043_王都ダリスへ
ポォォォォォォォ!!
耳を塞ぎたくなるほどのけたたましい汽笛の音が辺りに響き渡り、次の瞬間、窓の外の景色がゆっくりと後方に流れ始めた。
「いよいよ出発ね」
いつも冷静なエステルの声にも自然と熱がこもる。
とうとう魔汽車が動き始めたのだ。
ミーティングが行われた日の翌朝、俺達はブロードの指示に従い、他のバウ達と共にダリス行きの魔汽車に乗り込んでいた。
先頭の魔機関車を含め、十両ほどが連結された立派な列車だ。
それが今まさにドーラの駅を出発しようとしている。浮かれないはずがない。
「う、動いてるニャ!」
「たくさん人が乗っているのにすごいですね!」
ワイルドローズの面々も大興奮だ。
魔汽車の周りには、早朝にもかかわらずヴァイロン軍の兵士達や町の住民がたくさん集まっていた。
ドーラを後にするバウ達を見送りに来てくれたのだ。
その中には、司令官のデイルやブロード、ナディア防衛隊副隊長のウォレスの姿もある。
彼らは軍の正装と思しき白い軍服姿で、魔汽車の中のバウ達に向かい名残惜しそうな顔で手を振っていた。
今回の魔人討伐に伴う作戦で共に戦い、あるいは、裏方として支えてくれた戦友達。
でも、
「もう彼らに会うことは、ないかも知れないわね……」
グロリアがぽつりと呟く。
ドーラは、西の果てに位置するヴァイロン王国の中でも辺境の町、しかも、魔界の門が完全に封印されてしまえば、トップクラスのバウが請け負うほどの大きな仕事もなかなか無いらしい。
だから、ワイルドローズがまたこの地を訪れ、再び彼らと相見える機会などもう無いかもしれないのだ。
「……でも、その方がいいのよ」
グロリアの呟きに、エステルも呟くように答える。
ちょっと寂しい気もするが、その通りかもしれない。
トップクラスのバウがこの地を訪れる必要がないということは、つまり、この世界が今後も平穏に続いていくことを意味しているのだから。
魔汽車は見送りの群衆の間をゆっくりすり抜けると、今度は一気に速度を上げ、あっという間に町の外郭である二重の城壁をくぐり抜けた。
これで約一カ月間滞在したドーラの町ともお別れだ。
魔界の門のせいで草木も生えないような町ではあったけど、殺伐とした魔人戦を繰り返していた俺達にとってはオアシスのような所だった。
「…………」
ワイルドローズはみんな窓から身を乗り出し、どんどん小さくなっていくドーラの巨大な城壁をしばらく無言で眺め続けていた。
******
シュ、シュ、シュ、シュ、……
魔汽車は独特のリズムを刻みながら南に向かって進んでいる。
ワイルドローズはヴァイロン軍から寝台車の個室を一部屋あてがわれていた。
正面に窓があり、その両側に三段のベッドが並んでいる。計六人が寝られる部屋だ。
よく工夫されていて、昼間は一段目のベッドが座席、二段目のベッドが背もたれになるよう折り畳める構造になっている。
普段はヴァイロン軍の兵士が使用する部屋ということであまり広くはないが、不便さはそれほど感じられない。
天気は今日も快晴だ。窓から入ってくる爽やかな晩夏の風が快適な魔汽車の旅を一層盛り上げてくれている。
景色は、まだ魔界の門の影響下にある地域を抜け切れていないのか黒いごつごつした岩だらけだが、でも、今までのような陰気な雰囲気はない。
というのも、景色の中を走る街道には、たくさんの商隊の馬車が列を成して進んでおり、とても活気があったからだ。
恐らく、ドーラに長く閉じ込められていた商人達だろう。
彼らは、まだ魔物が完全に駆逐されていない街道を大勢の傭兵を引き連れながら進んでいる。
……もう少し待っていれば、ヴァイロン軍が魔物を駆除してくれるはずなのに。
とも思うのだが、失った時間を取り戻すために彼らも必死なのだろう。
そんな馬車の群れを、魔汽車はいとも簡単に抜き去っていく。
「ダーリン、こっちの方が断然速いニャァ」
膝の上のチャロが満足げに俺の顔を見上げる。
「そうですね」
まあ、現代日本の電車に乗り慣れている俺からすればそれほど速いとは感じなかったが、それでも馬車に比べればずっと速い。
