗ることができる。
エステルは火と風は高等、水と土は中等まで使えるということだ。
「……魔法は誰でも使えるんですか?」
もし俺でも使えるのであれば、ぜひ使ってみたい。
「まあ、初等の魔法なら努力すれば誰でも使えるようになるわ」
「そうなんですか?」
「ええ。ただ、一生努力しても初等魔法しか使えない人もいれば、私のように若くても高等魔法まで使える人もいる。魔法は使う人の素質がものをいうのよ」
「なるほど」
エステルの説明を聞いて、魔法はゴルフのようなスポーツに似てるかもしれないと俺は思った。
ゴルフでは、十代の内に何回もツアーで優勝するプロもいれば、何十年やっていても一勝もできないプロもいる。
努力すればある程度のレベルまでは到達できるけれど、トップレベルになるには、やはり素質が必要だ。
天才と秀才の差ともいえるだろう。
魔法は、より素質の比重が大きいようだ。
そう考えると、若くして高等魔法まで使いこなすエステルは、天才といえるのではないだろうか。
「あと、高威力の魔法ほど呪文も長くて難解になるから、昨日の戦闘みたいに一人で強い敵と戦う場合は手こずることもあるわ」
エステルの話では、中等魔法の呪文の長さは初等の二倍以上、高等魔法のそれは初等の四倍以上にもなるそうだ。
ワニの魔物との戦いでも、エステルは攻撃できなかったのではなく、中等魔法の長い呪文を唱えていただけだったようだ。
だから俺が助けに入らなくても勝てたらしい。
「得意の火の魔法なら中等魔法でも呪文を早く唱えることができるんだけど、あそこで使ったら、周りにいた人達まで巻き込んじゃう可能性があったから風の魔法にしたのよ」
……そこまでエステルは気を配っていたのか。
つまり、俺が助けに入る必要などまったくなかったわけだ。
「ただ、あなたがやってくれたように魔物の注意をそらしてくれる人がいると、ウィザードはずっと楽になるのよ」
気持ちを察してか、俺の行動についても彼女は気遣ってくれた。
「でもあなたは訓練を積んでいるわけじゃないから、危険な行動は慎んで、戦闘が終わるまでは隠れていなさいね」
「はい」
「わたしは昔、知り合いから近接戦闘の訓練も少し受けたから、簡単にはやられないわ」
……この世界の女性はたくましい。
******
夕方になって、最後のヴァルハラに到着した。
西には南北に連なるエゴール山脈がすぐ近くに見える。
「混んでるわね」
今回のヴァルハラは今までの所より混雑しており、たくさんのグループが野宿する準備をしていた。
俺達は何とか空いている焚き火の跡を見つけて腰を下ろした。
ちょっと荒れているがそれは仕方がないだろう。
「明日にはカリオペの町に到着するわ」
エステルは夕食をとりながら、とりあえずの目的地であるカリオペがもうじきであることを教えてくれた。
「……カリオペではどんな方と合流するんですか?」
俺は前から気になっていた事を彼女に尋ねる。
「昔のパーティー仲間、ウォーリアとクレリックよ」
「……パーティー? ウォーリア? とクレリック?」
俺が難しそうな顔をしていると、彼女は一つ一つ丁寧に教えてくれた。
バウは基本的に「パーティー」と呼ばれる多くても十人程度のグループで討伐の仕事を行うらしい。
パーティーメンバーにはそれぞれに役割分担があり、
メンバーを魔物の攻撃から守る「タンク」、
メンバーに治癒魔法や支援魔法を施す「ヒーラー」、
魔物に強力な攻撃を加える「アタッカー」、
に大別される。
そして、それらの役割を担うバウの職種として、
タンクは重装備で強靭な体を持つ「ガーディアン」、
ヒーラーは回復魔法と支援魔法を操る「クレリック」、
があり、さらに、アタッカーは攻撃スタイルの違いから、
重装備で二刀や両手武器を操る「ウォーリア」、
軽装備を活かして素早くダガーで攻撃する「ローグ」、
遠くから弓で攻撃する「アーチャー」、
遠くから魔法で攻撃する「ウィザード」、
の四職種に分かれている。
******
このヴァルハラでは野宿するグループが多かったため、見張りを免れることができた。
魔物も出現せず、久しぶりに一晩ぐっすり眠れた。
翌朝、出発の準備を終えると、
「さあ、カリオペの町まであと少し、がんばりましょう」
とエステルは俺に声をかけ、いつものようにスタスタと歩き始めた。
天気は今日も快晴だ。
湿原も終わりに近付いているせいか葦の数が明らかに減り、段々と見通しも良くなってきた。
道も固く踏みしめられており、とても歩きやすい。
自然と歩くペースが上がる。
そのままどんどん進み、ちょっとした坂道を上り切ると、その先に南北に走る大きな街道が現れた。
馬車が走れるように整備された道だ。
「ザウル湿原を抜けたわ。この街道を北に行けば、すぐカリオペの町よ」
エステルがふうっと息を漏らし、軽く伸びをする。
俺達は北に針路を変え、その街道を歩いた。
左手にはエゴール山脈の山々が間近に見える。
山脈と呼ばれてはいるが、それほど高くはないようだ。
もうここは魔物がほどんど出ないらしく、エステルはとてもリラックスして歩いている。
街道には俺達の他にも旅人や商人達が歩いていた。
馬車の往来も少しずつ増えてきている。
そして昼過ぎ、
「カリオペの町よ!」
とうとう俺達の進む先にカリオペの町が見えた。