第2話
話は前日の早朝まで巻き戻る。
とある家族向けマンションの一室にて、鷹久はタオルケットにくるまって寝ていた。五月初旬の早朝と言えば、なかなかに爽快で、閉ざされたカーテンの隙間から差し込む光は、外が快晴であることを示していた。
「……ん」
だが、ある事情から鷹久は疲れきっており、素直に起きる気にはならなかった。
このゴールデンウイーク中は、なにかと忙しかったのである。
今日はその事情から解放されて、丸一日予定も無く、真面目に早起きせずとも問題は無かったはずだった。
しかし、そんな彼の背中に黒い影が這い寄ってきていた……。
「…………ッ?! 殺気!?」
ただならぬ気配に目を見開いて飛び起きる鷹久。その身体が在った場所に、白い塊が金色を曳いて落ちてきた。
「起っきろ~~っ♪」
という楽しげな声と共に。
ドスッ! と重い音を背後に聞き、鷹久は慌てて振り返る。するとそこには、鷹久が寝ていた場所にヒザを叩き込んでいる金髪碧眼の従姉の姿。鷹久が居候しているこのマンションの主、夏目綾香が居た。
「……ち、外した」
心底残念そうに呟く綾香。
その姿に鷹久はうろん気になった。
「…………なにやってるのさ」
「なにって……タカを起こしてやろうとモーニングフライングニードロップ☆」
モーニングを付ければ良いというものではないと思う。
鷹久は頭痛を感じて額に手を当てた。
「……それは人間を起こすのに使って良い技じゃないよ。下手すれば死んじゃうよ……」
ドッと疲れた顔でうなだれる鷹久だが、綾香の方はけろりとしたもので、お日様のように笑う。
「いいじゃん♪ 起きられたし、避けられたし」
「にしたって……」
痛痒を感じた鷹久がさらに口を開くが、それより早く綾香が「それにタカなら避けられるって信じてたしな☆」と邪気の無い笑顔で言い切った。
「……そう」
その信頼が、こそばゆくて嬉しくて、鷹久は少し照れ臭くなってか顔をそらし……。
「って誤魔化すな! 危ないことには変わらないでしょ!」
「バレた」
ぺろりと舌を出して逃げ出す、金髪ワンコ。
素早く扉まで逃げおおせ振り返る。
「早いとこ朝飯の準備しよーぜ☆ あたしハラ減ったよ」
「……わかったよ」
綾香に返事をして、鷹久はベッドから降りた。
綾香と鷹久は現在同居中だ。従姉弟同士でありながら、正式に付き合い始めた二人だが、どうにも距離感を掴み損ねていた。
もともと仲の良かった二人だけあり、カップルじみた行動が多かったのだが、それこそ男と女という意識が低かったからくるものであった。それが、ちゃんとした恋人となるとどうにも勝手が分からずにいた二人だったが、その辺りはそうそうに投げ出してしまっていた。
肩肘張って、恋人という枠に無理矢理収まるより、普段通りの二人で良いのではないか。という結論に落ち着いたわけだ。
そしてそれは、存外うまく機能していた。
顔を洗い、歯を磨き、軽く身支度を整えた鷹久は、綾香と二人台所に立つ。
「なあ、今日どうする?」
「一日ヒマなんだよね」
朝食の準備をしながら会話を交わす。ゴールデンウイークの休みに、ふたりは護身術を習った道場に舞い戻っていた。
もともとふたりの修めた護身術は、綾香の父方の祖父、鷹久からすれば母方の祖父に当たる人物、夏目 鷹次郎が起こしたもので、それは古武術を源流としたものだった。鷹次郎はその古武術の継承者であり、その流派を天鷹流甲冑柔術と言い、これを現代にマッチさせたものへと昇華したものが二人の修めた天鷹流護身術である。
その道場を継いでいるのが綾香と鷹久の叔父である夏目 鷹介である。
鷹介は二人にとって良い兄貴分であり、師範であったわけだが、今回二人の頼みを聞いて源流である天鷹流甲冑柔術の方へ踏み込んだ修行を課すことになった。
それは護身術の方を修めていることからふたりが基礎を終えていると判断しての技の伝授から始まった。
これがなかなかにくせ者であった。天鷹流は甲冑を纏った状態での武具の運用、徒手空拳となってからの護身、組み打ちでのとどめを主眼にした古武術であり、そろって鎧甲冑をつけての修行となった。修練用とはいえ三十キロ近い具足を着けての稽古はかなり厳しく、体力にはそこそこ自信があったふたりだが、最後には身動きが取れなくなる程に疲れきってしまった。
