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けものみち

作者: ナナツ

 ねえ。ちょっと聞いてちょうだい。私の身の上話をお酒一杯分。

 あなた、アルコールは好き? 好きでも嫌いでもなくて得意ならちょっとごめんなさい。無味無臭の肴を食べさせる事になるけど我慢して。味気がなくておいしいとは思えない話だから。すでに酔っているのならいいけれど。さらっと流してもらえればそれでいいの。ただ、今はここにいてちょうだい。お願いよ。

 じゃあ、始めるわね。なんだか愉快だわ。小さい頃見た……ほら、なんていうのかしら。紙で出来たとっても小さな舞台で踊る……糸で繋がれた手足を十字の木で操るの……ああ、マリオネット、そうそう、それよ。糸でつるされた愛らしい人形になったようね。自分の事を愛らしいだなんて、中々言える台詞じゃないわねぇ。いいじゃない、自分を愛しむ事ぐらい。だって、自分だけよ。私の事を心の底から理解して、側にいてくれるのって。例え、自分の事がよくわからなくてもね、私という存在はここにいるのだから。

 あらいけない。お酒、もうすぐなくなっちゃうわね。酔いが消えないうちにもう一杯分、聞いてちょうだい。

 私ね、過去がないの。「小さい頃見た」って言ったばかりなのに、変な話よね。

記憶じゃないの。過去を語ってくれる人がいない。思い出の中に私はいないのよ。

 それってとても不安定で気持ち悪いわ。根無し草っていうのかしら。流浪の旅のように漂っている。幽霊になるってこういう事なのかしら。

 もう少し身近な例で言えば、何の意味もわからない問題を一人で解いて、さあ答え合わせってところで答えがどこにもない感じ。それが当たっているのかどうかすらわからない、当たりもはずれもないテストよ。自由と言えば聞こえがいいわね。それでも、自由はある程度の檻の中にいないと楽しく動き回れないものなのよ。不憫な生き物よね……ううん、この考えは私だけかもしれない。

誰でもいい。仲間がいたら。そんな事を思わずに済んだのかもしれない。私には味方にすべき人はいなかったから。

だから、通りすがりでもいい、あなたが私を見つけてくれて本当によかった。私はまだ存在しているのね。アルコールで溶けていなくなってないわね。

 ねえ、あなた。ご両親はまだご健在? ……そう、もういないの。じゃあ、私と一緒ね。言った通り、私の味方はどこにもいないの。私を繋ぎとめる血はどこにもいないわ。

 それでも、一人で生まれたわけじゃないのよ。お父さんお母さんっていう存在は確かにいたわ。役割として、だったけど。私を生むための必要要素としてそこにいた。酷い言い方かもしれないけど、子供の私から見た両親はそうとしか言いようがなかった。大人になった今でもそう思ってしまうわ。いつまで思春期背負ってるのよって感じよね。笑っちゃう!

 そんな私の両親は、揃ってアルコール中毒だった。アルコールの海にいないと呼吸ができない人たちだったわ。

それだけじゃない。お父さんなんて、気が付けばころっと死んでいた。振り返って見たらもういませんでしたって感じ。

ずっと、死の螺旋階段は落ち続けていた。アルコールが細胞を一つ一つ溶かしていくの。酒にのまれるんじゃない、食われていくの。ネズミみたいに、カリカリっていたずらしていくのね。でも、死ぬ時は案外とあっさりしたものだった。

 あなたの両親は……交通事故で亡くしたのね。それは悲劇だわ。何の前触れもなく消えるのって怖い。心構えってある程度欲しいわよね。悲しい気持ちすら味わえないもの。なんて、言ってしまったら失礼よね。まるであなたを理解しているみたい……。私の「ころっと」とは違うわ。死を知っての「ころっと」よりも、ずっとずっと辛いもの。なんて……死を比べてしまうのはよくないわね。

 ご両親はあなたの事愛してくれた? 多分。それならかなりOKだわ。上等よ。あなたが気づかないぐらいおっきい風呂敷に、息苦しくないようにそっと包んでくれたんだから。いいご両親よね。天才だわ。

 ちゃんと、あなたの出生を語ってくれた? 家にアルバムがあるのなら、あなたは随分と愛されていたのね。あなたの知らないあなたの成長がそこにあるのだから。それで、ご両親の事は知っている? どういう生活を送っていたか、どういう学校へ行ったか。詳細はわからないけど、大体は。ばっちりよ! なるほどなるほど……小学校は徒歩数分のところで、中学と高校はエスカレータ式。大学へ行って、近くの会社へ。まあ、なんて素晴らしい人生なんでしょう! 一番難しくて一番優しい人生だったに違いないわ。いいご両親ね。

 よかった。あなたのような人に聞いてもらえるだなんて、幸せよ。ちゃんと愛されてちゃんと生きているあなたに逢えた今日と言う日に乾杯……あら、グラスが割れている……あらやだ、そうよね、道端に都合のいいグラスなんてないわよねぇ。明日は資源ゴミの日なのかしら。キラキラしたバーだったらよかったのに、ごめんなさい、こんな場所で。でも、この地面もキラキラしてきれいね。ガラスの破片が星のよう。不思議ね、こんな場所でも素敵に見えてきた。あなたはどう?

