022_貧相な草原
俺達は、小さな砂浜を囲んでいる高さ五メートルほどの崖を無事に登り終えた。
崖はほとんどが絶壁だったのだが、一箇所だけ裂け目があって、そこから難なく上に登ることができたからだ。
……寂しい。
それが崖の上の景色を見た俺の第一印象だった。
灰色の分厚い雲の下に、貧相な草原が広がっている。
それ以外何もない。
今この世界は真夏のはずだが、草原の草は枯れかけており、海から吹く潮風のなすがままに揺れている。
あまりの物悲しさに、俺の気分はいやが上にも盛り下がった。
エステルはその草原に二、三歩踏み入り、すぐ後ろにいた俺の方にくるりと振り返る。
「タケルは南と北、どっちに行った方がいいと思う?」
「え? ……そ、そうですね」
いきなり聞かれて俺は困った。
今まで俺に相談などしたことのないエステルが、今回ばかりは迷っているらしい。
南か北か、いきなり究極の選択だ。
俺達が登ってきた崖は南北に伸びており、それがそのまま海岸線を形成している。
ナディアは港町だから海岸線上にあるはずだが、ここから南にあるか、北にあるかまではわからない。
「うーん……」
そこで俺は、魔汽船からはぐれた時のことを思い返した。
大波に何度ものまれながら、俺は船を見失わないよう必死に目で追いかけていたのだ。
……確かあの時、見えたのは船の右舷。
船が西に進んでいたとすれば、俺達は北の方に流されたことになる。
とすれば、ナディアはここより南にあるはずだ。
まあ、船があのまま真っ直ぐに進んで、その先にナディアがあると仮定すればの話だが……。
「……南、だと思います」
俺は悩んだ挙句、エステルにそう答えると、
「そうね」
と、彼女も同意見だったのか満足げに頷いた。
「じゃあ、南に行きましょう」
「はい」
俺達は海岸線に沿って南の方向に歩き出した。
もちろん道などない。俺達は草原を歩いた。
といっても草原の草は丈が膝下くらいしかないから、歩くのにそれほど支障はない。
それよりも、左から吹き付ける潮風の方が厄介だった。
時々猛烈な突風が吹くため、しばしば歩みを止めてそれをしのがなくてはならなかったからだ。
俺はその風からエステルを守るため、できるだけ彼女のすぐ左側を歩くようにした。
魔物などが出た時、非力な俺は彼女に守ってもらわざるを得ない。
だから、彼女を潮風から守るくらいのことはしないと、俺がまったくのお荷物になってしまうと思ったからだ。
草原は緩やかな起伏があり、遠くまでは見通すことができなかった。
俺達は起伏の頂点に上りつめると、一旦立ち止まって辺りを確認し、それからまた歩き出す、という行動を繰り返した。
「ナディアでも、魔汽船の食堂のような料理が食べられますかね?」
「どうだろ? でもあれ美味しかったよね」
「ええ、美味しすぎて、もう少しで皿まで舐めるところでした」
「アハハ、でも本当に舐めないでね。お行儀が悪いから」
俺達はできるだけ明るい話題を話しながら歩いた。
そうでもしないと、この物悲しい景色にのまれてしまいそうになるからだ。
「…………」
「…………」
しかし、しばらくすると俺達はこの景色に完全にのみ込まれていた。
歩いても歩いても村はおろか、人が住んでいる痕跡すら発見できなかったからだ。
俺達は不安の塊になって、貧相な草原を下を向きながら無言で歩き続けた。
……本当に南に進んでよかったのだろうか?
……北に行けば、すぐナディアの町があったんじゃないだろうか?
……いや、そもそもここは本当にヴァイロン王国なのだろうか?
繰り返し同じ事を考えた。
******
さらにしばらく歩き、小さな丘を登りきった時、
「あれを見て!」
と、唐突にエステルが右斜め前方を指差した。
「えっ!?」
俺は彼女の言う「あれ」を期待を込めて必死に探す。
すると、遠くの方に屋根のような形の集まりと、それを囲む壁のようなものが。
「村よ!!」
エステルが嬉しそうに叫んだ。
……人が住んでる!
さっきまでの不安が一気に消し飛んだ。
俺達はその村に向かって自然と走り出していた。
正直スキップでもしたい気分だ。
「食べ物、分けてくれますかね?」
「事情を話せば、少しくらい分けてくれるわよ」
「何でもいいから腹いっぱい食べたいですね」
「あまり贅沢言っちゃだめよ」
「わかってますよ」
俺達は食べ物の話ばかりしながら走った。
もう少しで何か食べる事ができるかと思うと、自然と笑みがこぼれる。
物悲しい草原など、まったく視界に入らなくなった。
見つけたとき米粒のような大きさだったその村は、みるみるうちに大きくなった。
色あせた赤い瓦屋根の家々が密集して建っており、その周りを二メートルほどの石の塀が囲っている。
塀の外側は畑になっているようだ。
「はぁ、はぁ、はぁ、……」
俺達は畑の前までくると、立ち止まって一旦呼吸を整えた。
村はもうすぐそこだ。
ただ、畑に村人の姿はまったくなかった。
まだ昼を少し過ぎた頃のはずだが、……昼寝でもしているのだろうか?