それに、何より操縦する必要が無いというのが俺にとっては非常にありがたかった。
とりあえずダリスまでは楽できそうだ。
しかし、外の景色を楽しみながらの魔汽車の旅は、ドーラを出発してから一時間ほどで唐突に終了してしまう。
南に進んでいた魔汽車がおもむろに針路を南西に変えたかと思うと、いきなり暗いトンネルに入ったからだ。
後で知ったことだが、ドーラからダリスに向かう山岳地帯の路線は、そのほとんどがトンネルになっているらしい。
つまり、これが山岳地帯を通っても短時間でダリスにたどり着けるからくりなのだ。
ただ、そのせいで車窓を十分に楽しめるのはドーラ出発直後と、ダリス到着直前の数時間だけになってしまうらしい。
「つまらないですね」
リリアも恨めしそうな顔でトンネルの黒い壁を眺めている。
これじゃあ昼なのか夜なのかすらもわからない。
仕方なく、俺達は今度は魔汽車の中を見て回ることにした。
トンネルの中ではあるが、車内はランプやライトリキッドが幾つも灯されているから、乗客の移動が制限されるようなことはないようだ。
「ここが食堂車ですか。魔汽船より質素ですね」
「この向こうは貨物車かしら?」
魔汽車は、先頭の魔機関車の他に四両の寝台車と二両の食堂車、それに貨物車が一両連結されている。
さらに、魔機関車のすぐ後ろと最後尾にも小型の客車が連結されているようだ。この魔汽車を警護するヴァイロン軍の兵士達が乗り込んでいるらしい。
ちなみに、この路線はドーラのヴァイロン軍にとって大切な補給線にもなっているため、沿線の所々やトンネルの出入り口付近にもヴァイロン軍の小隊が駐留しており、魔汽車運行の安全を確保しているということだ。
一通り魔汽車の中を見て回り、一定の好奇心を満足させると、俺達は居場所を寝台車の個室から食堂車に移すことにした。
トンネルの中では魔汽車の煙が車内に入り込まないよう窓を開けることができないため、個室だと何となく息苦しいのだ。
食堂車ではすでに他のバウ達も何組かくつろいでおり、もう一杯やっている輩もいるのか時々大きな笑い声が響いていた。
俺達はテーブルの一つを占有し、スティーナを飲みながら雑談をしたり、トランプのようなカードゲームをしたりして暇をつぶしていた。
ただ、エステルだけはすぐに席を立ち、また個室に戻ってしまったようだ。
どうやら例の古文書を解読しているらしい。
「あの本そんなに面白いのかしら?」
エステルの執着ぶりに、グロリアは不思議そうな顔で首を傾げている。
彼女の話では、エステルは昨夜も古文書を読んでいたらしい。
それもかなり遅くまで。
……まさか、俺のために。
エステルはヴァイロン王国に向かう魔汽船の中で、今回の仕事が終わった後、俺が元の世界に戻れるよう協力してくれると言っていた。
今回の仕事はもうすぐ終わる。ダリスに行き、懸賞金を受け取れば終了だ。
だから彼女は、そのあと俺が速やかに元の世界に戻れるようあの古文書を必死に解読してくれているんじゃないだろうか……。
恐らくトンネルの外では夕日が山の端に沈もうとしているはずの頃、俺達はエステルを含めて全員で夕食をとり、恐らくトンネルの外では無数の星が瞬き始めたはずの頃、俺達は寝るために寝台車の個室に戻った。
暗いトンネルの中では時の流れを感じにくく、昼夜の感覚が曖昧になってしまいがちだが、魔汽車は車内の照明をわざと暗くして夜を演出してくれているから、どうにか眠れそうだ。
ベッドは、一段目が俺とエステル、二段目がグロリアとリリア、三段目が身軽なチャロということになり、特にやることもない俺達は早々に眠りに就くことになった。
******
******
「…………ん?」
夜中、ふと目を覚ますと、向かいのベッドで寝ているはずのエステルがいないことに気付く。
彼女の枕元に置いてあった古文書も無くなっている。
……まさか。
俺は音を立てないように個室を抜け出し、薄暗い廊下を歩いて食堂車に向かった。
……やっぱり。
予想通り、エステルは食堂車にいた。
薄暗い車内、わずかに灯っているランプの下のテーブルで古文書の解読に没頭している。
他には誰もいない。
……何でそこまで?
