046_別れ
正午を少し過ぎた頃、順調に飛行を続けていた魔飛船がゆっくりと高度を落とし始めた。
「そろそろレナに到着ね」
エステルが展望室の窓から興味深げに下を覗き込む。とうとう魔飛船が着陸態勢に入ったのだ。
ヴァイロン王国のダリスを発ってからわずか二日、あまりにも早い到着に、
「馬車で移動するのが馬鹿らしくなるわね」
グロリアも完全に呆れ返っている。
こんな便利なものが一部の金持ちのバカンスのためだけに運用されているというのは何とも勿体無い気もするが、魔飛船を開発した当のヴァイロン王国は、今のところそれ以外の目的でこの船を使用するつもりはないらしい。
……もっと多くの人が乗れるようになればいいのに。
そんなことを思いつつ、俺もエステル達と共に少しずつ近付いてくるレナの町並みを上空から眺めていた。
レナの町は、大陸南部を統治するデフォルナ王国に属する港町だ。良港で、大型の貿易船も停泊できるのだが、主要な航路、街道から外れているせいか世間的にはあまり知られていないらしい。ワイルドローズでもその名を知っていたのはエステルくらいのものだ。さらに、町にはバウギルドもないということだから、魔飛船でも着陸しない限り、ワイルドローズがこの地を訪れることは恐らくなかっただろう。
魔飛船はゆっくりと高度を下げていき、ほどなくしてレナの町郊外に造られたこの船専用の飛行場に着陸した。
……着いちゃったかぁ。
これで、ゴージャスで快適な空の旅もお終いだ。正直、このままみんなで常夏の島ミトロスに遊びに行けたらどんなに良いだろうと思ってしまう。が、そうも言っていられない。
「さぁ、行くわよ!」
エステルもここからが本番とばかりに元気良く立ち上がった。
魔飛船の飛行場は、一般的な造船所の構造に似ている。船体に合わせてU字型の溝が掘ってあるのだ。だから、乗客は甲板と溝の縁に掛けられた水平の橋を渡ることで比較的簡単に乗り降りすることができる。
俺達は船長や船員達に見送られながらその橋を渡ると、飛行場の出入り口にあるデフォルナ王国の事務所に直行、そこで簡単な審査を受けた後、同国に入国を果たした。
「わあ、いい香りですね」
飛行場から出た瞬間、辺り一帯に漂う甘酸っぱい香りにリリアが思わず笑みをこぼした。
見ると、周りの畑には人の高さほどの木が整然と植えられており、たわわに実った緑色の果実が葉の陰に幾つもぶら下がっている。葡萄だ。
「デフォルナは葡萄酒の産地だからね」
そう言いながらグロリアも目を閉じてこの香りを楽しんでいる。彼女は魔飛船で高級な葡萄酒を何本も空けていたが、まだ飲み足りないらしい。まあ、でもこの芳醇な香りを嗅いでしまえば、飲んでみたくなっても仕方ないか。
……せっかくだし、ちょっと味見してみたいな。
俺を含め、その場にいるほぼ全員がそう思っただろう。一杯くらいなら、と。
しかし、エステルだけはこの香りの誘惑に屈せず、
「残念だけど飲んでる時間はないわね。酔っ払って新月の夜に間に合わなかったんじゃ、それこそ洒落にならないから」
と言い捨て、レナの町に続く農道をスタスタと歩き始めてしまった。
「……」
まんまと誘惑に屈してしまった者達が、恨めしそうに彼女の背中を眺めていたのは言うまでもない……。
エステルは、ここからリシェールの森まで三日かかると踏んでいる。つまり、到着予定は新月の日の午後。結構ぎりぎりなのだ。しかも、これから通ろうとしている街道は、ワイルドローズの中で誰も通ったことがないため、不測の事態を考慮し、彼女は少しでも早くここから出発したいと考えているのだ。
俺達は仕方なく葡萄酒の試飲を諦め、レナの町で馬車の調達、水や食料の買い出し、情報集めなどを手分けして行なうと、魔飛船から降りて二時間も経たないうちにこの町を後にしたのだった。
パカ、パカ、パカ、……
馬車は葡萄畑に挟まれた細い街道を北に進む。
エステルがレナの町で集めた情報によると、街道には宿場町があるため野宿の心配はないらしい。魔物はごく稀に出現するという話だが、それほど強くはないようなので、ワイルドローズならまったく問題ないだろう。平穏な旅になりそうだ。
辺りは見渡す限り葡萄畑が広がっている。今年は豊作なのか、道沿いの民家からは住民達の楽しげな歌声や笑い声が絶えず聞こえてくる。
……のどかだ。
こんな風景の中にいると、この世界がついこの間まで滅亡の危機に瀕していたなんてまったく思えなくなってくる。悪い夢でも見ていたかのようだ。
「やっぱり大陸は落ち着くニャ」
「ヴァイロン王国の景色は酷かったですからね」
「でも料理は絶品なのよね。グロリア、料理だけ食べにまたヴァイロン王国に行ってみない?」
「エステル、そんなこと言ってると太るわよ」
「うっ……、ほ、ほっといてちょうだい」
「アハハ」
