止まったままの、時計
登場人物紹介
◾️上木ゆうこ(うえき・ゆうこ)
34歳。主人公。
十六年前、十八歳のときに最愛の恋人・仲野タイチを交通事故で失った女性。
タイチの死を受け入れられないまま、心の一部を過去に置き去りにして生きてきた。誰かを再び愛することを恐れ、食べることや日常の小さな喜びにも、いつしか無関心になっている。
そんな彼女の前に、タイチとの秘密を知る少女・ユリが現れる。
奇跡のような再会に揺れながらも、ゆうこは問い直すことになる。
愛する人を想うとは、どういうことなのか。
そして、誰かを大切にすることと、その人の未来を自分の願いで決めてしまうことは、同じなのだろうか。
◾️仲野タイチ(なかの・タイチ)
享年18歳。ゆうこの初恋にして、最愛の恋人。
十六年前、交通事故によって命を落とした青年。
明るく、どこか無邪気で、ゆうこと一緒に過ごす時間を大切にしていた。
二人で海辺を訪れた夜、空に輝く赤い星を見つけ、「タイチ星」と名づけた。そして、いつか生まれ変わっても、同じ星空の下でゆうこを見つけると約束する。
その言葉は、長い年月を経ても、ゆうこの心に消えずに残っていた。
彼の死後、魂は三年間さまよったとされる。そして、その魂がたどり着いた先には、思いもよらない未来が待っていた。
◾️羽田ユリ(はねだ・ユリ)
13歳。中学一年生。
雨の夜、ゆうこの前に突然現れた少女。
一見すると、どこにでもいる十三歳の女の子。しかし、彼女はゆうことタイチだけが知っていたはずの記憶を語る。
自分は仲野タイチの生まれ変わりなのだと告げるユリ。その言葉が真実なら、十六年前に交わされた約束は果たされたことになる。
けれど、ユリは今を生きる一人の少女でもある。
過去の記憶を持ちながら、これからの未来を歩んでいく彼女は、ゆうこにとって何者なのか。
そして、ユリ自身は、これからどんな人生を生きていくのだろうか。
【物語のテーマ】
「愛することは、相手を自分のもとに留めることではない。」
失った人を忘れられない気持ち。
もう一度会いたいという願い。
奇跡のような再会を前にしても、相手には相手の人生がある。
過去を大切にすることと、未来を生きること。
その二つは、本当に両立できないのだろうか。
星空を見上げる一人の女性と、一人の少女を通して描く、喪失と再生、そして明日への小さな希望の物語。
空いっぱいの、満天の星
第一章 止まったままの、時計
上木ゆうこは、三十四歳になった。
十八歳の夏から、十六年が過ぎていた。
それでも、部屋の机の隅に置かれた腕時計だけは、あの日のままだった。
黒い革のベルト。少し傷のついた銀色の文字盤。秒針は、午後八時十七分で止まっている。
交通事故に遭った仲野タイチが、最後まで身につけていたものだった。
警察から返された遺品の中に、それはあった。
時計を修理することはできたはずだ。
電池を替え、壊れた部分を直し、再び動かすこともできたはずだった。
けれど、ゆうこは何もしなかった。
止まった時計を動かしてしまったら、タイチの時間まで、本当に終わってしまうような気がしたからだ。
もちろん、そんなことに科学的な根拠などない。
それでも、人間は時に、根拠のないことに人生を預けてしまう。
ゆうこにとって、それがこの時計だった。
彼女は仕事に行き、必要な会話をし、帰宅すれば簡単な食事を作った。
同僚に誘われれば、時折、食事にも出かけた。
誰かと笑うこともあった。
けれど、誰かが親しげに近づいてくると、いつの間にか一歩、後ろへ下がっていた。
恋人をつくるつもりはない。
誰かを好きにならない。
誰かの未来を、自分の未来に結びつけない。
そう決めていた。
タイチを忘れられないから、というだけではなかった。
もう二度と、あのような喪失に耐えられるとは思えなかったのだ。
