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 あと二ヶ月もすれば中学三年になる。

 中学三年になったからといって何かが変わるわけでもないが、強いて挙げれば勉強する時間や、両親が言葉を覚えたインコのように勉強しろ勉強しろと呟くくらいかな。

 粉雪がかすかな風に煽られて頬を通り過ぎていく中、来たる勉強漬けの日々を思うと空に白いため息を溶かした。

 雪は冷たい、けど少しだけ心地いい。

「溜め息、多い」

 隣で肩を並べて歩く俺より頭一つ低い少女はか細い声で呟いた。

 彼女の名前は渡会祈莉という。

 身体も小さい、声も小さい、胸も小さい、兎に角小さい。

 もっと胸大きくなーれ。

 襟に掛かる程度の艶やかな髪を時折親指と人差し指でいじりながら、俺に弱々しい視線を送ってくる。

 ああ、弱々しいのだ。

 俺が祈莉に視線を合わせると祈莉は俺の視線に負けてさっと目を逸らすくらいに。

「気のせいだ」

「気のせい?」

 祈莉は首を右に傾げる。

「気のせいじゃないかも」

 過去に俺が溜め息を何度ついたか、若しくは溜め息をついたところを目撃した記憶を巡っていたようで今度は左に首が傾げられた。

 緩やかな動作はそこらにリモコンでもあったら早送りを押したいところだ、彼女の速度が早送りされるならばの話ではあるがね。

「高校、志望校とかもう決めてる?」

 唐突な話の切り替え。

 祈莉は会話の流れとか気にせずに自分が質問したいと思ったらすぐに口に出すタイプだ。

「南奥高が第一志望、無難そうだしな」

 特に頭が悪くも良くもないが、真ん中っていう線を反復横飛びするくらいな学力なので、それほど学力を求めてはいない南奥高は今の学力を維持していれば必ず合格は出来る……と思う。

「ぐ、偶然、私も同じ」

「お前が?」

「そう」

「もっといい学校にいけるだろ」

「と、遠い」

 単純な理由だな、担任がそれを聞いたら怒られると思うぞ。

 祈莉は頭がいいんだから名門校なり何なり偏差値の高い高校を志望校にすればいいのによ、宝の持ち腐れってやつじゃないかな。

「一緒に合格できたら、いいね」

「お前は余裕だろうけどな」

 俺は怠けていいほどの余裕は持ち合わせていない。

「なら、勉強見てあげる」

「それは助かる」

 頭を撫でてやろう。

 ついでに積もりかけてる雪も払ってやる。

 今日一日は雪が降らずに晴れのち曇りって予報だったのに、学校から帰る時間帯になったら雪が降ってくるから困ったもんだ。

 傘はあまり持ち歩きたくない、俺と祈莉はお互いそういう性格だからここに傘は無い。

「早く春休みが来て欲しいもんだ。遊びに行きたい」

 大雪も、退屈もうんざりだ。

 春休みになれば、それなりに伸び伸び出来て退屈は払拭できるかもしれない。

「退屈しなそうだから?」

「……俺、退屈そうな顔してた?」

「すごく、とても、めっちゃ、ぱないくらい、ほんまに」

 祈莉の言い方は置いといて、退屈してたのは完全に悟られていた。

 悟られまいとはしていても無意識に溜め息をついてしまうのもあり、さらにはこうして帰り道が同じ方向でよく一緒に帰る祈莉ならば俺と一緒にいる時間が多いために気づかれるのは思えば致し方ないのもある。