久しぶりの馬車の旅に、ワイルドローズのみんなもいつになくはしゃいでいる。
平和な景色、楽しげな笑い声、心地良い馬車の揺れ。
……ああ、ずっとこの時が終わらなければいいのに。
そう思わずにはいられなかった。
馬車はその後も何の支障もなく進み、レナの町を出発した次の日には主要な街道に到達、その翌日には国境を越えてミロン王国に入った。
このまま順調にいけば、遅くも明日の日没までにはリシェールの森にたどり着けるだろう。
パカ、パカ、パカ、……
馬車は夕陽の中を進んでいる。周りの景色は、いつの間にか葡萄畑から草原へと変わっていた。この辺りはミロン王国でも辺境で、宿場町以外に民家は無く、土地も手付かずのままになっているようだ。
緑色の色素を失い始めた草原は何とも物悲しく、その上を懸命に飛ぶたくさんの赤とんぼ達は、無言で生命の儚さを語り続けている。
「…………」
レナの町を出た頃は大はしゃぎだったワイルドローズも、リシェールの森に近付くにつれて徐々に会話がなくなり、今はもう誰も口を開こうとしない。みんな黙って馬車に揺られていた。
******
それは、レナの町を発って三日目――つまり新月の日――の後中の刻になろうとしていた頃だった。
「森だわ!」
俺の隣に乗っていたグロリアが、突然馬車の進む先を指差しながら叫ぶ。
「えっ?」
俯き加減で馬車を走らせていた俺は、彼女の声を聞いて慌てて頭を上げた。
すると、前方に秋の草原を侵食するようにして生い茂る立派な森が見えた。北に伸びるこの街道を封鎖するがごとく東西に渡って広がっている。
……もしかしてあれが?
「リシェールの森よ!!」
荷台のエステルが御者台の後ろから顔を出し、興奮した声で叫んだ。俺達は遂にリシェールの森にたどり着いたのだ!
リシェールの森、ミロン王朝樹立の立役者で、俺の先祖でもあるピエル・シモン・リシェールが住んでいたといわれる伝説の森、そして、次元の扉によって異世界と繋がる神秘の森だ。
ただ、見た目は普通の森となんら変わらない。少し木々の密度が濃いかなと思う程度で大した特徴もない森だ。街道にある宿場町の住民も、この森に対して特別な認識は持っておらず、「ミロン王国の中心地域と辺境との区切り」というくらいにしか思っていないようだった。
馬車はそのまま真っ直ぐ進み、ほどなくして森の入口付近に到達した。街道は、木々の根元のわずかな隙間を縫うようにして森の奥へと続いている。
「とりあえずこのまま進みましょう」
エステルが森の中を注意深く覗き込みながら、俺に指示を出した。
「はい」
……いよいよか。
俺は手綱を持つ手に自然に入ってしまう力を何とか抑えながら、緑の津波を思わせるリシェールの森の中に馬車を突入させていった。
「…………」
全員が静かに周囲を観察する。
森の中はひっそりとしていた。時々響き渡る鳥の鳴き声の他に何の音も聞こえない。全体的に薄暗いのは、空いっぱいに広がる広葉樹の葉のせいだろう。
無造作に立ち並ぶ木々の群れは、その一本一本が太く、高く、荒々しい。地面はシダ植物で覆われ、あちこちに倒木もある。自然そのままの森だ。
……こんな感じだったっけ?
俺はリシェールの森のことを日本の森と同じような感覚で記憶していた。比較的若い木々が生い茂る里山林のような……。でも、この景色を見る限り、その面影はまったくなかった。たぶん、ここに迷い込んだ当時は混乱していたし、真っ暗だったから気付かなかったのだ。今見れば、一目で神隠しの森とは別の森だとわかるのに。
「まだ時間があるから、とりあえず夜まで休める場所を探しましょう」
しばらく森を観察していたエステルが、ここに留まっても問題ないと判断したのか、そう俺に声をかけた。
森の道は、主要な街道であるにもかかわらず細く、所々傷んでいる。他の馬車が通る気配はまったくないが、といって路上に長く駐車しておくわけにもいかないだろう。
俺は彼女の指示に従い、馬に速度を落とさせ、馬車が停められそうなスペースを探しながら進んだ。
森の中に入ってから一時間ほど経っただろうか、辺りの木々が広葉樹から針葉樹へと変わり始めた頃、右前方を眺めていたグロリアが、何かを見つけたらしく俺の左腕を軽く押さえる。
「家があるわ」
……家? って!?
俺は急いで彼女の視線の先を眺めた。すると、木々の隙間から確かに家らしきものが見え隠れしている。茅葺き屋根の小さな家だ。
……あ、あの家は!?
震えが起こるほどに強い胸騒ぎを覚えた。遠目ではあるが、俺には何となくその家に見覚えがあったからだ。
馬車が進むにつれて、少しずつその家の特徴が明らかになっていく。
煙突が突き出た茅葺きの屋根、粗末な石造りの壁、板戸の門……。
間違いない。俺がこの世界に迷い込み、必死の思いで駆け込んだフランツの家だ!
