038_一か八か
エステルとバウの戦闘は続いていた。
エステルは二対の翼をゆっくりと羽ばたかせ、聖錠石の上空に留まっている。
目が眩むほどの青白い光をまとって宙に浮かぶその姿は、まるで降臨せし神のようだ。
彼女は、杖や氷壁の魔法を使ってバウ達の攻撃を巧みに防いでいる。
子供のように無邪気に笑い、いかにも楽しそうだ。
それに対してバウは、前衛のタンク達がヘイトクラッカーを、中衛の間接アタッカー達が矢や攻撃魔法を絶え間なく放ち続けている。
特にタンクは、エステルに範囲魔法を撃たせようと躍起になっているようだ。
そんな戦闘の様子を、俺は壁際から固唾を呑んで見守っていた。
戦闘開始からしばらくの間、エステルはタンク達の挑発に乗らず、バウの攻撃を楽しそうに防いでいるだけでまったく攻撃してこなかった。
が、痺れを切らしたベルナールが――恐らく挑発のためにわざと――聖錠石に近付いたのを見て、ついに呪文を唱え始める。
「範囲魔法だ! タンク以外は射程外に出ろ!」
ベルナールは素早く元の位置に戻ると、後方に向かって大声で指示を出した。
彼は豊富な戦闘経験から、口の動きだけで相手が何の呪文を唱えているのかわかるのだ。
彼の指示を聞いて、間接アタッカー達は整然と射程外に退く。
直後、エステルが杖を振りかざして叫んだ。
「風精の裁き!」
バチン!!
耳をつんざくような激しい雷鳴が聖錠石室内に轟き、広範囲にわたって雷が発生する。
エステルが風の高等範囲魔法を発動させたのだ。
「うぅっ」
その強い衝撃に、彼女から一番離れた所にいた俺ですら思わず仰け反ってしまった。
杖を使っているせいか、魔法の威力がこの前の時よりもずっと強くなっているようだ。
けれども、間接アタッカー達はすでに彼女の射程外に逃れていて全員無事だった。
射程内に残っていたタンク達も、雷の直撃を受けはしたが、魔法防御力に優れた翠玉の鎧と、ヒーラー達の素早い援護によって特に問題はないようだ。
雷が収まると、間接アタッカー達はすぐに元いた場所に戻って攻撃を再開。
作戦通りの行動だ。
「……」
エステルは範囲魔法が空振りに終わって少しむっとしたようだったが、すぐにまた不敵な笑みを浮かべる。
そして、しばらくバウ達の攻撃を弾き返した後、次の呪文を唱え始めた。
「また範囲だ。退避しろ!」
ベルナールの指示により、すぐに退避行動を起こす間接アタッカー達。
ほぼ同時に、エステルの呪文詠唱が終わった。
彼女は素早く杖をかざすと、天に向かって叫ぶ。
「火精の怒り!」
その途端、聖錠石室内が真っ赤に照らされた。
上空に直径1メートルほどの炎の塊が幾つも現れたのだ。
そしてそれらは、
ダダダダダダダダダダダダダッ!!
と、けたたましい音を立てて一気に地上に降り注ぎ、辺り一帯を荒れ狂う火の海へと変貌させてしまった。
火の高等範囲魔法だ!
