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死神のノート 〜もしも DEATH NOTE をファンタジー世界の国王が手に入れたら?〜

作者: 小鳥遊ゆう
掲載日:2026/05/30



 中世ヨーロッパを彷彿とさせるイゼリア王国。


 その広大な大地には壮麗な城や古びた修道院が点在し、豊かな森や波打つ穀倉地帯が人々の営みを支えていた。しかしその平和は表面的なものであり、内側では王権と貴族の権力争いが激しさを増していた。


 かつてこの地は王の威光のもとに統一され、すべての貴族がその名を畏敬していた。


 しかし、近年では王家の権威が衰退し、代わりに大貴族たちが力を増し始めていた。彼らはその財力と兵力を背景に独自の領地を支配し、あたかも小王国の主のように振る舞っていたのだ。


 その中でもいくつかの大貴族は王宮の命令を無視するだけでなく、ついには王への反抗すら口にする者も現れる始末であった。




 若き王、レオポルドはこの状況に頭を悩ませていた。まだ年若い彼は王としての威厳を保とうとしながらも、その立場にふさわしい力を持ち得ていないことに苦悩していた。


 幼少期から学問や戦術を学び、理想的な王を目指してきた彼だが、目の前の現実は厳しかった。真に信頼できる味方は少なく、宮廷の陰謀は渦巻き、周囲には敵意を秘めた偽りの笑みを浮かべる者たちばかりなのだ。




 そんなある夜、レオポルドは重臣たちとの長い会議を終え王宮の執務室で頭を抱えていた。その時、彼の側近であり宰相でもあるグレゴールが静かに部屋に入ってきた。五十代半ばのグレゴールは、知恵と策略に長けた男であり、王が最も信頼を寄せる人物の一人だった。


「王よ…これをご覧くだされ。」


 彼の静かな声には、確固たる信念が込められていた。そう言いながら、彼は机の上に一冊の古びた黒いノートを置いた。その表紙には何の装飾もなく、ただ漆黒の皮で覆われているだけだったが、不思議な威圧感があった。


「これは何だ?」


 レオポルドは眉をひそめながら尋ねた。ノートの存在感は異様で、思わず手を伸ばすのをためらうほどだった。


「我が家に代々伝わる『死神のノート』でございます。このノートに名前を書かれた者は、いかなる立場であれ、決して逃れることなく死を迎えるという……。もちろん、私は試したことは御座いませんが。」


 グレゴールは、抑揚なく感情のこもらない声で言った。


「『死神のノート』? それは、何の冗談だ? 」


 レオポルドの声に、困惑が入り混じった。グレゴールの話は、質の悪い冗談なのだろうか?


「王に逆らう貴族たちの名をノートに書くのです。彼らが王の意志に逆らえば、名を死神ノートに記され命を失うのだと理解すれば、王権は盤石なものになるでしょう。」


 グレゴールの言葉はレオポルドにとって好ましくないものだった。『死神のノート』など馬鹿げたものが、存在するわけがない。


 レオポルドは、多忙の果てに呆けてしまったのだろう。


 信頼できる数少ない重臣のレオポルドが呆けてしまえば、王家は弱体化し、先行きは更に暗くなる。王家の存続は危うい。


 レオポルドは額に手を当て呻いた。


「現実と空想の区別は、ついております。いえいえ、王がお疑いになる気持ち、良く理解出来ますれば。そうですね、では王にこのノートの力をお見せしましょう。」


 グレゴールは漆黒の皮で覆われたノートに、何やら書き込んだ。レオポルドの表情の機微から、彼の心の内を読み取ったのだろう。『死神のノート』を信じていない目の前の王に、その力を見せつけることにしたのだ。


 ドタン!


 突然、部屋の外から大きな物音が聞こえた。扉の外には、衛兵が立っていたはずだ。


「まさか……。」


 レオポルドが慌てて扉を開けると、口から泡のような血を流して倒れている衛兵が一人。


「誰か! 誰か居らぬか!」


 それから暫くは、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。王の命を狙う者の仕業である可能性が高いと、騎士団が犯人の捜索のため各所を駆け回った。レオポルドとグレゴールは、護衛されながら王宮から離宮へ避難することになった。


 倒れた衛兵は、騎士団が駆けつけた時には既に事切れていたという。宮廷医により死体は綿密な検査が為されたが、他殺を疑うような痕跡は一切、見つからなかった。


「これでも信じられませんか? 」


 宮廷医からの調査報告書を読めば、亡くなった衛兵は原因不明の突然死である事が、様々な理由から結論付けられていた。


 漆黒の皮で覆われたノートには、先ほど倒れた衛兵の名が書かれていた。トーマス、それが彼の名であった。それは王の目の前でグレゴールがノートに筆を走らせて書いた名だった。


