035_赤い目
討伐の日を迎えた。
今回の目標は西の砦に居座っている魔人だ。
前回の魔人戦で大体の要領を得た俺達は、とてもリラックスした雰囲気の中、集合場所であるドーラの町の西門に向かった。
「うわぁ、たくさんいますね」
西門が見え始めた所で、リリアが驚きの声を漏らす。
彼女が驚くのも無理はない。西門の前には、前回とは比べものにならないほどたくさんの住民達が押しかけていたからだ。
魔人一体を倒したことにより、バウに対する彼らの期待度がかなり上昇したのだろう。
近くの商店や露天商もここぞとばかりに店を開き、いつの間に作ったのか有名なバウの人形や、剣や槍などの模型を店先に並べ、それがまた飛ぶように売れている。
「もうお祭り騒ぎね」
挨拶にきたベルナールにエステルが呆れたように言うと、
「まあ、それだけ彼らも困っているということだろう」
彼は苦笑しつつも住民達に同情的だった。
魔人が現われて以降、住民達はこの町に三ヶ月以上も閉じ込められてしまっている。ヴァイロン軍から最低限の食糧は配給されているから食うには困らないだろうが、逃げることもできず、魔人に怯えながら家の中でじっとしていなければならないのは苦痛に違いない。
自然、バウに過度な期待を寄せてしまうのだろう。
日の出の時刻になり、俺達は大歓声の中、予定通り西の砦に向けて出発した。
西の砦への行軍ルートは、東の砦のルートとちょうど東西対象になっている。
まずドーラの町の西門から北西に向かってまっすぐ進み、途中で向きを北東に変え、最終的に西の砦の西口に至るルートだ。
町の外は当然ながら魔物が出没したが、心なしか前回よりも数が減っているようにみえる。
馬車を警護するナイト隊にも若干の余裕があるようだ。
「たぶん、聖錠石が二つ有効になったせいで魔界の門から出現する魔物の数が減っているのよ」
とはエステルの弁。
……なるほど。
これなら比較的らくに西の砦にたどり着けそうだ。
******
辺りが明るくなり始めた頃、馬車の進む先に東の砦と同じ巨大円柱型の建物が見えてきた。
西の砦だ。
魔物が少なかったおかげで、前回よりもだいぶ到着が早い。
ただ、さすがに砦の周辺には魔物がうじゃうじゃいたため、ナイト隊が慌しく辺りを駆け回っている。
馬車を降りた者達は、その場で素早く整列した後、まずはブロードの突入隊が、少し遅れてバウ達が砦の中に侵入した。
防衛上の観点からか、入口から聖錠石室へ至るルートは若干変えてあるようだが、全体的な構造は東西の砦で大きな違いはないようだ。
当然、中の雰囲気も一緒、…………あれ、でも。
何となく違和感を感じる。
何かが違うような気がする。でも、なんだろう?
「東の砦と何か違いませんか?」
その時たまたま俺の近くを歩いていたグロリアに尋ねると、彼女はすでにその違いに気付いていた。
「ええ、魔物の死骸が少なすぎる」
……なるほど。
確かにそうだ。
腐敗した守備隊の死体は東の砦と同じようにたくさん転がっているのに、魔物の死骸はほとんど見当たらない。
あるのは、いま突入隊によって倒された新鮮な魔物の死骸ばかりだ。
「どういうことでしょう?」
「わからない。でも、油断しない方がいいわね」
ほどなくして俺達は聖錠石室の前室に到達した。
通路の違和感は気になるが、とりあえずここまでは順調すぎるくらい順調だ。
前室にバウ全員が入り込むと、
「戦闘位置に合わせて整列してくれ」
というベルナールの指示により、バウ達はさっそく討伐の準備を開始する。
準備もとてもスムーズだ。
前回は緊張でかなり硬くなっていたバウ達だったが、今回は魔人一体を倒したという経験が自信につながっているのか、かなりリラックスして行動している。
クレリックによるバフを含め、全ての準備が整うのに十分と掛からなかった。
ベルナールは静寂によって全員の準備が完了したのを悟ると、ふうっとひとつ息を吐き、その後、
「いくぞ」
と言って、静かに聖錠石室の扉を開けた。
いよいよ二体目の魔人と対決だ。
まずは、タンクパーティー。
次に、右翼、左翼のアタッカーパーティー。
続いて、後詰めのアタッカーパーティー。
そして最後に俺を含む奴隷達。
みんな整然と聖錠石室への侵入を果たした。
……魔人はどこだ?