 本当だったらあそこで飲んでいるはずなのよ。あなたも連れて行ってあげたかったわ。サマータイムへ。

 すごいのよ、あのバー。毎日が真夏のようにキラキラ輝いている明るい場所なの。そこでは誰もが陽気に歌って、お酒を一口だけ飲むのよ。私、あんまりお酒の種類わからないんだけど、いろんな色をしていたわ。私の小指くらいの可愛いグラスに、人魚みたいな色をしたお酒がちょこっと。甘いココナッツの香りがしていた。やだ、あのお酒なんて言うのかしら……そこだけのオリジナルだったの……やぁね、もう曖昧だわ。そんなに昔の事じゃないのに。過去がないと、つい最近の過去も霞んでしまうのかも。

 実はね。私、そのサマータイムで働いていたの。何をやっていたと思う? ふふ、お酒を渡すお兄さんじゃない事は確か。マスターなんてもってのほか。

 さあ、考えてみて。私をよく見て考えてみて。

 君、男だよねって? うん。そうよ、男だもん。

 過去がないっていうのは、生まれた時点の過去もないって事なのよ。なんて、嘘だけど。性別はどっかへ落っことしたの。それも嘘だって? そうね……嘘といえば嘘なんだけど、大嘘じゃぁないわ。それは後で話すから。身の上話の中にはね、カクテルよりもたくさんの色が混じっているのよ。そういうもんなの。

 それで、正解は……ピアノを弾いていた、でした。飲んだくれの戯言だと思っているでしょ。その通りかもしれないわ。気を付けて聞いてね。

 過去のない、性別を落っことした私の中で唯一確信できるコがこの指。今は乾燥しているし、骨もごつごつしているけど、よく働いてくれるの。私の心よりも遥かに自由に踊ってくれる、魔法の指。私の気分に合わせ、曲は壊さず弾いてくれる頼もしい相棒。

 いろんな曲を弾いたわ。中でも沢山弾いたのが、バーと同じ名前の「サマータイム」だった。ビリー・ホリデイはご存じ? 十五歳と十三歳の両親から生まれたそうよ……嘘だけど。お酒と同じくらい詳しくないんだけどね、ジャズとかブルースが好きな人からすればベタな歌手の一人って紹介でいいのかしら。彼女の歌が好きで、特にサマータイムが好きで、彼女のようになりたくなくて、歌ではなくピアノを弾いていたわ。はい、ビリー・ホリデイのお話はこれでおしまい。詳しく話してもいいけれど、悲しい気持ちになるだけだから。

 本当は歌がよかった。でも、歌はダメなの。どんなにがんばってもくしゃくしゃにした紙みたいになっちゃう。

神様はね、私に色々なものを与え忘れたから、その分指に託したのかもしれない。ほんの少し、おまけ程度の事だけど。

 過去がなくて、今日が曖昧で、性別を落として、プラス指だけが真実っていう事はわかってもらえた?

 じゃあ、過去がどこから始まったか。お父さんとお母さんがいた、それが一番古い記憶。そこから話させてね。

過去っていうのは、私が体験してここまできた道という他に、私を形成するための細胞でもあり養分でもあるの。だから、始まりというのはおかしいのかもしれない。過去は確かに実在して、ここまで来たのだから。

 それなのになぜか空っぽ。なんでだと思う?


 お父さんはアルコール中毒で死んだ。うんと小さい頃に。うっすら覚えているんだけどね、とても暴力的だった。殴りはしなかったけど、家の中で暴れてた。暴れながら叫んでいたわねぇ……お父さんがどんな人生だったかを。どうやらお金持ちだったというところまでは理解できたんだけど、その前後はさっぱりわからない。家とアルコールに八つ当たりしてたのよね。そうする事でしか整頓できなかったみたい。赤ん坊が大泣きして訴えるのと同じ感覚だったのかも。

 お母さんと私はそれをぼんやり眺めるの。ちょっとしたステージみたいで、おもしろかった。

 物心ついた時には貧乏だったから、サーカスも映画も知らなかった。けどね、膝を抱えてお父さんを見ていると、これが幻想の世界なんだなって感じ取る事ができた。舞台を見ているような気持になれたの。オレンジ色の白熱灯がお父さんの地団太でふわん、ふわんと揺れる度に、深くて濃い影が部屋を走るのよ。馬が走っているみたいに、壁が真っ黒に輝いた。あの時は怖かったかもしれないけど、今にして思うととても綺麗だった。その中をお父さんは叫んで、笑って、お酒を飲んで、口の端からアルコールを垂れ流しながら顔を真っ赤にして、どたんと倒れる。大抵は寝てしまうけど、また起き上がって最初からやり直す事もあった。楽しかったのか苦しかったのか、それはわからないけど、アルコールが飲めるようになった今なら、なんとなく理解できる。本能のままに生きるのって大変な事よね。理性は恐ろしく行儀がいから。

 道化みたいだったから、いなくなっても不思議に思わなかった。それは恐ろしく自然だったからよ。最初からいなかった、それが時々現実で暴れていた、それだけの人だった。

 悲しくはなかった。生まれてからそういう人しか見ていなかったから、当たり前に思っていたのかもしれない。けど、お母さんは違った。

 お母さんまでアルコール中毒になった。両親はとても仲が良かったから、お揃いになりたかったんだ、って小さい頃の私は思っていた。病気まで一緒になりたいだなんて、すごい話よ。本当はところはわからないけれど。

 でも、お母さんはとっても静かだった。道化にはならなかった。何にも暴れなかった。

 ただ黙って、おちょこで飲み続けるの。桜色の可愛いおちょこ。暖かい色をしていたから触ろうとしたんだけど、怒られた。その時だけはお母さんもお父さんみたいに叫んだけど、踊りはしなかった。一瞬怒った後、また飲むの。白熱灯の下でずっとずっと、飲み続けるの。ごはんは食べない。おやつも食べない。つまみも肴もないのに、アルコールだけを体に流し続けた。

 日増しに小さくなる、骨ばかりの背中を見つめ続けていたわ。私はどこまでも、膝を抱えてしゃがんでいた。お父さんも、お母さんの事も、ね。小さくうずくまって見ているだけの観客だった。部屋が舞台だったら、俳優はお父さん、監督はお母さん、私はお客さん。俳優を失って劇が続けられなくなって、さてどうしましょう。でも音楽は続いている……止まる事を忘れてしまったの。お父さんがいなくても劇は続くしかなかった。お客さんは文句を言えても止める権利はないから、私も見続けるしかなかった。