 それが意味するものに、レオパルドは背筋が冷たくなった。


 だが、しかし――。


 悪魔のような誘惑に逆らうのも難しかった。彼はしばらく考えた後、ゆっくりと答えた。


「紛れも無く本物だ、お前を信じよう。」


 こうして王権を守るための前代未聞の策が動き出すこととなった。しかしそれは、人の道から外れた道であり、若き王の心に暗い影を落とすものであった。




※




 王宮の離宮で若き王レオポルドがグレゴールを信じよう、呟いてから数日。イゼリア王国の夜を支配する風の音が不吉な響きを帯び始めた頃、貴族たちの間にあるおぞましい噂が静かに広がり始めていた。


 それは、王が手に入れたとされる『死神のノート』にまつわるものだった。


 そのノートは漆黒の革で装丁され、縁には古びた銀の装飾が施されているという。


 何より恐ろしいのは、そこに名を記された者はいかなる地位や権力を持とうとも決して死の運命から逃れることができないという点だった。


「ただの噂話だろう」


 最初は誰もがそう笑い飛ばしていた。しかし、噂話にすぎないはずの『死神のノート』が手(・)違(・)い(・)によって一部の重臣の目に触れ、いつからか、王都の吟遊詩人たちが市場や酒場で『死神のノート』の不気味な話を歌い始めたことで、噂は急速に広まっていった。


 そして、その噂を現実に変える事件が起こる。


 ある日の午後、王宮の長い回廊を、一人の若い侍女が豪奢な銀のトレイに紅茶を載せて歩いていた。彼女が宰相グレゴールの執務室の前を通りかかった時、扉が僅かに開いていることに気づく。


 室内からは、重々しく、どこか取り乱したような老宰相の独り言が漏れていた。


「……また、この頁を開かねばならんのか。名を記すだけとは言え、因果な役目だ……」


 不穏な言葉に足を止めた侍女は、好奇心から隙間を覗き込み、グレゴールが苦渋に満ちた表情で漆黒のノートを見つめている姿を目撃する。そして彼が席を外した刹那、吸い寄せられるように無人の室内へと足を踏み入れ、机の上に残されたそのノートをこっそりと開いてしまった。


 その瞬間、彼女は小さな悲鳴を噛み殺した。


 そこには、数日前に突然死した衛兵トーマスの名のほかに、聞き覚えのある高位貴族たちの名前がいくつも連なっていたのだ。……バルトン侯爵、ギルフォード伯爵――いずれも最近、王家に明確な反意を示していた者たちであり、そしてここ数週間の間に、ある者は急病で、ある年は馬車の転落事故で、相次いで命を落としたばかりの者たちだった。


「本当に、このノートに書かれたから……」


 血の気が引いた侍女は、グレゴールが戻る前に慌てて部屋を飛び出した。彼女が怯えながら同僚たちに「『死神のノート』は本物だ。亡くなった貴族様たちの名が確かにあった」と涙目で触れ回るまでに、半日もかからなかった。


 この噂の広まりに拍車をかけたのが、王宮の新たな政策に対し、公然と異議を唱えにやってきた二人の若手貴族だった。


 彼らは強硬派閥の若き急先鋒であり、特に中心人物であるハリス男爵は「現状を打破するためなら隣国と手を結ぶこともやむなし」と裏で豪語するほどの危険人物であった。二人は王への抗議書を手に、宰相グレゴールの執務室へ怒濤の勢いで乗り込んできた。


「閣下!  このような不条理な政策、到底受け入れられん!  撤回されぬならば、我らにも相応の覚悟がある!」


 机を叩いて激昂するハリス男爵に対し、グレゴールはただ静かに、冷徹な目で彼らを見つめていた。そして、何も言わずに引き出しから『漆黒のノート』を取り出すと、目の前で羽ペンにインクを浸した。


「……それが、お若いの。貴殿らの最終的な返答というわけですな」


 グレゴールは抑揚のない声で呟くと、二人の目の前で、サラサラと迷いのない筆致でノートに文字を書き込んだ。覗き込んだ二人の目が大きく見開かれる。そこには鮮明に『ハリス・フォン・ブライアン』の名が刻まれていた。