 何よりこいつとは長い付き合いだ、お互い知り尽くしていると言っても過言ではない。

「明日は退屈じゃないかも」

 信号待ちの交差点、いつもこの交差点で俺達は別れる。

 祈莉は右へ、俺は信号が青になったら渡るが信号待ちの間はこうして隣にいてくれるのが少し、少しだけ……嬉しい。

「そうであればいいけど」

 どうせ今日と同じ明日がくる、何か変わるとしても微々たるものに違いない。

 現実とは退屈なのだから。

「信号、青」

「ん? おお、またな」

「また明日」

 淡々とまた今日が終わる、切ないくらいに。

 退屈な明日が来る、悲しいくらいに。





 暖かい空気が室内を覆っていた。

 今の季節では珍しい、いつもなら二月という真冬まっしぐらな朝は肌を縛るような寒さが漂っているはずなのに。

 カーテンは閉めたままにしていた、朝から真っ白な風景を目に飛び込ませるのは毒である。

 時刻は朝の七時二十分、アラームは七時二十五分に鳴るよう設定していたのでアラームを解除しておく。

 アラームが鳴るよりも早く起きる日は俺にとって調子の良い日だ、欠伸が出るものの気だるさは無くベッドから降りて制服に着替えた。

「おはよう」

「おはよ~」

「はよー」

 素っ気無い言葉の交わし合い、母さんと妹――瑞希とはいつもこんな挨拶から始まる。

 そのうち父さんもやってくるが父さんはいつも朝から明るいのでそこから活気が沸いてくる感じだ。

 今日の朝食は鮭に玉子焼き、味噌汁、白ご飯、日本人らしさの塊である献立だ。

「父さんは?」

 食事する頃になっても父さんが一向にやってこない。

「何言ってんの、宗次なら先週から単身赴任でしょ」

「え? 先週から?」

「寝惚けてないではよ飯食って学校行って来いや」

 先週からって言われても、昨日の朝と晩は一緒にこの食卓でご飯食べてたはずなんだが、俺の聞き間違いかな?

 父さんがいないのならばそれはそれでまあいい、言われたとおり早く飯を食って学校へ行くとするがしかし何だろう、朝からしっくりこないな。

 妙な気分。

 いつも通りである退屈な今日が始まるとなれば靴を履きながら溜め息一つ。

 外の冷気に侵食されて冷えた玄関の空気に包まれると憂鬱がさらに加速するのだが、今日はそれもない。

 目が覚めたときからずっと暖かい空気があたりを包んでいたし今日は天気がいいんだろうな。

 それでも待ち受ける退屈が脳裏を過ぎると行ってきますの挨拶に力なく、重く感じられるドアノブを引いて外に出た。

 出た、のだけど。

 足は止まった。

「は?」

 ついでに声も出していた。

 暖かいとかそういう問題ではなく、真っ白い世界が広がるはずの目の前に真っ白い要素がかけらもなかった。

 立てかけてあるスコップを取って雪を排除しながら一メートルほど進んで家の前を綺麗にするのが俺の朝の役割だ。

 なのに雪がまったくない、微塵も!

 俺の住むところは雪がかなり積もる、勘弁してくれと叫びたくなるくらいに積もった。昨日だって当然積もっていた、それなのに目の前には雪がまったく無いのだ。

 ちょっとした晴天で積もっていた雪が溶けるはずもない、それどころか近くの木は桃色の花を咲かせて冬らしさなど払拭してしまっている。

 ……まるで春になったかのようだ。

 むしろ春だこれ。

「母さん、春だ!」

 思わず家の中に引き返して母さんに報告。

「春に決まってるでしょ! 今は四月なのよ!」

「……四月?」

「兄さんはとうとう馬鹿になってしまった」

 瑞希よ、そんな悲しい目で見ないで。

「今日から高校生でしょ、しっかりしなさい!」

「高校生……って?」

 母さんの言っている事が今一理解できない。

「南奥高に合格して先週入学式も終ったの! 今日は登校日! ほら、買ってやった携帯で日付でも確認しなさいな阿呆が!」

 阿呆って言われた。

 強引に母さんは俺の背中を押して玄関から放り出される。

 買ってやった携帯電話とやらも理解が出来ない、俺は父から譲り受けた携帯電話を使っていたのだけど、携帯電話を新しく買ってもらった記憶は無い。

 今日は携帯電話を持ってきたかなとポケットを探ってみると固いものに指があたって俺はそれを取り出した。

 俺の記憶では年内発売と発表されたばかりだった型のスリムフォン、未発売のはずなのに何故ポケットに?

 電源が入ってないので入れてみる。

 待ち受け画面は初期に設定されたままだった。

 それほど操作は難しくも無くアドレス帳なり見ていくと、誰かが新しく登録されていたとかは無く、機種が変わっただけで中身はそのままのようだ。

 日付のほうはというと、

「四月……十五日……?」

 それも二ヶ月後ではなく、一年と二ヵ月後の日付だ。

 もしかしたらまだ俺は夢の中にいるのかな?