人を愛すれば、いつか失うかもしれない。
ならば、最初から愛さなければいい。
そう考えれば、少なくとも、自分の心を守れるはずだった。
だが、その代わりに、ゆうこは少しずつ、喜びまで遠ざけていった。
おいしいものを食べても、ただ空腹が満たされるだけ。
美しい景色を見ても、どこか遠い場所の出来事のようだった。
夜空を見上げることも、いつしかやめていた。
星を見れば、思い出してしまうからだ。
十八歳の夏。
タイチと二人で歩いた、海岸の夜を。
その夜、窓の外では激しい雨が降っていた。
風にあおられた雨粒が、ガラスを細かく叩いている。
ゆうこは一人、テーブルの前に座り、冷めかけた烏龍茶を飲んでいた。
何の味もしなかった。
そのとき、呼び鈴が鳴った。
こんな時間に、誰だろう。
ゆうこは玄関へ向かった。
扉を開けると、そこに一人の少女が立っていた。
中学生くらいだろうか。制服姿で、髪も肩も雨に濡れている。傘を持っている様子もなかった。
「どうしたの? こんな雨の中で」
少女は答えなかった。
ただ、ゆうこの顔をじっと見つめていた。
その目を見た瞬間、ゆうこは、なぜか胸の奥をつかまれたような気がした。
知らない少女だ。
会ったことなどない。
それなのに、その瞳の奥に、ずっと昔に失った何かがあるように思えた。
少女の唇が、わずかに震えた。
「ゆうこ」
名前を呼ばれた。
その声は、少女の声だった。
けれど、その響きの奥に、ゆうこが十六年間、一度も忘れたことのない声が重なった。
「……ごめん」
少女は泣きそうな顔で言った。
「三年間も、君を一人にして迷っていて、本当にごめん」
ゆうこの手から、玄関の鍵が滑り落ちた。
床に触れた金属音が、雨音の中で小さく響いた。
その言葉を知っている人間は、この世にいないはずだった。
いや。
この世に、もういないはずだった。
「あなた……誰なの?」
ようやく、それだけを口にした。
少女はうつむいた。
「羽田ユリ。十三歳。中学一年生」
そして、少しだけ顔を上げた。
「でも、今から話すことを、君は信じないと思う」
ゆうこは、扉を閉めることができなかった。
「俺は……」
少女の声が、雨の向こうから聞こえた。
「仲野タイチだったんだ」
第二章 海岸の記憶
ゆうこは、少女を部屋に入れた。
信じたからではない。
このまま雨の中へ追い返すことができなかったからだ。
タオルを渡し、温かい飲み物を用意した。少女は礼を言い、両手でカップを包んだ。
その仕草まで、どこか懐かしく見えた。
ゆうこは自分の向かいに座った。
「誰に頼まれたの?」
「誰にも」
「私のこと、どこで知ったの?」
「知っていたから」
「ふざけないで」
声が強くなった。
「あなたが何を知っているのか知らないけれど、人の気持ちをもてあそぶのはやめて」
少女は黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「夏の海岸」
ゆうこの指が止まった。
「十八歳の夏。俺たちが最後に一緒に行った海岸」
「……やめて」
「砂浜を歩いて、コンビニで買った烏龍茶を飲んだ。君は、冷たいのを一気に飲んで、苦い顔をした」
「やめて!」
ゆうこは立ち上がった。
少女はびくりと肩を震わせたが、それでも言葉を続けた。
「俺が笑ったら、君は怒ったんだ。自分で買ったくせに、なんで笑うのって」
ゆうこは、息を止めた。
そんなことは、どこにも記録されていない。
写真にも残っていない。
誰かに話したこともなかった。
あの夏の夜は、ゆうこの心の中にだけあった。
「それから……」
少女はカップを見つめた。
「星を見た」
ゆうこの目に、涙がにじんだ。
「空いっぱいの、満天の星だった」
少女の声が、少しずつ変わった。
「君が、あの赤く光っていた星を指さしたんだ。あれは何の星、って」