 ねえ。観劇中っておしゃべり禁止でしょ。だから私は一言もしゃべらなかった。息をずっとひそめて見ていた。

 そのせいかしら。お母さんってば私の事を覚えていないのよ。いつからなのか知らない。お客さんが一人いるなっていう認識はしているみたい。ううん、もうちょっとわかっていたわね。この子の名前は誰それちゃんで、自分が産みましたっていうところまではいいの。その子がどうやって生きてきたか、っていうのは全くわからない。当たり前よね、アルコールを愛していたのだから。

 あの頃は確か……十代前半だったわね。私の言う過去の一つがそこ。生まれてから十歳に入るまでが曖昧なの。記憶がなくても、これからの人生の方が長いんだからそれでいいって思う事でなんとか諦めようとしていたんだけど、やっぱり不安なのよね。生きてきた確証が何だか薄くって。そういえば、人の味覚は十二歳で決まるらしいわね。そこまでで学んだ味が一生を左右するって言う事は……やっぱり大切なのかもしれないわ。でも、どうやっても過去を取り戻す事はできなかった。誰とも思い出を共有していなかったから。

 でもね、私の過去がないっていうのはまだいいの。ついには、お母さんそのものの過去が消滅したわ。していた、と言うべきかしら。

 ねえ、こういう時ってなあい?

 例えば、思春期や引っ越しや進学……環境が変わる場合。本当にこれでいいのかなって悩んだ時、親の思い出話を聞くの。その土地のこの家に生まれて、あの先生に取り上げてもらって。そこからどうやって育ってきて、学校に入って。どこそこに通って、どんな友達がいて、どんな生活があって、どんな恋愛をして、どんな悩みを持って解決したか。喜びも苦しみも全部親の主観でいいわ。その人が体験した「その時」と「今」という結果を聞く。親の口から聞いた道を、頭の中でなんとなく辿るの。疑似体験もしくは妄想ね。何十年と生きてきた道筋を一緒に辿るのよ。今の親と重ねながら。どこでどう交わるのかを考えながら、そっと、ゆっくり、探るの。

 しばらくすると、光が見えるはず。その先にいるのは平凡な親の姿なんだけど、とても輝かしいものに見えて、安心するの。ぼんやりとだけど、私が今やっている事は間違ってないって、一つの回答をもらうから。背中を押してもらえるから。答えなんていくつもあって、正解なんてもっとないんだけど、そのうちの一つが明確になるって感じかしら。私と言う人間がどんな形になるのか、ようやく想像できるって感じ。親という鏡を見て、未来の私を作り上げて慰めてあげるのよ。

 なんて、勝手な想像だけど。でも、きっとそうだと思うの。あなただってそう思わない? 両親に愛されたあなたなら、一度はやっているはずよ。意識してかどうかはわからない。親から聞き出すんじゃなくて、思い出話を聞くうちに、無意識に思っているかもしれない。だって、あなたは迷子になっていないもの。大地を立派に踏みしめているわ。

 言いたいことは大体わかったかしら? ふわふわしている私は……つまり、それをしたかったのにできなかった。

 幼い私は聞いたわ。お母さん、小さい頃は何をしていたの? って。友達はどんな人って。答えはなかった。曖昧に笑っておしまい。それなりに楽しかったんじゃない? ただそれだけ。「今も元気なんだから、それまでの人生、こうやって生きてきたんでしょう。人間には幼少期や青年期と呼ばれるものがあって大人になるけど、結局は一日一秒の積み重ねが年月となって前に押し進まれていくんだから、赤ん坊の私も大人の私も同じなのよ」お母さんの名言。迷う方の迷言だけどね。

 そりゃぁそうかもしれないわよ。変わる事なんて滅多にない事よ。人は遺伝子っていう立派なものを持っているんだから。

 けどね、それは別じゃない。私が聞きたいのはそんな正論じゃないの。あなたの事よ……。

 さっきの例え話じゃないけど、私は小さな転換期を迎えていたんだと思う。ちゃんと生きてみたいと思ったのかもね。観客じゃなくて。

 だからって、お母さんに聞いたのは間違いだったわ。アルコールだけの人に聞くなんてね。

 わかっていたのに、それを聞いた瞬間、私は私を見失ったわ。否定されたような気がしてならなかった。なぜ? というよりも悲しみでいっぱいに膨れ上がった。割れたグラスに注いだワインよりも辛かった。両手からぽろぽろ零れていくの。指を溶かしながら、ぽろぽろと……。

 私の記憶も、母の過去も、みぃんな空っぽ。過去っていうより、思い出がなかった。私を形成すべき檻が何もなかったのよ……。

 そこで私は躍起になった。必死でお母さんを探した。目の前にいるけど、肉体ではなく精神を探した。

 お母さんはどうやっても自分の過去を話してくれない。私が生まれた時の事は少しだけ言ってくれたけど、あとは全然言わない。家中をひっくり返したけど、怒られておしまい。過去は転がってなかった。

 家族って両親だけとは限らないじゃない。他にもいるわよ、血縁者が。といっても、おばあさんだけだけどね、母方の。それこそどんな人かはよく知らないから、いてもいなくても同じね。今は亡くなっているという事だけはっきりしているわ。

 そのおばあさんが、過去にたった一度うちに来てくれたの。初めて会う祖母の印象は、乾いている、だった。今にして思うと若かったんだと思う。けど、お母さん以上にかさかさで、もみくちゃにした紙みたいな人だった。体は枝みたいで、口がちょっと臭かったのを覚えている。少ししかない黄色い歯と、無理やり茶色に染めて金髪になっちゃった白髪頭が捨てられたフランス人形に似ていておかしかった。当時の私は怯えていたんだけどね。