「な、何の真似だ……!」


「いえ。今後の名簿を整理したまでにございます。お引き取りくだされ」


 不気味な威圧感に押され、二人は吐き捨てるようにして部屋を後にした。ハリス男爵は「あんな脅しに屈するものか」と強がっていたが、その翌日、強行派閥の貴族たちを震撼させる凶報が届く。


 ハリス男爵が乗っていた馬車が、点検直後であったにもかかわらず車輪が突如として大破。男爵は崖下に転落し、頭部を強く打って即死したというのだ。王宮の調査官が調査し、車軸の金属疲労による「不慮の事故」と結論づけらた。


 生き残ったもう一人の若い貴族は、その凶報を聞いた瞬間に腰を抜かした。


「あれは脅しなんかじゃない……!  ノートに書かれたら本当に死ぬんだ!」


 背筋を凍らせた彼は、その日のうちに王へ平伏し、絶対的な恭順を誓った。


 彼が『死神のノート』の伝道師となり、「ハリスはあのノートに名を書かれた直後に死んだ。俺はこの目で呪いの執筆を見たんだ!」と夜会でガタガタと震えながら囁くようになるのは、必然の理であった。




※




 『死神のノート』の噂が広まるにつれ、貴族たちの間には底知れない恐怖が根付いていった。ノートに名を記されることを恐れ、それまで反抗的だった者たちが徐々に態度を改め始めたのは言うまでもない。


 しかし、なおも潜んで王権を覆そうとする者たちには、さらなる恐怖と脅しが加えられた。


 東部の有力者、ロウエル伯爵の館に、ある朝、奇妙な羊皮紙に記された匿名の手紙が届いた。その内容は「あなたの周囲に死神の目が向けられている」という暗示めいたものであり、過去に亡くなった者の名前と共に、伯爵が親しくしていた反王派の貴族の名が並んでいた。


「この手紙は一体……?  何の嫌がらせだ!」


 伯爵は手紙を手に震え声で怒鳴ったが、その翌日、手紙に記されていた人物が一切の持病もない健康体でありながら、朝食の席で突然口から泡を流して息絶えたとの知らせが届いた。医者がどれほど調べても遺体には傷一つなく、毒物の痕跡すら見つからない。完全な突然死という診断が下されるのみだった。


「これは偶然ではない……! 死神が、ノートが動いたのだ!」


 ロウエル伯爵は恐怖のあまり半狂乱となり、王の足元に跪いて命乞いを繰り返した。彼は他の貴族たちに対し、『死神のノート』の絶対的な恐ろしさを伝え、王へ忠誠を誓うことだけが生き延びる唯一の道だと説いて回った。


 こうして一人、また一人と、病死や事故、原因不明の心不全によって王に反抗的だった貴族が死んでいった。その死はどれも突発的で不可解なものばかりだった。


 葬儀のたびに貴族や家臣たちは恐怖に震え、口々に「死神の呪いだ」「次は誰が名前を書かれるのか」と囁きあった。


 貴族たちは王に従うか、それとも死を迎えるかという、逃げ場のない選択を迫られることとなった。


 イゼリア王国を揺るがしていた国王と貴族たちの権力争いは、『死神のノート』という悪魔のような力の前に、急速に鎮圧されようとしていた。




※




 『死神のノート』がもたらした恐怖は、イゼリア王国の勢力図を瞬く間に塗り替えた。


 かつて若き王レオポルドを嘲笑い王宮の命令を平然と無視していた大貴族たちは、今や死神の影に怯え、宮廷の床に額を擦りつけて忠誠を誓っていた。反抗の芽は根こそぎ死神の鎌によって刈り取られていった。


「素晴らしい……。これほどまでに、人が容易く平伏すとはな」


 玉座に深く腰掛けたレオポルドは、手にした極上のワインを揺らしながら満足げな笑みを浮かべた。かつて生真面目だった青年の面影は薄れ、その瞳には権力の味を知った者特有の、ぎらついた光が宿っている。


 最初は、王権を守るためのやむを得ぬ防(・)衛(・)のはずだった。しかし、『死神のノート』に名前を書き込むだけで、どんな政敵も翌朝には冷たい骸へと変わる。その神のごとき全能感は、若き王の心を急速に侵食していった。