 頬を抓ってみるも痛みはちゃんと伝わった。

 自分でも目が覚めているのは自覚しているのでやらなくてもよかったのだが一転した光景を前に思わずやるしかなかった。

 昨日は確実に四月十四日ではない、二月三日だ。俺の頭がおかしくなっていれば四月十四日なのだろうけれど。

 二月の空も、降る雪が頬に当たる冷たい感触も、肌を刺すような冷気もはっきりと憶えている。

 もしかしてあまりに退屈退屈と思っていたから退屈だった期間の記憶をすっかり忘却してしまったのかもしれない。

 ……んなあほな。

「おはよ」

 思考が頭の外に出ていたところに少女の声が鼓膜に届いて我に返った。

 声は目の前からで、視線を下げると彼女――祈莉がいた。

「お、おはよう」

 髪が昨日見た時よりも少し伸びている。

 ……昨日? いや、一年二ヶ月前と言ったほうが正しいかこの場合。

 彼女の着ている制服は見覚えがある、登校中に南奥高へ向かう女子高生が着ていた制服と同じものだ。

 男子の学生服は同じだったかな、このままの服で大丈夫か……祈莉は特に気にしていないのだからおそらく大丈夫なのだろう。

「折角だから、一緒にと思って」

 祈莉の家は遠くも無く近くも無い距離ではあるが通学路からは大幅に逸れてしまう。

 いつもなら登校時間がほぼ同じのため交差点で合流するので迎えに来る必要も無いのだが、折角だからとは、今日が高校生としての登校日であるからに違いない。

 俺は中学生気分なのだけれど。

 ついでに思考がまったくついていけてない。

「あのさ祈莉」

「何?」

「……俺、タイムスリップしちまった!」

 自分で言ってて恥ずかしくなる。

 自分の置かれた現状を、どう説明していいのか、解りやすく説明しようとして出た単語がこれだ。

「おめでとう」

「おめでとうじゃなくて……ッ!」

「え、えーっと、あ、あの、そうッ、病院に行こ?」

 確かにそれもいい。

 病院に行って頭の中を調べてもらうのも一つの手だ。

「……いや、いい。ごめん、冗談だよ」

 しかし今は、周りを戸惑わせるのはよしておく。

 戸惑うなら自分一人で十分だ。

 ……放課後、こっそり病院に行くか?

「そ、そうだといい」

「一つ聞きたいんだけど、昨日の俺はどうしてた?」

 本来ならば普通に中学校で授業をしていて祈莉と帰り道では志望校の話をしていた、ごく普通の退屈な一日だったはず。

「休日は何をして過ごそうかと貴方に連絡をして相談しようとしたら、あ、貴方は本屋で立ち読みをしているらしく『今面白いところなんだからまたあとでな』と言ってたので、ご、午前中は本屋で立ち読みをしてたと思われる」

 ありがとう、とても具体的な説明で嬉しいよ。

 俺の休日は暇だからといって本屋へ行って本を買わず立ち読みで済ませて満足していい休日だったとか呟く過ごし方をしてはいないが、昨日の俺の休日はなんとも寂しい奴だって言いたくなる。

 本当にいつもじゃないからな、たまにだからな!

「す、既に八回も見たDVDの視聴が九回目になって、視聴を終えて昼食――ちなみにオムライスを食べつつ午後は何しようかともう一度連絡したら、な、何故か貴方はお勧めの映画を教えろと言ってきてお勧めを教えたら『それはつまらなそう』と理不尽に言われて電話が切れた。きっとレンタルショップにいたと思う」

 全然記憶が無い、俺らしい休日を昨日の俺は過ごしていたようだけど。

 やっぱり俺の頭がおかしくなっちまったのかな。

 思えばタイムスリップとかそんな非現実的な事なんか起こるはずもない、こういう場合は……記憶喪失?