「くぅっ」
視界は真っ赤な炎に覆われ、その熱風が俺の所にまで押し寄せてきた。
強烈な熱さだ。
間一髪射程外に逃れた間接アタッカー達も、何人かはその熱風で火傷を負ってしまったらしい。
タンク達は火の海の中、継続的にヒールを貰いながら何とか耐えている。
……こんな魔法もあったのか。
エステルは普段、敵の強さや周囲の状況などを考慮した上で、必要最低限の魔法しか使用していなかった。
常に、敵以外のものにまで被害が及ばないよう気を配っていた。
しかし、今の彼女はそんなことまったく考えていない。
むしろ、魔法の威力を楽しんでいるようだ。
あまりの凄まじさに、火の海が消滅した後も間接アタッカー達はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
が、
「すぐに攻撃に移れ!」
というベルナールの指示でやっと動き出す。
エステルは、またもバウ達に被害がなかったことに苦笑いのような表情を浮かべたが、特に動揺した様子もなく、先ほどと同じようにバウ達の攻撃を蹴散らし始めた。
……このような感じで、しばらくの間、戦闘はバウの間接攻撃とエステルの魔法攻撃が交互に繰り返されることとなった。
エステルはベルナールや他のタンク達にうまく誘導され、強烈な範囲魔法を幾つも放った。
しかし、間接アタッカー達はその都度射程外に逃れたため、今のところ犠牲者は出ていない。
東の砦の魔人と同じく彼女も聖錠石から大きく離れようとしないため、彼女の射程がほぼ固定化しており、タイミングさえ間違えなければ、足の遅い者でも魔法から逃れること自体はそれほど難しくないのだ。
「いいぞ、この調子だ。少しずつでもいいから魔人の体力と精神力を消耗させるんだ」
ここまではベルナールの思惑通りといえる。
******
戦闘開始から二時間ほどだろうか、エステルの動きに変化が生じる。
「炎の渦!」
範囲魔法を使わず、局地攻撃魔法を使うようになったのだ。
最初にそれを食らった左翼のタンクは不意を突かれたため、後ろに大きく吹き飛ばされてしまったが、しかし、二発目からはみんな警戒してうまくしのいでいる。
……精神力が消耗したのか?
高レベルのウィザードでも、高等の範囲魔法を連続で三発も発動させれば、精神力が枯渇するらしい。
これまでにエステルが放った範囲魔法はすでに十発を超えている。
いくら魔人とはいえ、さすがにばててきたのかもしれない。
エステルが局地攻撃魔法に切り替えたことで、今まで押され気味だったバウ達の攻撃が活発になった。
というのも、今回の主力であるアーチャー達が、彼女の射程内に留まって継続的に攻撃を行えるようになったからだ。
局地攻撃魔法であれば、彼女が狙いを定めた瞬間に退避しても十分間に合うだけの足を彼らは持っている。
これによって、彼女にかなりのプレッシャーをかけることができているようだ。
そして、その効果がすぐに結果として表れた。
エステルが何発目かの局地攻撃魔法を発動させようとした時、
シュッ!
風を切る音が聞こえ、直後、エステルの肩に矢が突き刺さったのだ。
「……岩の……砲弾」
矢を受けたエステルは苦痛で表情を歪ませながらも、辛うじて土の中等魔法を放つ。
だがその岩は、彼女が狙ったと思われる右翼のタンクから大きく外れた所に着弾した。
「おお!!」
それを見てバウ達がどよめく。
何しろ、エステルに初めて有効なダメージを与えられたのだ。
「よし!!」
矢を放ったアーチャーはみんなに向かって派手にガッツポーズ。
彼は、エステルが魔法を発動させる寸前、わずかに防御の隙ができることに気付き、そのタイミングを狙って矢を放ったのだ。
「ググゥ……」
エステルは肩に刺さった矢を強引に引き抜いたが、かなり痛がっているようだ。
その傷口からは、緑色の血がだらだらと垂れている。
「見ろ! 奴には再生能力がないぞ!」
ベルナールが叫ぶと、バウ達は一気に盛り上がった。
再生能力がないとすれば、出血などで追加的なダメージを与えられる。
バウにとってかなり有利になるだろう。
次にエステルが魔法を発動させようとした時にも、数人のアーチャーが矢を放ち、その内の一本が彼女の太股に命中する。
「グッ……」
彼女は苦痛の表情を浮かべながら風の中等魔法「風の剣」を放ったが、それにはまったく勢いがなく、ベルナールに盾で簡単に弾かれてしまった。
「いいぞ! かなり効いている。その調子で攻撃しろ!」
ベルナールが嬉しそうに叫んだ。
流れが完全にバウの方にきている。
今までの範囲魔法をしのぎ切った彼らは、ここへきて消耗してきたエステルに有効なダメージを与える事に成功し、にわかに活気付いた。
矢を受けたエステルは明らかに苦痛の表情を浮かべている。
いくら魔人とはいえ、宿主であるエステルは体力も防御力も低いウィザードのため、矢を受けただけでも相当のダメージを負っているようだ。
……どうしよう。
俺は見ていられなくなった。
このままじゃ彼女を助け出す前に討伐されてしまうかもしれない。
エステルがまた呪文を唱え始める。
するとすぐにベルナールが彼女の魔法を見抜いた。
「局地攻撃魔法、炎の渦の魔法だ!」
それを聞いて、アーチャー達が待ってましたとばかりにタンクの後ろに集結する。
彼らはここで彼女に大ダメージを与えてやろうと企んでいるようだ。
……エステル。
俺は心配で居ても立ってもいられなくなった。
やがて、エステルが呪文を唱え終え、魔法を発動させようと杖を振り上げる。
シュシュシュッ!!
