とあるバーのクリスマス
煌くネオンに背を向けて、通い慣れた店のドアを潜った。
――カランコロン
レトロなカウベルの音がしたのと同時に、「いらっしゃい」と聞きなれた声が耳へと届く。
「おや?こんな日にウチに来てくれるのかい?」
「マスターの顔が見たくなっちゃって♪マスター、ビトゥイーン・ザ・シーツ頂戴」
「はい、少々お待ちを」
私は適当なカウンターに腰を下ろすと、隣の席にコートとバッグを置く。
私がこの店の常連と呼ばれるようになってそろそろ1年か…。
彼氏に振られてフラフラとこの界隈を歩いていた私を、気軽に誘ってくれたマスターとこの店が気に入ってそれ以降予定さえなければ飲みに来ている。
「はいよ、この店で一杯目からその酒を頼む女性客は彩さんだけだよ」
そういって苦笑いしながらマスターは自分のグラスを持ち上げる。
「今日の良き日に――」
「乾杯」
カチンとマスターと私のグラスがぶつかる澄んだ音。
仄かな赤みのあるイエローの液体を一口煽ると、決して程よいとは言えない高いアルコール度数であるにも係らず、すんなりと飲める軽やかな飲み心地。
このお酒が気に入っている理由の一つである。
「今日は誰かと過ごしたりはしないの?」
「過ごすよー、マスターと♪」
この店に来てからというもの、全く男っ気に欠ける――というよりは避けていると言った方が正しいかもしれない。
自覚がないわけじゃない、恋に臆病になっていることに。
「あと20歳若ければ彩ちゃん狙うんだけどねー」
「あははwマスターったら♪」
毎回ここに飲みに来ては、マスターと他愛もない世間話をしてから帰る。
それがもう日課で、クリスマス・イヴだからとどこかに出かける理由もないし、過ごしたい相手もいない。
だからこそ日課に通りに今日もこの店へとやってきたのだ。
マスターとの言葉の掛け合いを楽しんでいると、いつも気付かないうちにグラスが空になる。
火照り始めた身体だけが、度数が高かったことを知らせてくれる。
「次は何にしますか?」
「うーん、お任せで♪」
「かしこまりました」
いつも通り、二杯目はマスターのお任せ。
マスターは暫く顎に手を置いてから、慣れた手つきでシェーカーにお酒を注いでいく。
その様子を眺める時間が結構好きだったりする。
マスターはこうしてお任せをした場合、ここで一度でも飲んだ事のあるカクテルは作らない。
多分それが彼のポリシーなんだろう。
一人一人のお客のことをよく覚えている。
それがマスターがここで長い間お店を維持していられる理由なんだろうなぁ…っと考えていると、スッと私の前に一つのグラスが差し出される。
「…可愛ぃ…カクテル」
淡く白い液体に入ったミントチェリー。
その色がお酒に反射してほのかなグリーンを作りだす。
「このカクテルの名前は『雪国』」
「雪国?」
「そう。【北国の雪の下で春を待つ木の芽】だよ」
「へぇ…春を待つ木の芽…かぁ」
その意味は少なからず自分と似ていて、マスターが私を心配していることに気付く。
彼は多くは語らない。
だからこそ、居心地がよいのかもしれない。
彼が掬うのは言葉ではなく心だから。
その優しい心は自分の心まで温めてくれる。
「ありがとマスター、頂くわ」
一口含むと、口当たりも私の好み。
――カロンコロン
前触れもなく鳴り響いたカウベルの音に扉に目を向けると、その人と目が合う。
「佐久間?」
「原?」
同時に出した声も二人のもの。
この都会の街で早々ないような偶然。
「うっわ、久しぶりだなぁ!佐久間!元気だったか?――あっ、ギムレットお願いします」
「お前こそ…帰ってきてたんだ…」
ソイツ、原哲司は間柄を問われるならば元同僚というのが相応しいだろう。
1年前に辞めた会社で、入社した時から付き合いのある数少ない一人だ。
私が会社を辞めてから全く付き合いがなかった相手でもある。
マスターに出されたギムレットを片手に持ち上げ、「久しぶりの再会に――乾杯」と、そんなことを笑って言いながらグラスを軽くぶつけ合う。
「しっかしクリスマス・イヴに一人で飲んでるなんて寂しい奴っ!って、俺も人の事は言えないかw」
「あはhwそっちも一人身かよww」
軽口を叩きつつ見せる笑顔は、あの頃と変わってない。
私達は同期の中でも結構仲がよかった。
他の同期と違い暫く同じ部署にいたせいもあったからかもしれないが、自分の仕事が終われば相手の仕事を手伝う。
そんな協力関係が成り立っていた為、二人で飲みに行くことも少なくはなかった。
まぁ新入社員の常識的にその時は大抵一般大衆の居酒屋に転がり込んだものだけど。
「あれから4年かぁ、年取るわけだよなぁ~」
「ま、気楽にこういうお店に入れるようになったもんねー」
「ホントだなw」
久しぶりに気の合う人間に会った私は私らしくないぐらいに饒舌に色々な話をした。
昔二人で飲みに行って先輩の愚痴言いまくってたら、実は隣の個室に話題の先輩が飲みに来てたり…とか、二人でした仕事のその後の軌道の話を聞いたり、今の仕事の話を話してみたり。
そしてついでのように原からこんな言葉が出た。
「そいや、九条と別れたんだってなぁー」