 タイムスリップしてしまったのならば一年二ヶ月後の俺がいるはずだ、この手の話には疎いがそれくらいは解る。

 意識だけが飛ばされたとかいうパターンもあるらしいが。

 もしそうなら、これまた厄介な話になる。

 今は非現実的な思考は避けよう。

 現実的に考えるならば、俺の頭がおかしくなった。

 はい、それだ。

「あのさ祈莉……」

「何?」

 祈莉の首がゆるやかに傾いていく。

「俺、記憶喪失かも」

 沈黙。

 祈莉と視線は交わしているものの、言葉は交わされず。

 早朝だけあって小鳥の囀りがこれほど鮮明に聞こえて、これほど痛々しい空気の中で聞いたのは初めてだ。

「やっぱり病院に……」

「……ごめん、寝惚けてただけ、大丈夫」

「本当に?」

「大丈夫大丈夫」

 全然大丈夫じゃないけど。

 病院に行くとしても一人で行きたい、周りにちょっと頭がおかしくなったので精神科に行ってくるなんて言えない。

 今は……先ず気持ちを落ち着かせよう。

 現状の把握、それだ。

「そ、それなら」

「……ん?」

「学校いこ?」

「あ、ああ、そうだな……」

 震え声を整えろ、落ち着け……。

 動揺するな、平然を維持しろ……。

 たとえここで。

 たとえここで、だ。

 祈莉! どうなってるんだこれ! とか、わけがわからん! 全然記憶が無い! なんて喚いたところで現実に何らかの変化があるとも思えない。

「ほら、遅れるよ? と、登校日に遅刻はいけないと思う。わざと遅刻してやさぐれをアピールするというのも一つの手、だけど」

 この際だ。

 今は流れに身を任せるとしよう。

「そんなアピールはする気もないからさっさと行くぞ!」

 お互い肩を並べて歩くものの、少しだけ俺は祈莉よりも歩調を遅くした。

 南奥高の場所はあまりよく知らない、えーっと、あー、あそこらへんにあるなっていう大雑把で曖昧な記憶を頼りに進むのは些か心もとない。

「今日から授業、始まる。しばらくは復習で退屈だけど」

 一年と二ヶ月間の授業の記憶はまったく無いが習った事の復習ならば授業について遅れる等という問題は無さそうだ。

「授業ってのは基本退屈だから内容がどうであれ変わらないだろ」

「それもそう」

 それから数分後、歩いているといつもの交差点にたどり着いた。

 昨日の朝は、向かいの歩道に祈莉が待っていて俺は横断歩道を渡って合流して学校へ。

 それが中学校へ行くいつもの朝だ。

「どうしたの?」

「あ、いや……」

 祈莉は立ち止まっていた。

 それは横断歩道を渡る必要が無いから当然の事。

 言い訳を探そうと少しあたりを一瞥するとガードレールの下に花瓶が置かれていて思わず目に留まった、見覚えが無いものだ。

 花瓶には花が挿されており、まだ枯れてもいないのでごく最近置かれたもの……? と感じたけど花瓶自体は結構な年季が漂っている。

「あれ、は?」

「一年くらい、前……かな。この交差点で事故……あって、人が亡くなった、とか」

 一年前か、それなら俺は解らないな。

 なんせ一年と二ヶ月の記憶が吹っ飛んでるんだからね、その間の変化にただ只管驚くしかない。

 俺の頭はどうなっちまったんだ。

「ほら、いこ?」

 祈莉は交差点を右へ、他にも登校中の学生と同じ方向へ流れてはいくものの、もう一つの流れには乗っていかない。

 男子の学生服は一般的なものでそれほど見分けはつかないが女子のは違う、これで二つの流れははっきりと見分けがつく。

 今は懐かしいと感じていいのかは解らないが俺にとっては昨日だったもう一つの流れには名残惜しいものがある。

 中学三年になったらこういう過ごし方をしようとか色々とそれなりに考えていたんだからな。

 それが今はぽっかりと穴を開けられたかのように無くなっていきなり高校生活ってやつだ。

 とはいえ俺の気持ちを感じ取れる人などいなそうで、俺が一年と二ヶ月の間の記憶がまったくないと訴えたところで病院に行けって話になる。

 もしかしたらまだ頭が働かなくて一年と二ヶ月の記憶が無いと思い込んでるだけでそのうち記憶が戻るかもしれない、希望は捨てずにいよう。

 おっと、考え込むと遅れちまう。

 はぐれたら大変だ、ちゃんと祈莉についていかなくてはね。