俺は疑問に思いつつエステルにゆっくり近付き、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「っ!?」
彼女は俺が腰を下ろして初めて自分以外の人の存在に気付いたらしく、驚いて頭を上げる。
が、それが俺だとわかるとすぐにまた目線を古文書に戻した。
「……まだ、起きていたんですか?」
「……うん。……もう少し」
俺が質問しても、彼女は古文書から目を離さない。
迷惑とは思いつつも、俺は下を向いている彼女に話しかけた。
「…………あの、もし俺のため、ということであれば、そんなにがんばらないでください」
「……」
「元の世界に戻れるよう協力してもらえることはとてもありがたいんですが、でもこのままじゃエステル様が体を壊してしまいます」
「……」
「これは俺の問題です。エステル様がそんなにがんばる必要はありません」
「………………あなたのため、ってだけじゃないわ」
一方的に話しかけた俺に対し、彼女は古文書の文章を目で追いながらも小さな声でぽつりと反論した。
「え?」
俺は聞き返したが、彼女は気にせず古文書を見続けている。
シュ、シュ、シュ、シュ、……
しばらくの間、魔汽車の走る音だけがむなしく無音の車内を占拠した。
「………………」
沈黙の中、俺が辛抱強くエステルの次の言葉を待っていると、彼女は軽くため息をつき、その後ようやく古文書から目を離した。
「……一つ、……聞いてもいい?」
「は、はい」
彼女の真剣な眼差しに、俺は若干気後れしつつ返事をする。
「どうしてあなたはあの時、……私を魔人の呪縛から救い出そうとしてくれた時、あんなことを言ったの?」
「あんなこと?」
「……こっちにおいで、エステル。大丈夫、僕が付いていてあげるから、って」
「……」
確かにそれは俺も気になっていた。
どう考えても俺が思いつくような言葉ではないし、それに、結果的に彼女を救い出せたとはいえ、そこまで効果的な言葉だったとも思えない。
俺は正直に答えた。
「実は、俺もよくわからないんです。……でもあの時、何故か自然にその言葉が口から流れ出てきました」
そんな不明快な俺の回答に、しかし、彼女は俺がそう答えるとわかっていたかのように、ただ、
「そう……」
と、呟くように言う。
「それが何か?」
俺が聞くと、彼女はしばらく俯いて考えた後、決心したような目で俺をじっと見据えた。
「……あれは、……ジャンが私に未来をくれたときの言葉よ」
「未来を?」
「ええ、私にとって一番大切な言葉……」
そう言うと、彼女は暗闇の窓に映るおぼろげなランプの灯りを眺めながら、自分の不遇な幼少時代について静かに語り始めた。
エステルは、ミロン王国の東隣の国、クレタス王国のエレナという町で生まれた。
クレタス王の側に仕えるウィザードの男と、その使用人の女との間にできたいわゆる愛人の子だ。
ただ、この世界には一夫一婦制のような考え方はないから、子供ができた以上、当然女は妻として男の家に迎えられると信じていた。
しかし、男は正妻が政略結婚した貴族の娘だったため、二人目の妻を娶る事で自分の立場が危うくなるのではないかと危惧し、女を迎え入れようとはしなかった。
そればかりか、ローズバーロンの杖を手切れ金代わりに渡し、女を里に帰してしまったのだ。