 ちょっと怖かったけど、きっとこれがチャンスに違いないって神様に祈って、聞いてみたの。お母さんの過去が欲しいです、って。「どんな風に生まれてどんな風に育って、学校に行って就職して、お父さんと出会ったの」って。怖いと思っていたけど、その時おばあさんはにこにこ微笑んでくれた……これは語り部の顔をしているって思ったのに……お母さんが鬼の形相で飛んできて、ストップ。おばあさんはそのまま黙りこくって帰ってしまった。二度とうちには来なかったわ。幻だったのかしら。

 そもそも、どうしてそんなにも過去を言わないのか、うんと考えちゃったわよ。

 もしかして犯罪者!? なんて事までね。悪い方へ考えちゃうのはアルコールばかり嗅いでいたからかしら。悲観一家なのよね、きっと。

 そこで諦めればよかったのだけど、観客には戻りたくなかったから、探り続ける事にしたの。家の中にないなら外にある―私、初めてだったわ。外の空気に触れるのって。いよいよデビューする事になったの! あの時は嬉しさよりも探す事でいっぱいだったから、わからなかったけど、今思うと素敵な事よね。お母さんが何も語らなかったからこそ、外に出ようって、思うようになったんだから。

 ああ、アルコールが気持ちいい。こんなに前を見るのは久しぶり。あなたに出会えたからよね。


 さて、デビューした私はまず酒屋さんに行ったわ。お父さんもお母さんもお金がなかったから近所にある安い店に通っていたの。その酒屋さんは趣味でお酒を作っていた。その辺にあるものをぐちゃぐちゃにかき混ぜて発酵させて……なのかしら。童話の中にある魔女の鍋みたいだったわ……。魔女じゃなくておじさんだったけど。そういう場合ってなんて言うの? 魔男? 発音がよろしくないわねぇ。魔法使いでいいのかしら。

 その人に聞いてみたの。「うちのお母さんの過去を知っていますか?」って。私とお母さんはよく似ていたからおじさんは私が誰かすぐわかったけど、うんとは言わなかった。鍋をぐつぐつ、泡をぼこぼこさせながら首を振るの。代わりにお酒をくれたわ。一口舐めたらびっくりするぐらい甘くて、シロップみたいだった。蜂蜜みたいにとろっと濃くて、色は琥珀色。最初は痺れそうなぐらい甘くて目が飛び出そうで、喉がからからに乾いた。喉の皮が全部めくれちゃったみたいに、いがいがして苦しくてたまらない。なのにね、それが治まるとふわっと花の香りに変わるの。薔薇みたいに可愛い匂いが喉から鼻へ通って、身体中が春になったような気分になったわ! 心が桜色に染まるような感じ。おじさんが作っていると思うと複雑だけど。その時はアルコールっていいものだと思っちゃったけど、それよりも過去探し。

 結局、おじさんは何も知らなかった。他へ行ってみようとして、早くも袋小路。他の場所なんてわからなかったからよ。だって、お母さんの学校すらわからないのにどうやって探れっていうの? けど、私は止まらなかった。途方に暮れる前に動く事にしたわ。


 しばらく歩いていると、歓楽街に辿り着いた。近所にこんな明るいところがあるなんて知らなかったからどきどきしてしまった。ピンク、レモンイエロー、サファイア、プラチナ、宝石みたいな色の波に泳いでいるみたい! 輝く世界に魅入られたわ。一歩入ってすぐにうんざりしたけどね。

 白い体に薄いドレスを着た女の人がウロウロしてた。長い煙管を重そうに持って、真っ白な煙を細く吐き出すの。乱雑なのに妙に粘着質な色気があって、オトコノコのように緊張したわ。その時は男だって気づかされたものだけど、それどころじゃない。気を緩めたら飲み込まれそうな泥道だったから、気合を入れて歩いた。じゃないと、食べられてしまうもの。

女は脂っ気のない髪をかき上げながら囁くの。まだ幼い私に向かってね、「坊や、一晩どう? やり方がわからなくても大丈夫。安心して体を預けて。お金も子供料金にしてあげるから」ですって! 彼女たちとどういう行為に及ぶかはわからなかった。けど、とっても怖かった! ナマコみたいなくちびるを蠢かせながら煙管の先を吸う仕草のなんて気味の悪い事。ぞっとするという体験を初めてしたわ。今思えば、彼女たちも必死に生きていたのよね。私みたいな子供でもよかったんだもの。お金と時間がある子供が羨ましかったのかしらねぇ。

 そういう女の人は一人や二人じゃなかった。通りはアーケードみたいになっていてね、両脇全てがそういう店だった。白い手という手が私を招くの。いろんな光に照らされた血の気のない腕たちが私の頬やおなかや足を撫でるの……。「気持ちいいでしょ?」なんて聞く人もいたわ。

 私は当然、怖くて逃げだした。過去探しがどうでもよくなるぐらい怖くて走って、この通りから抜け出そうとした。真っ直ぐ走れば出られると思ったのに、ネオンはいつまでもまとわりついて中々消えない。走っても走っても、女の香水が体を縛りつける。新しい拷問のように……。


 そうしてどこまで走ったか覚えてない。足が震えて肺が痛くて苦しくなったところで、恐る恐る立ち止まって息を何度も繰り返した。額から熱い汗がぼたぼた出て、その時ばかりはびっくりするぐらい「生きている」って思ったもんよ。

 それも束の間、気が付けばネオンも女の手もなくなっていた。通りは続いていたんだけど、どれもシャッターが降りて、灰色の世界に変わってしまった。シャッターが風もなく揺れて誰かが叩いているみたいだったけど、誰も人がいないの。お化けだったらどうしようって何度も思いながら、また前へ進んだわ。