九条とは原と同じ私の元同僚で…1年前に振られた元彼の名前。
そして、私があの会社に居辛くなった元凶を作った人。
大丈夫。
あの時ほど、私の心は乱れないから。
「――そ、振られたのw」
「ま、そんな事もあるよなぁ…。なぁ佐久間、急に退社して理由って――それが関係してるのか?」
「――うん。居辛くなっちゃってね」
さっきまでのテンポが嘘のようにお店の中がシンとする。
その空気も…今は嫌じゃない。
一年で傷はこうして風化していくんだと思い知ったみたいだ。
「そっか…。ゴメンな、力になれなくて」
「そんなしょーがないよ、原は出張中だったし。それに原何も悪くないじゃん?」
原に謝られる理由がよく分からなかった。
原は確かに私達の事を知っていたけど…、ただそれだけ。
それにあの時原は確か、海外出張に行ってたはずだし。
「原因ってアイツの浮気だろ?」
「――そうだけど…、なんで知って…?」
「――知ってたんだよ…。アイツが浮気してんの」
「…ぇ…?」
「アイツはちゃんと清算するから、お前には黙っててくれって言ったんだ…。俺が…出張に出る前日だよ」
原が出張に出る前日…と言うことは…。
「…半年以上…二股だったって…事なの…?」
「――あぁ…」
それは、――信じたくない事実だった。
でも、認めてしまえばあの時不思議だった大抵の事の説明が付く。
毎回理由をつけて家に来ることを拒否されていたこと。
休日でも仕事だと会えない日が多かったこと。
全部…相手が二人いたからだったんだ。
そしてその時から…優先されたのはあの人の方だったんだ。
「…佐久間?」
「…」
心配そうに私を窺う原には悪いけど、私の心は穏やかだった。
もう荒れない。
もういつのまにか、あの傷は痛くなくなっていたんだ。
「平気よ、1年も前に終わった事だもの」
そう、終わってるんだ。
もう…気にすることもないぐらいに…。
「マスター、セックス・オンザ・ビーチ――貰える?」
「はい」
氷のぶつかる音がなんだか心地いい。
ふと外を見るとヒラヒラと舞う白い妖精…。
出されたグラスを傾けると懐かしい味がする。
自然と零れる笑み。
「ふふ、明日はきっとホワイト・クリスマスね」
「えっと…佐久間?」
コリンズ・グラスを傾けながらそう呟いた私に、原は戸惑っているようだ。
「原は飲んだことある?このお酒」
「え?いや、俺あんまカクテル詳しくないし」
「あ、もしかしてドキッとした?w名前に♪」
「…悪いかょ」
なんだか普段軽口を叩き合う原とこんな風に話しているのは珍しいかもしれない。
若干拗ねたように顔を逸らす原がなんだか無性に可愛く見える。
「このオレンジ色が好きなの。二十歳の誕生日の日に、祝い酒だ!っていって父に連れて行かれたバーで、色だけで頼んだお酒――私が最初に飲んだお酒なの」
出されたカクテルの名前聞いて真っ赤になったのを覚えてる。
「飲みかけだけど飲んでみる?」
「…じゃ一口貰う」
持っていたグラスを渡すと原が飲み始めるのを待って。
「振られたの?崎野先輩に」
「――ぶっ!!佐久間っ…!?」
イ・タ・ズ・ラ♪
大成功――って言っても、噴出すことはないと思うのだけど…。
…マスターごめんなさい。。。
「そっか」
ストンと落ちてきたこの感情をどうするべきかと暫し考え、ぶっちゃけることを決意。
「知ってた?私原の事好きだったの」
「――っ!…☆△□○!!」
「…あ、ゴメン」
全く原のこと見ないで言ったのだけど…そのタイミングはまたもや原が飲んでる最中だったらしい。
多分、声も出ないぐらい苦しんでる…っぽぃ。
「お、お前っ!殺す気か!?」
「滅相もないっす」
戻ってきたお酒を飲もうとして…。
「マスター、キールお願い」
…さすがに噴出したものは飲みたくないよね。
「んで?知ってた?」
「知るかよ!」
「ま、どーでもいいか」
「いいのか!?」
前から思ってたけど…原って運動部ノリだよなぁ…。
「原って優しいんだねー」
「お前…さっきから話が飛躍し過ぎだから」
「ま、いいから、いいから」
半年ぐらい前に偶然崎野先輩に会った時に、聞いていたんだ。
あの時確かに『振られたんだ』って先輩は言ってた。
でも、『振った』事になってるんだって。
あの時先輩は一杯一杯だったんだと思う。
だから、会社が変わっていた私に話したんだろう。
先輩結構プライド高かったしなぁ、多分あれが原の優しさだったんだと思う。
「さて、原~明日の予定はー?」
「お前…イヴに予定のない俺がクリスマスにあると思うか?」
「あはwやっぱり?wんじゃ明日も飲もうよ~、皆のこと聞きたいし」
「ここで?」
「そー私のお気に入りのお店だから♪――って事でマスター席宜しく♪」
「はい、用意しておきます」
「俺も帰るかな、明日も仕事だしな」
「そーそーw」
お会計を済ませて二人で外に出ると、ヒラヒラと舞い降りる雪が世界を包んでいく途中。
「明日はホワイト・クリスマスっぽぃなぁ」
「だね」
サクサクと薄っすらと溜まった雪を踏みしめながら歩き出す。
同じ方向へと。
通り道々にはカップルしかいなかったけど…なんだかそんなに寂しくない。
一人じゃないからかな。
来年のクリスマスは…隣に誰がいるだろう?