後編(解答編)
「お待たせ」
家から出てきた美月を見て、僕は驚いた。
浴衣に雪駄。後ろにうちわ。
完全に、お祭り用の格好だ。
「びっくりした?」いたずらっぽく笑う美月。
……可愛いと思ったこととかは、墓場の下まで持っていった方がよさそうだ。
「……そんな、わざわざ浴衣まで用意してきて」
「お祭りなんでしょ?」
「祭りって言っても、屋台も何も出る訳じゃないぞ。屋台なんかあったら、せっかくの蛍が見えなくなるし。蛍が飛ぶのを、じっと見るだけ」
「いいの。こういうのは雰囲気が大事なんだから」
なぜか力を込めて断言する美月。
「ところで、どこなの?」
「ちょっと遠いよ。暮洞っていうところなんだけど、10㎞ぐらい北になる」
まだ日のあるうちに、暮洞の駐車場に着く。
「ちょっと早かったんじゃない?まだ、蛍は飛ばないでしょ?」
「蛍はまだね。……でも、知りたいのは、『十月の蛍』なんだろ?だったらもう少し歩いて。そこでわかるはずだから」
やがて暮洞川を越え、鬱蒼とした桜の並木を抜けると。
黄金の風景が、広がっていた。
風に揺れる、金色の穂波。どこまでもどこまでも続く黄金の野原。
あの時に見た風景。
息をのむ美月に知らせる。
「たぶんこれだよ。あのときの草原は」
「……どうして?」しばらく呆然としていた美月が、小さく尋ねる。
「六月に稲は稔らないんじゃ……」
「稲はね。でも……」
目の前の金色の野を見やって、僕は言う。
「別に水田で金色で風に揺れてるからって、必ず稲というわけじゃないんだよね」
「じゃ、この金色は?」
「麦だよ。小麦」
「小麦?」
不思議そうに、美月が穂波に目を落とす。
稲よりはだいぶまっすぐに、それでも少し頭を垂れる金の穂波に。
「日本で小麦なんかとれるの?」
「とれる。特に最近、あちこちで増えてるんだよ、麦畑。減反政策とのからみらしいけど。でも、昔から作ってるのはここぐらいらしい。一時期本当に廃れたし」
僕の説明が耳に入っているのかどうか、じっと麦畑を眺め続ける美月。
「麦が稔るのは、ちょうど六月、今頃なんだ。六月のことを『麦秋』ともいうしね」
「でも、これだけじゃ『十月』ってことにはならないよね?」
「……忘れちゃった?」
少し笑いがこみ上げてくる。
「おまえが言ったんだぞ。『こんなに雨が降るのに、水がない月なんておかしいよ。神様が居ないのが六月で、水がないのが十月だよ、絶対』って」
蛍を見に行く少し前。
ぼくのうちで、確かカレンダーを見ながら話してたんだ。
「今月は、昔の言葉で『水無月』って言うんだって」
「みなづき…なんて書くの?」
「『水のない月』だってさ」
「えー?そんなの変だよ。こんなに毎日降ってるのに?」そういって、美月が窓の外を指さす。
窓の外では、相変わらずの雨。
「……そうかな?」
そう言われると、自信がなくなってくる。
「水じゃなくて、ほかの何かがないんじゃない?」
「何かってなんだよ」
口をとがらせるぼくに、美月はちょっとだけ考えて、
「……確か、神様がいないんじゃなかったっけ?」
「……神様?」
「そうだよ。なんか、どこかに集まって会議をするから、神様は一人もいなくなるんだって。それじゃない?」
「……そういわれれば」
なんとなく、そんな気もしてきた。
「そうだよ、絶対。水がない六月なんて、変だし。きっと六月には、神様がいないんだよ」
自信たっぷりの美月に、つい頷いてしまう。
「そっか、六月には神様がいないんだ……」
「……だから、十月……」
「とりあえず、『十月の蛍』は、こんなとこだよ。わかってみれば、大したことない。
……これだけじゃ、ないけどね」
その言葉に、美月が顔を上げる。
僕はできるだけ優しくいった。
「もう少し、待ってよう。蛍が来るまで、ね」
薄暗くなってきた。ぽつぽつと増えてくる人の間で、僕らは草むらに腰を下ろして、ただ待ち続けていた。
「……いつから?」ぽつりと、美月が言う。
「美月が帰ってからすぐ。あの電話のすぐ前に」
「そっか」
「そっちは?」
「昔過ぎて、よくわかんない。蛍狩りよりは前だけどね」
「……待った?」
「ずいぶん」
「……ごめんな」
「……いいよ、ちゃんと気づいてくれたんだから」
それっきり、沈黙が流れる。
やがて、とっぷりと日も暮れた頃。
それは、静かに始まった。
川岸の茂みの蔭から。
