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039_哀れな体

火精(イフリート )風精の(シルフ エソ)……」


 ……だめか。

 もう、止められない。

「くっ」

 俺は無念の思いに打ち拉がれながら、死に備えて反射的に頭を抱え、思いっ切り目を閉じた。



 こうして、この世界のエピローグが始まった。







 ……かに思えた。


「………………………………」


 しかし、何故かエステルはなかなか魔法を発動させようとはしなかった。

 聖錠石室内は、時間が止まってしまったかのように無音の状態が続いている。


 …………まだ、なのか?


 心ならずも死の瞬間を待つことになってしまった俺は、いつまで経ってもそれが訪れないことに戸惑いを感じ始めていた。

 ……もしかして、止めてくれたんだろうか?

 ……いや、そんな気配はまったくなかった。

 ……じゃあ、わざと焦らしている?

 ……でも、それにしても長すぎるだろ。

 俺の心は、絶望と期待の狭間で激しく揺れ動いた。


「………………」

 なおも無音状態は続いている。


 俺はとうとう我慢できなくなり、そっと目を開け、恐る恐る周りの状況を確認しようとした。

 その時、


「うっ!?」


 何の前触れもなく、思いがけない箇所に激しい痛みが。

 まさかの、脇腹だ。

「くぅぅ」

 あまりにも不意で、あまりにも局所的な痛みに、俺は思わず悶えた。

 ……な、何でだ!?

 俺は炎の竜巻に飲まれ、痛みなど感じる間もなく死ぬはずじゃなかったのか。


 痛みと同時に、後方からバウ達の小さなどよめきが聞こえてくる。

 何かに驚いているような、そんな感じだ。

 何があったかはわからないが、何かがあったことは間違いない。

 俺は脇腹を押さえつつ、急いで頭を上げた。


「っ!?」


 思わず息を呑んだ。

 なんと、さっきまで前方にいたはずのエステルが、いつの間にか俺のすぐ横に立っていたのだ。

 そして、無表情の顔で俺を静かに見下ろしている。


 ……な、何で?

 俺は訳が分からず一瞬動揺したが、すぐにこんな状況――寝ている俺が脇腹を押さえ、それをエステルが見下ろしている状況――が以前にもあったことを思い出した。


 ……も、もしかして、蹴ったのか!?


 と、思うか思わないうちに、彼女は右足を振り上げ、恐らく二発目になるであろう蹴りを、俺の脇腹目がけて入れようとする。


「くっ!」

 俺は辛うじてそれを手で受け止めた。

 すると彼女は、口の奥で「ちっ」という小さな音を発した。

 舌打ち? をしたのだ。


 ……こ、これは!?

 間違いない。エステルが俺を強引に起こす時のやり方だ。

 彼女はよく、寝ている俺を蹴って起こしていた。

 無防備な脇腹を狙って。

 あの小さな砂浜に漂着して倒れていた時でさえ、彼女は俺を蹴って起こそうとしたらしい。

 その時は「つい癖で」とか言ってごまかしていたが……。

 そうだ、たぶん今もその癖が出たのだ。

 つまり、……これは魔人の動きじゃない。彼女自身の動きだ!


「タ、タケルです! エステル様! お、俺がわかるんですか?」


 俺は緊張で少しどもりながらも、急いで彼女に声をかけた。

 今なら彼女自身が応えてくれるかもしれない。


「…………」


 しかし、彼女は何の反応も示さなかった。

 無表情のまま俺を見下ろしているだけだ。


 ……やっぱりだめか。

 諦めかけたその時、彼女の口がかすかに動く。


「タッタケル……」


 ……!?

