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024_最後のお願い

「タケル!!」

 エステルが半分悲鳴のような声を上げて駆け寄ってくる。

「いぃっ」

 俺は今までに経験した事のない激しい痛みに苦しみながら、でも、どうしていいか分からず、地べたに横になって、ただ右足の太ももの辺りを両手で強く押さえ続けていた。


 エステルは俺の近くにしゃがみ込むと、右足の状態を確認するためにズボンの裾を膝の辺りまで素早くまくり上げる。

「うっ!?」

 その瞬間、思わず顔をしかめる彼女。

 見ると、俺の右足は脛の辺りがぱっくりと割れてしまっており、その割れ目から赤く瑞々しい血液が止めどなく大量に湧き出している状態だった。

 たぶん、さっき突っ込んできたケルベロスを避けた時に、奴の前足の爪にわずかに接触してしまったのだろう。


 傷口を見たエステルは一瞬動揺したが、しかし、すぐに立ち直った。

 彼女は破れかけていた自分のローブの袖を強引に引き裂くと、その切れ端を傷口に素早く巻き付け、

「我慢して!」

 と言いながらぎゅっと強く縛り付ける。

「うぅあっ!」

 そのあまりの痛さに俺は思わず悲鳴を上げてしまった。


 エステルが行ったのは、傷口を圧迫して止血する応急手当だ。

 現状できうる手当としては最善の方法ではないだろうか。

 しかし、出血は完全には止まらなかった。

 傷口に巻き付けられた濃い紫色の切れ端は、血を吸ってみるみるうちにどす黒く変色していく。

 傷が深すぎるのだ。


「何で出てきたのよ!」

 その様子を見て、エステルは怒りと悲しみと困惑をごちゃ混ぜにしたような表情で俺を責め始めた。

「昨日あれほど無茶するなって言っておいたのに!」

「……す、すみません」

「ケルベロスはかなり強い魔物なのよ! それをデッキブラシの柄で殴りかかるなんて無謀にも程があるわ!」

「……すみません」

 俺は苦痛に耐えながら謝り続けた。

「私はバウよ。いつ魔物にやられてもおかしくないし、その覚悟もできているわ」

「……」

「でもあなたは奴隷なのよ。私を助ける必要なんてまったくないんだから」

「……」

「戦闘が終わるまで大人しく――」

「……でも、エステル様がやられるのを黙って見てるなんて、俺にはできません」

「うぐ……」

 俺が小声で反論すると、エステルは次の言葉を思わず飲み込んでしまった。


「…………」

「…………」

 俺とエステルはうつむき、しばらく黙り込んでいた。

 ……ギィ、……ギィ。

 潮の香りを含んだ風が、壊れかけた民家のドアを空しく揺らし続けている。


「……私が不甲斐ないせいね」

 長い沈黙の後、エステルがほとんど聞こえないくらい小さな声でぽつりと呟いた。

 そして、すっと立ち上がる。

「とにかく、すぐにナディアに向かいましょう。こんな傷、リリアのヒールで簡単に治るわ」

 彼女は俺の右腕を両手でつかむと、

「さ、立って」

 と、軽く引張った。

「……は、はい」

 俺は上体を前側に軽く倒しつつ、左足に力を入れる。

「せえのぉっ」

 エステルの掛け声とともに俺は勢いを付け、右足を浮かせた状態で立ち上がった。


 ……うぅ!?