俺は壁際を移動しつつ聖錠石の近くにいるであろう魔人を見ようとしたが、残念ながら前のバウ達が邪魔になってよく見えなかった。
東の砦の魔人が後ろからでもよく見えた事を考えると、今回の魔人はそれほど大きくはないのかもしれない。
……後にするか。
俺は魔人を見ることを一旦諦め、ワイルドローズが待機している場所へと急いだ。
それからほどなくしてワイルドローズの後方に到着。そこでようやく聖錠石の辺りを視認することができた。
……ん?
まず目に入ったのは、体格の良いヴァイロン軍の兵士が仰向けになって倒れている姿だ。
銀色の縁取りがある白い鎧が血でどす黒く染まり、左腕は欠損してしまっている。
傷だらけの顔は真っ青でピクリともしない。たぶん、死んでる。
……んん!?
さらに、その死体の横には思いもよらないものが立っていた。
黒髪で黒いワンピースを着た六歳くらいの、……女の子だ。
「えーん、死んじゃったよぉ、……死んじゃった」
よくは聞こえないが、少女はそんなような事を言いながら、両手を目に当てて泣いている。
……あの子が、魔人?
少女は見たところ普通の人間だ。
魔物特有の青白い光も発していない。
東の砦にいた魔人が神々しいまでに青白い光を発していたことを考えれば、少女が魔人であるとは考えにくい。
でも、少女以外に聖錠石の近くに生き物らしいものがいないのだ。
それに、そもそもこんな所に少女が一人だけでいること自体おかしい。
……どういうことだ?
多くのバウ達も頭の中がクエスチョンマークで一杯になっているのか困惑した表情を浮かべている。
そんな中、全ての者が予定戦闘位置の後方に到着したのを確認したベルナールが、
「近付くぞ。子供だと思って油断するな」
と指示し、少女に向かってゆっくりと歩き出した。
彼は少女をとりあえず魔人と見立てたようだ。
仮に、少女が魔人でなかったとしても用心するに越したことはない。
彼の指示に従い、他のバウ達も慎重に前進を始める。
「えーん、えーん、……死んじゃった」
少女はなおも泣き続けている。
まったくの無防備。どうみても普通の子供だ。
けれども、バウ達は警戒を怠らずにゆっくりと少女に近付いていく。
……何とも。
不思議な光景だ。
泣いている幼い少女を、武器を持ったフル装備の大人達が取り囲もうとしている。
少女とバウ達の距離はじりじりと縮まり、そして、とうとう間接アタッカーの射程に少女が入り込んだ。
通常の魔物なら、もうとっくに襲い掛かってきていてもおかしくない距離だ。
しかし、少女はまだ泣き続けている。
バウ達を気にする様子はまったくない。
……やっぱり魔人じゃなさそうだ。
そんな雰囲気が漂い始め、全体の緊張がわずかにゆるんだ時、
「えーん、…………」
少女が急に泣き止んだ。
「!!」
少女の変化に、バウ達は立ち止まって軽く身構え、少女の様子を注視。
少女は目に両手を当てたまま黙ってじっとしている。
「…………」
少女もバウ達も時間が止まってしまったかのようにまったく動かない。
しばらくの間、聖錠石室は異様な静寂に包まれた。
しかし、
「………………でも」
長い沈黙を破って、少女が小さな声でぽつりと呟く。
「……次が来た」
……うぅっ!!?
その瞬間、俺の背筋が一瞬で凍りついた。
突然顔を上げた少女が、薄笑いを浮かべながら何故かいきなり俺を見たからだ。
不気味に光る赤い目で!
「何かする気だ! 奴の目を見るな!!」
ベルナールが叫んだが、遅かった。
俺は少女の目を直視し、しかも反らす事さえできずにいた。
少女の赤い目は、ずっと見ていたくなるような、そんな不思議な力があったのだ。
そして少女も俺を見続けている……。
……い、いや違う。
俺じゃない。
ほんのわずかだが少女の視線は俺の右にずれている。
俺を見ているわけじゃないようだ。
少女が見ているもの、それは……
「ヴアァァァァァァ……」
突然、人の声とは思えないほどの叫び声が聖錠石室に響き渡り、俺の右斜め前にいたローブの女性が床にしゃがみ込んだ。
ローブの女性、……エ、エステル!?
「えっ!?」
その異様な叫び声に、バウ達はみなエステルの方に振り返った。
彼女はうずくまり、肩を小刻みに揺らしている。
泣いているのか!?