「知ってるの?」
動揺している俺を見て、グロリアが不思議そうに首を傾げた。
「……はい。俺が奴隷にされた家です」
「な、何ですって!?」
彼女はびっくりして傍らに置いてあった長剣を引き寄せ、身構えた。盗賊のような輩でも住んでいると思ったのかもしれない。
「だ、大丈夫です。住んでいるのはおじいさんとその孫の女の子だけですから」
俺は慌てて彼女をなだめ、みんなに詳しい事情を話した。
馬車は道に沿ってゆっくりとフランツの家に近付いて行く。
……あの二人、元気でやっているだろうか?
何故か奴隷にされた恐怖や恨みよりも、懐かしさがこみ上げてくる。彼らは俺がこの世界に来て最初に遭遇した人間だった。
ただ、そう思いつつも、
……会うのは止めておこう。
という気持ちの方が上回った。
大体、どんな顔をして会えばいいのかわからないし、フランツだってびっくりして腰を抜かすかもしれない。もしまだ俺の服や荷物を持っているのなら返してもらいたいという気持ちはあるが、恐らくとっくに処分してしまっているだろう。とすれば、わざわざ会う必要もない。
そう思ってフランツの家の横を通り抜けようとしたところ、荷台の屋根から家を観察していたチャロが意外なことを口にする。
「空き家みたいだニャ」
「えっ!?」
俺は馬車を急停車させて御者台から飛び降り、粗末な板戸を開けてフランツの家の敷地内に入った。
「…………」
チャロの言った通りだった。
まだ昼間なのに全ての雨戸が閉じられ、玄関のドアは蝶番が壊れているのか傾きっぱなし、そして、雑草だらけの庭……。
どうみても空き家だ。
……ど、どういうこと?
俺は困惑しつつも玄関に近付き、
「ごめんください」
と、声をかけてみた。
「……」
しかし、やはり返事はない。
俺は恐る恐るドアに手をかけ、軽く引っ張ってみた。が、ドアが傾いていて開きそうもない。
「くっ!」
しかし諦めず、今度は両手で思いっ切り引っ張った。
すると、ザザザと床を擦る音を立てながらもドアが半分ほど開き、砂埃が暗闇の屋内に差し込んだ光の中で舞い踊った。
「うっ」
俺は反射的に仰け反ったが、すぐに鼻と口に手を当て、埃を吸いこまないように気を付けつつそっと中を覗き込んだ。
中は、……何も無かった。ミシェルが座っていたテーブルも、薄暗いランプも、あの夜に感じた暖炉の火の温もりも……。
「フランツさん、いますか? ミシェルちゃん、いたら返事をして!」
俺は家の中に入って大声で呼んでみた。が、何の応答もない。
あちこち見て回ってもみたが、庭の物置小屋に麦藁が少し残っていただけで、人はおろか、粗末な家具さえ全てなくなっていた。
……引越した? ……いや、もしかしたら俺が復讐に舞い戻ってくるとでも思って逃げてしまったのかもしれない。
いずれにしても、彼らがもうここに住んでいないのは確実だった。
「……いないの?」
俺が庭先で途方に暮れていると、エステル達も様子をうかがいながら敷地内に入ってきた。
「いません。家具もないから引っ越しちゃったみたいです」
俺はわざと当たり障りのない表現で説明した。が、
「そう、……タケルに復讐されると思って逃げちゃったのかもしれないわね」
「……」
エステルも俺と同じように思ったようだ。いくら粗末とはいえ、住み慣れた家を捨てるなんて特別なことでもない限りあり得ないだろう。
……何も逃げなくったっていいのに。
俺は、奴隷商人に連れて行かれる時に見かけたミシェルの申し訳なさそうな顔を思い出して心が沈んだ。フランツにしたってかわいい孫娘を守ろうと必死だっただけなんだ。悪い人達じゃない。ここを離れて、彼らはちゃんと生活できているだろうか…………。
……はっ!?