その瞬間、アーチャー達から無数の矢が放たれ、その内の四、五本がエステルの体に突き刺さった。
「やったか!?」
嬉しそうに叫ぶベルナール。
……あぁ。
逆に俺はショックで崩れ落ちそうになった。
エステルが、討伐されてしまう……。
「グゥ……」
矢を受けたエステルは苦しげに小さな呻き声を上げると、魔法を発動させられないまま上空からフラフラと落ち始めた。
まるで力尽きた蝶のように。
その様子を見て、恐らくほとんどのバウ達は勝利を確信しただろう。
……しかし、彼女はやられてはいなかった。
苦痛に歪んだ彼女の表情が、何故か不敵な笑みへと激変したのだ。
そしてすぐに体勢を立て直すと、杖を掲げ、嬉しそうに叫ぶ。
「火精の怒り!!」
ダダダダダダダダダダダダダッ!!
たちまち上空から無数の炎の塊が猛烈な勢いで落下してきた。
瀕死だと思われたエステルが、突如、範囲魔法を発動させたのだ。
「うあぁぁぁ!!」
いきなり範囲魔法を食らったアーチャー達は、逃げる間もなく火の海に飲まれた。
ヒーラー達が懸命にヒールで援護したが、魔法抵抗力のない者がこの炎の勢いに耐えられるわけはない。すぐに力尽きて火の海の藻屑と消えた。
「な、何故だ!?」
火の海が消失した後、エステルを見上げつつ困惑した表情を浮かべるベルナール。
彼はエステルが唱えていた呪文を局地攻撃魔法のものだと判断した。
にもかかわらず、彼女が発動させたのは範囲魔法。
ベルナールは、口の動きで相手が何の呪文を唱えているかを判断している。
もしかしたら、エステルはそれを逆手にとり、ベテラン腹話術師のように見た目の口の動きとは違う呪文を唱えていたのかもしれない。
「ケケケケ……」
焼けてほとんど炭になったアーチャー達の亡骸を見て、エステルが気色の悪い笑い声を上げた。
見ると、いつの間にか彼女の体に刺さっていた矢の全てが抜け落ち、傷もまったく残っていない。
……やっぱり再生能力があるんだ。
あの笑顔、恐らく彼女はわざとダメージを受けたように見せかけ、アーチャー達をおちょくっていたのだろう。
その後、エステルはバウ達に向かって範囲魔法と局地攻撃魔法を織り交ぜながら攻撃をしかけてくるようになった。
まったくばてている様子はない。
それに対してバウは、主力だったアーチャーがほぼ全滅し、攻撃力が大幅に低下してしまっていた。
さらに、ベルナールがエステルの呪文を判別できなくなってしまったことで、退避の指示が困難となり、結果、彼女の魔法の餌食になる間接アタッカーが続出した。
けれども、バウ達は何とか踏み止まっている。
現時点ではエステルにかなり押されてしまっているが、まだ、ウォーリアやローグなどの近接アタッカー達は、ほぼ無傷の状態で後方に控えている。
魔人はかなりの精神力を有しているようだが、今の調子でガンガン魔法を撃ち続けていれば、いくら何でもその内にはばてるだろう。