「……なさ…………ジャ……うぅ……ごめ…………うぅ……」
時々嗚咽を漏らしながらしきりに何かを言っているようだが、声が小さすぎてよく聞き取れない。
「エ、エステルさん? どうしたんですか?」
エステルの真後ろにいたリリアが心配そうに声をかけたが、エステルはまったく反応しなかった。
「いないぞ!!」
すると、今度は右翼側から驚きの声が。
「えっ!?」
全員が慌てて聖錠石の方に振り返ると、いつの間にか赤い目の少女がいなくなっていた。
ヴァイロン軍兵士の死体が空しく転がっているだけだ。
「ま、まさか!?」
何かを察したのか、ベルナールが再びエステルの方に振り返る。
ただ、彼女に特別な変化はなかった。
さっきと同じように肩を小刻みに揺らしながらその場にうずくまっている。
…………が、変化は突然だった。
いきなり彼女の背中の辺りが不自然に盛り上がったのだ。
そしてそれはみるみるうちに膨れ上がり、最後には大きな音を立ててローブを突き破った。
……な、なんだ!?
俺の頭は完全に混乱していたが、何とか目の前で起こっている異常な光景を理解しようとした。
……はね?
羽だ!
エステルの背中から黒い羽が生えてきたのだ!
「エステルに取り憑きやがったのか!?」
そうベルナールが言ったのとほぼ同時に、エステルの体が目もくらむほどの強い光を発する。
青白い光、……魔物が放つ光だ!
その光は強い風の波を作り出し、放射状に広がって周囲の人達に襲い掛かった。
「うぅっ」
俺は一瞬吹き飛ばされそうになったが、何とか踏ん張る。
が、
「キャッ」
エステルの真後ろにいたリリアは堪えきれずに俺がいる辺りまで吹き飛ばれてしまった。
「リリア様!」
俺が急いで駆け寄ると、彼女は左足をひねったらしく座り込んだまま両手で足首を押さえていたが、
「だ、大丈夫です。それよりエステルさんが」
と、心配そうに前方を見つめる。
彼女の視線の先で、うずくまっていたエステルがゆっくりと立ち上がった。
……あぁ。
俺はまったく変わってしまったエステルの姿に絶望を抱かずにはいられなかった。
二対のコウモリのような黒い羽を背中に生やし、黒紫色に変色した髪の毛の隙間からは羊のようにねじれた角が、さらに、完全にあらわになった彼女の白い裸体には黒い網目模様がびっしりと浮かび上がっている。もうどう見ても人間の姿じゃない。
そして、極めつけは青白い光。
彼女の全身からは神々しいまでに青白い光が放たれている。
それはまさに魔人の光。
エステルは、魔人に取り憑かれてしまったのだ。
彼女は不気味に光る赤い目でゆっくりと自分の体を見回したり、手や足を軽く動かしたりしている。
まるで新しく手に入れた体の感覚を確認するかのように……。
「…………」
そんな彼女をバウ達は固唾を呑んで見守っていた。
みんな彼女の変化に思考が追いつかず、彼女を見つめる事以外に何もできないのだ。
やがて、エステルは体を動かすのを止め、先ほどの少女のように薄笑いを浮かべる。
そして、おもむろに右手の人差し指を掲げると、かすかに口を動かし始めた。
「はっ!? 気を付けろ! 魔法を使うぞ!!」
ベルナールが気付いて咄嗟に叫ぶ。
「えっ?」
彼の切迫した忠告に、しかし、俺を含め、エステルの周りにいる者達はすぐに反応することができなかった。
そんな急に気を付けろと言われたって……。
その直後、エステルが掲げていた人差し指を振り下ろしながら小さく叫ぶ。
「炎の渦!」
ゴォォォォォ!!