 どこまで行っても灰色の世界に、やっぱりうんざりした。誰もいないからすっきりはしているけど、出口がまるで見えない。光のない世界はどこまで行っても暗くて、扉が開く事はなかった。

 その中でひっそりと、ろうそくみたいにおぼろげな灯りを見つけたの。ふんわりと暖かい、とても小さな光。

 看板にはこう書いてあった。「サマータイム」って。

 白い看板に黒く柔らかい線で書いてあった。看板にも壁にも飾りは何もない。代わりに、アルコールとピアノの音が微かに耳に入った。ぽろん、ぽろん、と確かめるような音は、明るい中振る雨のように静かだった。曲というより、一音一音を味わっているようだったわね。

 たった一音、曲ではない音だったけど、私は導かれるようにしてそこへ入った。小さな鈴がおっかなびっくりに鳴って、ピアノの音が止まった。

 中にいたのはすっかり円熟したおばあちゃんだった。真っ白な髪を皮膚が引きつりそうなほどぎゅっと後ろに縛って、肩には真紅のショールをかけていた。ベロアだったから、猫の毛かと思っちゃった。痩せぎすの体をピアノに寄りかからせながら鍵盤に指を押し付けるの。そうすると、ラの音かしら……ぽーん、と鳴った後、音がじんわりと部屋に染み入るの。オレンジ色に輝く部屋がとても暖かく見えた。

 おばあちゃんは寄りかかったまま、鋭い眼光で私を見た。とても厳しそうな顔立ちだったわ。瞳だけで脳天を撃ち抜かれたような衝撃が走った。私が放心状態にいると、おばあちゃんは面倒そうに息を吐いて聞いた。「あんたはどこの子だ。ここは気安く入っていい場所じゃないよ」「いいえ、違うんです。母の過去を探しているんです」「ここにはそんな酒も曲も置いてない。とっとと帰んな」「いいえ、違うんです。人の記憶が欲しいんです」……そんなやり取りを何度も繰り返した。私はお願いを続けて、おばあさんはのらりくらりとかわして答えない。そのうち答えるのも嫌になって、くちびるを皺の中に埋めてしまった。私も説明がうまくできなくて同じように黙ってしまった。

 まだ夕方だったからお客さんは誰もいない。人が来る前になんとか話してもらおうと思ったけど、全然言葉が浮かばない。過去がない、思い出がないってこんなにも厄介だとは思わなかったわ。言葉も言えないほど空っぽなんだもの。

 その間、おばあさんは寄りかかったまま視線を鍵盤に落として、今度は低いミを押した。それだけで私の心はどん底に落ちたわ。ここを諦めて他の場所に行けばよかったのに、もうここがゴール、これ以上は見つからない気がした。短い旅は終わりのような気がして、がっくりしたわ。

 おばあさんは体を起こしてピアノの上に置いてある紙巻煙草の缶を手に取って、口にねじり込んだ。ピアノを弾いていたとは思えないほど節くれだったしわしわの手で、震えながら火を付ける。赤とオレンジが混じり合いながら先端を燃やして、ふっと一筋、白い煙を細く、くちびるをすぼめて吐くの。その流れのきれいな事。白髪頭からペダルを踏む足先、そして指先……全てが洗練されていた。想像してみて。ね、素敵な絵画みたいでしょう。これをブロマイドにしたらみんな欲しくて行列ができそう。もしくは、アンティークドールかしら。ああでも、おばあちゃんの人形ってみた事がないわ。あなた、いつか探してきてくれる? それとも、作ってくれないかしら。……不器用だからそれは無理? 創るって相当難しいみたいね。みんな言うの……不器用だからって……。

 私もあの時答えたの。不器用だからって。

 おばあさんは何度か白い煙を吐いて、上目に私を見つめた。眼光がとても強いから蛇が睨んでいるみたいだった。口元をくちゃくちゃさせながら煙を吐いて、灰皿に吸いかけの煙草を放り投げた。「あんた、ピアノの経験は?」この短い人生で、そんな事を言われたのはたった一回。これだけよ。天地がひっくり返るほど、びっくりした。どうやっても聞かれない台詞じゃない? その時の私はうろたえるばっかりで、何も言えなかった。だからおばあちゃんは一人続けた。「ちょっとここに来てみな。ほら、ぼぅっと立ってるんじゃないよ、こっちに来いと言っているんだ。さっさとおし。ああ、のろまだねぇ」唾を飛ばしながら腕を引っ張った。骨ばかりの手とは思えないほど強かった。「ここに座る。ほら、背中を丸めるんじゃない。しゃんと伸ばして」この時、私は馬鹿な質問をしたわ。「男もピアノを弾く資格があるんですか」ほら、馬鹿よね。おばあさんに思いっきり頭を叩かれた。「あんた、ピアノの世界に男女差別があるっていうのかい!」

 ずっと男女の間を彷徨っていたわ。男として性を受けたけど、それを受け入れる事が出来なかった。みんなに確認してもらえなかったから。かといって、女とは違うとも思っていた。姿形がまるで違うから。お父さんもお母さんも、私をどちらとも認識してくれなかった。

 おばあちゃんも、私を男とも女とも扱わなかった。男だから、女だからって、何も言わなかった。でも少しだけ言ったのは、「そんなみすぼらしい恰好をしてピアノの前に座るんじゃない。これをかけな」そして、ベロアのショールをかけてくれたの! ふわりと粉ファンデーションの香りがしたわ。

私、嬉しくて嬉しくて! たったそれだけの事だったのに、肩がとっても暖かくなって、気が付けば泣いていた。涙ってこんなにも自然に出てくるものなのかしら。溢れては落ちて、手の甲を濡らした。