気が付くと、俺のやるせない気持ちが伝染してしまったのか、周りにいるワイルドローズの面々も暗い顔をして黙り込んでしまっていた。そうでなくても暗い雰囲気だったのに。
「……ち、ちぇっ、せっかく恨み言の一つも言ってやろうと思ってたのに、まんまと逃げられてしまいました」
俺は無理矢理に苦笑いを浮かべ、フランツ達の事などまったく心配していない風を装った。これ以上、俺のせいでワイルドローズの暗い雰囲気を悪化させたくはないのだ。
ちょっとわざとらしい感じもしたが、うまくいった。その言葉で俺は何とかみんなをクスッと笑わせることに成功したのだ。さらに、
「そうね。今頃、奴隷にされるとも知らずに訪ねてきた間抜けな異世界人を笑い飛ばしながら、左団扇で暮らしているわよ」
「間抜けって、酷いなぁそれ」
「アハハハ」
恐らく俺の気持ちを察したエステルが冗談を言ってくれたため、その場が一気に明るくなった。
……もう考えるのはよそう。
フランツ達のことは心配だが、でも、彼らは間抜けな俺のおかげで最大のピンチから脱することができたのだ。後は彼ら自身の力で幸せを掴み取ってもらうしかない。
「じゃあ、行きましょうか!」
俺は気分を一新させ、みんなに笑顔で声をかけつつ馬車に向かおうとした。
しかし、その時、
「エステル、せっかくだからここで夜まで待たせてもらわない?」
グロリアがフランツの家を見回しながらそんなことを言い出した。
「ええ。私もそう思っていたところ」
エステルも同じように考えていたようだ。
……なるほど。
フランツ達のことで頭がいっぱいになっていたから気付かなかったが、よく考えればここはリシェールの森のど真ん中。待つには絶好の場所だ。
「じゃあタケル、馬車を端に寄せておきましょう」
「あ、はい」
俺はグロリアと共に道に戻り、馬車をフランツの家側に寄せた。幸い、家の前の道は馬車がすれ違えるほどの幅があったから、長く停めておいても大丈夫だろう。
その後グロリアは馬を馬車から外してやり、庭の方へと連れて行った。庭の雑草を餌として食べさせるつもりらしい。
俺も馬車を動かないように固定した後、庭に戻った。
エステル達は石や丸太に腰を下ろし、「森の風が気持ちいい」とか「この家の井戸は使えるのかしら?」など他愛もない雑談をしている。俺も彼女達の側に腰を下ろし、時々その雑談に加わりつつ、まったりとした時間を過ごしていた。
「…………」
しかし、やはり会話は長くは続かなかった。みんないつの間にか黙り込んで、何の興味もないであろう目の前の草や石をボーっと眺めている。
先ほどのエステルの冗談で一時的に盛り上がりはしたが、しかし、その効果が薄れるにつれ、俺達はまた、この後に訪れることが決まっている辛く悲しい出来事に心を奪われていったのだった。
その時は刻一刻と近付いてきている。俺が彼女達と一緒にいられるのもあと少し……。
本当はもっと話したい。少しでも彼女達との楽しい思い出を作っておきたい。でも、そう思えば思うほど何故か口は動かなくなった。考えれば考えるほど何を話していいのかわからなくなった。どんなに明るく楽しい言葉でも、今の俺達にとっては、ただ空しさを形容するだけのものにしかなり得ないと思えてならなかった。
「……」
そのうち、無言の状態に耐え切れなくなったのかグロリアが立ち上がり、フランツの家の中にふらっと入っていってしまった。みんなが沈んでいるような時、彼女はよく気の利いた言葉でその場を和ませてくれたが、でも、その彼女でさえ、ここで発する言葉を見出すことはできなかったようだ。
森は、静かに夕方を迎えようとしている。無言の俺達を置き去りにして……。
その時、
「エステル、チャロ、リリア、ちょっと来てくれない?」
玄関から顔を出したグロリアがいきなり三人に声をかけた。何となく楽しげな声で。
「えぇ? ……何、おばけでもいたの?」
「いいから!」
エステルは冗談を言って暗に断ろうとしたようだったが、グロリアに強く催促されたため、面倒くさそうに立ち上がると、やはり面倒くさそうに立ち上がったチャロ、リリアと共にダラダラと家の中に入っていった。
……どうしたんだろう?
俺はグロリアが俺だけを呼ばなかったことに不安を覚えた。
……この後のことでも相談しているのだろうか?
彼女達は俺が元の世界に戻った後、パーティーを解散してそれぞれの道に進むことを決めているが、こんな森の中で別れるわけにもいかないだろうから、とりあえずアルテミシア辺りまでは一緒に行動するはずだ。グロリアの楽しげな声を聞く限り、彼女はその途中で行われている何か面白いイベントでも知っているのかもしれない。
……つまり、俺に聞かせても仕方のない話というわけか。
俺は孤独感にさいなまれつつ、庭で一人静かに目の前の雑草を眺めていた。
ほどなくして、傾いた玄関のドアからエステルだけが出てくる。
彼女は俺に近付き、
「私達は今夜ここで泊まることにしたから、森で薪を少し集めてきてくれない?」
と、申し訳なさそうに頼んだ。
「あ、はい」
……やっぱり今後のことを話していたのか。
俺は納得し、すぐに馬車に戻って備え付けのナタを取り出すと、躊躇せず目の前の森の中に入っていった。
……たぶんそれほど多く集める必要はないだろう。今夜と明日の朝の分があればいいはずだから。
そんな事を考えながら森の中を見回すと、ちょうど近くに手頃な倒木がある。薪一束くらいなら簡単に調達できそうだ。
俺はその倒木に近付くと、枯れかけた枝をナタで断ち、適当な長さに切り揃えていった。
「…………………………………………………………あ、あれ?」
しかし、しばらくして気付くと、俺の周りにはたくさんの薪の束ができ上がっていた。色々なことが頭の中に浮かんできてはこんがらがって、それを打ち消そうとして必死に手を動かしていたせいだ。
「はぁ……」
俺はため息をつき、とりあえず抱えられるだけの薪を持って、フランツの家に戻る事にした。
それは、フランツの家の門をくぐった直後の事だった。
「えっ?」
見ると、玄関の前にこの家にはまったく似合わない可憐な女性が立っている。
金髪に水色のワンピース、エステルだ。
ここで泊まるから着替えたのだろうか?
