025_幸せな奴隷
……
…………
………………ぁ……た……た……かい……
…………右手に……かすかな……温もりを……感じる……。
すると目の前の暗闇は、少しずつ光を取り込んで、やがて、ピンボケした灰色の景色へと変わっていった。
……なん……だ?
無意識の欲求が、そのピンボケをゆっくり補正していく。
……く……も?
……雲、だ。
俺は仰向けになって、灰色の分厚い雲を見ていた。
草と潮の香りをまとった風が、頬をそっと撫でている。
……ここは、……どこだろう?
ぼーっとしながら思った。
全体的に淡い現実感。夢の中だろうか?
ただ、右手には今ははっきりとした温もりを感じる。
俺はゆっくりと頭を動かし、何となく右手の方を見た。
……え?
そこには、右手を両手で強く握り締めながら、心配そうに俺を見つめる見慣れた女性がいた。
……エ……ス……テル?
目が合った瞬間、彼女の口元が歪み、目からは大粒の涙が溢れ出した。
「ぅわあぁぁぁぁぁ……」
エステルは寝ている俺に抱きつき、わんわん泣き出した。
……ええ!?
一瞬何が起こったのか分からず呆然としたが、エステルの背中越しに、やはり見慣れた三人の女性が立っているのが見えた。
グロリア、チャロとリリアだ。
彼女達を見た瞬間、俺は全てを思い出し、そして、助かったのだとわかった。
「うぅぅぅぅぅ、うぅぅぅぅぅ……」
エステルは俺の胸に顔を埋め、声をくぐもらせながら泣き続けている。
「ご心配を、おかけしました」
俺は彼女を両手でそっと抱きしめ、優しく声をかけた。
「うぅぅぅぅぅ、うぅぅぅぅぅ……」
でも、彼女が泣き止む様子はまったくない。
……こんなに俺の事を心配してくれていたのか。
胸が熱くなった。
……俺は、俺はなんて幸せな奴なんだ。
この世界でこれほど幸せな奴隷が他にいるだろうか、いや、いまい。
俺はエステルの泣き声を胸で受け止めながら、彼女が俺を買い、俺の主人になってくれた幸運を強くかみ締めていた。
その後もエステルはしばらくわんわん泣き続けていた。
が、
「うぅぅぅぅぅ、うぅぅ、……うぅ、…………」
急に泣き止んだ。
途端、がばっと頭を持ち上げ、泣いてぐちゃぐちゃになった顔で俺を睨んだ。
「奴隷のくせに主人に心配かけるな!!」
怒った声でそう言うと、むくっと起き上がり、いきなり俺の脇腹に蹴りを入れる。
「うっ!?」
俺が呻き声を上げたのも気にせず、彼女は腰に手を当てながら俺を叱りつけた。
「いつまで寝てるの! あなたはリリアの高等ヒールで完全に元気なのよ。さっさと起きなさい!」
そして、くるりと向きを変えると、
「さあみんな、ナディアに向かいましょう!」
と言うなり、グロリア達が乗ってきたと思われる馬の方に向かってスタスタと歩き出してしまった。
「……」
その切り替えの早さに、グロリアもチャロもリリアも思わず苦笑。
……心配してくれるなら、とりあえず蹴るのは止めてほしいんだけど。
俺は脇腹を押さえながら、心の中で呟いた。
俺はゆっくり立ち上がった。
あんなに重かった体が嘘みたいに軽い。
右足の痛みもまったく感じない。寒くもない。
……やっぱりヒールってすごい。
改めて思った。それに加え、健康な体の有難さを実感した。
「タケル!」
「ダーリン!」
「タケル様!」
俺が立ち上がると、チャロが正面から俺に飛びつき、グロリアが左から、リリアが右から抱きついてきた。
心配してくれていたのは、エステルだけではなかったのだ。
彼女達は涙を流しながら俺の無事を喜んでくれた。
「みなさん、本当にありがとうございました」
俺は心から礼を言った。
……俺はほんとに幸せ者だ。
そう思いながら、しばらく彼女達の温もりを感じていた。
……グー、ググー。
しかし、こんな感動の場面にもかかわらず、若さゆえの過ちか、ただ空気を読めないだけなのか、俺の腹が大きな音を立てて空腹を訴えてくる。
「……」
一瞬、場が白けた雰囲気になり、
「……プッ」
「アハハハハ」