その後に近接戦闘に持ち込めば、まだ勝機は十分にある。
それまで何とか持ち堪えようとがんばっているのだ。
しかし、その思惑もすぐに崩れることとなる。
エステルは、範囲魔法でタンク達を足止めした後、前方に大きく突出し、射程外に逃れていたバウ達を初等や中等魔法で狙い撃ちし始めたのだ。
空中からのウィザードによる魔法攻撃、これに勝る攻撃はない。
グロリアやチャロ、ガエルなどにより、リリアを含むタンクパーティーのヒーラー達は何とか守られていたが、他のバウ達は逃げ惑い、浮き足立って、もはや攻撃どころではなくなってしまった。
……これじゃあ勝ち目はない。
エステルの圧倒的な魔法攻撃力の前に、バウ達はもう為す術がなかった。
このままでは彼女が消耗する前に全滅してしまう。
作戦を一から考え直さなければならない。
……撤退か。
恐らくバウ達全員がそう思っているに違いない。
ベルナールもそのタイミングを見極めようとしているのか、しきりに周りの状況を確認し始めた。
……だが、エステルはそれすら許さなかった。
さっきまで楽しそうに笑っていた彼女が、急に不機嫌な表情を浮かべたのだ。
まるで新しいおもちゃに飽きてしまった子供のように。
「……」
その顔を見て、俺は背筋がぞっとした。
……何か、やばい気がする。
エステルは、不機嫌な表情を浮かべたまま聖錠石の上空で新たな呪文を唱え始める。
「…………」
今までとは違う雰囲気に、固唾を呑んで彼女を見上げるタンクや射程外のバウ達。
「…………」
しかし、なかなか彼女の呪文詠唱は終わらない。
今までの彼女の詠唱速度なら、高等魔法の呪文ですらもう十分に唱え終えていてもおかしくないはずなのに……。
「ま、まさか!?」
その時、ベルナールが何かに気付いてはっと頭を上げる。
「……合成魔法!?」
その声を聞いて、エステルが目だけをわずかにほころばせた。
「タ、タンク! すぐにアブソリュートディフェンスを発動させろ!!」
ベルナールは切迫した声で左右のタンク達にそう指示を出すと、自身も急いで呪文を唱え始める。
彼は、エステルが今までにない強烈な魔法を発動させようとしていると判断したようだ。
「絶対防御の陣!!」
ベルナールを含む四人のタンク達は、グロスシールドに付与されている魔法アブソリュートディフェンスを一斉に発動させ、その後、重心を低くして身構えた。
これでどんな強力な魔法でもしばらくは耐えられるはずだ。
その直後、エステルの長い詠唱が終わる。
彼女は不機嫌な表情のまま杖を真上に掲げると、いつもより声高に叫んだ。
「火精風精の乱舞!!」
途端、彼女の杖の先から、風と炎が激しく噴出し、ねじれ、回転し、やがて巨大な炎の竜巻を造り上げた。
火と風の高等魔法が一度に発動されたのだ!
ゴォォォォォ!