 立ち上がった瞬間、立ちくらみがしてまた倒れそうになったが、エステルが体で受け止め、支えてくれた。

「……す、すみません」

「いいのよ」

 俺は彼女にもたれ掛かりながら、何とか立つことができた。

 でも、頭がクラクラする。

 思いのほか出血量が多かったようだ。

 ……大丈夫なのか、俺。

 早くリリアにヒールしてもらわないと、やばいかもしれない。


「さ、行くわよ」

 エステルはそう言うと、俺を支えたまま村の正門の方へ体の向きを変えた。

「はい」

 俺は彼女の肩につかまらせてもらいながら、浮かせていた右足をそっと地面に付けてみる。

「うぅぐっ!」

 付けた瞬間、激痛が走った。

 しかもその痛みは、右足だけでなく、体全体を痺れさせるような破壊力を持っていた。

 どう考えても、こんな状態で歩くのは無理だ。


 俺が苦痛で顔を歪め、歩くのを躊躇していると、

「大丈夫、私が支えてあげるから」

 と言って、エステルが俺の右腕を肩に背負い、左手を俺の腰に添えた。

「さ、歩いて」

「……はい」

 俺は彼女の肩を借りながら、右足にできるだけ力を入れないようにして、何とか歩き出した。


 村の正門は俺達がいた所からそれほど離れていなかったが、そこにたどり着くまで異常に時間がかかった。

 普通に歩く時の三倍以上の時間はかかっただろう。

 この先の事を考えると気が重くなる。


 正門を出た所で俺達は一旦立ち止まった。

「はぁ、はぁ、はぁ、……」

 俺は呼吸を整えながら周りの景色を確認する。

 門の外は相変わらず貧相な草原が広がっていた。

 が、それを分断するようにして、一本の道が門を起点に南に真っ直ぐ伸びている。


「ほら、この道を行けばすぐにナディアよ。だから頑張りなさい」

 エステルはそう言って俺を励ました。

 だけど、たぶん彼女の言葉には何の根拠もないだろう。

 ここがヴァイロン王国であることは判明したが、ヴァイロン王国のどこなのかまではまだ分かっていないはずなのだから。

 でも、今は彼女の言葉を信じるしかない。


「行きましょう」

「はい」

 俺達はその道をゆっくりと歩き出した。

 南に向かって一歩、また一歩、と。

 ただ、その道は人の往来によって自然にできたものらしく、馬車による轍ができていたり、所々ぬかるんでいたりして思ったより歩きづらい。


 空は相変わらず灰色の分厚い雲。

 大地は相変わらず貧相な草原。

 気を抜くと、希望を根こそぎ剥ぎ取られてしまいそうだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、……」

 エステルに肩を借りているとはいえ、片方の足をかばいながら歩くのはかなり辛かった。

 息遣いが自然と早くなる。

 でも、これだけ大変な思いをして歩いているのに、何故か体はまったく熱くならない。むしろ寒い。

 気温はそれほど低くはないと思うのだが、寒い。凍えそうだ。

 これも大量に血を失ったせいだろうか?


 俺の顔のすぐ右下にエステルの横顔がある。

「はぁ、はぁ、はぁ、……」

 彼女の息遣いも荒い。

 彼女は俺の体を支えながら必死に歩いている。

 俺は彼女より体が大きく、当然体重も重い。

 支えているだけでもかなり大変なはずだ。

 しかも、彼女はさっきの村で魔物と激戦を繰り広げている。

 疲れていないはずはない。

 ……俺はいったい何をやっているんだ。

 彼女を助けようとして、結果この様だ。

 彼女にも言われたが、ケルベロスにデッキブラシの柄で殴りかかったのは、確かに無謀すぎた。

 彼女を助けるにしても、もっと頭を使うべきだったのだ。

 奴隷の俺が主人の彼女にこんなに迷惑をかけていいはずはない。

「……すみません」

 俺はエステルに謝らずにはいられなかった。

「……すみません」

 歩きながら何度も謝った。

「今は歩く事だけ考えなさい」

 でも、俺が幾ら謝っても彼女は取り合ってはくれなかった。


******


 俺達は懸命に歩き、さっきの村が草原の彼方に消えかかった時、

「ウォゥゥゥ、ウォゥゥゥ」

 突然、犬の遠吠えのような鳴き声が聞こえてくる。

 ……!?