グロリアが思わず吹き出すと、チャロとリリアも笑い出した。
「す、すみません。一昨日から大した物を食べてなくて」
「アハハ、そうよね、早くナディアに行って美味しい物を食べましょう」
俺達はナディアに向かうべく、グロリア達が乗ってきた三頭の馬に分乗する。
俺はグロリアの後ろに乗せてもらうことになった。
バウは馬で移動することもあるから、大抵は馬に乗れるらしい。
「ナディアはここから南ですか?」
「ええ、そうよ」
俺やエステルの推測通り、ナディアの町があるのは南だった。
ただ、すぐ近くではなく、馬で行っても結構時間がかかるらしい。
「それじゃあ、行きましょう」
エステルの号令のもと、俺達は馬を走らせ始めた。
俺達を苦しめた貧相な草原の景色が、凄い速さで流れていく。
馬上、俺はグロリアのくびれたウエストに抱きつきながら、俺とエステルが海に落ちた後の話を聞いた。
グロリアの話によると、魔汽船は俺とエステルを見失った後も、しばらく辺りを捜索していたらしい。
だが、海は大しけ、おまけにクラーケンによって船の一部が損傷したこともあり、途中で捜索を断念、やむなくナディアの港に向かったそうだ。
ナディアの港には昨日の夕方に無事到着した。
それから彼女達は荷物を魔汽船の事務所に預かってもらい、ヴァイロン軍から馬を借りて、夜通し俺達が流れ着きそうな海岸を見て回ったらしい。
しかし、今日の午後になっても見つけることができず、半分諦めかけていたところで、前方に煙が上がっているのを発見したのだそうだ。
「……煙?」
「ええ、白い煙よ」
たぶんその煙は、丘の上でウォーウルフの襲撃を受けた時に、エステルが使った火の魔法? によるものだろう。
まあ、俺はその時、意識が朦朧としていたから正確にはわからないが。
グロリア達はその煙を目指して馬を走らせたらしい。
煙の出所に着くと、すぐ近くにウォーウルフ達が輪になって集まっており、その輪の中心に、エステルが俺を抱きしめたままうずくまっていたのだそうだ。
「エステルったら、私達を見つけた途端、周りにウォーウルフがいるのも構わずに、タケルが死んじゃう、タケルが死んじゃうって泣きながら走り寄ってくるんだもの。かなり焦ったわ」
「……そうだったんですか」
俺は少し前を行くエステルの背中を眺めた。
グロリアとチャロはエステルに飛び掛ろうとしたウォーウルフを慌てて始末したらしい。
「ほんとにギリギリだったのよ、タケル」
彼女達が駆けつけた時、俺はすでに心肺停止の状態だったらしい。
が、リリアが急いで高等ヒールを施したところ、奇跡的に蘇生したのだそうだ。
高等ヒールに蘇生の効力があるわけではないが、心臓が止まった直後なら、場合によっては蘇生することもあるのだという。
ちなみに、この世界にも人を生き返らせるような魔法は存在しない。
死ねばそれっきりだ。
「とにかく、二人とも無事でよかったわ」
「はい。本当にありがとうございました」
グロリア達が白い煙を見つけてくれなかったら、今頃、俺もエステルもこの世にはいなかっただろう。
彼女達には感謝してもし尽くせない。
******
俺達がナディアの町に着いたのは、夜もどっぷりと更けた頃だった。
歩きなら、あと三日はかかっていただろう。
ナディアの町は夜の闇に大部分が隠れてしまっていたが、町を囲む城壁や門には、何故か明かりが煌々と灯っている。
「魔物の襲撃に備えて、ヴァイロン軍が町の防衛を強化しているのよ」
グロリアが教えてくれた。
町に近付くと、城壁や門の上に白い鎧を身につけたヴァイロン軍の兵士達がたくさん立っているのが見えた。物々しい雰囲気だ。
ヴァイロン王国国内は、前情報通り、魔物が活性化しており、町や村が襲撃される事態になっているのだという。
ヴァイロン軍は住民を守るため、主要都市の防衛は強化しているが、しかし、小さな町や村までは手が回らないらしい。
俺とエステルが立ち寄ったあの村も、ヴァイロン軍に守ってもらえず、魔物の餌食になってしまったのだろう。