 慌てて俺は彼女と肩を並べて何食わぬ顔でこれから通うのであろう高校へと向かう。

 祈莉は学校へ近づくにつれて表情に少し変化が起きていた。

 それは口元が緩んで嬉しそうにしていてその横顔を見ているとこちらも思わず笑みを作りたくなる、だってこいつ、すごく幸せそうだったから。

 どこからか緩やかな風に乗って桜の花びらが頬に当たるとそれを抓んで俺に見せては、

「桜の花びら」

 これまた嬉しそうな表情。

「桜の花びらだな」

 表情の変化がそれほど見られないからこうも微笑を維持しているのも珍しい。

「あっ」

 ぱっちりとした二重瞼につぶらな瞳、じっと見たら引き込まれてしまいそうな魅了を秘めたその部位に祈莉は手を近づけた。

「どうした? 大丈夫か?」

 指と指の間から水滴――涙が一滴零れていた。

「嬉しくて、涙」

「なんだ、そういう涙か」

「な、なんだとはなんだ、感動の涙」

 どうもすみませんでした。

 俺には感動できるほど精神状態は安定しておらず、安定していたとしても今のように引きつった表情で乾いた笑い声を出しているだろう。

 歩数を重ねるとついた先にはそれほど大きくも豪華でもない校門、無機質さを無駄に無意味に強調するかのようなコンクリートまみれの校舎が視界に入ってくる。

 俺はこれから三年間ここに通うらしい。

 校門の両隣には桜の木が一本ずつ、花びらの主はこいつのようだ。

 校門をくぐり、名前すら解らない教師に挨拶。

 祈莉は体育会系っぽい教師に声が小さいと指摘されて何度か挨拶の練習をさせられていた。

 五分後には開放されたものの、まだ朝なのに祈莉の顔には早くも疲れが見られた。

「こ、声を出すというのは簡単そうで、実に難しい」

「もう少し声量を上げないとな、ちゃんと聞き取ってもらえなくなるかもしれないぞ」

「あ、貴方が聞き取ってくれればそれでいい」

「俺以外はいいんかい」

「ほ、他の人には……あ、貴方が代わりに喋って頂ければ」

「俺はお前専用拡声器じゃないからな、やるとしても時給が発生するがよろしいか?」

「時給はおいくらで?」

「一時間一万円」

「誠に申し訳ない、自分で頑張ってみる」

 それがいい。

 引っ込み思案の性格も治せば尚良しだ。

 玄関へと行ってずらりと並ぶ下駄箱の前に来たのはいいが自分の名前を探すのも一苦労。

 靴が入ってるかも不安だったが、中を開けると新品と一目でわかるほどの白さを保っている口が入っていて一安心。

 買った覚えは当然無いが、俺の下駄箱に入っていたのならば俺の所有物でいいはず。

「教室はどこだっけ」

 さりげなく祈莉に聞いてみよう、記憶が無いから教えてとは言えないしね。

 それに廊下は人、人、人。

 生徒達がいざ教室へと人の波を作っているからはぐれる可能性もある。

「三階の廊下一番手前」

 祈莉は背が低いから人が多い場所だとどこにいるのかたまによく解らなくなる、場所さえ聞いておけばはぐれてしまっても大丈夫だ。

 教室に無事たどり着いたが今度は自分の席が解らない、どうしたものか。

 困ったときの黒板、と俺は黒板を見てみるとそれぞれの名前に番号が与えられており席には番号の書かれた紙が置かれていた。

 自分の番号は十八番、番号を探して机一つ一つ見ていくと祈莉が窓側まで駆けて一つの机を指差していた。

「これ、十八番」

「ここか、ありがとよ」

 窓側一番後ろの席はきっと誰もが羨ましがる言わば特等席、嬉しいね。

「私、隣。もう席、忘れたの?」

「あ、いや、憶えてるよ」

 嘘ついた。

 この席は一度座った事があるらしい。

 席の配置は名前順で決められているようだ、ならばお互い席が近いのは必然。

 隣だとは流石に思わなかったけど。

 教室内には生徒はもうほとんどが来ていてそれぞれがまだお互いを知らない故に会話を求めたくても求められないような雰囲気を纏って椅子に座ってそわそわしていた。

 一人一人の背中にそわそわと書いてやりたいくらいに皆落ち着きがない。

 俺はというと頭が現状についていけてないおかげで本来皆が抱く気持ちは皆無、これからどうすればいいんだと頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。