「陛下、今月の租税の納入が遅れている東部のバルト侯爵ですが……」


「名前を、書け」


 レオポルドは遮るように、冷淡に言い放った。


「しかし陛下、バルト侯爵は領内の大洪水で民の救済を優先しており、決して反意があるわけでは――」


「言い訳など聞く耳はもたない。期限に遅れた、それだけで十分だ。グレゴール、今すぐあのノートに奴の名を記せ」


 執務室の影に立つグレゴールは、深く頭を下げながらも、その老練な眉を微かにひそめた。


「……御意のままに。ですが陛下、近頃は少しノートのお(・)出(・)ま(・)し(・)が頻繁に過ぎます。あまりに不審な死が続けば、貴族たちも恐怖を通り越し、窮鼠となって牙を剥くやもしれません」


「ふん、牙を剥く前に殺せば良いだけの話だ。余に逆らう者がこの世から消え去れば、それこそが真の平穏ではないか」


 レオポルドは傲慢に鼻で笑った。彼は気づいていなかった。恐怖による支配が大きければ大きいほど、自らの心がその恐怖の奴隷と化していくことに。




※




 数日後、再び執務室で二人の男が対峙していた。室内の空気は、かつての信頼に満ちたものとは異なり、氷のように冷え切っていた。


「グレゴール、なぜまだ南部伯の暗殺報告が上がってこない?  奴は昨日、余の法案に公然と異議を唱えたのだぞ」


「陛下。南部伯は王国の経済を支える重鎮。彼を失えば、イゼリアの流通は滞ります。諫言を受け入れるのも、王たる者の度量かと」


「黙れ!」


 レオポルドが激昂し、机を強く叩いた。


「余を教え諭すな! 貴様はただの臣下だ。余が死ねと言えば、世界中の人間が死なねばならんのだ! なぜノートに書かない? 貴様、余の命令が聞けぬと言うのか!」


 グレゴールは静かに息を吐き、まっすぐに王を見つめた。その目は、憐れみを含んでいるようでもあった。


「陛下。これ以上、人の道から外れてはなりませぬ。あのノートは、王権の崩壊を防ぐための手段だったはず。今のあなた様は、ただの暴君でございます」


「暴君、だと……?」


「これ以上は、私が拒否いたします。『死神のノート』の力は、ここでおしまいにすべきです」


「何だと!?」


 レオポルドの顔が怒りで赤黒く染まる。だが、グレゴールが毅然とした態度で部屋を去ろうとしたその時、王の脳裏に稲妻が走った。


(待て……。なぜグレゴールはこれほど強気なのだ?)


 激しい怒りの裏側から、どろりとした猜疑心が這い出てくる。あの漆黒のノートは常にグレゴールが管理している。手放したことはない。王の目の前で衛兵の、そして貴族たちの名を書き、死に至らしめてきたのはグレゴールだ。


(もし……。もし奴が、余の名をあのノートに書いたら?)


 その思考が浮かんだ瞬間、レオポルドは恐怖に総毛立った。


 あの男の懐には、いつでも王を呪い殺せるノートがあるのだ。自分は世界の絶対者になったつもりでいたが、実はグレゴールの指先一つでいつでも消される操り人形に過ぎなかったのではないか?


「……そうだ。奴がノートを持っている限り、余の命はない」


 レオポルドはガタガタと震える手で顔を覆った。恐怖が若き王の理性を完全に焼き尽くした。


「殺される前に、殺さねば。ノートを奴から奪い取り、余のこの手で管理するのだ……!」




 その夜、グレゴールは自邸の書斎で、微かな灯火を頼りに書類を整理していた。彼の表情には深い疲弊と、どこか覚悟を決めたような諦念が混じっていた。


「若き王を救うつもりが、怪物に育ててしまったか……」


 ぽつりと溢れた呟きは、不自然に揺れた室内の影によって掻き消された。


 気配は一瞬だった。


 窓から、そして天井の梁から、音もなく黒い装束を纏った男たちが舞い降りる。国王が秘密裏に飼っている王の影(アサシン)だった。


「……陛下の手の者か」


 グレゴールは驚きもしなかった。ただ、自嘲気味に微笑んだだけだった。


「容赦するな。一撃で仕留めろ」


 頭領の冷酷な合図とともに、三条の刃が同時にきらめいた。


 老宰相の身体は、声を上げる暇もなく鋭い鋼によって貫かれた。ドサリ、と重い音がして、グレゴール は床に崩れ落ちる。彼の胸元からは鮮血が止めどなく溢れ出し、絨毯を黒く染めていった。


 暗殺者たちは手際よく彼の懐を、そして書斎の引き出しを漁り始めた。目的のものは一つ。あの、全ての貴族を震撼させた、漆黒の皮で覆われた「『死神のノート』」だ。



 