途端、彼女の指の先から太い紐状の炎が噴出し、巨大な螺旋を描きながらバウ達が密集している方向に向かって進み始めた。
東の砦の魔人を苦しめた「炎の渦」の魔法が、今回は味方であるバウ達に向けられてしまったのだ。
「うあぁぁっ!!」
「きゃぁぁっ!!」
多くの悲鳴とともに、炎の螺旋が進んだ先にいたバウ達が火達磨になってばたばたと倒れていく。
その近くにいたバウ達も、凄まじい炎の熱気によって大火傷を負ってしまったようだ。
エステルは左翼後方に位置していた。
そこは、後衛職が密集する比較的安全とされる場所。
そんな所で攻撃魔法をいきなりぶっ放したのだからたまったもんじゃない。
エステルの一発で、バウ全体が大きく動揺した。
無事だったクレリックが火傷を負った者達に懸命にヒールを施しているが、負傷者の数が多く、分散していてなかなか全員にいきわたらない。
辺りは黒こげの死体が転がり、大火傷を負った者達が呻き声を上げている。
すでに混乱状態に陥りつつある。
「アタッカーは一旦後退して体勢を立て直せ! タンクはエステルの前に立って全体を守るんだ!!」
そんなバウ達を鎮めるために、ベルナールは聖錠石室中に響き渡るほどの大音声で素早く指示を出した。
そして、まだ周りが右往左往しているのにも構わず、エステルの正面に急行すると、間髪入れずに彼女に向かってヘイトクラッカーを放つ。
さすがは世界一のタンク。行動が早い。
ただ、エステルは彼のヘイトクラッカーに反応せず、3メートルほど浮き上がってそれをやり過ごすと、また人差し指を掲げながら呪文を唱え始めた。その顔は楽しげに笑っている。
「ま、まずい! 今度は範囲雷撃の魔法だ! 全員今すぐエステルの射程外へ退避!」
ベルナールが必死の形相で叫んだ。
歴戦の勇者、しかも常に最前線で戦う彼は、口の動きだけで相手が何の魔法を唱えているか分かるらしい。
範囲雷撃の魔法は、射程内にいる全ての敵に落雷させる風の高等魔法だ。
その射程は広く、恐らく後衛全体が含まれてしまうだろう。
もちろん、エステルのすぐ近くにいる俺やリリアも例外じゃない。
もろに彼女の射程内だ!
バウ達が一斉に逃げ始めた。
魔人に取り憑かれたエステルはバウ達を完全に敵と見なしている。
顔は笑っているが、強烈な殺気がジンジンと伝わってくるのだ。
ここにいてはまずい。
「リリア様、俺達も逃げましょう!」
俺はまだ座っていたリリアに手を貸しながら立たせようとした。
「っつ!」
しかし、リリアはうまく立てなかった。
実は、先ほど痛めた足首が結構重傷だったようなのだ。
なのに彼女は、自分の足の治癒を後回しにし、エステルの火の魔法で火傷を負ったバウ達に座ったままで必死にヒールを施していたのだ。
「タケル様だけでも逃げてください!」
「そんなことできるわけないでしょう! 早く俺につかまって!」
俺は諦めようとするリリアを叱り付け、彼女を抱きかかえるようにして歩き出した。
急がないと間に合わない。
だがその時、エステルの呪文の詠唱があっさりと終わった。
高等魔法だから呪文を唱え終えるのにはある程度時間がかかるはずなのに。
魔人に取り憑かれたせいで、魔法詠唱の能力が大幅にアップしたとでもいうのか!?
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべながら、掲げていた人差し指をさらに上に掲げる。
……ダメだ、間に合わない。
どんなに急いでも射程の外まで逃げられそうにない。
ケルベロスをも一発で倒す雷撃の魔法を食らえば、俺やリリアなどひとたまりも無いだろう。
……くそぅ。
俺は死を覚悟した。
しかしその時、
「タケル、アブソリュートディフェンス!!」
というグロリアの叫ぶ声が。
「はっ!!」
俺は思い出し、
「リリア様、俺にぴったりくっついていてください!!」
と告げると、背負っていたグロリアのグロスシールドを両手で真上に掲げ、早口で呪文を唱える。
「盾に宿りし鋼の精霊よ、 今こそその偉大なる赤き力を解き放て!」
そして、大声で叫んだ。
「絶対防御の陣!!」
するとグロスシールドが真っ赤に染まり、俺の体から赤いオーラが激しく噴出した。
グロスシールドに付与された魔法、アブソリュートディフェンスの発動に成功したのだ!
直後、エステルは掲げていた人差し指を何の躊躇いもなく振り下ろす。
「風精の裁き!」
ババン!!
短くて大きな衝撃音が鳴り響き、同時に、エステルを中心とした辺り一帯に光の網がもの凄い速さで張り巡らされていく。
とうとう範囲雷撃の魔法が発動されてしまったのだ!