 タッタケル、俺はその言葉に聞き覚えがあった。

 そう、エステルに初めて会った時のことだ。

 あの時、奴隷になったばかりで緊張していた俺は、彼女に名前を聞かれ、今と同じように少しどもって「タ、タケル」と答えてしまった。

 そうしたら彼女が「タッタケル」と聞き間違えたんだ。

 それで、呼びづらい名前だって、少し困ったような顔をしたんだ。


「ふっ」

 あの時の二人のおかしなやり取りを思い出して、俺は思わず吹き出してしまった。

 忘れるはずはない。

 ずっと前の事のように懐かしく、でも、昨日の事のように瑞々しい思い出。


 ……そしてその後、名前を聞き間違えた彼女に、困り顔の彼女に、俺はこう言ったんだ。


「いや、タッタケルじゃなくて、……タケル、です」


 俺は、あの時と同じ言葉で、あの時とはまったく違ってしまった彼女を見上げながら、自分の名前を言い直した。


「…………………………タ……ケ……ル……」


 彼女は無表情のまま、ゆっくりと弱々しい声で俺の名前を正しく呟く。


 その瞬間、赤い目がキラリと揺らめいたかと思うと、その目尻から宝石のように美しい水滴が頬を伝ってこぼれ落ち、俺の目の前の床に小さな丸い染みをつくった。

 人にあらざる姿のエステルが、涙を流したのだ。


「………………」


 俺は、その涙に導かれるようにして静かに立ち上がった。

 そして、彼女にゆっくり近付き、硬直したその体をそっと抱きしめる。


「……」

 彼女は、動かなかった。俺の腕の中でじっとしている。


 ……なんて冷たいんだ。

 彼女の体は氷のように冷え切っており、まったく温もりを感じられなかった。

 体中に浮かび上がった黒い網目模様は、皮膚に深く食い込んで彼女をきつく縛り上げている。

 魔人に辛い過去を掌握され、蹂躙され、醜い魔物と化してしまった哀れな体。

 ……苦しかったろうに。

 俺は堪えきれず、両腕に力を入れ、彼女を強く抱きしめた。

 少しでも、彼女の冷え切った体が温まるように……。

 少しでも、彼女の苦しみが癒されるように……。


 そして、抱きしめながら、俺は無意識のうちに彼女の耳元で囁いていた。


「こっちにおいで、エステル。大丈夫、僕が付いていてあげるから」


 確かに俺はそう言った。

 でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。

 ただ、何故かそんな言葉が俺の口から自然に流れ出てきた。



 カラン、ラン……



 無音だった聖錠石室内に杖の転がる音が響き渡る。


「うっ、うう……」

 エステルは握っていた杖を落とし、俺の腕の中で静かに泣き始めた。

 赤い目からは大粒の涙が止めどなく流れ落ち、体は小動物のように小刻みに震えている。


「エステル様……」

 俺は、ただただ彼女を強く抱きしめ続けた。

 彼女の体が壊れてしまうほどに強く、いや、壊れてしまわないように強く。


「…………」


 聖錠石室内は、エステルの小さな泣き声以外何も聞こえない。

 さっきまでの激しい戦闘が嘘のように、今は悲しみの静寂に包まれている。

 バウ達も身動きひとつせず、俺とエステルを無言で見守っていた。


「ううぅぅぅ……」

 エステルは、しばらくそのまま静かに泣いていた。

 が、急に体全体の力がすっと抜け、気を失ったかのようにそのまま俺にもたれ掛かってきた。


 ……!?


 その途端、彼女の背中に生えていた二対の黒い翼がみるみる小さくなっていき、最後は体の中に吸い込まれるようにして消えた。

 黒紫色に変色した毛髪もあっという間に美しい金髪へと変わり、肌の黒い網目模様も急速にその色素を失っていく。

 そして、何よりも象徴的だった青白い光も、燃え尽きかけたろうそくのように、静かにその輝きを弱めていった。

 元通りのエステルに、戻ったのだ。


 …………助けられた、のか。


 そう思った瞬間、体の力が一気に抜け、俺はエステルを抱きしめたまま、その場に座り込んでしまった。

「はぁぁぁ……」

 今までの人生で、これほどほっとしたことはない。


 が、しかし、


 ……!!