ゆうこは何も言えなかった。
確かに、タイチはそう言った。
ゆうこが笑い、タイチも笑った。
それから二人は、星の名前を調べようとしたのに、途中で別の話を始めてしまった。
結局、何の星だったのか、確かめないまま帰ったのだ。
「……火星だったのかな」
ゆうこは、かすれた声で尋ねた。
「たぶんね。でも、あのときの俺たちは知らなかった」
少女は、少し困ったように笑った。
「大切なことみたいに思えたのに、結局、わからないままだった」
ゆうこは泣いた。
十六年間、一度も人前では泣かなかった。
葬儀の日も、仕事に復帰した日も、タイチの誕生日も。
涙を流せば、もう二度と立ち上がれなくなるような気がしていたからだ。
それなのに今、見知らぬ十三歳の少女を前にして、涙が止まらなかった。
「……タイチ?」
少女は、すぐには答えなかった。
やがて、静かにうなずいた。
「そうだよ」
ゆうこは手を伸ばしかけた。
けれど、途中で止めた。
目の前にいるのは、十三歳の少女だった。
その事実が、胸に突き刺さった。
「あなたが、本当にタイチなのなら……」
ゆうこは言葉を選んだ。
「どうして、今なの?」
少女は目を伏せた。
「俺にも、全部はわからない」
「全部?」
「死んだあとのこと。どうして三年間も、次の生を受けられなかったのか。どうして、こんなふうに記憶を持っているのか」
少女は自分の手を見つめた。
「覚えていることはある。でも、全部を説明できるわけじゃない」
その答えは、不思議なくらい、タイチらしかった。
昔から、彼は何でも知っているふりをする人間ではなかった。
わからないことを、わからないと言う。
そのくせ、わからないままにしておけないこともあった。
「……十六年」
ゆうこはつぶやいた。
「あなたが死んでから、十六年が過ぎたの」
少女はうなずいた。
「俺が生まれてからは、十三年」
「三年、足りない」
「うん」
「あなたは、その三年間、どこにいたの?」
少女は長いあいだ黙っていた。
雨音だけが部屋に満ちていた。
「待っていたんだと思う」
ようやく、少女は答えた。
「君を置いていくことが、できなかった」
第三章 三年間の迷い
少女の話を、ゆうこはすべて信じたわけではなかった。
人間は、信じたいものを信じてしまう。
大切な人を失った人間なら、なおさらだ。
夢を見ることもある。
幻を見ることもある。
心が耐えられなくなって、記憶をつなぎ合わせることだってあるだろう。
だからゆうこは、自分に問い続けた。
これは本当なのか。
それとも、自分が作り出した物語なのか。
答えは出なかった。
けれど、少女が語る記憶の細部は、ゆうこ自身が忘れかけていたものばかりだった。
タイチが履いていたサンダルの片方が、砂に埋もれたこと。
波打ち際で、ゆうこが小さな貝殻を拾ったこと。
帰り道、二人ともお金が足りなくなり、駅まで歩いたこと。
そして、別れ際。
タイチが、いつになく真面目な顔をして言った言葉。
「ゆうこ。俺、いつか生まれ変わっても、この星空の下でお前を見つけるから」
ゆうこは、その言葉を一度も忘れたことがなかった。
忘れたくても、忘れられなかった。
当時のタイチは、死について深く考えていたわけではない。
いつか、という言葉に、特別な意味を込めていたとも限らない。
ただ、若い恋人同士が、未来を信じて口にした言葉だったのだろう。
それなのに、事故は突然起こった。
明日も会えると思っていた人が、明日にはいなくなった。
約束を守ることも、破ることも、もうできなくなった。
ゆうこだけが、約束の続きを生きることになった。
「……俺、死んだとき、すぐに君のところへ行けると思っていたんだ」
少女が言った。
「でも、行けなかった」
ゆうこは顔を上げた。
「どうして?」