その光の網は俺とリリアの頭上にも達し、真上に掲げていたグロスシールドに激しく落雷した。
「ううぁっ!」
瞬間的にかなり強い衝撃が両手に伝わり、危うくグロスシールドを落しそうになる。
バチバチという音を立てて体中のあちこちから火花が発生し、手や腕がビリビリと痺れた。
……ううぅ。
熱せられたグロスシールドが、支えている俺の手を容赦なく焦がす。
……しかし、その苦しみは一瞬で消えた。
アブソリュートディフェンスが俺とリリアを守ってくれたのだ。
「……いざという時のために覚えておいて」
俺はドーラの町でグロリアやチャロから近接戦闘を学んでいた時、グロリアに言われてグロスシールドに付与されている魔法「アブソリュートディフェンス」を発動させる呪文を暗記していたのだ。
その呪文は、魔法職以外の職種でも発動できるように通常の精霊魔法よりもかなり短いため、誰でも簡単に唱える事ができる。
そのおかげで、俺とリリアはエステルの雷撃魔法を食らわずに済んだのだ。
ただ、エステルの射程内にいて生き延びられたのは、俺達の他にはベルナールと二人のタンクだけだった。
その他の射程内にいたバウ達は、体からかすかに湯気を上げて床に倒れていた。
十人くらいいるだろうか。全員、死んでる。
そしてその中には、タンクパーティーのメインヒーラーも含まれていた。
「くそぉぉぉ!!」
それを見て、いつも冷静なベルナールが絶叫する。
だが、バウ達の恐怖はそこで終わらなかった。
エステルがまた呪文を唱え始めたからだ。
彼女は俺達を皆殺しにしようとしている。何の感傷もなく。
しかし、バウ達はすでに戦闘集団の体を成しておらず、それに対処できるような状態にはない。
みんな呆然とエステルを見つめているだけだ。
このままでは本当に全滅してしまう。
その時、呪文を唱えていたエステルの眼前に一人の男が立ちはだかった。
ベルナールだ。
彼は彼女に向かって盾を構えると、大声で叫ぶ。
「絶対防御の陣!!」
その途端、彼の盾が真っ赤に染まり、彼の体から赤いオーラが噴き出した。
彼もグロスシールドの所有者だったのだ。
その後、彼は後方に向かって大声で指示を出す。
「撤退! 全員三十秒以内に前室に退避しろ!!」
彼はこれ以上戦闘を続けることができないと判断し、撤退を決断したのだ。
そして、アブソリュートディフェンスを使い、バウ達が逃げ切るまでの時間を稼ぐつもりらしい。
彼の指示を聞くか聞かないうちに、残っていたバウ達が一斉に前室に逃げ始める。
「リリア様、俺達も行きましょう」
「はい」
リリアに肩を貸しながら俺も前室に向かって歩き出した。
エステルは、攻撃目標を目の前に現われた赤きヘイターに定め、中等魔法を幾つも放った。
「うおおおおお!」
ベルナールは必死に耐えている。
いくらアブソリュートディフェンスを使っているとはいえ、あれだけの至近から中等魔法を何度もぶち込まれたらただじゃ済まないだろう。
恐らくかなりのダメージを負っているはずだ。
それでも、彼は何とか持ちこたえている。
ベルナールのおかげで生き残っていた者全員が前室に避難することに成功した。
グロリアとチャロも無事に避難している。
俺はリリアをグロリアに託した後、扉の前で後ろを振り返った。
ベルナールはまだエステルの前で耐えていたが、彼から発せられる赤いオーラがわずかに薄くなり始めている。
アブソリュートディフェンスの効果が切れかかっているのだ。
エステルもベルナールのオーラが消えた瞬間に魔法を発動できるよう、タイミングを計りつつ呪文を唱えているように見える。
……助からない。
アブソリュートディフェンスが切れた状態であの至近から中等魔法をもろにくらえば、たとえベルナールといえども助からないだろう。
それは彼もわかっているはず。
つまり、彼は死ぬ気だ。
自分の命と引き換えに、彼は他のバウ達を助けるつもりだったのだ。
……どうする。
このままではエステルがベルナールを殺してしまう。何とかしなければ……。
しかし、考える間もなくベルナールの体から赤いオーラが完全に消失した。
無情にもアブソリュートディフェンスの効果が切れてしまったのだ。
エステルはそれを見てニヤッと笑うと、掲げていた人差し指をベルナールに向けて振り下ろす。
「炎の――」
「止めてください! エステルさまぁぁぁ!!」
俺はとっさに叫んだ。
「!?」
すると、エステルは一瞬ピクッと反応し、何故か魔法の発動を中断する。
「っ!!」
ベルナールはその隙を見逃さなかった。
大きな体を素早く反転させると、こちらに向かって一目散に走り出したのだ。
「…………」
エステルは、追撃してこなかった。
彼女は逃げていくベルナールの背中をぼんやり眺めた後、ガランとした聖錠石室をつまらなそうにゆっくりと移動。
転がっていた自分の杖を拾い上げて聖錠石近くの床に突き刺すと、それに寄りかかり、静かに目を閉じてしまった。
「はぁ、はぁ、撤退、する。はぁ、すぐに、ブロードに、連絡を、はぁ」
ベルナールは無事に前室に逃げ込むと、息を切らせながらブロード隊の連絡兵に指示を出した。




