前編(問題編)
「このへんだと、蛍は秋に飛ぶの?」
久しぶりにこっちに来た美月は、開口一番そうのたもうた。
「…何ばかなこと言ってんだ?」
美月が突拍子もないことを言うのはいつものこと。
なんにでも興味を持って何でもすぐ投げ出すやつだから、いいかげんにあしらっておけば三日で忘れる。
「蛍は夏に飛ぶもんだろう。それも六月、ちょうどいまごろ。どんなどんくさい蛍でも、十月までは寝てないだろ」
適当に返す僕に、不満顔の美月。
「でも、わたしたしか十月に蛍を見に行ったような気がするの。健ちゃんと一緒にね」
「ぼくと?」
言われて、僕も思い出す。
あれは確か、美月がはじめてこっちに来た年だから…十年前。
お互いの家族と一緒に、蛍狩りにいったんだった。
早く着きすぎて、親御さん達は大人同士の話に夢中で。
だから僕と美月は、そこから抜け出してその辺を歩いていたんだ。
綺麗に並んだ、一面の水田。
どこまでも見渡す限りの、金色に波打つ穂波の中を。
「蛍、来るかな?」
今よりもずっと小さな美月が、心配そうに話し出す。
「来るよ、きっと」
「でも、もし来なかったらやだなあ…」
「そんなに心配なら、ちゃんと蛍が見られますように、って神様にお願いしたら?」
ぼくの言葉に、激しく首を振る美月。
「だめだよ!今月は神様は旅行に行ってて、みんなお休みなんだよ?」
「あ、そっか。じゃ、どうしよう?」
二人で一緒に考え込んで。
「ずっと待ってるしかないよ。日が沈むまで、もうちょっと待つしか」
しばらくしてから、僕が言う。
「うぅー、まだかなぁ…」
「思い出した?」
黙ったままの僕の顔をのぞき込んで、美月が聞いてくる。
「うん。確かに行ったね。僕と美月がはじめて会った年に。場所は忘れちゃったけれど」
僕の言葉に、美月は嬉しそうに頷く。
「でも、たぶん記憶違いのような気がするんだけど」
「そんなことないよ。だったらどうして、私と健ちゃんの記憶が一緒になるの?」
自信たっぷりに言い放つ美月。
「…でも、十月に蛍は、たぶん飛ばないよ」
「わかんないじゃない、そんなの。ひょっとして、本当に飛ぶのかもしれないし」
あまり乗り気でない僕に、じれた美月が突然立ち上がった。
「だったら、行ってみればわかるわよ。どこでもいいから、このあたりで蛍で有名なとこ。そこで聞いてみれば、何かわかるんじゃない?」
「…めんどくさいな」
「いいから、行くわよ!」
そう言うなり、美月に腕をつかまれる。
「だったら自分一人で行けよ!」
「私運転できないもん。だいたい、高校出てすぐ免許取っちゃうの、早すぎるよ」
「ここらは車がなきゃ生活できないから、しょうがない。美月も今度の夏休みに取るんだろ?」
「取らないよ、必要ないもん」
「あのな…」
絶句する僕を引っ張って、さっさと美月が歩き出す。
……まあ、いつも通りの展開だ。いまさら驚くほどでもないし。
一つだけため息を付いて、僕は美月の後を追った。
「このあたりで蛍で一番有名なところというと、この梁井沢になるんだけれど」
車で三十分ほどの、田んぼの中の小さな川。車から降りて、あたりを見渡す。
「もっと山の中じゃなかったっけ?」
「蛍は山にはいないよ。人里の、きれいで木と水量の多い川。そういうところに普通はいるんだ」
道路脇のところどころに、白いのぼりが立っている。
「梁井沢蛍祭り 6月10日~30日」と書かれたその下で、祭りの準備をしているらしい人を見つけた。
さっそく、呼び止めて聞いてみる。
「蛍祭りって、いつもこの日程でしたか?」
「そうさな、年によって五日間ぐらいずれることはあるが、まあこんなもんかなあ」
「十月頃に、この祭りってやってないですよね?」
すると男は、なにか妙なものを見るような顔で、
「十月に蛍が飛ぶわけないだろう?」と答えた。
「ほかなら七月や八月に飛ぶところもあるらしいがね。けれど、ここは普通と大体同じ。六月頃にしか飛ばないね」
あたりを見回す。広がるものは、植えたばかりの青々した苗。黄金の野原は、どこにも見えない。
「六月に稲穂が稔ることも…」
僕の問いに、男はまた首を振る。
「二期作でもやってりゃ、話は別だがね。今日びそんなことやってるところはどこにもないよ。だいたい、このあたりで二期作はできないんだ」
それから何人かに話を聞いたけど、あの疑問が解けるような話はとうとう聞こえてこなかった。
「結局、わかんなかったね」
帰りの車の中で、ぽつりと僕がつぶやく。
「まあ、ちょっとした好奇心で調べてみただけだし。こういうこともあるかな、って」
明るいせりふとは裏腹に、どこか気落ちしたようすの美月。
「…見たかったな、十月の蛍」
「まあ、十月までまだ時間があるし。それまでに調べればいいんじゃないの?」
慰めたつもりの僕の声にも、美月は力無く首を振るばかりだった。
美月が帰ってから、僕は自分の部屋でベッドに寝転がりながら、さっきのことを考えていた。
あの美月があそこまでこだわったことが、どうしても気になったから。
確かに、記憶はあるんだ。
問題は、その風景がどこにも見つからないこと。
辞書で調べてみたけれど、十月に蛍はやっぱり飛ばない。
けれど、六月に稲も稔らない。
だったら、ぼくたちが見て、お互いにずっと覚えてたあの風景は…
いったい、なんだったんだろう。
ひとつ寝返りを打って、さっきまで美月のいた居間の方を見る。
それにしても、どうして美月はこんなにこだわるんだろう?
確かに美月のいる高倉はここから一時間もあれば着くところだけど、最近は滅多に来なくなってしまった。少なくとも、たったあれだけの用事で来るはずはない。
普通なら。
何か、あるんだ。
僕が思い出そうとして思い出せない、大切な何かが。
もう一つ寝返りを打ち、向かいの壁に掛かった六月のカレンダーをじっと見る。
……なにか、ひっかかった。
古い古い、古い記憶の、かすかなかけら。
たぐり寄せる。
それから僕は受話器をとって、向こうの美月に話しかけた。
「来週おいで。見せてあげるよ、十月の蛍」