「行きましょう」
呼吸が落ち着くとエステルはそう言い、少し緊張した面持ちで畑の道を歩き出した。
「はい」
俺もその後に続く。
遠目にはわからなかったが、畑の作物は葉が萎え、まったく生気を感じられなかった。
わずかになっている小さな実も、そのほとんどが腐ってしまっているようだ。
日照不足が原因だろうか?
……これは大した物は食べられそうにないな。
俺は妄想していた豪華料理を諦めつつ、エステルの後ろを黙って歩いた。
俺達が進んだ道の先に、村の中に入るための小さな門があった。
村の規模の割には小さすぎる。
畑に出るための裏口、といったところか。
門の外側に門番の姿はなかった。たぶん向こう側にいるのだろう。
エステルはその門の前までくると、俺の顔を見て軽く頷いてから、
「ごめんください」
と、門に向かって声をかけた。
「…………」
が、しばらく待っても返事がない。
「ごめんください!」
エステルはさっきより大きな声を出した。
「…………」
でも、やはり返事はなかった。
向こう側にも門番はいないようだ。
エステルは俺を見て軽く肩をすくめる。
「他の入り口を探しましょうか?」
「……そうね」
俺が聞くと彼女は諦めたように頷き、面白くなさそうに手のひらで門をドンと突いた。
すると、門は意外にもギギっという耳障りな音を立てて少しだけ開く。
「開いてるわ」
彼女は拍子抜けしたように呟き、そのまま静かに門を開け放った。
門の向こう側は民家に挟まれた細い通路だった。
見える範囲に人影はなく、村の中はしんと静まり返っている。
「…………」
俺達はしばらく門の外で中の様子を観察していたが、
「……とりあえず、入ってみましょう」
と言って、意を決したようにその門をくぐるエステル。
「はい」
俺も彼女に続いてその門をくぐり、村の中に入った。
俺達は注意深く辺りを確認しながらゆっくりと細い通路を進んだ。
その通路はそれほど長くなく、その先は広場にでもなっているのか開けているようだ。
ただ、相変わらず人の姿は見えない。
まあでも、それは人口の少ない田舎の村ならよくあることだ。
特に不自然というほどのことでもない。
そんなことを考えながら歩いていると、
「見て!」
何かを発見したのか、エステルが前方を指差しながら俺に告げる。
彼女の指に促されるままその方向を見ると、広場の向こう側に大きな門が建っているのが見えた。
さっき俺達がくぐった門よりも数倍大きくて立派な門だ。
たぶんこの村の正門だろう。
そして、その門の上には旗がはためいていた。
青地に剣と錠前をデフォルメした白い紋章が描かれている。
「ヴァイロン王国の旗だわ!」
エステルが嬉しそうに叫んだ。
「やっぱりここはヴァイロン王国だったんですね!」
「ええ!」
この村のおかげで、ここがヴァイロン王国だということが判明した。
村人に聞けば、ナディアの場所もわかるだろう。
あとは、この村で何か食べさせてもらう事ができればもう言う事はない。
俺達は喜び勇んで細い通路を早足で抜けた。
……なんだ、これ!?
しかし、広場に出た瞬間、その喜びは完全にかき消される。
俺達は言葉を失った。村の中は、荒れ果てていたのだ。
家の窓はガラスが粉々に割れ、玄関のドアは壊されて大きく傾いている。
村を彩っていたであろう鉢植えや植木は、倒されたり折られたりして見る影もない。
広場にはボロキレやゴミなどが散乱しており、まるでスラム街のような雰囲気だ。
そして、一番気になるのが、あちらこちらに荒っぽくぶちまけられている赤黒い液体。
考えたくないが、……たぶん血だ。
それは目を覆いたくなるような酷い状態だった。
「ど、どういうことでしょう?」
俺は村の光景に動転しつつも、何とか声をしぼり出した。
「……たぶん魔物か盗賊、……いえ、魔物に襲われたのよ」
「魔物の仕業ですか?」
「ええ」
エステルはこの村を惨状にした犯人を魔物だと断定した。
その理由を彼女は簡潔に説明する。
こんなに血痕があるのに、人の死体が見当たらないのはおかしい。
たぶん犯人が片付けたのだろう。
ただ、犯人が盗賊ならわざわざ死体を片付けたりはしない。
でも、犯人が魔物なら腹の中に片付ける事ができる。
「……そ、それはつまり魔物に食われたってことですか?」
「おそらく」
そう聞いて、俺は背筋が凍った。
食料を調達に来て、逆に食料にされてしまいかねない。
「逃げましょう」
俺は居ても立っても居られなくなり、エステルに提案した。
村をこんな状態にしてしまう魔物だ。たぶん相当強いだろう。
エステルがウィザードとして天才的な能力をもっているのはわかっているが、今は前衛のグロリアやチャロも、ヒーラーのリリアもいない。
キングバシリスクやクラーケンの時とは違う。
とても危険な状態だ。
しかし、エステルは冷静だった。