「わからない。ただ、君のことが気になって、離れられなかった」
少女は、遠い場所を見つめるような目をした。
「君が泣いているのがわかるような気がした。君が、俺のいない世界で暮らしていくことも、わかっていた」
「……」
「でも、君のそばにいたいと思うことと、君の人生を俺が決めていいことは、違うんだよね」
ゆうこは、少女を見つめた。
「三年間、そんなことを考えていたの?」
「考えていた、というより……迷っていたんだと思う」
少女は少し笑った。
「君に会いたい。でも、会いに行くことが、君を過去に閉じ込めることになるかもしれない。俺がいなくなったあとも、君は君の人生を生きなきゃいけない。それなのに、俺のことを待ち続けてほしいなんて、言えなかった」
ゆうこは目を閉じた。
胸の奥に、十六年間、動かないまま残っていたものがあった。
タイチがいなくなった日から、自分はずっと、あの日の続きを生きているつもりだった。
けれど本当は、続きなどなかったのかもしれない。
あの夏は、あの夏で終わっていた。
タイチの人生は、十八歳で終わった。
ゆうこの人生は、そこで終わったわけではなかった。
ただ、彼女は自分で、その先へ進むことを禁じていたのだ。
「……私は」
ゆうこは言った。
「あなたがいなくなってから、誰も好きにならないと決めたの」
少女は黙って聞いていた。
「誰かを好きになったら、また失うかもしれない。だったら、もう誰も好きにならなければいいって」
自分の言葉を、ゆうこは初めて、他人に向けて口にした。
「それが、あなたを忘れないことだと思っていた」
少女は首を横に振った。
「俺は、君にそんなことを頼んでいないよ」
「わかってる」
ゆうこは答えた。
「今なら、わかる」
愛していたから、忘れられなかった。
忘れられなかったから、何も変えたくなかった。
何も変えなければ、タイチがいた世界を、いつまでも守れると思っていた。
でも、それは本当に、タイチのためだったのだろうか。
それとも、自分がもう一度傷つくことを恐れていただけなのだろうか。
その問いに、すぐ答えを出す必要はなかった。
ただ、初めて、その問いから目をそらさずにいられた。
第四章 十三歳のユリ
「ねえ」
しばらくして、ゆうこは少女に尋ねた。
「あなたは、今の自分のことを、どう思っているの?」
少女はきょとんとした。
「どういう意味?」
「羽田ユリとして生きていること」
少女は、カップを見つめた。
その表情は、先ほどまでとは違っていた。
何かを思い出そうとしているようでもあり、初めて考えることに戸惑っているようでもあった。
「俺は……」
そこで言葉が止まった。
少女は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。違うな」
「何が?」
「俺は、タイチだった。でも、今はユリなんだ」
ゆうこは黙っていた。
「ユリには、ユリの友達がいる。学校もある。好きな音楽も、嫌いな食べ物もある。俺が覚えていないことだって、いっぱいある」
少女は自分の手を見た。
「この手で、初めて自転車に乗った。初めて友達とけんかした。初めて一人で電車に乗った。そういうことは、ユリの人生なんだ」
「……うん」
「俺の記憶があるからって、全部が俺のものになるわけじゃない」
ゆうこは、静かに息を吐いた。
その言葉は、彼女がずっと恐れていたことを、はっきりと形にしていた。
もし本当に、目の前の少女がタイチの生まれ変わりなのだとしても。
もし、二人しか知らない記憶を、確かに持っているのだとしても。
彼女は十三歳の羽田ユリなのだ。
タイチの帰りを待っていた恋人と、タイチの記憶を持つ少女。
二人を同じものとして扱うことは、できない。
ゆうこは、少女の手を取ろうとした。
けれど、やめた。
代わりに、テーブルの上に置かれたタオルを整えた。