とはいえ、これは甲冑による重さ、制限される動きに慣れるためのものであり、『その動きにくさ、呼吸のしにくさ、甲冑の重さを忘れずに反復練習するように』と言いつけられ、そして、週に一度道場に来るようにと言われてふたりは解放された。実生活、学業をおろそかにすべきではないという鷹介の方針だ。日々の修練にしても二人を信頼しての事でもある。
そんな訳で、ゴールデンウイーク最終日、ふたりは揃ってヒマになったのだ。
「……修練の続きとか?」
「……青春の無駄遣いイクナイ」
鷹久の提案に、綾香は半眼になって拒否しつつ、ちぎったレタスを皿に添えていく。
そこへ鷹久が慣れた手つきでベーコンエッグをフライパンから移した。
「つーか、そんな修行漬けなんてやったら鷹介兄に怒られるじゃんか」
「だよねえ」
くちびるをとんがらかせながら言う綾香に、鷹久は苦笑した。
夏目道場は護身の流派。技を鈍らせなければ人生を費やすような修行をしなくて良いというのが鷹介の持論だ。
ちなみに鷹介はまだ三十二歳。綾香らが生まれたときは十七歳だったので、ふたりにはおじさんではなく、お兄さんと呼ばせていた。
「……まあ、それに由利香さんからのアドバイスも実践したいしなぁ」
「ん?」
綾香の呟きに、鷹久は味噌汁をかき混ぜる手を止めたが、綾香は、何でもない。と誤魔化すようにしながら二人分の皿をダイニングテーブルへと運んでいった。
由利香は鷹介の妻であり、二つ年下の三十だが、いまだに女子大生で通るほど若々しい女性だ。ふたりの間には十二歳になる、綾乃という娘がおり、綾香や鷹久に懐いている。
閑話休題。
テーブルに並ぶのは二人分の朝食。白い皿にはベーコンに目玉焼きの乗っかったベーコンエッグにみずみずしいちぎりレタスとプチトマトがふたつ。
それを挟むように、白いご飯のよそられた茶碗と、ワカメ入れただけのシンプルな味噌汁のお椀が置かれ、柔らかい湯気たてている。
そして、別の食器には納豆が盛られていた。
それらを前にふたりは向かい合わせに席に着いた。
「それじゃあいただこうか」
「そだな☆」
そろって手を合わせ、『いただきます』と軽く礼をして食事に入る。
そして、綾香がまず手に取ったのは納豆だった。
ネギ、かつおぶし、からし、醤油を次々に投入し、上機嫌でかき混ぜる。
鷹久は目玉焼きに軽く醤油を垂らしてから白身を切り分けて食べ始めた。その隙に綾香は納豆を混ぜ終わり、箸にへばりついたかつおぶしとネギをしゃぶるようにして取り去ってから、納豆を豪快にご飯にぶちこんだ。
そこからさらに混ぜ始める。
それはもう楽しそうに鼻唄でも歌いそうな勢いで混ぜる。
そしてそれが終わったら、ご飯を一気に掻き込んで、口元から箸へと糸を引かせたまま、頬を一杯に膨らませてうまそうに咀嚼し始めた。
なんとも豪快ではあるが、満面の笑みを浮かべながら食べる様はなんとも幸せそうで、鷹久も笑みを浮かべる。
笑顔で食卓を囲めると言うのは、幸せなものなのだ。
と、綾香がハッとなった。
「! ほーふぁ、はふぁ。ふぉうは……」
納豆ライスで口いっぱいにしながら話はじめる彼女に、鷹久は眉を寄せた。
「口の中一杯にしたままじゃあ、なに言ってるか分からないよ? 綾香。飲み込んでから話しなよ」
言われて綾香は左手の茶碗をそのままに、箸を持ったままの右手でおわんを持って、みそしるをすすり始めた。品が無いにも程があるが、鷹久的には慣れてしまい苦笑いを浮かべるだけだ。
「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁっ。そんでさぁタカ、今日なんだけど」
「うん? なんか予定あった?」
綾香の言葉に、鷹久は軽く思案する。たがいの予定はかなり把握しているはずだったが、思い当たるものが浮かんでこないようだった。
綾香はそんな彼の様子に笑みを浮かべた。
「ちがうって。……あのさタカ」
「うん?」
綾香の改まった態度におや? となる。が、綾香はそのまま続けた。
「今日、デートしようぜ☆」
「…………え?」
いたずらっぽく笑いながら言われた言葉に、鷹久は一瞬硬直した。