その魔法の威力は破滅的だった。
巨大な炎の竜巻は聖錠石室の大部分を占拠し、上はドーム型球場のように馬鹿高いはずの天井にまで到達する。
射程の内外などもう関係なく、辺りの物を根こそぎ吹き飛ばし、巻き込み、焼き、そして、飲み込んでいく。
この世の終焉を思わせるような圧倒的で絶望的な地獄の業火。
「うわぁぁぁぁ!!」
俺達は床に這いつくばり、必死に耐えていたが、竜巻の近くにいたバウの何人かは耐えきれずに吹き飛ばされ、そのまま竜巻に飲まれてしまった。
その圧倒的な力の前に、俺達はただただそれが早く収まってくれる事を願うしかなかった。俺達はあまりにも無力だったのだ。
巨大な炎の竜巻はしばらく聖錠石室内に居座った後、音もなく消失する。
「はぁ、はぁ、はぁ」
何とか吹き飛ばされずに済んだ俺は、恐る恐る頭を上げ、辺りを確認した。
「……」
呆然となった。
さっきまで白く美しかった聖錠石室が、一瞬で荒れ果てた廃墟に変わってしまっていたのだ。
床は大きくめくれ上がり、壁や天井はひび割れ、所々崩れている。
むき出しになった地面には瓦礫が散乱し、足の踏み場もないほどだ。
射程外にいたバウ達のほとんども体の半分は瓦礫に埋まっており、苦しそうな呻き声を上げている。
みんなかなりの怪我を負っているようだ。
「あぁ……」
そして、タンク達も無残な姿であちこちに倒れていた。
四人ともまったく動かない。
彼らは魔法防御力に優れた鎧を着、アブソリュートディフェンスまで発動させていた。
にもかかわらず、あの炎の竜巻に耐え切ることはできなかったのだ。
ピクッ。
いや、一人だけほんのわずかだが動いている。
ベルナールだ。
彼はまだ生きている!
それを見たタンクパーティーのヒーラー達が一斉にヒールの呪文を唱え始めた。
彼らは、グロリアやガエルによって炎の竜巻から守られていたため、大きなダメージを受けずに済んだのだ。
ベルナールは瀕死の重体のようだが、彼らからヒールを貰えばすぐに復活できるだろう。
だが、その時、
ストッ。
ヒーラー達の前に何かがふわりと舞い降りる。
黒い翼を持ち、青白い光を放つ者、……エステルだ。
彼女は不機嫌な表情を浮かべたままゆっくりとバウ達を見回した。
そして、
「…………」
また、もごもごと口を動かし始める。
呪文を、唱え始めたのだ!
「!?」
バウ達は凍りついた。
……エステルは飽きたのだ、この戦闘に。
そして、早々に終わらせようとしている。
俺達を全滅させて。
恐らく彼女が今唱えている呪文も、先ほどと同じものに違いない。
バウ達は言葉を失い、エステルを恐怖の眼差しで見つめること以外に何もできずにいた。
が、
「……て、撤退、……みんな、逃げ……ろ」
というベルナールの呻き声のような呼びかけを機に、一斉に逃げ始める。
みんな重傷を負った体で、ある者は足を引きずり、ある者は這いながら、懸命に前室を目指して。
俺は炎の竜巻から一番離れた所にいたためそれほど大きな傷を負ってはいなかったが、バウ達の必死さに飲まれ、みんなと同じように前室に向かおうとした。
「!」
しかし、俺はここであることに気付く。
……エステルが、すぐそこにいる。
この時、彼女は今回の戦闘の中で最も俺の近くにいた。
氷の矢で右胸を射抜かれた時よりもずっと近い。
……もしかして、今が彼女に近付く絶好のチャンスじゃないのか?
彼女は地上にいる。しかも、もう止める者はいない。
今なら彼女に簡単に近付けるはずだ。
……ただ、近付いてどうする?
今の彼女は憎悪と殺意の塊だ。
近付いたところで何もできないかもしれない。
呆気なく殺されてしまうかもしれない。
……じゃあやっぱり逃げるか?
いやでも、さっきの魔法の威力なら、前室に逃げたところで助かる確率はかなり低い。
恐らく、死ぬ。
…………ならば、ここで一か八か!