……そっか、この姿ももう見納めか。
俺は彼女のこのワンピース姿を初めて見たときのことを思い出した。カリオペの服屋で買い物をしたあのシーンを。
俺はあの時、彼女のあまりの眩しさに声を失ったんだ。会ったばかりで彼女とのやり取りもぎこちなくて……、ああ、懐かしさで胸が熱くなる。
「……ま、薪を集めてきました」
俺は、あの時と同じようにドキドキしている胸を何とか抑えて彼女に報告した。
「ありがとう。そこへ置いといて」
「はい、……も、もう着替えたんですね」
薪を置きながら話しかけたが、彼女はそれには答えず、
「タケル、最後にもう一つだけ頼みたいことがあるんだけど……」
と、少し言い辛そうな感じで俺を見つめている。
……最後。
俺はその言葉に何となく寂しい響きを感じたが、
「いいですよ、魔物を倒すこと以外なら何でもやります!」
笑顔で元気良く答えた。
「フフ、じゃあこっちへ」
俺の返事を聞き、彼女は笑みを浮かべながら家の中へと入って行った。
玄関からすぐの暖炉の部屋はさっきと変わらず薄暗い。グロリア達は別の場所にいるのか見当たらなかった。
エステルは後ろからついて行く俺を意識しつつその部屋を突っ切り、奥の部屋のドアを開けた。
……この部屋は。
俺がこの世界に来て初めて夜を明かした部屋だ。
彼女はそこで振り返り、かすかに悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「中へ」
と、俺に部屋へ入るよう促した。
「……は、はぁ」
彼女の表情に何か企んでいるような気配を感じたが、「何でもやります!」と言ってしまった手前、色々聞くわけにもいかず、俺は曖昧な返事をした後、恐る恐るその部屋の中に入った。
「えっ!?」
中に入った瞬間、そのおかしな光景に俺は思わず驚きの声を上げてしまう。
さっき見回った時には何もなかったはずなのに、今は何故か部屋の床に麦藁がたくさん敷き詰められており、しかも、その真ん中には毛布まで敷いてあったからだ。そして、どういうわけかそれを囲むようにして立っているグロリア、チャロ、リリア。
「ど、どうしたんですか?」
「……」
不審に思って彼女達に質問したが、みんな微笑んでいるだけで何も答えてくれない。
……??
俺は何が何だかさっぱりわからずその場に立ち尽くしていた。
すると、後から部屋に入ってきたエステルが俺の背後にすっと回りこみ、
「タケル、ちょっと手を」
と、俺の両手を後ろの方に軽く引っ張る。
「えっ? な、何ですか?」
不意に手を引っ張られ、俺はとっさに尋ねた。
その直後だった。
「…………、施錠!」
エステルがそう言うと、拘束リングが青白く光り、俺の左右の手首が後ろ手にされた状態でくっつき、同時に左右の足首もくっついた。
「うぁっ!」
いきなり施錠された俺は、体勢を崩して前方に倒れそうになる。
が、ちょうど両脇にいたグロリアとリリアがすっと進み出て、俺の体を両手で受け止め、支えてくれた。
……ふぅ、危なかった。
俺は転倒を免れてひとまずほっとしたが、何故かその後、二人は俺を放そうとせず、そのまま毛布の敷いてある方へと運んでいく。
「えっ、えっ!?」
驚いている俺を無視し、二人は毛布の上に俺を仰向けにして寝かせた後、一歩後ろに退いた。
……ど、どういうこと?
もう訳がわからず呆気にとられていると、エステルが冷然と見下ろしながら告げる。
「奴隷としての最後の仕事よ。しばらくそのままじっとしていなさい」
……これが最後の仕事?
すると、今度はチャロが近付いてきた。
真剣な眼差しを俺に向け、手には何故か抜き身のダガーが!?
「な、何を!!」
そう言うか言わないうちに、彼女は素早くダガーを動かし始めた。
刃風が俺の体を何べんも叩く。
「ううっ」
俺は怖さのあまり目を閉じて堪えた。
「…………」
しばらくして刃風が止んだ。
……特に痛いところは、ないようだ。
でも、何となく体に違和感を感じる。
俺は恐る恐る目を開いた。
「なっ!?」
見ると、着ている服が切り刻まれてボロボロに!