女は男に捨てられ、失意の中でエステルを産んだ。
が、傷心が災いしたのか産後の肥立ちが悪く、わずか三週間ほどでエステルの養育を放棄し、あの世に旅立ってしまった。
だから、エステルは父親の顔も母親の顔も知らない。
その後、彼女は古書店を営む母親の実家に引き取られ、伯父夫婦の手で育てられることになった。
生まれた直後から不運な身の上になってしまった彼女ではあったが、伯父夫婦が愛情を注いでくれたため、五歳まではごく普通の子供として育った。
実の父親や母親がいなくても別に苦にはならなかった。
しかし、六歳の誕生日を迎える直前、さらなる不運が彼女を襲う。
彼女の実の父親であるウィザードの男が、政争に巻き込まれた挙句、謀反の疑いをかけられて処刑されてしまったのだ。
途端に彼女は謀反人の娘ということになり、世間の冷たい目に晒されることとなった。母親ごと捨てられ、顔も知らない父親のせいで……。
「あの子とはもう遊んではいけません」
仲の良かった友達とは遠ざけられ、近付くだけでも嫌悪感をあらわにする大人達。
あれだけ愛情を注いでくれた伯父夫婦でさえ、表面的には何もないように装っていたが、心の中では疎んでいるということを彼女は敏感に感じ取っていた。
彼女はしだいに追い詰められ、いつしか母屋の裏にある書庫に閉じこもるようになってしまっていた。
食事と寝る時以外はずっとそこで過ごした。
彼女にとってはそこが唯一の心休まる場所であり、遊び場であり、読書部屋であり、そして、牢獄でもあった。
「私は一生ここで過ごすのだ」
子供心に自分の将来を悲観した。
彼女は長い時間、色々な古書を読んで過ごした。
歴史書、魔法書、時には大人でも読まないような難しい本まで読んだ。
本は、彼女の暗い現実をかすかに照らしてくれる唯一の光だった。
でも彼女は、本当は本など読みたくなかった。
友達と元気良く太陽の下で遊び回りたかった。
だから彼女は、書庫の二階にある換気用の小さな窓から裏の空き地で遊ぶ近所の子供達の様子をいつもそっと眺めていた。
空き地の子供達は追いかけっこをしたり、おままごとをしたりして無邪気に遊んでいる。
彼女にしてみれば、まるで楽園のような光景だった。
ただ、そんな楽園にも時々魔物――いじめっ子達――が現われることもあった。
自分より弱い子しか狙わない汚い奴らだ。
しかし、そういう時にはいつも決まってある男の子が助けに入った。
裏通りに工房を構える金細工職人の子で、エステルより二歳年上のジャンという少年だ。
彼が助けに入ると、最初は意気がっていたいじめっ子達も、最後は打ち負かされて泣いて帰っていくのがオチだった。
彼は護身術として従兄からローグの技を習っていたから、滅法強かったのだ。
ただ、だからといって彼は何でも力で解決しようとするわけではなく、普段はとても優しかったし、謝りさえすればいじめっ子達にも寛大だった。
そんな彼を子供達は慕い、彼はいつも楽園の中心で遊んでいた。
(私にもあんな友達がいたら……)
書庫の窓辺で何度思ったか知れない。
その後も、エステルは書庫の窓から楽園を眺める生活を続けていた。
いつも何となくジャンを見ていた。
するとある時、彼女にとって思いもよらないことが起こった。
たまたま空を見上げたジャンと目が合ってしまったのだ。
(はっ!?)