その時、俺の背中を押すかのようにグロリアが叫んだ。
「タケル、今よ!!」
チャロも叫んだ。
「ダーリン、今ニャ!!」
リリアも叫んだ。
「タケル様、今です!!」
「っ!!」
俺はエステルに向かって猛然と走り出した。
今のエステルを止められるのは、この世界で恐らく俺だけだ。
彼女がまたさっきの魔法を発動させ、ここにいるバウ達が全滅することにでもなれば、この世界は滅亡への階段を一気に駆け上がってしまう。
それは断じて避けなくてはならない。
……だから、俺は死んでも彼女を止めなくちゃいけないんだ!!
「エステル様、止めてください!!」
俺はがむしゃらに叫び、がむしゃらに走った。
俺の声を聞いて、逃げ出そうとしていたバウ達が足を止めて振り返った。
この前、俺の呼びかけでベルナールが助かったことを思い出したのだ。
エステルの視線も俺に向けられたが、しかし、口の動きは止まらなかった。
呪文を唱え続けている。
……ここじゃ遠すぎる。もっと、もっと近くに!!
俺は自分の持てる力を振り絞って必死に走った。
幸い今、エステルは長い呪文を唱えている。
氷の矢で撃たれることもない。
最後に訪れた最大のチャンスだ!
「がんばれ!!」
「彼女を止めてくれ!!」
バウ達の声援も聞こえ出した。
みんな逃げずに俺を応援してくれている。
俺は全力で走り続けた。
視界に映るエステルがドンドン大きくなっていく。
彼女はまだ呪文を唱え終えていない。
……まだ間に合う!
あと少し、あと少しで彼女のすぐそばまで行ける。
俺が、俺が彼女を止めるんだぁぁぁ!!
……が、ここで俺は痛恨のミスを犯した。
気持ちが焦り、エステルだけを見続けていたせいで、足元に散らかっていた瓦礫を見落としていたのだ。
「うわっ!」
気付いた時には遅かった。
俺はそれに思いっ切りつまずき、足がもつれ、体勢を大きく崩す。
「いぃっ!」
何とか立て直そうとするも、前のめりになった上半身が重力に引っ張られていうことを聞いてくれない。
足が宙を蹴り、床が急速に近付いてくる。
「こ、ここで倒れるわけにはぁ、倒れるわけにはぁぁぁ!!」
…………。
静まり返る聖錠石室。
瓦礫だらけの床に見事なまでのヘッドスライディングを決めた、俺。
「く、くそぉ」
……諦めるか!!
俺は全身を襲う痛みに耐えながら、擦り傷だらけの手で地面を掴み、何とか起きあがろうと頭を上げた。
「うっ!!」
その途端、動けなくなる。
目の前に立っていたのだ、不機嫌な表情を浮かべたままのエステルが。
冷徹な赤い目で俺を見下ろしつつ。
そして、次の瞬間、
「……」
わずかに動いていた彼女の口が、止まった。
呪文を、唱え終えてしまったのだ。
……ま、まずい!?
「止めてください! エステル様!!」
俺は倒れたまま慌てて彼女に呼びかけた。何としても彼女の魔法を止めなければ。
「……」
けれども、彼女は眉一つ動かさない。
赤い目の奥から強烈な殺気が伝わってくるだけだ。
魔法の発動を止める気配などまったくない。
「止めてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!」
俺は自分が出せる最大の声量で叫んだ。
が、無駄だった。
彼女は言い始めてしまったのだ。
この世界の終焉を告げることになるであろう破滅の言葉を。
「火精風精の……」
……だめか。
もう、止められない。
「くっ」
俺は無念の思いに打ち拉がれながら、死に備えて反射的に頭を抱え、思いっ切り目を閉じた。
刹那、まぶたの向こうに、この世界で出会ったたくさんの人達の笑顔、グロリア、チャロ、リリアの笑顔、そして、魔人に取り憑かれる前の穏やかなエステルの笑顔が浮かんだ。
…………ごめん、みんな。
こうして、この世界のエピローグが始まった。