「何でこんな――!!?」
俺は驚いて声を上げようとしたが、次の瞬間もっと驚いてしまった。
なんと彼女達が四人とも服を脱ぎ始めたのだ。
「…………」
俺は驚きのあまり声も出せず、ただ四人を呆然と眺めていた。
彼女達は皆、恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、瞬く間に一糸まとわぬ姿になった。
むっちりとしたやわらかそうな体、グラマーで漆黒の体、子供のように幼い体、スレンダーで色白の体、みんな個性的な体だった。
その後、四人は俺の周りに座り込み、俺の上に載っているさっきまで服だったボロキレを取り除き始める。
「あっ、やめ……」
拘束されて何もできない状態で裸にされるのは、何とも恥ずかしい。
鏡を見なくても自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
そんな俺を見て、彼女達はクスクス笑っている。
ボロキレを全て取り除くと、四人は俺に体を擦り寄せてきた。
……温かい。
彼女達の温もりを全身に感じる。
俺は彼女達の思いを悟り、彼女達に全てを委ねることにした。
やがて四人は、舌を使ってゆっくりと愛撫し始める。
……き、気持ちいい。
……何だろうこの感じ、……ピンク、そうピンク色だ。
薄汚れた天井や、石組みがむき出しの壁までピンク色に見える。
愛撫が終わると、彼女達は今度は代わりばんこに俺の腰の上にまたがり、上下運動を繰り返した。時に激しく、時に声を上げながら、俺の全てを感じ尽くすかのように……。
ピンク色に染まった部屋の中で、それは、俺と彼女達との最初で最後の熱く、深く、濃厚な交わりとなったのだった。
******
******
……何時間経っただろうか。
俺は心地良い疲労の中にいた。
窓から見える外の景色は、いつの間にか真っ赤に染まっている。
もう日が暮れるようだ。
一通りの事を終えた彼女達は、俺の体の一部を枕にして幸せそうな顔で眠っている。
「…………」
俺は改めて部屋の中を見回した。
……思えば、ここからこの世界の冒険が始まったといってもいいだろう。
あれから色々なことがあった。楽しかった事も、辛かった事も。
そして、またここに戻ってきたのだ。
そんなことを考えつつ静かに目を閉じると、三ヶ月前の光景が、まぶたにありありと映し出された…………
******
******
******
「……ケル、タケル」
暗闇の向こうから俺の名を呼ぶ優しげな声が聞こえ、同時に、何かがチョンチョンと脇腹に当たるのを感じた。
「……うぅん」
俺はわずかに残る眠気を払いつつ目を開けると、
……あれ?
まだ焦点の定まらない視線の先に、黒く塗りつぶされた窓があった。確かさっき見た時は真っ赤に染まっていたはずなのに。
どうやら今までの冒険を思い返しているうちに眠ってしまったようだ。
俺は起きたばかりで感覚のあやしい体をそのままにし、目だけを動かして周囲を確認した。
窓からの光を失った部屋の中は、そのほとんどが闇に隠されてしまっている。薄汚れた天井も、石組みがむき出しの壁も暗くてよく見えない。ただ、隣の部屋に続くドアの向こうから暖色の光がかすかに差し込んでいたため、辛うじて自分の近くにあるものはわかる。もちろん、俺のすぐ横に誰かが立っていることも。
「起きた?」
それは、水色のワンピースを着たエステルだった。
穏やかな笑顔を浮かべた彼女は、俺が目を開けたのを確認すると、今までで最も優しい脇腹蹴りを止める。
「おはようございます」
「おはよう」
俺は上体を起こした。俺の上にはいつの間にか毛布がかけられ、拘束リングも解錠されている。
「夕食の準備ができてるから」
「あ、はい」
彼女にそう告げられ俺は反射的に周囲を見回したが、服がない。
……あっ、そういえばさっき。
チャロに切り刻まれてしまったことを思い出した。完全にボロキレになっていたはずだ。
するとちょうどその時、リリアが薄暗い部屋の中に入ってきた。手には俺の服らしきものを持っている。
……もしかして、あれを直したのか?
と思ったが、よく見ると彼女が持っていたのはダリスに向かう直前まで俺が着ていた服だ。
「すいません。さっきの服は細かくなり過ぎていて直せませんでした」
彼女は申し訳なさそうに持っていた服を俺に手渡した。裁縫が得意な彼女でも、さすがにあれは直せなかったようだ。
「いいえ、全然平気です」
俺はリリアに気を使わせないようその服を何の躊躇いもなくささっと着た。
魔人戦で血だらけになってしまったその服は、洗っても完全にはその染みが消えず、全体的に茶色味がかっていてお世辞にも綺麗とはいえない。でも、着なれているせいか、着心地は前の物よりずっと良い。やっぱり捨てずにとっておいてよかった。
「さっ、行きましょう」
服を着た後、俺はエステルとリリアに導かれて薄暗い部屋を出た。
……えっ!?