彼女はどうしてよいかわからず固まってしまったが、彼は軽く頭を傾げて考えた後、にっこり微笑んで「おいで、一緒に遊ぼう!」と何度も手招きした。
無意識のうちに期待していた彼からの救いの手。
が、しかし、彼女は彼の視線から逃げるようにして窓から離れると、光の届かない書庫の奥に引っ込んでしまった。
(彼らにとっては楽園でも、私にとっては地獄。行けるはずがない)
けれども、その日からジャンはエステルを見つけると必ず手招きをした。
時には家まで遊ぼうと誘いにまで来てくれた。
それでも、彼女は彼には会わなかった。
手招きされても、すぐに書庫の奥に隠れてしまった。
(私は見ているだけでいい。だから放っておいて)
そのうちに、彼も察したのか彼女を見つけても手招きしなくなった。
遊ぼうと家に誘いにも来なくなった。
(諦めてくれた……)
そう思って彼女はほっとしたが、何故か、涙が止まらなかった。
それからしばらく経ったある日、いつものようにエステルが書庫の窓から楽園を眺めていると、ジャンが急に彼女の家の方にやってきて、たまたま開いていた裏門から敷地の中に勝手に入り、彼女のいる書庫にまで上がってきてしまった。
「!?」
びっくりして声も出せないエステルに対し、ジャンは彼女の手を取り、
「これを君にあげる」
と、強引に何かを握らせた。
それは、……金でできた一対の小さなイヤリングだった。
「ちょっと形が歪だけど、僕が初めて作ったやつだから勘弁して」
エステルは何が何だかわからず呆然としたが、それでも、
「…………ありが……とぅ」
と、何とか小声で答えた。
「僕の名はジャン、君は?」
「…………エステル」
すると彼はニコッと笑い、
「じゃあ遊びに行こうか、エステル」
と気軽に言いながら、彼女の腕を掴んで強引に引っ張り出した。
「止めて! 行きたくない! お願い、離して!!」
必死に抵抗するも、彼の力は強く、どうにも逃れられない。
彼女はそのまま暗い書庫から引っ張り出され、半分引きずられるようにして裏門まで連れてこられてしまった。
「お願い、離して!!」
エステルは必死の思いで門の柱にしがみ付いた。
すると、そこでようやくジャンは彼女の腕を離し、二、三歩、門の外に出てから振り返った。
そして、半べそをかいているエステルに向かってニコッと微笑み、こう言ったのだ。
「こっちにおいで、エステル。大丈夫、僕が付いていてあげるから」
シュ、シュ、シュ、シュ、……
魔汽車は相変わらず暗いトンネルの中を走っている。
エステルは暗闇の窓から静かに目線を反らすと、いつも身につけている金のイヤリングを耳から外し、それを手の平にそっと載せた。
「私はジャンから貰ったこのイヤリングを握り締め、門の外に思い切って踏み出した。その時から、……その時から私の未来が始まったの」
「……」
「ううん、その時だけじゃない。バウになるために二人で町を飛び出した時も、討伐の仕事を求めてあちこちの町を巡り歩いた時も、……私をかばって死んでしまった時も、彼は私に未来を与え続けてくれた」
「……」
「そして、あなたからあの言葉を聞かされた時、私は悟ったのよ。ジャンは、今でも私に未来を与え続けてくれているということを……。そのために彼は、私とあなたを巡り会わせてくれたんだということを……」
「……」
ジャンは、心の中でずっとふさぎ込んでいたエステルに、俺を通じてもう一度その言葉を伝えたかったんだ。
彼女にとって一番大切な言葉を、未来の始まりの呪文を。
だから、彼女は魔人の強力な呪縛から逃れる事ができたんだ。
ジャンは死んでもなお、彼女に未来を与え続けている……。
「……でも、いつまでもジャンに心配をかけさせるわけにはいかない。彼の想いに応えるためにも、今度は自分の力で何とかしなくちゃ……。だから、だから私はこの本を読む。読まなくちゃいけないの」
そう言うと彼女はイヤリングをぎゅっと握り締め、また古文書に視線を落としてしまった。
「……」