「逃げるってどこへ?」
「と、とりあえず村の外へ」
「村の外が安全だとは限らないわ」
「えっ?」
言われてみれば、確かにそうだ。
村の中に魔物がいるということは、当然外にもいるということだ。
村を出たところで、危険な状況であることに変わりはない。
「村の人には悪いけど、とにかく食べられる物がないか探してみましょう。このままじゃ魔物にやられる前に飢え死にしてしまうわ」
「……はい」
俺達は警戒しながら村の中を探索してみることにした。
村には広場を囲むようにして十数軒の家が建っていた。
村としては大きい方だ。
家は平屋か二階建てで、屋根はみんな色あせた赤い瓦葺だった。
茅葺よりも立派に見えるが、裕福ということではなく、単に十分な茅が手に入らないのだろう。
俺達は血痕を踏まないようにして、まず通路のすぐ左側の家に近付いた。
その家は窓が破壊され、中のカーテンがむなしく風に揺れている。
人の気配も、魔物の気配もない。
エステルは壊れかけた玄関のドアを開け、そっと中をのぞき込んだ。
その後、後ろの俺を見て静かに頷いてからゆっくりと中に入っていく。
俺もデッキブラシの柄を握り締めながら、彼女の後に続いた。
入ったすぐの部屋はめちゃくちゃに荒らされていた。
テーブルや椅子が倒れ、皿やコップのような物が割れて床に散乱している。
壁に掛かったこの家の住人と思われる肖像画は無残にも破られ、傾いていた。
「誰かいませんか?」
エステルが小声で呼びかけてみたがやはり返事はない。誰もいないようだ。
俺達は散乱物を避けながら、少しずつ部屋の奥に進んだ。
すると、暖炉のすぐ脇に置かれている鍋を発見。
ただ、その蓋を開けてみると、中にシチューらしき物が入っていたが、水分が抜け、カビが生えており、すでに食べ物の体を成してはいなかった。
人がいなくなってから、結構経っているようだ。
俺は他に食べられそうな物がないか、鍋が置いてあった辺りを漁ってみる。
泥棒のようで気が引けるが、「今は緊急事態だ」と自分に言い聞かせた。
エステルは俺のすぐ後ろで周囲を警戒している。
鍋の周りには野菜や果物が少しだけ置いてあったが、どれも腐っていて食べられそうになかった。
ただ奥の棚に麻の袋があり、その中に小さなジャガイモのような芋が五、六個入っているのを発見する。
「ありました」
俺が麻の袋を掲げてエステルに小声で報告すると、彼女は一瞬安堵した表情を浮かべたが、
「他の家にも行ってみましょう」
と言って、入ってきたドアに向かい歩き出した。
ここからナディアまでどれだけあるかわからない。
これだけの食料では心許ないと彼女は思ったのだろう。
二軒目はだめだった。
部屋全体に血が飛び散っていてとても入る気がしない。
「ここはだめね」
「はい」
俺達は足早に三軒目に向かった。
三軒目は比較的見た目の状態がよかった。
玄関のドアが少し傾いている他に壊れている所は見当たらない。
中もそんなに散らかってはいなかった。
ここではオレンジのような果物と、葡萄酒の入った瓶を1本発見する。
「今夜は乾杯ですね」
そう冗談を言いながらエステルに葡萄酒を見せると、彼女も険しい表情をしばしゆるめて苦笑した。
オレンジは半分熟み過ぎてしまっていたが、もう半分は食べられそうだ。
俺はその場で皮をむき、食べられそうな部分をエステルに全て手渡した。
俺は奴隷だから「まずは主人」と思ったからだ。
けれども、エステルはそれをちゃんと半分にして俺にくれた。
「ありがとうございます」
俺は彼女に礼を言ってから、それを口の中に放り込む。
……うますぎる!
久しぶりの食べ物に思わず感動してしまった。疲れが一気に吹っ飛んだ感じだ。
エステルも美味しかったのか笑みを浮かべている。
「次いきましょう」
「はい!」
俺は麻袋に葡萄酒の瓶を入れ、四軒目の家に向かうべく歩き出した。
気分は上々だ。
……このぶんなら、結構食料は確保できるだろう。
……村の中に魔物もいないようだ。
……それなら、いっそ今夜はここに泊まった方がいいんじゃないだろうか。
……門を閉めておけば野宿よりは用心がいいだろうし。
そう思って、広場を横切っている最中にエステルに提案しようとした。
が、彼女は何故か俺が呼び止める前に立ち止まる。
「…………」
目を細め、辺りを探っているようだ。
……うっ!?
俺にも分かった。周りに強烈な殺気があるのを。
俺達は目を凝らし、耳を澄ませて辺りを警戒した。
ヒタ、ヒタ、ヒタ、……
足音? のような音がかすかに聞こえる。それもあちこちから。
そして、その音は少しずつ俺達の方に近付いてきているようだ。
でも、何も見えない。
俺の心臓は極度の緊張でバクバクいっている。
しばらくして音が消えた。
でも、殺気は前よりも強く感じられる。
間違いなく、……いる。