部屋を出た瞬間、俺は思わず目を見張った。暖炉の部屋がいつの間にか人の温もりを感じる温かな空間に様変わりしていたのだ。
部屋の真ん中に吊るされたランプ、その下に設けられた丸太や石の即席テーブル、グツグツと音を立てている暖炉の中の小さな鍋と、美味しそうな匂い。そこには、人が幸せを感じるのに必要で、かつ、十分なものが全て揃っていた。
「おはよう、タケル」
「おはようニャ」
即席のテーブルにはすでにグロリアとチャロが座っていて、にこやかに俺を迎えてくれた。
「あの殺風景な部屋が、……見違えましたね」
「なかなかいいわよね、ここ。住んじゃおうかしら」
グロリアは冗談めいた事を言いながら、俺を一番座り心地の良さそうな丸太の椅子に誘導した。が、
「グロリア、その前に」
エステルに小声で呼びかけられ、彼女は思い出したようにはっと頭を上げる。
「ああ、一番大事な事を忘れるところだったわ」
彼女はそう言うと俺の手を引き、エステルの前まで連れて行った。
「タケル、両手を前に」
エステルは俺と向かい合うと神妙な声で指示し、目を閉じて呪文のようなものを唱え始めた。
「……」
何となく彼女がしようとしていることがわかった俺は、両手を前に出したままじっと彼女を見つめた。グロリア、チャロ、リリアもその様子を周りで静かに見守っている。
やがて、エステルの呪文は終わった。彼女は目を開け、静かに呼吸を整えると、目の前の俺に向かって大声で叫ぶ。
「解放!」
すると、俺の手首と足首にはめられた拘束リングが強烈な青白い光を放ち始めた。
……ま、眩しい。
あまりの光の強さに俺は思わず目を背けたが、直後、その光が花火のようにパッと辺りに弾け飛んでしまった。
後に残った拘束リングは真っ白になり、継ぎ目の部分からパカッと割れたかと思うと俺の体から簡単に離れ、そのまま床に落ちてしまった。エステルの唱えた解放の呪文により、拘束リングが無効になったのだ。
「これでもう、あなたは奴隷じゃないわ」
エステルが微笑みながら告げると、
「おめでとう!」
「おめでとうニャ!」
「おめでとうございます!」
グロリアとチャロとリリアが、拍手をしながら祝ってくれた。
「ありがとうございました」
俺は彼女達に向かって深々と頭を下げた。この家で奴隷にされてから三カ月、俺はついに解放されたのだ。
「どう? 一般人に戻った気分は」
「もちろん最高です! ……あ、でも、ワイルドローズの奴隷が嫌だった訳ではないですよ。むしろ、ちょっと残念な気さえしています」
「え? じゃあまた奴隷に戻る? 私達は一向に構わないけど」
「いえ、遠慮します」
「何それ、アハハハハ」
エステルの悪魔の提案に対し、俺がまじめな顔で速攻拒否すると、その言い方が面白かったのか、みんながドッと笑い出した。
「さあ、夕食にしましょう!」
俺達は即席のテーブルに腰を下ろし、ランプの灯りの下、温かな料理を食べ始めた。今までの楽しかった思い出や、これから訪れるであろう明るい未来の話などを語り合いながら。
料理は野宿用のものだから、もちろん大した物ではない。干し肉と乾燥野菜のスープに焼き締めたパン、それに、グロリアが内緒でレナの町で買っておいた葡萄酒だけだ。ヴァイロン王国で食べた料理に比べれば、あまりにも質素で、あまりにもささやかな料理。
でも、何故か俺にはこの世界で食べたどんな料理よりも美味しかった。ヴァイロン王国の料理など足元にも及ばない。料理の味というのは、料理そのものの味で決まるのではなく、一緒に食べる人や食卓の雰囲気などが全て加味された上で決まるのだということを改めて思い知った。
……きっと、きっと忘れられない味になるだろう。
俺は、みんなと会話を楽しみながら、でも、その裏で必死に涙を堪えつつ、ゆっくりと味わって食べたのだった。
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夜が更け、別れの時がきた。
真っ暗の中、俺達はグロリアの持つランプの灯りを頼りに街道へと出た。
森はしんと静まり返っている。何の音も聞こえない。
身動き一つせずたたずんでいる木々の間からは、星が瞬いているのがかすかに見える。あの時と同じだ。
去る人、と、残る人……。
俺達は自然にそんな組み分けで向かい合った。俺と、彼女達とで。
「………………」
誰も口を開こうとしない。薄暗いランプの灯りの中で、一人と四人がただただ立ち尽くしていた。
といっても、もう暗い顔をした人は誰もいない。みんな希望に満ち溢れた明るい顔をしていた。「笑顔で別れよう」それが俺と彼女達とで交わした暗黙の約束だった。
俺は暗がりの中で彼女達の顔をゆっくりと見回した後、まず一番左側に立っていたリリアに近付き、頭を下げた。
「リリア様、お世話になりました」
「いいえ、それは私の台詞です。タケル様のおかげで私はキュテレア大学の教師になるという夢を諦めずに済みました。本当にありがとうございました」
「俺のおかげじゃなくてリリア様が優秀なんですよ。夢、絶対にかなえてくださいね」
「……はい」