 少しだけ泣いた後、おばあさんは隣に立って、私の手を鍵盤に置いた。思ったより冷たかったわ。金属ともプラスチックとも違う。冷たいのに、柔らかい感触がした。ゆっくり押すとあまり音が出なかった。軋んだ音がするだけ。今度は強く叩いてみた。たった一つの鍵盤なのにすごく重いの。こっちがぶつかっていかないと音が返ってこない。私は何度もドの音を鳴らしたわ。そうしたらね、おばあちゃんはとってもかっこいい笑顔を見せて、「優しい音がする」って言ってくれた。ますます嬉しくなって、泣いたわ。

 その後、おばあちゃんはふらりと奥へ消えてしまった。しばらくして、虫が飛ぶような音がしたかと思ったら……そう、そこで登場するの! ビリー・ホリデイが歌う「サマータイム」が。不思議な声をしていたわ……。聞いていると、ますます泣けた。「この歌はサマータイム。この店と同じ名前さ。ビリー・ホリデイは知ってる? 十五歳と十三歳の両親から生まれたらしい。まあ、嘘だけど」おばあちゃんはにこりともせず言って、「あんたはどう思う?」「よくわからないけど、好きです。明るいのに悲しい気持ちになる」「この店もそうさ。今からぱっと明るくなる。あんたはそこに座ってな」

 だんだん夜が近づいてきて太陽が落ちた頃。店の電気が一気に花開いたわ。あちこちで春が来たみたいに、いろんな色の明かりが天井や壁を照らすの。ろうそくの中にいるような暖かさから、南国にいるみたいに輝き始めた。まるで手品みたい。おばあちゃんは私からショールをひらりと取って自分の肩にかけた。針金みたいな体を真っ直ぐ立てて、まだ大きなお尻を見せつけて歩く姿はモデルも真っ青。今度はカウンターに立って、グラスを取り始めたわ。

 そうしているうちにお客さんが入ってきてお酒を頼むの。そう、さっき言っていた人魚みたいなお酒。南国みたいな店にぴったりの青。お客さんたちはね、入ってきた時は陰鬱な顔をしていたんだけど、そのお酒を飲んだ瞬間、みんな陽気に変わるの。それが元の姿か、それともアルコールが見せる夢かはわからない。一人で来た人も二人で来た人も、みんな肩を組んで笑い合うの。決して下品ではなく、妖精のようにね。

 私はピアノに腰かけてそれを眺めていた。不敵に笑うおばあちゃんとビリー・ホリデイの歌。陽気なお客さん。その姿と歌を噛みしめているうちに、私もああなりたいと思うようになった。サマータイムに憧れたわ。

 誰もいなかった店にお客さんがいっぱいになった時、ふと誰かが私を見つけた。「おや、珍しい。今日のピアニストは坊やか」頭がぼさぼさになるまで撫でてくれたけど、どうしていいかわからなかった。そのうち、一人が大変な事を言った。「君を見たことがある気がする。昔ここで働いていたピアニストに似ている。お母さんの名前は? 君の名前は?」私、この一日で何度驚いたかわからない。びっくり仰天ばっかり繰り返していたわね。もちろん、この時もびっくりしたわ。名前を聞かれた事に。名前なんてほとんど名乗らなかったから忘れていたの。人にはそういう風に名前があるって事をね。あなたは名前を聞かれてすぐに答えられる? そうよね、当然だわ。生まれた時から何度も呼ばれるはずなんだから。

 私は上手く言えなくて……自分の名前ですらそうなんだから、お母さんの名前なんてもっと出てこなかった。困っているとおばあちゃんが、「ビリーだよ、この子は」「そりゃあいい。すごい子に育ちそうだ」「歌ってくれよ」「そうだ、それがいい。レコードと一緒に合唱しようじゃないか」話はスムーズだったけど、よくわからない方に転がってしまって。「歌なんて歌った事ないよ!」「鼻歌でもいいから、一緒に歌ってごらん」「君はビリーなんだから」「ピアノでもいいよ。そこにいるっていう事はピアニストなんだから」酔っ払いって勝手よね。

 今までピアノなんてほとんど知らない存在だったのよ。歌だって、鼻歌すらできない。そんな私が何を弾けるって言うの? あなたは弾けるの? 学校で習ったぐらい。それならまだマシなのかも……。

 ここで、困ったように泣いちゃえばそれでおしまい、だったかもしれないけど、私もやっぱり男なのよねー……。ふふ、弾いてあげたの。ばんばん、がんがん、両手をうんと広げて鍵盤中を駆け回った。

 あの時のお客さんの顔ったら! 私の顔は泣きはらして情けない顔をしていたに違いないから、そんな事をやるようには見えなかったみたい。グラスを落としそうになった人もいた。あまりの音に、電球も歌も落っこちてしまいそうだった。

 たまらなくおかしくて、沢山笑った。お客さんたちも笑った。おばあちゃんは苦笑いしていた。歌はいつの間にか終わっていた。

 弾き終えた後、お客さんは大笑いしながらさっきと同じ事を言ったの。お母さんの事をね。「やっぱり君はあのピアニストの息子だ! こんな大きな子がいたなんて知らなかった。お母さんにそっくりだ」


 え? どうしたの?

 話はうんと変わるけど、結局お母さんはどうしたのかって?