 俺達は立ち止まり、辺りを見回した。

 すると、右側の草原の向こうから走り寄ってくるウォーウルフらしき魔物が。

 五匹くらいはいるようだ。


「ちょっとここで待ってなさい」

 エステルはそう告げると、俺をその場にゆっくりと座らせ、自身はウォーウルフに向かって走り出した。

 おそらく彼女は、複数のウォーウルフを攻撃するために範囲魔法を使うのだろう。

 その時、俺が巻き添えを食わないように俺から距離を取ったのだ。


「はっ、はっ、はっ、……」

 俺は地べたに座りながら、浅い呼吸を繰り返した。

 相変わらず寒気が酷い。

 すでに右足の感覚はほとんどなくなってしまっている。

 脛に巻かれたローブの切れ端は血でぐっしょり濡れ、染み入る隙を見出せなかった血が踵に向かって幾つもの赤いすじを作っていた。

 遠くの方でエステルがウォーウルフと戦っているようだが、目がかすんでよく見えない。

 ……俺、マジでやばいかも。

 そんなことを考えながら、エステルが戻ってくるのをじっと待っていた。


 しばらくしてエステルが戻ってきた。

 まったく平気そうな雰囲気からすると、ウォーウルフには完勝したらしい。

「さ、行きましょう」

「……はい」

 エステルは俺の肩に手を回し、抱き起こすようにして俺を立たせた。

「……んぐぅ」

 しばらく座っていたせいで、体が一段と重く感じる。

 激しいめまいで崩れ落ちそうになるのを、エステルが必死に支えてくれた。


 俺達はまた歩き出した。

「はっ、はっ、はっ、……」

 俺は浅い呼吸を繰り返しながら懸命に歩いた。

 しかし、歩くスピードは村を出た時よりもずっと遅くなっている。

 こんな状態で本当にナディアにたどり着けるだろうか……。


******


 しばらく進むと、前方に小高い丘が現れた。

 道はそれを越えるようにして敷かれている。

 つまり、登らなくてはならない。

「がんばりましょう!」

「……はぃ」

 エステルが励ましたが、もう答える気力もなくなってきた。


 それでも、俺はエステルに引っ張られるようにして、何とかその丘を登り始める。

 ただ、その上り坂は、普通に歩ける状態ならそれほどのものでもないようだが、残念なことに、今の俺にはかなりの急坂だった。

「はっ、はっ、はっ、……」

 意識が朦朧とする。

 俺はすでに立っているのがやっとで、ほとんどエステルの肩にぶら下がっているような状態だった。

「はぁ、はぁ、はぁ、……」

 彼女の息も一段と荒い。

 たぶん、彼女の体力ももう限界だろう。


 けれども、俺達は歩みを止めなかった。

 ……この丘の、この丘の向こうに、きっとナディアの町が広がっているはずだ。

 強烈な願望だった。

 何も言わないが、エステルもそう思っているに違いない。

 俺達は一歩一歩ゆっくりだが確実に歩を進めた。


 丘に隠された向こう側の景色が少しずつあらわになっていく。

 それに合わせて願望もどんどん大きくなっていった。

 歩くスピードも自然と上がる。

 ……もう少し、あともう少しでナディアだ。


 そして遂に、俺達は丘の上まで登りつめることができた。

 丘の向こうはナディア!!

 