残念ながら、俺には彼女の言う「ジャンの想いに応える」ということと、「古文書を読む」ということがどう結びついているのかわからなかった。
ただ、彼女がジャンの死を乗り越え、前向きに生きようとしていることは十分に伝わってきた。
俺は音を立てないようにして席を立つと、彼女を残し、そのまま静かに食堂車を後にしたのだった。
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翌朝、俺達は今だにトンネルの中を走っている魔汽車の中で朝食をとっていた。
「なんか、朝って感じがしないわね」
真っ暗な窓の外を眺めながらグロリアがぼやく。
時間的にはもう日の出の時刻をとっくに過ぎてはいるのだが、感覚的にはまだ真夜中。朝と言われても、いまいちすっきりしない。
「早くトンネルから出ないかニャ」
暗闇が得意なはずの猫族のチャロも何故かうんざり顔だ。
朝食の献立はパンとサラダに目玉焼き、それとコーンスープだった。
この魔汽車は、主にヴァイロン軍のために運用されているらしく、料理にしても車内の装飾にしても意外と質素だ。
一般客を想定して運用されている魔汽船と比べると、とても無骨な印象を受ける。
まあ、でも街道の古びた宿屋なんかに比べればよっぽど居心地は良いのだが。
俺達はその質素な朝食をゆっくりと味わいながらとり、その後、エステルは個室でまた古文書の解読を、その他はスティーナを飲みながら食堂車でまったりとくつろいでいた。
「あー、肩こったー」
朝食を食べ終わってから三時間ほどだろうか、個室に戻っていたエステルが休憩のためにまた食堂車に現れ、俺達のテーブルに腰を下ろした。
「!?」
その瞬間だった。いきなり車内の窓という窓が全て光で埋め尽くされたのは。
ついに魔汽車が長いトンネルを抜けたのだ。
「えっ!?」
途端、目に飛び込んできた光景に食堂車にいたほぼ全てのバウが言葉を失う。
……なんだこれ!?
所狭しと建ち並ぶ巨大なノコギリ屋根の建物、青白い煙を盛んに吐き出す無数の煙突、小型の魔汽船が行き交う整備された運河。
トンネルを抜けた先は、広大な工場地帯になっていたのだ。
「……ここが、……ダリス!?」
唖然としながら呟くように言うグロリア。
どう見てもこの世界のものとは思えない光景に、他の面々も口をポカンと開けて窓の外を眺めている。
「英雄ヴァイロンが、魔界の門を封印する際に本拠を置いた神話にも登場する古の町」そんなイメージなど全く無い。
王都ダリスは、この世界で最先端の町だったのだ。
ヴァイロン王国は、魔石からエネルギーを取り出して工場を稼働させ、大量の工業製品を外国に輸出しているとは聞いていたが、まさかこれほどまでとは。
「何ですか! あれ!?」
さらに俺達を驚かせたのは、町の上空に浮かんでいた巨大な飛行物体だ。
帆船のような船体とその上に生えるいくつもの回転翼、まるでコンピュータゲームに登場するようなファンタジーな乗り物、飛行船だ!
「……空飛ぶ船、……本当にあったんだ」
エステルが窓に駆け寄り、信じられないといった表情で見つめている。
後で知ったことだが、俺達がこの時に見た空飛ぶ船のことを魔飛船と呼ぶらしい。
最高純度の魔石を燃料とし、船体の上部に取り付けられた十六本の回転翼によって空を自在に翔る夢の乗り物だ。
何でも、王都ダリスと大陸南方の海に浮かぶ常夏の島ミトロスを結ぶ定期船らしいのだが、一般人はほとんど乗らず、というか乗れず、主にヴァイロン王国の大金持ち達がバカンスのために利用しているらしい。
エステルは、噂では魔飛船の存在を知っていたようだ。
ただ、取るに足らない情報として、今の今まで丸っきり信じてはいなかった。
その空飛ぶ船はゆっくりと高度を下げ、やがて町の陰に消えていった。
「何なんだ、ここは……」
信じられない光景の連続に、俺達はしばらく呆然と窓の外を眺めるしかなかった。
そんな混乱状態の俺達とは対照的に、魔汽車はその後も平然と走り続け、正午過ぎ、この路線の終着駅である「ダリス中央駅」に無事到着したのだった。