 ああ、生きているかどうかっていう話でいいかしら。

 生きている死んでいる、の二択で良ければ「生きている」方よ。今も生きているわ。

 動いているかいないかで言うなら、「動けない」かしら。なぞなぞみたいでしょ。

 正解は、「生きているけど動けなくなったので入院しています」

 ベッドに寝たまま、動かないでじっとしているわ。時々お見舞いに行くんだけどね、相手にしてもらえないの。アルコールで喉をやられて、目も濁って。私が誰かはわからないと思う。ほら、私ってこのしゃべり方でしょ? あの頃はもっと男の子をしてた……というより、曖昧な敬語だったの。言語の自由がなかったのかしらね。経緯は覚えていないわ。

 そうね、このままだとサマータイムの話で終わってしまいそうだから、お母さんの過去に戻りましょうか。

 ここまでの話でわかったと思うけど、お母さんはどうやらピアニストだったらしいという事はわかったの。どれほど演奏できる人かはわからず仕舞いだったわ。


 サマータイムでの楽しいひと時を過ごした後、真っ暗闇の中をおっかなびっくり帰った。かなり遅い時間なのに、手を引く女たちはまだいたわ。夕方見た時よりも大分少なかった。赤いカーテンの向こうの影と黄色い声でその理由はなんとなくわかった。帰りは走っていったから、捕まらずに済んだわ。

 家も真っ暗だった。けど、半開きになった冷蔵庫から漏れる明かりで青白く光っていた。お母さんはずっと飲んでいたの。

 私がどんなに遅くなっても気にしない人だったけど、この日は違った。おばあちゃんの粉ファンデーションの匂いがしたからかもしれない。「どこに行っていたの」「ちょっと冒険に行きました」「何か見つけた?」「何も。でも、一つ聞きたいことがあります。お母さんはピアノを弾いていたの?」

 瞬間、お母さんは鬼のような顔になった。目尻をつり上げて頬を引きつらせた。そんな事起こらないはずなのに、髪が逆立って見えた。おばあちゃんの眼光は鋭かったけどその奥は優しかった。でもお母さんは怖いばかりで、何の暖かさもなかった。だから、家の隅っこまで逃げたの。

「違う!」

 たったそれだけを言って、お布団にもぐってしまった。

 ずっと静かな人だったから、文字通りあんな激昂するなんて思いもしなかった。私も何も言えなくなっちゃって、その日は眠ったわ。でも、次の日になって今度はこう聞いたの。「ピアノを習ってみたい」ってね。

 過去探しをそんな簡単に放り投げたのかって? お母さんから聞くのは無理だってわかったから、ピアノに聞く事にしたの。サマータイムにあるピアノにね。

 却下されるに違いないって思ってたんだけど、お母さんは突然、床をコツコツと叩いたわ。「この音はドレミファソラシド、どれ?」なんて難解な問題なの! 音楽をロクに知らないっていうのに。床に音があるなんて知らないのに。私はどう答えていいかわからないでいたら、「じゃあガラスの音は。冷蔵庫の音は。お酒の瓶の音……」お母さんは手当たり次第鳴らし始めた。どれ一つわからないし、ドレミファソラシドがどんな音かすら浮かばない。

 お母さんは皮肉そうな笑みを一つ浮かべた後、ぽつりと言った。「お前には才能がない。だからやめなさい。その方が身のためよ」その一言で確信した。やっぱりピアニストだったんだって。どういう経緯か知りたくてたまらなかったけど、その日からアルコールの量が増えて喉がつぶれて、うまく言葉を出せなくなってしまった。最初で最後の会話だった。

 けど、その事実がわかっただけでそりゃもう嬉しかった。唯一わかった過去なんだもの。

 あなた、不思議そうな顔をしているわね。ずっとそういう顔しているけど、今はもっとそんな顔をしている。

 何を考えているか、なんとなくわかるわ。

 過去も思い出もないなんて嘘。って言いたいんでしょう。そうよね。あまりにはっきりした記憶だから、矛盾に戸惑うのも無理はないわ。私ってば言っている事がちぐはぐよね。

 サマータイムでの経験は私の輝かしい思い出の一つだけど、言いたい事はそうじゃないの。どこかで言うから、それまで悩んでみて。大した答えは出ないから、なぁんだで終わっちゃうかもしれないけどね。

 話を戻すわ。

 次の日から私はサマータイムに通っておばあちゃんにピアノを教わったの。おばあちゃんはピアノの事はよく教えてくれたけど、お母さんについては何一つ教えてくれなかった。おばあちゃんが雇い主に違いないんだけど、何一つ言わない。犯罪者節がいよいよ膨らみ始めたけど、それについてはしっかり否定された。「自分の親を疑うもんじゃないよ。この罰当たり」静かにそう言われた。疑いと知識欲の違いはなんなのかしらね。

 お客さんにもお母さんの事を聞いてみたけど、誰もが陽気な酔っ払いだったから誰もがちぐはぐな事ばかり言ってたわ。超絶技巧でピアノを蜘蛛のように弾くだとか、キレるとピアノを叩くように蓋を閉めるとか、気に食わない事があるとテーブルを蹴り上げるとか、一度こうと決めたらつっぱしるだとか……一体どれが本当なのか、お母さんの過去という判断材料がないからさっぱりわからなかった。どれもが本当に聞こえたし、どれもが嘘にも聞こえた。

 結局、母の過去と思い出を知る旅は最初から無意味だって事がわかってしまったのよ。真実がないのなら、生きているも死んでいるも同じ状態。これは外の人間が判断して決定する事なのよ。お客さんたちみたいにね。私はそれがどうしても嫌だったけど、どう足掻いたところでお母さんという人を捕まえる事はできない。私もまた、勝手に想像するしかなかったの。静かだと思っていたお母さんはもしかして幻なのかもしれない。

 不安定な答えよね。埋まってほしい穴は空いたまま。満たされない空洞を抱えてピアノを弾き続けた。

 おばあちゃんは言ったの。「幸福な人は創造しない」自分が不幸だと突きつけられた言葉だった。けど、おばあちゃんはそう言いたいわけじゃなかった。「だからこそ、あんたはピアノが弾ける。才能の有無じゃない。創り、生み出す事を苦しいと悩み、あらゆる感情を引き出すことができる」