青白い光が、ひとつ、またひとつ。
やがて、蛍が一匹、また一匹と川面を滑り、人々が歓声を上げる。
草むらからふらふらと飛びだした蛍が、ぼくらの前をすっと横切った。
「やっぱり来たね、蛍」
その言葉で思い出す、あの記憶のその続き。
「やっぱり来たね、蛍」
十年前の暮洞。僕と美月は、今よりもずっと小さな手を握りあって。
飛び違う蛍を、飽きもせず見ていた。
「蛍はさ」ぽつりと、小さな僕が言う。
「十年間、ずうっと土の中で眠ってるんだってさ。だから、今日生まれた蛍は、十年後にまたこうやって飛ぶんだよ」
「じゃあ、その蛍さん達が飛ぶときに、またこようよ!」
「でも、十年もあとなんだよね。そのときまで、覚えてられるかなあ」
「神様にお願いすれば?」笑いながら美月が言う。
「だめだよ。今月は神様はお休みなんでしょ?さっきいったじゃない、美月」
「そんなことしなくても、忘れないようにすればいいんだよ」
「?」
不思議そうな僕の顔に、美月は軽くキスをして。
「これで絶対忘れないよね!」
「……でも、よく気が付いたね」美月がつぶやく。
「そりゃ、おかしいと思ったから。いくら美月でも、『十月の蛍』なんて話のためにわざわざ高倉から飛んでくるなんて。戻ってからも、あんな電話一本で、すぐにまたこっちにくるしさ。
それに、だいたい『十月の蛍』なら十月にこっちに来るんじゃないか?」
「あ、やっと気づいた」くすくす笑う美月。
「『やっと気づいた』じゃなくてさ。美月もなんか忘れてただろ」
ぼくの言葉に、美月がひるむ。
「……何を忘れてたと思う?」
「たぶん、場所。それから、十月か六月かも、確信はなかったと思う。
場所がわかってたら、最初からそこにつれていって『覚えてる?』ってやればいいだけだし」
「……ばれたか」
舌を出して、美月がほほえむ。
「でも、なにもここまでまわりくどいことしなくてもよかったのに」
蛍を眺めながら、ぼくがつぶやく。
「思い出して欲しかったから」
美月の答えは、簡単なもので。
「だから、わざわざ高倉からこっち来て、あれだけ一生懸命調べて。今日だって、そのために思い切りおしゃれしてきたのに、ぜんぜん気が付かないんだから」
「……ごめん」
「……でも、それだけじゃないんだけどね……」
「蛍は、なんのために光ると思う?」
唐突な、美月の問い。
「……交尾のためだよな」
といったら、いきなりはたかれた。
「もうちょっとストレートじゃなく言いなさいよ!」
「……じゃ、なんて言えばいいんだよ……」
頭をさすりながらの僕の反論に、美月はほほえんで、
「蛍が光るのは、相手に気づいて欲しいから」
二匹の蛍が、戯れながら飛んでいく。
「だから、あれだけ大騒ぎをしたんだよ。健ちゃんに、気づいてもらうために」
美月が、僕の顔をしっかりと見て、言った。
「あのときから。十年間、ずうっと待ってたんだよ?」
美月が僕の目をまっすぐに見る。何か、答えを期待するように。
その視線からちょっと目をそらして、少しはずしたことを言ってみる。
「美月のことは嫌いじゃないよ。もし嫌いだったら、毎回おまえにつきあって遊びに行ったりしないって」
「答えになってない」
不満そうな美月。
やっぱり、だめか。
しかたがない。恥ずかしいから、あんまり言いたくなかったけれど。
「わかったよ、じゃあ言い直す。
……美月が来たとき、ほかの予定もやるべきことも全部放り出して、おまえにつきあったのは、なんのためだと思う?今度のことでもそうだよ。あんなことのためにわざわざ車だして、話聞いて回ってさ。
……美月以外の誰のために、あんなことすると思う?」
それを聞いて、美月が嬉しそうな顔をする。
けれど、
「それじゃ、やっぱり足りないよ。十年も待たせたんだから、ちゃんと言葉で言って」
そういって、もっと顔を近づける。
……観念するしかないみたいだ。
「……好きだよ、僕も」
その言葉を聞いて、美月はとびきりの笑顔になって。
「それじゃ、またあの時からはじめよ?」
そういって、美月がゆっくりと近づいてきて。
そしてぼくらは、あの時生まれた蛍の前で、
十年前と同じことを、
した。
お気づきかとは思いますが、この二人、蝉と勘違いしてます<10年間土の中
蝉も10年ではないんですが、まあ、あえて指摘するのも野暮ということで(笑