「……終わったか」


 深夜の執務室。レオポルドは紅潮した顔を手で覆いながら呟いた。


 興奮のあまり心臓が早鐘を打っている。ついに、自分を脅かす唯一の存在であり、あの絶対的な力を独占していた老宰相を排除したのだ。


 足音もなく姿を現した王の影の手には、血に染まった布に包まれた何(・)か(・)が、握られていた。


「陛下。御命の通りグレゴールを処分いたしました。……そして、奴の書斎の隠し金庫より、これを持参いたしました」


 恭しく差し出した何(・)か(・)にかかった布がはぎ取られる。


 中にあったのは、あの夜、離宮の薄暗い灯火の下で見たものと全く同じ――装飾のない、漆黒の皮で覆われた一冊のノートだった。不思議な威圧感を放つその佇まいに、レオポルドは息を呑んだ。


「これだ……。これこそが、『死神のノート』……!」


 レオポルドはひったくるようにノートを奪い取ると、狂おしい歓喜の笑みを浮かべた。


 ついに手に入れた。


 王宮の命令を無視する大貴族どもを平伏させ、イゼリア王国を意のままに支配する、神のごとき絶対の力が、今や我が手にある。


 彼は震える指先で、慎重にその表紙を開いた。


「くはは……! グレゴールよ、貴様は余を暴君と呼び、この力を封印しようとした。だが、真の支配者はこの余だ。『死神のノート』さえあれば、余に逆らう者は誰一人として生き残れん!」


 レオポルドは机の上の羽ペンを掴むと、狂気に満ちた目で、次に抹殺すべき反抗的な貴族の名を書き込もうと、白紙の頁へとペン先を走らせた。




※




 漆黒のノートを我が物としたレオポルド王の暴挙は、もはや誰の手にも負えない領域へと達していた。


「逆らう者は、すべてこのノートが裁く!」


 王宮の大広間に集められた貴族たちを前に、レオポルドは狂気に満ちた眼光で、手にした黒いノートを掲げてみせた。


 王の口から直に『死神のノート』の存在が公表されたのだ。


「今後、余の言葉に一言でも異議を唱える者がいれば、即座にこの『死神のノート』に名を記してやろう。翌朝、冷たい骸となりたくなければ、ただ平伏し、余に従うが良い!」


 大広間は、水を打ったような静寂に包まれた。貴族たちは顔面を蒼白にし、震えながら床に額を擦りつけた。かつて王権を脅かしていた大貴族たちの誇りは、姿なき死神の鎌の前に完全に打ち砕かれたかに見えた。


 力を得たレオポルドの専横は苛烈を極めた。過酷な重税を課し、少しでも不満の気配を見せた領地には容赦なく軍を差し向け、自らを神の如き絶対者として崇めるよう強要した。宮廷は王の機嫌を伺うだけの、血の気の失せた生ける屍たちの巣窟と化した。




 しかし、その絶対的な恐怖による支配は、あまりにも唐突に、そして呆気なく崩壊の時を迎える。




 ある日の御前会議でのことだった。王の度重なる不条理な領地没収の命に対し、ついに一人の老貴族が、震える足で一歩前に進み出た。


「陛下……! 畏れながら、これ以上の強欲は王国を滅ぼします。死神の呪いがあろうとも、臣下として、これ以上の悪政を黙って見過ごすわけにはまいりませぬ!」


 それは命を賭した、乾坤一擲の諫言であった。大広間の空気が凍りつく。レオポルドは激昂し、玉座から立ち上がって吼えた。


「無礼者が!  余の慈悲を忘れ、公然と反抗するか!  良いだろう、貴様の命はここまでだ!」


 王は懐から漆黒のノートをひったくるように取り出すと、狂ったように羽ペンを走らせ、老貴族の名を大文字で書き殴った。


「見よ! 貴様の名は書かれた! 明日の朝、貴様がどのような無惨な死を迎えるか、皆で拝むが良い!」


 老貴族は覚悟を決めたように目を閉じ、周囲の貴族たちは恐怖に身をすくめてその場に平伏した。


 だが――翌朝、何も起きなかった。


 老貴族は何の体調不良も起こさず、健壮な姿のまま再び宮廷に姿を現した。レオポルドは信じられぬ思いで目を見開き、書き方が悪かったのだと己に言い聞かせ、その夜、さらに激しい筆致で別の反抗的な者の名を書き込んだ。