 言葉ってあまりにも明確なものだと思っていた。けど、違うのね。それこそ、聞いた人が判断するしかない、曖昧なものだったのね。あなたはどう受け取る? 外から見れば幸福なあなたは。


 そうして納得しながら私は成長していった。歓楽街の女たちは相変わらず私を誘うけど、それもだんだん減っていった。逆に、私を仲間だと思うようになっていた。本当ならあの界隈の女は全員敵なはずなのに、私の事は誰もが向かい入れてくれたわ。サマータイムのビリー、なんて素敵な名前で呼んでくれるの。私を連れ込んでどうかしようとするんじゃなくて、まるで百年来の友人のようにお話してくれるの。あれほど女臭くてたまらないと思っていたのに、酌み交わす酒と言葉が多くなる程、彼女たちは普通の女の子だと知った。彼女たちの感情が自分の中で溶け込んだの。私と言う人間を形成する一つになった。

 楽しいおしゃべりを終えてからサマータイムへ向かう。おばあちゃんはいろんな色のショールを持っていて、今日は鮮やかなレモンイエローを羽織っていたわ。その色はとても似合わないけど、なぜかしっくり来るの。そして、それを見るととても落ち着くのよ。私が私になれるようなスイッチみたいだった。

 おばあちゃんは私が行くと必ずピアノに寄りかかって、一音一音噛みしめていた。教える時以外は曲を弾かなかった。なぜ? とは聞かなかった。いずれ話してくれるだろうから。

 でも、それは叶わなかった。私、知っちゃったの。

 ピアノはだんだん上手になっていったわ。才能がうんとあるわけじゃないし、沢山の曲を弾けるわけじゃない。サマータイムだけは何度も弾いて指に教え込んだ。けど、人を感動させるような腕は持っていなかった。でも充分だとおばあちゃんは褒めてくれたわ。感動はいらない、酒に合わせて弾いてくれればいいって。時々歌も歌ってみたけど、だんだん声が変わり始めて低い声になってしまった。私はそれがなんとなく嫌で、高い声を作る練習をした。おばあちゃんはそれを嫌がったけどね。

 私にもちゃんとした自分がいた! あの頃の私は不幸を抱きながら幸せだった。境遇は不幸だけど、こうした出会いは心の底から幸福だと感じていた。それがピアノの上達を妨げていたのかもしれないけど、嬉しい気持ちがずっと続いていたからそれでよかったの。そう、何もかもよかったのよ。


 何年も経った後、ある日おばあちゃんはぽつりと言った。珍しくお酒を飲んでいた。それは懐かしい匂いがして、すぐにわかったわ……あのおじさんが作っていたシロップみたいなお酒だって。瞬間、心臓に痛みが走った。雷に打たれたみたい。体の中で春雷が唸りながら何度も光って落ちたわ。

「あんたはどうしてお母さんになりたいんだい」

 疑問形じゃない。少しだけ酔っているはずなのに、一字一句に鋭い棘があった。嫌味ではなく、実際に人を傷つける痛みを持っていた。

 何のことかさっぱりわからない。あのお酒のせいか、おばあちゃんがお母さんに見えた。私はもう子供じゃなかったのに、怖くて泣き出しそうになっちゃったわ。

 でもね、体の中にある形にならない部分は、それをなんとなく理解しているの。今だって明確な言葉にはできないし、この曖昧な雲のようなものを表現はできないからあなたに伝える事はできないけど……私にとってその台詞は、聞いてはいけない呪詛よ!

 ここで馬鹿みたいに首を傾げればよかったのに、私が何も言えないで固まっていたから、おばあちゃんは私が理解していると気づいたみたい。泣きそうな私を見て「しまった」と思ってくれればせめて救いだったのかもしれない。おばあちゃんはあえて言ったのかもしれない。お母さんの過去と同じで、真実は語ってくれなかった。

 最後に聞いたのは一つだけ。「あんただけの感情を持ちなさい」だった。

 私はそのまま飛び出した。明るい空間が怖くて逃げたの。

 最初からそうすべきだったのよ。サマータイムへ入らなければよかったの。おばあちゃんを見て怖がって逃げていればよかったの。そうすれば私は私でいれたのよ。私は私を見つける事ができたのよ。

 一つだけはっきり言える事があるわ。

 やっぱり私は不幸なのよ。両親がアルコール中毒で、お父さんが死んだからじゃない。お母さんがまともな会話もできないまま入院したからじゃない。不幸な境遇という意味じゃなかったの。

 私は自分を持っていなかった。自分が何を考えているか、わからなかった。

 私は綺麗なものが好き! だって歓楽街の女たちが綺麗なものを見ていると救われるからって言ったから。

 私はピアノが好き! おばあちゃんが私を相手にしてくれるから。お母さんが習っていたから、安心して触れるから。

 私は指が好き! ピアノを弾いてくれるから。お客さんがみんな褒めてくれるから。

 私は私なの! だって、性別は……。

 自分を持つことができなかったこの塊こそ、不幸だったのよ!

 疑似体験だけで終わらせればよかったのに、そのものを体験してしまった。自分ではない誰かになろうと、無意識になってしまったの。


 ――アルコール、切れちゃったわね。あなたのグラスには入っている? 注ぎましょうか。

 ああやだ、忘れていたわ。グラスは壊れていたわね。これじゃあ何も注げないわ。あなたにも飲ませてあげたい。シロップみたいなお酒。夢のような味がするんだから。何もかも溶かしてくれる、甘い甘い味……。

 なんだか眠くなってきたわ。今日はおしまい。ここで寝ちゃう事にするから、あなたは適当なところで帰って。

 今日は聞いてくれてありがとう。

 最高の舞台だったと思うわ。

 続きはいつか。

 道の向こうで会いましょう。


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