彼女は聞こえるか聞こえないほどの小さな声で返事をした後、俺と別れのハグを交わした。黄色いローブの中で、彼女の華奢な体がかすかに震えている。
その後、俺はリリアの隣に立っていたチャロに、彼女の身長に合わせるために片膝を突きながら頭を下げた。
「チャロ様、お世話になりました」
「ダーリン……。私はダーリンのおかげで世界を見て回る自由を得ることができたニャ。本当にありがとニャ」
「思う存分、世界を見てきてください。あ、でも、時々はペペ様の所にも戻ってあげてくださいね、心配しますから」
その言葉にチャロは大きく頷いた後、俺の胸の中に飛び込んできた。
子供のように小さな体の彼女に抱きつかれると、相変わらず「守ってあげたい」という感情が沸々と湧いてくる。……でも、それもこれが最後だ。
その後、俺は立ち上がり、今度は俺より十センチ近く背の高いグロリアを見上げた。
「グロリア様、お世話になりました」
すると、彼女はいきなり俺の体を強く抱き込み、巨大な二つの水風船の間に俺の顔を押し込んだ。
「タケルのおかげで闇エルフであるこの私が人を愛するということを知ることができたわ。ありがとう」
「い、いえ、逆に俺なんかでほんと申し訳ないです」
「……タケルだからよかったのよ」
彼女はそう言うと、さらに俺を強く抱きしめた。
最後に、俺はエステルの前に立ち、頭を下げた。
「エステル様、お世話になりました」
「……ぅん」
彼女は小さな声で答えると、それ以上何も言わず、俺の首に腕を回し、そのままぎゅっと抱きついてきた。
「……」
俺も黙って彼女を受け止める。
奴隷として彼女に買ってもらってから三ヶ月、俺のこの世界の冒険は、常に彼女と共にあったといっていい。だから、たくさんの想いがありすぎてこの場でその全てを口にすることなどできないのだ。だけど、何も言わなくても、抱きしめ合い、温もりを感じ合う事で、俺は彼女の想いの全てをはっきりと理解することができた。そして恐らく、俺の想いも彼女に十分伝わっただろう。
サワサワ……
風が出てきたのか、森がかすかにざわめき始める。
俺とエステルはその音を聞いて我に返り、名残惜しく感じつつもゆっくりと離れた。
もう時間がない。夜半を過ぎれば、閉じた次元の扉を開ける条件が満たされなくなってしまう。
「…………それじゃあ、そろそろ次元の扉を、開けるわよ」
エステルの覚悟を決めた声に、
「……はい」
俺も覚悟を決めて答えた。
彼女は俺の返事に無言で頷くと、手を左耳に運び、そして、ある物を俺の方へそっと差し出した。
「これを」
それは、彼女がいつも身につけている金のイヤリングだった。
「えっ? でもこれって」
「いいの、あなたが持っていて」
「……」
俺は一瞬躊躇ったが、真剣なエステルの表情を見て、素直に受け取った。
と、その時、
「光よ!!」
グロリアが、俺の後方を指差しながら叫んだ。
振り向くと、道のずっと向こうの方から車のライトのような光がこちらに向かって近付いてくる。三カ月前に神隠しの森の中で見たものと同じ光が!
恐らく、俺がエステルから金のイヤリングを受け取った事で「選ばれし時、選ばれし物を持つ、選ばれし者」という条件が全て揃い、次元の扉が出現したのだ。
俺達はそのまましばらくその不思議な光に見入っていたが、不意に、背後からエステルに小声で尋ねられた。
「……あれが、次元の扉?」
俺は彼女の方にゆっくりと振り向き、こくりと頷く。
「……じゃあ、……これでお別れね」
「…………はい」
次元の扉は、街道に沿ってどんどんこちらに近付いてきている。思っていたよりずっと速い。
「さ、さあ、私達は道の外でタケルを見送りましょう!」
エステルは震えている声を隠すようにして大声でみんなにそう促した。
が、この時になって、
「やっぱり私はダーリンと一緒に行くニャ!!」
チャロが駄々をこね、俺の足にしがみ付いてくる。
「だめよチャロ! 早く道の外へ!!」
それを見てエステルが慌てて声をかけた。資格のない者が次元の扉を通ろうとすると、世界と世界とを隔てる「無の壁」の中に閉じ込められてしまうらしいのだ。
しかし、チャロは俺から離れようとしない。
「チャロ様……」
俺は彼女の気持ちをありがたく思いつつも、小さい子供を諭すように言った。
「……外へ」
「うぅ……」
俺に言われ、彼女は緑色の目一杯に涙を溜めながらも小さく頷き、しょんぼりとした足取りでエステル達のいる道の外へと歩き出した。彼女も俺と一緒に行けないことは頭ではわかっているのだ。
次元の扉が目前に迫った。もうすぐ俺はこの世界から消えてしまう。
俺は目を凝らし、次元の扉の光に照らされたエステル、グロリア、チャロ、リリアの顔を必死に脳裏に焼き付けた。絶対に、絶対に忘れないように。
その後、涙を堪えて何とか笑顔を作り、手を大きく振りながら叫んだ。
「さようなら皆さん!! お元気で!!」
「さようなら! タケル様!」
「さよならニャ! ダーリン!」
「さようなら! タケル!」
そして、光の塊が俺を飲み込もうとした瞬間、真っ白になってしまった視界の向こうからかすかに、彼女の声が聞こえてきた。
「さようなら、タケル・アオヤマ」