 エステルの真後ろを見た瞬間、そのほっとした気持ちが一瞬で吹っ飛んだ。

 立っていたのだ。

 黒髪で、黒いワンピースを着た赤い目の少女が!


「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、……」


 ……?

 ただ、ちょっと様子がおかしい。肩で息をしている。

 髪が乱れ、顔がやつれ、この前見た時より明らかに衰弱している。

 今にも倒れそうだ。


 ……もしかして!?

 俺は少女の姿を見て、憑依型の魔物についての話を思い返した。

 

 ……確か、このタイプの魔物は「一度取り憑いたら宿主が死ぬまで離れない」といわれている。

 とすれば逆に、憑依を無理矢理解除させられると、その魔物にとってかなりの負担になるんじゃないだろうか?


「お、おのれ、ふざけた、まねを、ぜぇ」

 少女は息を切らせながらも、鋭い眼光で俺を睨み付けてくる。

 怒りと苦しさが重なって物凄い形相だ。


「うっ」

 俺はその顔を見て思わず怯んでしまう。

 体は小さくても相手は魔人、俺など一瞬で殺せる力を持っているはずなのだ。

 しかも、今の俺はエステルを抱えていて身動きがとれない。

 大ピンチだ。


 が、俺はある一念を胸に、歯を食いしばり、勇気を奮い立たせた。


 ……エステルだけは絶対に守り抜く!!


 俺は根性で魔人を睨み返し、体をねじってエステルを魔人から遠ざけると、大声で言い放った。


「お前なんかにエステル様はやらない! 彼女は、俺の大事な主人だ!!」


「シャアア!!」

 すると魔人は牙をむき出しにして獣のように唸り、吊り上がっていた目尻をさらに吊り上げた。もう完全に少女の顔ではない。化け物の顔だ。

 そして、怒りに震えながら、俺に向かって怒鳴る。


「ならば貴様に!!」


「……うっ!?」

 その瞬間、おかしな感覚に襲われた。

 ……なんだ、これ!?

 何かが体の中を這い回っている、感じがする。

 物理的に? ……いや、そんなはずはない。

 でも、体の内部を直接触られているような、そんな嫌な感じがするのだ。


 ……しまった!


 俺はこの時、自分がかなりやばい状態に陥ってしまっていることに気付いた。

 この嫌な感じ、……恐らく、魔人が俺の心に干渉し始めたのだ。

 「絶対に負けるか!」と思うあまり、魔人を思い切り睨み返していたのがいけなかった。

 まさか、俺にまで取り憑こうとするとは。


「くっ」

 俺はすぐに魔人から目を反らそうとした。

 が、駄目だった。もう瞬きすらできない。


 魔人の見えざる手が、俺の心の中を無理矢理ほじくり返していく。

「うぅ……」

 それにともなって、思い出したくもない嫌な思い出や、不安が作り出す幻想が、心の中にどんどん散らかっていった。


「……この資料、今日中に仕上げとけよ。残業代? ろくに仕事もできないような奴が何言ってんだ」


 ……止めろ。


「……ゴホッ、ゴホッ、あ、あなた、健は? ゴホッ」

「……健のことは俺に任せて、お前はゆっくり休むんだ。じゃないと本当に死んでしまうぞ」

「……でも、あの子がどこかで苦しんでいるんじゃないかと思うと、寝てなんていられっ、ゴホッ、ゴホッ」


 ……止めてくれ。


 何とか食い止めようとしたが、魔人の赤い目がそれを許してくれない。

 心の奥底にしまってあった辛い過去や不安などが溢れ出し、俺を虚無の淵へと追いやろうとしている。

 ……このままじゃ、……取り憑かれる。


 スッ。


 その時、俺と魔人の間を一陣の風が通り抜けた。


「はっ!?」

 直後、心をまさぐっていた魔人の手が急に引っ込み、気持ちが一気に軽くなって、俺は我に返ることができた。

 魔人が何故か干渉を中止したのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ」

 俺は心を滅茶苦茶にされてまったく動けないほどクタクタに疲れていたが、魔人の異変を確かめようと何とか頭を上げた。


 ……?