 一先ず中学が一緒だった生徒は祈莉以外、他にいないかとあたりを一瞥するも皆知らない面子ばかり。

「やあ」

 すると俺の前に座る男子生徒が振り返って声を掛けてくる。

「えっと……」

 同じ言葉を返して何を言おうかと言葉を探した。

 もしも入学式とかで話をしていたら名前すら解らないのだからきっと俺は話についていけない。

「この前に自己紹介の時間は設けられたから知ってるだろうけど改めて、楽田真久朗です。よろしく」

「あ、どうも」

 握手を求められたので素直に応じる。

 自己紹介の時間、ねえ。

 当然、解らん。

「君もどうぞよろしく」

 祈莉へ彼は手を差し伸べるも、祈莉は頭をぺこぺこと小さく何度も下げて握手には応じず。

「気を悪くしないでくれよ、内気な奴なんだよこいつ」

「よかった、安心した、第一印象で僕を嫌いと抱いて握手なんかに応じるかこの野郎とか思われてたらどうしようかと思ったよ」

「だ、大丈夫っ」

 祈莉はそんな事ないよ、って言いたげな表情で何度か頷いてそう言う。

「お隣さんにもご挨拶しようっと」

 彼の視線をなぞるようにその席を見ると、背筋を伸ばした姿勢のいい体勢で黒板をじっと何も言わずに見る女子生徒。

 何も言わないもんだから全然意識してなかった。

 話してる間に物音をほとんど立てずに椅子を引いてすっと着席してたな。

「どうぞよろしく」

 この楽田とやら、よくまあ初見さんに握手を躊躇無く求められるもんだな。

「ええ、よろしく。話すのは初めてね、瑠璃垣律よ」

 彼女も握手には応じず、軽く頭を下げる程度。

 些か残念そうに眉を動かすも楽田はにこやかな笑顔を作って手を引っ込めた。

 彼女は会話に入りたい雰囲気も無く、また黒板へ視線を戻した。

 黒板は特に面白みなど要素は無い、じっと見ていて退屈にならないのかな。

 それにしても長い黒髪、祈莉は羨ましそうにその髪を見ていた。

 一年と二ヶ月を経てそれなりに髪は伸びたがまだロングとは言えない長さ、腰近くまで髪を伸ばしたいのかもしれないが俺としては祈莉は今くらいの長さでも似合っているから今のままでいいがね。

 俺好みの髪の長さは襟元あたりまで、祈莉の髪の長さは中々のストライク。

 交流に関しては消極的なのか、周りとは一切会話せず、会話を求められても淡々と返事をしてまた無言の繰り返しで徐々に孤立。

 大人びた雰囲気は淑やか、容姿は艶やかで周囲の男子生徒はちらちらと彼女を見ていて結構な注目を浴びていた。

 にしても、瑠璃垣……どこかで聞いた事があるような。

 ホームルームでは今日から授業が始まるので~と担任の堅苦しい説明の後、授業が始まった。

 午前中の授業は中学の時に一度は習ったというより、俺の感覚ではつい最近習ったようなもので普通についてこれた。

「習ったはずなんだけど、中々思い出せないね。君はどう?」

 教師の目を授業中に楽田は時々声を掛けてくる、中々に親しみやすいので良き友になれそうだ。

「ぼちぼちかな」

「君は?」

 今度は祈莉へ言葉を投げる。

「ぼ、ぼちぼちでんな」

 祈莉、その語尾何?