「……寒くない?」
少女は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「雨に濡れていたでしょう。お風呂を使う? それとも、家の人が心配しているかもしれないから、連絡したほうがいいかな」
少女は、しばらくゆうこを見つめていた。
やがて、ほっとしたように笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見て、ゆうこは気づいた。
タイチが笑ったときと、よく似ている。
けれど、まったく同じではない。
ユリの笑顔には、ユリだけの何かがあった。
その違いが、ゆうこには、なぜかうれしかった。
「……ゆうこ」
少女が言った。
「俺のことを、無理に信じなくてもいいんだよ」
ゆうこは顔を上げた。
「私に、信じてほしくないの?」
「そうじゃない」
少女は首を横に振った。
「信じても、信じなくても、君が生きていることは変わらないから」
その言葉を聞いて、ゆうこは泣きそうになった。
ずっと、誰かに答えを求めていた。
タイチはどこへ行ったのか。
どうして自分だけが残されたのか。
いつになれば、あの日のことを受け入れられるのか。
けれど、答えが見つからなくても、生きることはできるのかもしれない。
何もかも理解できなくても、明日は来る。
人を愛することと、その人のすべてを知ることは、同じではない。
人を大切にすることと、その人の代わりに未来を決めることも、同じではない。
ゆうこは、ようやくそれを、自分自身のこととして考え始めていた。
第五章 おいしいものを食べる
雨は、まだ降っていた。
少女は帰る前に、もう一つだけ話したいことがあると言った。
「ゆうこ」
「なに?」
「君、ちゃんとご飯を食べてる?」
あまりに唐突な質問だったので、ゆうこは思わず笑いそうになった。
「食べてるわよ」
「本当に?」
「本当」
「おいしい?」
ゆうこは答えられなかった。
少女は、困ったように笑った。
「やっぱり」
「……どういう意味?」
「君は昔から、悲しいことがあると、食べるのを忘れるんだ」
「そんなこと……」
「海岸へ行った日もそうだった。君、昼ご飯を食べていなかっただろう。俺がパンを買ってきたら、半分だけ食べた」
ゆうこは、記憶をたどった。
確かに、そうだった。
その日、二人は少し言い争いをしていた。
ゆうこは、タイチが卒業後に遠くの町へ行くかもしれないと聞いて、不機嫌になっていたのだ。
せっかくの海岸でも、彼女は未来のことばかり考えていた。
タイチはパンを二つ買い、一つをゆうこに渡した。
そして、何でもないことのように言ったのだった。
食べないと、腹が減るぞ、と。
「……覚えていたのね」
「忘れられなかったんだよ」
少女は、少し真面目な顔になった。
「でも、君が十六年間、何を食べてもおいしいと思えなかったことまで、俺が全部わかっているとは言えない。君が何を感じて、どうやって毎日を過ごしてきたのか、本当のところは、君にしかわからない」
ゆうこは、少女を見つめた。
「それでも、俺は君に、生きていてほしい」
少女の声は、静かだった。
「俺のためにじゃない」
少し間を置いて、続けた。
「君自身のために」
ゆうこは、何も言わなかった。
「生きてないと、おいしいもの、食べられないからね」
その言い方が、あまりに昔のタイチらしくて。
あまりに今のユリらしくて。
ゆうこは、とうとう笑った。
涙を流しながら、笑った。
「……なに、それ」
「大事なことだよ」
「もっと、ほかに言うことはないの?」
「あるかもしれないけど、今はこれが一番大事」
少女も笑った。
その笑顔を見て、ゆうこは初めて思った。
この子に会えてよかった。
その思いは、亡くなった恋人を取り戻した喜びとは、少し違っていた。