ナディアの北門に近付くと、
「止まれ!!」
と、門の上からヴァイロン軍の兵士に威圧的な声で呼び止められた。
ちょっとドキドキしたが、ライトリキッドを光源としたサーチライトが俺達を照らし出すと、
「ワイルドローズの方々ですな、上官から話は聞いております。今、門を開けるので少々お待ちを」
と、優しげな声が聞こえてきた。
グググ……。
ほどなくして重厚な門がわずかに開く。
俺達は馬を下り、門をくぐった。
門の向こう側には五、六人の兵士が立っていたが、俺達に警戒している様子はない。
安心して進むと、その中の一人がグロリアに向かって親しげに話しかけてきた。
白い鎧で身を包んだ年配の男性だ。
「それで、遭難された方は無事に見つかりましたか?」
どうやら事情を知っているらしい。
「ええ」
「それはなによりでしたなぁ」
「馬を貸して頂いたおかげよ」
「いやいや、本来なら魔汽船の乗客を守れなかった我々が捜索せねばならぬところ。馬を貸すくらいの事しかできなくて申し訳ない」
後でグロリアから聞いた話によると、彼女達が俺達を捜しに町を出ようとした時、ヴァイロン軍が気を利かせて馬を貸してくれたのだそうだ。
「馬はここで引き取ります。宿は取っておられるのですか?」
「いいえ」
「では、我が軍が臨時に借り上げている宿に泊まれるよう手配しましょう。兵士の出入りがあって少々騒がしいですが、そこなら深夜でも食事ができます」
「ありがとう」
グロリアは頭を下げて感謝の意を表した。
俺達は、別の兵士に案内してもらいながら宿屋に向かった。
深夜だけに町の中は静まり返っている。が、時々カチャカチャというヴァイロン軍兵士の歩く音だけは聞こえてきた。
ヴァイロン軍が借り上げている宿屋はすぐにわかった。
通りの家々は明かりが消えて真っ暗なのに、その宿屋だけあちこちの窓から明かりが漏れていたからだ。
ヴァイロン軍はナディアの町を守るために守備兵を増員しており、兵舎に収まり切らなかった兵士達のために、町の宿屋を幾つか借り上げているらしい。
兵士達は夜も交代で町の守備に就くため、真夜中でも宿屋は活発に運営されているようだ。
宿屋に入ると、中は温かな光と、美味しそうな匂いで満ち満ちていた。
一階の食堂には、忙しく食事をとる白い鎧の兵士達。
これから町の守備に就くのかもしれない。
付き添いの兵士は、宿屋のカウンターで店員と話をつけた後、グロリアに部屋の鍵を手渡した。
そして軽く姿勢を正し、胸に手を当てながら小さくお辞儀をする。
ヴァイロン軍の敬礼だろうか?
「ありがとう」
グロリアが礼を言うと、兵士は軽く微笑み、また北門へと戻っていった。
「とりえあず、何か食べましょう」
エステルがもう待ちきれないといった感じで食堂を見回している。
「そうね」
みんな腹ペコだった。
俺とエステルは、一昨日からほとんど何も食べていない。
あの荒れ果てた村でオレンジを少し口にしただけだ。
グロリア達も何も食べずに俺達を捜していたということだから、かなりお腹が減っているだろう。
俺達は食堂の真ん中に置かれた大きめのテーブルに陣取り、「すぐに出せる物」をオーダーすると、出てきた料理を黙々とアグレッシブに胃袋に流し込んだ。
正直、味などわからなかった。空腹のせいで何を食べても抜群にうまかったからだ。
そんな俺達の様子を、周りの兵士達は呆気にとられたように眺めていた。
食べ終わると、今度は猛烈な睡魔に襲われる。
目を開けているだけでやっとだ。
「……ダー、リン、……ム、……ムニャ……」
さっき俺の膝の上にのって甘えてきたチャロも、いつの間にか眠ってしまった。
他の三人もあくびをしたり、目を擦ったりしていて眠そうだ。
「とりあえず明日は休養、今後の事も明日決めましょう」
結局それだけの事を決めると、俺達は部屋に移動し、早々にベッドに潜り込んだ。
門番の長が「兵士の出入りがあって騒がしい」と言っていたが、そんな事まったく気にならないほど俺は深い眠りに落ちたのだった。