 ……………………では、なかった。


 ナディアどころか、村すら、一軒の民家すらなかった。

 見渡す限り貧相な草原だった。絶望の景色だった。

「…………」

「…………」

 俺達は丘の上でしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 そして俺は、……あきらめた。


 そんな中、

「今度は下りだから少し楽ね」

 エステルが何事もなかったかのように微笑みながら明るく俺に声をかける。

 たぶん彼女もこの景色を見てショックだったに違いないが、そんなことはおくびにも出さず、また当然のように歩き出そうとしている。

 しかし、俺の足はもう動かなかった。


「……エステル様、俺を、置いていってください」

 俺は少し前から考えていた事をとうとう口に出した。

 俺はナディアにたどり着けない。

 俺は、……俺は、……もうじき、……死ぬ。

 だけど、エステルまで道連れにしたくない。


「いやよ」

 そんな俺の提案に対し、エステルは即座にそれを拒否した。

 彼女も俺がそう言い出すんじゃないかと思っていたのかもしれない。

「エステル様一人ならナディアにたどり着けるはずです」

「いやよ。絶対に連れて行く」

「でも、このままじゃ二人とも――」

「ゴチャゴチャ言わないで歩きなさい。主人の命令よ!」

 エステルはイライラしながら強引に俺を引張った。


「ウォゥゥゥ」

 その時、またしてもウォーウルフの遠吠えが聞こえてくる。

 よく見えないが、前方から何匹かがこちらに向かって走り寄って来ているようだ。


 その事態に、エステルは怒った表情を浮かべながら、でも、その表情とは全く想像できないほどの優しい動きでそっと俺をその場に座らせる。

「ここで待ってなさい!」

 彼女はウォーウルフに向かって走り出した。


 ……つらい。

 座っているだけでもつらい。

 エステルがウォーウルフと戦っているようだが、ぼんやりしてしまって、ほとんど見えない。

 意識が朦朧とする。もう寒さも感じない、というか、わからない。

 ……あ、れ?

 俺はいつの間にか仰向けに倒れていた。

 一瞬灰色の雲が見えたが、無意識のうちに目が閉じてすぐに真っ暗になった。


 ……ここで、……死ぬのか。


******


「……ケル! タケル!」


 しばらくして、必死に俺の名を呼ぶエステルの声が、暗闇の向こうからかすかに聞こえてくる。

 何とか薄目を開けると、目の前にエステルの顔があった。

 でも、ぼやけてしまってほとんど見えない。


「はぁ……」

 目を開けた俺を見て、エステルは安心したように息を吐いた。

 そして、俺の肩に手を回し、また俺を起そうとしている。

 今にも死にそうなこの俺を。

「……置いていってください。……最後のお願いです」

 もう小さくかすれた声しか出なかった。

「いやだって言ってるでしょ!」

「……俺はもう……だめみたいです。……エステル様の顔が……もう見えないんです」

「そ……」

 俺の言葉に、彼女は一瞬声を詰まらせた。

「……そんなこと言わないで。大丈夫、ナディアに行けばリリアがすぐにヒールしてくれるわ」

 彼女の声が震えている。

「……最後まで、……お供できなくて、……すみません」

「何言ってるの! 元の世界に戻るんでしょ! 戻って両親を安心させてあげるんでしょ!」

「……」

「だから、だからこんなところで死んじゃだめぇ!!」

 その瞬間、俺の頬に温かい雫が落ちてきた。

 ……エステルが、泣いている。俺の、ために。

 でも、……もうだめだ。意識が遠のいていくのを感じる。

 最後に、最後にお礼を言いたい。

「エス……テルさま、おれを……買って……くれ……て……ありがと……うご……ざ……ぃ………」

 とうとう声も出なくなった。

「あなたまで、あなたまでいなくならないで! お願いだからぁぁぁ!」

 目の前が真っ暗になった。目が閉じてしまった。

 真っ暗の中、陽だまりのような温もりを感じる。

 エステルが、俺を強く抱きしめてくれている。


「ゥォ……ゥ……」

 その時、ウォーウルフの遠吠えがかすかに俺の鼓膜を揺らした。

 俺の死臭を嗅ぎつけて、またこっちに向かって来ているのかもしれない。

 でも、エステルは俺を抱きしめたまま動こうとしない。

 ……たのむ、……たのむエステル。

 俺は薄れゆく意識の中で必死に叫んだ。


 ……逃げて……く……れ…………


 しかし、俺の全てはそこで、停止した。

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