タイチが戻ってきたから、よかったのではない。
目の前の少女が、ここにいてくれたことが、うれしかったのだ。
タイチの記憶を持つ少女。
けれど、タイチそのものと決めつけてはいけない少女。
彼女は、彼女の人生を生きている。
ゆうこは、キッチンへ立った。
「ちょっと待ってて」
「どこへ行くの?」
「何か食べようと思って」
冷蔵庫を開ける。
残り物のご飯。卵。少しの野菜。
特別な料理はできなかった。
それでも、ゆうこは久しぶりに、誰かと食べるために食事を作ろうと思った。
卵を焼き、野菜を温め、冷蔵庫にあった小さなプリンも二つ取り出した。
テーブルに並べると、少女が目を丸くした。
「こんなに?」
「たいしたものじゃないわよ」
「でも、おいしそう」
ゆうこは、少し照れくさくなった。
「……冷めないうちに食べましょう」
二人は食べた。
少女は、何度もおいしいと言った。
ゆうこは、そのたびに、少しずつ笑った。
卵は、いつもと同じ味だった。
野菜も、特別なものではなかった。
それなのに、ゆうこは久しぶりに、食べ物の味を感じていた。
おいしい。
ただ、それだけのことが、こんなにも難しかったのだ。
第六章 星空の向こうへ
食事を終えるころ、雨が弱くなっていた。
少女は帰らなければならないと言った。
ゆうこは、玄関まで見送った。
「ユリちゃん」
初めて、その名前を呼んだ。
少女は振り返った。
「また、会える?」
口にしてから、ゆうこは少し後悔した。
会いたい。
もっと話したい。
聞きたいことは、まだたくさんある。
けれど、それを願うことが、少女の未来を縛ることになるかもしれない。
ゆうこは、言い直そうとした。
その前に、少女が微笑んだ。
「わからない」
正直な答えだった。
「また会えるかもしれないし、会えないかもしれない」
「……そう」
「でも、君が今日のことを忘れなくてもいいし、忘れてもいいんだよ」
ゆうこは、少女を見つめた。
「忘れても、いいの?」
「うん。俺との約束を守るために、君の人生を止めなくていい」
少女は、ゆっくりと続けた。
「君が幸せになったら、俺を忘れたことになるわけじゃない」
ゆうこの目から、また涙がこぼれた。
十八歳の夏から、十六年。
ずっと、誰かに許してほしかったのかもしれない。
もう泣かなくてもいい。
もう苦しまなくてもいい。
もう一度、誰かを好きになってもいい。
そして、タイチがいない世界を、タイチのいないまま生きていってもいい。
その許しを、ゆうこは誰かに求めていた。
けれど、本当は、自分で自分に与えなければならなかったのだ。
「……ありがとう」
ゆうこは言った。
少女は、少し驚いたように目を見開いた。
「何が?」
「来てくれて」
それだけで十分だった。
少女はうなずき、扉の向こうへ歩き出した。
ゆうこは、その背中を見送った。
呼び止めたくなった。
もう少しだけ、ここにいてほしい。
もう少しだけ、タイチの話をしてほしい。
けれど、ゆうこは呼び止めなかった。
少女には、帰る場所がある。
明日、学校へ行き、友達に会い、十三歳の一日を生きるのだ。
それを大切にすることも、今のゆうこにできる愛情だった。
扉を閉める。
部屋に戻ると、机の上に、止まった腕時計があった。
ゆうこは、しばらくそれを見つめていた。
そして、初めて、時計を手に取った。
修理に出すつもりはなかった。
無理に動かす必要もない。
止まった時計は、止まったままでいい。
タイチの時間が、十八歳で終わったという事実は変わらない。
ゆうこが生きた十六年も、消えることはない。
その二つの時間は、同じ速さで進む必要などなかったのだ。
時計を机に戻し、ゆうこは窓辺へ向かった。
雨が上がっていた。
雲の切れ間に、夜空が広がっていた。
ゆうこは窓を開けた。