「ぼちぼちって言う人に限って余裕を持ってる気がするんだよね、ああ、こうして見ると二人には余裕のオーラが出てる気がする。ああ、蔑まれてるかもしれない」

「蔑んではいないよ」

「わ、私も、蔑まない」

「それなら嬉しいなあ、ありがとう、安心して君達に背中を預けて授業を受けられるよ」

 彼は何と戦っているのやら、背中は任せてもらっても構わないけど何らかの脅威など微塵も無いので特に何もしないぞ俺は。

 こうして授業中に度々雑談できると退屈もそれなりに和らぐ。

 黒板へと視線を向けるその途中、右斜め前の席に座る――えっと、瑠璃垣律と目が合った。

 雑談が耳に障ったのなら申し訳ないな、一言謝罪をしようかなと俺は口を開こうとするものの彼女はすぐに目を逸らしてしまう。

 何か不思議な雰囲気を纏う奴、第一印象はこれ。

 昼食は母さんが中学の頃と同様に弁当を作ってくれたので教室で頂くとした。

 この学校は食堂も広く料理も美味しいとクラスメイトの話し声から聴取したものの、母さんの作る弁当も中々に美味いので行く機会はそれほど無さそうだ。

 食堂へ行く生徒は多く、何人かが購買でおにぎりやらパンやらを購入して戻ってきたものの教室はやや閑散。

 楽田に食堂へと誘われたが食堂で弁当を食べるのは、それはそれで寂しい。気が進まないのでパス。

 会話をしてクラスメイトとの交流を深める大事な時期ではあるので行きたい気持ちもあったけど。

 隣の祈莉は黙々ともぐもぐと食事中。

 俺も少し黙々ともぐもぐする。

 午前中はずっと考えていた。

 もしかしたら寝惚けてるのかも。

 そのうち記憶が戻るかも、とか。

 自分の頭が正常ならば一時的なものだと希望を抱いていたが、どうやら正常ではないらしい。

 どこかに頭のネジが落ちていないかな。

 それをプラスドライバーでもマイナスドライバーでもどっちでもいいけどネジをきちんと回してつけてくれれば記憶が戻る可能性が……。

 なんちゃって。

 いや、真面目に考えよう。

 放課後の予定は病院だがこの場合はどの科に伺えばいいのかわからん。

「なあ祈莉、記憶喪失になった人って病院に行くとしたら何科?」

「……の、脳神経内科?」

「なんだそれ、初めて聞くな」

「聞いた事、ないか? 内科なだけに」

 なんか自信ありげでどこかしらドヤ顔。

「ダジャレのつもりなのだとしたら何故お前はこうもドヤ顔で言うのか理解できない」

「も、申し訳ない……」

 まあいい、脳神経内科とやらを探してみるとするか。

 それか似たような名前の病院を片っ端から訪ねればどれかは俺の求める病院なはず、数うちゃ当たるってね。

「君は、記憶喪失になった人物でも知っているのかい。友人とか、幼馴染とか、家族とか、どうであれ、だ」

 唐突に瑠璃垣律が横目で俺を見て口を開いた。

 ちなみに彼女の昼食はコンビニで買ったと思われるおにぎり三つとサンドイッチ二つ、弁当が一つにイチゴジュースが二本、買いすぎではないかな。

「んー……そういうわけじゃないんだ」

 俺自身、とははっきりと言い難い。

「そういうわけじゃない? それなら君自身が記憶喪失とでも?」

「た、ただ気になっただけさ、単なる思い付き」

 実は記憶喪失ですとか言えないし言ったところで結果は知れてる。

「単なる、ね」

 微笑を浮かべつつ彼女は食事を続けた、これ以上会話を続ける意思は無さそうなので俺も食事に移った。

 祈莉は俺の横顔を心配そうに、しかも間近で見つめるが、

「気が散る」

「はっ、すみませぬ……」

 俺の横顔を眺めるよりも昼食を食べろと。

 今日の授業は一通り終わり、何事も無く終えられて一安心だった。

 午後は体育もあったのでクラスメイトとの交流もそれなりにできた、楽田とも携帯のアドレス交換をやって親睦を深められて収穫は上々。

「これから皆でどこか行かないかい?」

「嬉しいお誘いだけど、ちょっと今日は用事があるんだ」

 用事というのは自分の頭の中を見てもらうわけでして。

「そっかあ、残念」

 教室を出る頃には隣にお約束と言わんばかりに祈莉が肩を並べていた。

 高校になってもお互い一緒の帰宅は変わらなそうだ。

 悪くないから良しとする。

 一人での帰宅は退屈だからよしとする。

 周りから「付き合ってるのかな?」とか「祈莉さん可愛いから彼がすぐに手をつけたのかも」なんて小声が届くものの気にしないとする。

 外は心地良い穏やかな風が吹いていた。

 いつもとは違う帰路、少し歩けば交差点に差し掛かるので違うとはいっても少しだけだ。

「授業、どうだった?」

「退屈だった」

 色々とあったが、面倒なので簡単な言葉で終える。

 頭の中は授業についてあれだこれだとか考えて言えるほど今でも上手く働いていない。

「お前は?」

「私は、それなりに、楽しかった、かも? かも……かもッ!」

「少しは周りと話できたか?」

「ぼ、ぼちぼちでんな」

「ぼちぼちの割りには会話してたところを見てなかったけど」

 祈莉は午後の体育では一人ぽつんと孤立して、ちょいとバスケットをしつつ、あいつどうするんだろうと横目で観察していると呆れたように瑠璃垣さんが話しかけて二人でバレーをしてたっけな。