 魔人はさっきと同じように俺の目の前に立っていた。

 位置も姿勢もまったく変わっていない。

 ただ、表情だけはかなり違っていた。

 目と口を大きく開け、何かに驚いたような表情を浮かべている。


 ……ど、どうしたんだ?

 そう思った次の瞬間、魔人の赤い眼球がぱっくり割れ、そこから緑色の血がどばっと吹き出した。


「ぎゃあああああ!!」


 魔人は悲鳴を上げ、両手で目を押さえ込んだ。


 気が付くと、風の通り抜けた先に猫耳の少女が一人。

 チャロだ!

 彼女が風のように近付いて、魔人の目をダガーで横一文字に切りつけたのだ。


 さらに一瞬の後、


 グスッ!!


 今度は魔人の左胸から槍先が飛び出してきた。


「ぐぁかっ……」

 魔人は口から大量の血を吐き、声にならない悲鳴を上げる。


 魔人の背後には、漆黒の肌を持つ背の高い女性。

 グロリアだ!

 彼女が後ろから魔人の心臓目がけて槍を突き刺したのだ。


 ……!?


 すると、魔人の体がいきなり二倍以上の大きさに膨れ上がり、腹が出て、顔が酷く歪んだ豚面へと変化した。


「こいつ、化けていたのね」

 槍を掴んでいたグロリアが気色悪そうに言い捨てる。

 恐らく、この醜い体が魔人の本当の姿。

 取り憑く相手を油断させるために、幼い少女に化けていたのだ。


「ぐ……」

 その醜い物体はしばらく槍の先で必死にもがいていたが、ほどなくしてぐったりし、槍にもたれ掛かるようにして動かなくなった。

 不気味に光っていた赤い目も、今は緑色の血で覆われ、その輝きを完全に失っている。


「はぁ……」

 それを見て、俺は強張っていた肩の力を抜き、深く息を吐いた。


******


******


 西の砦に居座っていた魔人は討伐された。


 連絡を受け、急いで聖錠石室に入ってきたブロードは、室内の荒れようを見て一瞬言葉を失ったが、その後すぐ、聖錠石の封印力を有効にする作業と、傷を負ったバウ達への治療を部下達に素早く指示した。

 魔人討伐を成し遂げたバウ達は、しかし、一人として喜んでいる者はおらず、疲れ果てたように壁や瓦礫などに寄りかかって、ただぼーっと視線を宙に漂わせている。

 それほどまでに、今回の討伐は過酷で悲惨なものだったのだ。


 エステルは、グロリアとチャロとリリアに見守られながら俺の腕の中で死んだように眠っている。

 助けた時、彼女は完全に裸の状態だったが、すぐにリリアが自分の白いコートを脱いで彼女に羽織らせてくれたため、とりあえず肌の露出は防げている。

 ただ、呼吸や脈がとても弱く、体温も低いままだ。

 さらに、薄っすらだが、まだ青白い光を放っている。


ヘルメスの(ヘルメス エソ )恩情(タエナ)!」


 リリアがエステルに高等ヒールを施したが、症状はまったく改善しなかった。

 もしかしたら魔人の魔力がまだ彼女の体の中に残っていて、それが今の症状を作り出しているのかもしれない。

 ……時間が経てば治るだろうか?

 わからない。でも、今はそう祈るしかない。


 やがて、ヴァイロン軍の増援部隊が地下鉄道で到着し、俺達は入れ違いで西の砦を後にすることになった。



 パカ、パカ、パカ、……


 馬車は、ドーラの町に向かって暗がりのトンネルの中を進む。

 誰もしゃべる者はいない。黙って馬車に揺られている。

 俺も目を閉じ、静かに座席に座っていた。

 まだ目を覚まさないエステルを大事に抱きかかえながら……。



 西の砦の魔人戦は、こうして幕を閉じたのだった。

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