冷たい空気が、部屋に流れ込んでくる。
遠くから、雨上がりの街の匂いがした。
空を見上げる。
そこには、星があった。
一つ、また一つ。
雲の切れ間から、いくつもの光が見え始めた。
やがて、夜空いっぱいに、星が広がっていった。
十八歳の夏。
タイチと二人で見上げた、あの海岸の星空。
あの日と同じ星が、今もそこにあるのかどうかはわからない。
あのとき赤く光っていた星が、本当に火星だったのかどうかも、今となっては確かめようがなかった。
けれど、そんなことは、もうどうでもよかった。
星の名前を知らなくても、星はそこにある。
すべてのことを理解できなくても、誰かを大切に思うことはできる。
そして、過去を忘れなくても、人は未来へ歩き出せる。
ゆうこは、しばらく空を見上げていた。
涙は、もう流れていなかった。
悲しくないわけではない。
タイチに会いたいという気持ちが、消えたわけでもない。
ただ、その悲しみの隣に、別の感情が生まれていた。
懐かしさ。
感謝。
そして、明日を迎えてみようという、小さな気持ち。
ゆうこは、テーブルに戻った。
飲みかけの烏龍茶を手に取る。
一口、飲んだ。
冷めていた。
それでも、今度は味がした。
ゆうこは、グラスを置き、もう一度、夜空を見上げた。
「……おいしいね、タイチ」
返事はなかった。
それでよかった。
ゆうこは、微笑んだ。
「ありがとう。私、もう少し生きてみるね」
星は、何も答えなかった。
ただ、そこにあった。
空いっぱいの、満天の星。
それは、亡くなった人が残した約束の場所であると同時に、これから生きていく人のための、広い空でもあった。
ゆうこは、窓を閉めなかった。
夜の空気を感じながら、明日の朝、何を食べようかと考えた。
久しぶりに、少しだけ楽しみだった。
十八歳の夏は、戻らない。
タイチも、戻らない。
それでも、ゆうこの人生は、まだ続いている。
そして、いつかまた、誰かと一緒に星を見上げる日が来るかもしれない。
そのとき、隣にいる人がタイチでなくても。
その人の名前を、ゆうこは自分の声で呼べるだろう。
その人の未来を、その人自身のものとして大切にできるだろう。
愛することは、過去を永遠に閉じ込めることではない。
愛することは、相手がいなくなったあとも、その人から受け取ったものを胸に、自分の人生を生きていくことなのだ。
ゆうこは、もう一度、空を見上げた。
星は、遠くにあった。
けれど、遠くにあるからこそ、見上げることができた。
彼女は、静かに息を吸い込んだ。
そして、明日へ向かって、ゆっくりと歩き始めた。
「空いっぱいの、満天の星」
その下で、誰かが生きている。
その下で、誰かが誰かを想っている。
そして、その下で、今日を生き延びた人が、明日のおいしいものを楽しみにしている。
それだけで、世界はまだ、終わっていない。
タニス・リーさんへのオマージュ
この物語を書くにあたって、私の心のどこかには、幻想文学作家タニス・リーさんの作品から受け取ったものがありました。
美しさのなかに潜む哀しみ。
現実と幻想の境界で揺れる心。
そして、愛することの喜びと残酷さ。
そうした幻想文学の魅力に触れながら、私なりの物語として描いてみたいと思ったのが、
この『空いっぱいの、満天の星 ― タイチ星の約束』です。
もちろん、物語の登場人物や筋書きは、私自身の想像から生まれたものです。
けれど、これまで読んできた作品が、知らず知らずのうちに、私のなかに物語の種を残してくれていたのかもしれません。
タニス・リーさんへの敬意を込めて。
そして、物語を読むことが、いつか自分自身の物語を書くことにつながるのだという、小さな喜びとともに。
この作品を、幻想文学の豊かな世界へと私を導いてくれた作家への、ささやかなオマージュとして捧げます。