 しかし、次の日も、その次の日も、死神が発動することはなかった。


 ノートに名を記された貴族たちは、誰も病に倒れず、誰も事故に遭わなかった。ただ静かに、困惑と、そしてある確信を孕んだ目で王を見つめ返すだけだった。


「なぜだ……なぜ死なぬ! 出てこい死神!  なぜ余の命に従わない!」


 深夜の執務室で、レオポルドは『死神のノート』に何度も拳を振り下ろし、悲鳴を上げた。


 書き込んだ名前の文字は、ただの黒いインクとして紙に染み込んでいるだけで、何の奇跡も起こさない。誰の名前を何度書いても、誰も死ぬことはなかった。


 この連続する『死神のノート』の不発は、貴族たちの心に大きな変化をもたらした。


 最初は誰もが、死神が気まぐれを起こしたのかと疑った。しかし、何度繰り返されても誰も死なないという現実の前に、彼らは気づいてしまったのだ。


「あのノートには……最初から、何の力もなかったのではないか?」


「では、今までの不審死は……?」


「あの世を去ったグレゴール宰相が、王のために、もしかすると……?」


 ひとたび綻びた恐怖のメッキは、瞬く間に剥がれ落ちていった。残されたのは、奇跡の力を失った傲慢で人望のかけらもない若き暴君の姿だけだった。


 今までの理不尽な弾圧、重税、そして仲間たちの命を弄んだ王への激しい怒りと憎悪が、貴族たちの胸中で爆発した。


「王たる資格なし。レオポルドの血を以て、イゼリアに真の秩序を」



※




 数日後の夜、王宮の重厚な扉が凄まじい音を立てて内(・)側(・)か(・)ら(・)開け放たれた。


「な、何事だ! 衛兵、衛兵はおらぬか!」


 寝所にいたレオポルドは尋常ならざる足音と鎧の擦れる音に跳び起きた。しかし、彼の叫びに応える近衛兵は一人もいなかった。彼らもまた、とうに王を見限っていたのだ。


 部屋に流れ込んできたのは、武装した大貴族たちと彼らが率いる容赦なき兵たちであった。総勢数百の兵が王宮を完全に包囲し、レオポルドの寝所は幾重もの刃によって取り囲まれた。


「貴様ら……反逆か!  余は王だぞ! このノートに名を――」


 レオポルドは枕元から漆黒のノートを掴み兵に突き出したが、貴族たちの冷徹な視線が彼を射抜くだけだった。先頭に立つ大貴族の一人が、吐き捨てるように言った。


「まだそのノートに縋るか、何も知らぬ哀れな王よ……」


「何だと……!?」


「貴様が神の如く振る舞えたのは、あのノートの力ではない。ひとえに、亡きグレゴール宰相が、陰で手を汚し、国を裏から支えていたからに他ならない。貴様は自らの手で忠臣を殺し、自らその力を捨てたのだ」


 貴族たちの痛烈な批判が、レオポルドの突き出されたノートに浴びせられる。


「己の無力を呪うがいい。死神の威を借りて民を苦しめ、臣下を屠った暴君よ。貴様には、このイゼリア王国を統べる王たる資格など、万に一つも存在しない!」


「違う、余は……余は、理想の王に……!」


 レオポルドの弁明は、容赦なく突きつけられた数条の槍によって遮られた。兵たちによって床に押し伏せられ、手から滑り落ちた漆黒のノートは、冷たい床の上でパサリと虚しく開いた。そこには、レオポルドの拙い筆跡で書かれた名前の羅列があるだけだった。


「連れて行け。――処刑だ」


 引きずられていく若き王の絶叫が、嵐の雷鳴にかき消された。




 かつて威厳と光に満ちていた王宮の中庭に、急造の断頭台が設置された。降りしきる雨の中、レオポルドは傲慢さの抜け殻となった惨めな姿で、刃の下へと組み伏せられた。


 刃が落ちるまでのわずかな時間の中で、レオポルドは、長年王家を支え続けた老宰相の姿を思い出していた。彼が本当に恐れるべきはグレゴールではなく、己の心に宿った権力への渇望という名の死神だったのかもしれない。


(ああ、グレゴール……余は、間違えたのだな……)


 鈍い音と共に、鋭い刃が落ちた――。




※




※




※





 主を失った漆黒のノートは、雨水に打たれ、泥に塗れながら、ただの古い紙束へと還っていった。


 誰も気づくことはなかった。


 ノートの最後の頁に、誰の筆跡でもない漆黒の文字で『レオポルド』の名が浮かび上がっていたことを。




 こうしてイゼリア王国の歴史は、『死神のノート』とともに、その幕を閉じたのである。




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