 二人には仲良くなってもらって友達へと昇格して欲しいがどうなるやら。

「瑠璃垣さんとは仲良くなれそうか?」

「中々手ごたえはあった」

 手ごたえ、ねぇ……。

 体育が終わってからは特に会話をしてなかったように見えたけど。

「これから攻略していくとする」

「恋愛ゲームじゃないんだから普通に接しろよ、あとちゃんと自分から話しかけれるようにしような」

「は、話しかけてもらうという手段も……」

「他力本願すぎるぞ」

「も、申し訳ない……」

 高校生になっても引っ込み思案は変わらずなのがな、変わっていたらそれはそれで戸惑うが。

 祈莉が満面の笑みで初見さんによろしくとか言って握手を求める姿など想像も出来ない、想像したところで違和感しかないけどな。

 思わず溜め息。

「あっ」

「ん、何?」

「今日初めての溜め息」

 そういえば今日は少なくとも祈莉の前では溜め息は一度もついていなかったな。

「退屈と言いつつも、意外と楽しかった?」

「お前はどう見えた?」

「……いつもより退屈じゃなさそうだった」

 それは俺の心情が溜め息をつかせる要素である退屈を生み出すよりも、不安を大量に生み出していたからだ。

 しかしそれを抜かしても、

「まあ……振り返ってみるとそれほど退屈ではなかったかも」

 クラスの雰囲気も新しい環境も悪くはなかった、楽田がいると授業中も楽しくやっていけそうな気がする、気がするってだけで先はどうなるか解らないけど。

 どうであれ一年と二ヶ月間の記憶さえ無くなってなければそれなりにとか言わず陽気な気分でいたかな。

「よかった、明日は今日よりもっと楽しくなるかも。もっと退屈しなくなるかも、かも? かも!」

 明日は退屈じゃないかも、昨日であって昨日ではないがそう言っていた祈莉が思い浮かんだ。

「それならいいがな」

「私が退屈させないかも」

 その意気や良しと言いたいところだが、今日一日緊張してぎこちない動きに加えて口数が少ないお前に期待はあまり出来ない。

「ならもっと喋って」

「努力する、かも」

 かもって付け加えたら駄目かも。

「明日からはきっと頑張る」

 今日から頑張れ。

「それじゃまた、ね」

 小さく手を振っていつもどおりのお別れ。

「ああ、またな」

 いつもなら信号待ちするところではあるが、今日はちょっと違う。

 街の方向へと歩き出して、病院を探すのだからね。

 休み時間の間にちょくちょくと調べたから大体の場所は解る、調べてると悲しくなってきたのは言うまでも無い。

「どこへ行くのかな、とても気になるんだけど」

 足をその方向へ進めてまだ数歩というところ。

 背中からは聞き覚えのある声が届いた。

 振り返ってみる、聞き覚えのある声ではあるが口調が少し記憶と違うために人違いかな? なんて思ったから迅速に。

「……瑠璃垣さん?」

「律でいいよ、馴れ馴れしく読んでくれて構わない」

「律さん、どうも……」

「別にさんとかもつけなくていい。改めて、どうぞよろしく」

 握手を求められたので思わず握手。

 すべすべとしたぬくもりある掌、いい手触りだ。

 しかし意外。

 何が意外かというと、楽田からの握手は応じなかったのに俺にはすすんで握手を求めてきたからだ。

 交流についてはそれほど積極的ではないと思っていたのだけど、そうでもないようだ。

 昼休みは少しだけ会話をしたり、体育では祈莉の相手をしてくれてたしな。

「昼休みに病院とか言ってたけど、もしかして病院へ行くつもりなのかな?」

 握手したままの手をそのまま勢い良く上下に振りながら彼女は言う。

 思わず握手を解いて距離を取った。

「い、いや……その……」

 唐突な質問に、どう答えようかと口篭ってしまった。

 素直に病院へ自分の頭を見てもらいに行くなんて言えるはずも無い。

「た、ただ街に買い物しに行くだけだよ」

「何を買いに?」

「えっと」

 まずいな、自分で自分を追い詰めてる。

「これ以上悪戯に問い詰めるのはやめておくか。困惑する人間の顔を観察するのってね、結構面白い」

 遊ばれてるようで、溜め息ついて俺は彼女を避けて足を進めた。

 用があるのか知らないけど、彼女に構っている暇も無い。

 足を進めて数歩ほど。

 追ってくるその小さな足音、ついてこられると困るし気になる。

「……何か用なのか?」

 一先ず足を止めて振り返って問いかけた、用があるのならばさっき言って欲しかったな。

「質問、したいだけ」

 彼女はこめかみのあたりを人差し指で掻いて、言葉を探すかのように視線は揺れながら地面へ。

 さらりと前髪が顔をかすかに隠し、その髪と髪の間から彼女の瞳が窺える。

「君さ……どこから、どうやって来たの?」

 瞳は唐突に、俺の双眸を捕らえて彼女は微笑を浮かべる。






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