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 その日の夜は、やけに空気がぬるかった。


 まとわりつくような湿気が、昼間の熱をいつまでも閉じ込めている。俺と七瀬さんは、いつもの河川敷で並んで座っていた。


「なんか、変な天気だね」


「うん。風もぴたっと止まっちゃって、嵐の前の静けさ……みたいな?」


 七瀬さんが微笑みながら冗談めかして言った、その時だった。


 ぽつり。


 俺の頬に冷たいものが、一粒落ちてきた。


 見上げると、さっきまで退屈そうに星を隠していた真っ黒な雲が、今にもこちらに落ちてきそうなほどに低く垂れ込めている。


「……これはヤバそう」


「ん、非常にマズイ」


 次の瞬間、ぽつ、ぽつ、という可愛らしい音は、一瞬にして、ザーッ!という轟音に変わった。


 バケツをひっくり返した、なんていう生易しいもんじゃない。まるで、空に穴が空いて、そこから川が丸ごと降ってくるような、凄まじい豪雨だった。


「うわ、まじか!」


「きゃっ!」


 あっという間に、俺も七瀬さんも大粒の雨に打たれて服がドット柄のようになる。近くに雨から身を隠せる場所はない。


「天気予報、何も言ってなかったのにぃ!」


 七瀬さんが悲鳴のような声を上げる。


「あそこ! 橋の下まで走ろう!」


 七瀬さんは無意識なんだろうけど俺に向かって手を差し出してきた。


 俺は、彼女の手を引くべきか一瞬だけ迷って、『滑らないため』と自分に言い訳をして手を取り彼女を導いた。


 二人でびしょ濡れになりながら土手を駆け上がる。ぬかるんだ草に足を取られそうになりながら、橋桁を目指して無我夢中で走った。


 なんだかよくわからないけど、笑いが込み上げてくる。隣を走る七瀬さんも髪が顔に張り付くのも構わずに、なぜか楽しそうに笑っていた。


 橋の下に滑り込んだ瞬間、七瀬さんは「世界から雨が消えたみたいだ」と感想を述べた。


「手、ありがと。こけたら大変だったよ。商売道具だから、さ」


 七瀬さんは握っていた手を離し、にっと笑った。


「手が?」


 芸術家とか、そっちの人なんだろうか。


「や、手というか……全身?」


「……ガテン系?」


「ふふっ……さて、何でしょうか?」


 七瀬さんはミステリアスな笑みを浮かべて上を見る。


「雨の音、変わったね」


 七瀬さんの視線に誘導され、二人で雨から守ってくれている橋桁を見上げる。


「30畳くらいかな?」と七瀬さんが言った。天井と化した橋桁の面積のことを指しているんだとわかり「40畳くらい?」と返す。


「じゃ……34畳だ」


 七瀬さんが妥協点を探ろうとしてくるも、少しだけ自分寄りの数値を持ち出してきた。


「いやいや、36だよ」


「む……」


 二人で向かい合い、35の妥協点をどちらから提案すべきかと黙り込む。


「「さんじゅ――」」


 そして、その提案を出したのは同時。二人で言葉を引っ込めてにやりと笑う。


 そんな風に雨宿りの暇つぶしをしている間も頭上から、ゴォォォという低い音が絶え間なく響いている。コンクリートの橋に、無数の雨粒が叩きつけられる音。それは、まるで、巨大な生き物のいびきのようにも聞こえた。


「……すごい雨だね」


「ん。ゲリラ豪雨かな」


 彼女は濡れた前髪をかきあげながら、呆然と、雨のカーテンの向こう側を眺めている。


 その横顔が、いつもより、ずっと無防備に見えて、俺は少しだけ目を逸らした。


「……あ」


 七瀬さんが、自分の持っていたビニール袋を覗き込む。


「缶チューハイ、無事だ」


「俺のも」


 二人で顔を見合わせて吹き出した。


「……飲む? 雨が止むまでやることないし」


「うん。飲もっか」


 俺たちは、コンクリートの冷たい地面に隣り合って腰を下ろした。まるで、秘密基地を見つけた子供みたいに、少しだけわくわくしながら。


 カシュ、という音が、橋の下で、やけに大きく反響する。


 いつもと同じレモン味のはずなのに、雨の匂いと走った後の高揚感が混じって、なんだか全然違う飲み物みたいに感じられた。


 ゴォォォ、と、雨音だけが響く。


 会話はない。


 でも、気まずくはなかった。


 むしろ、この雨音だけの空間が心地いい。


「すごい音だね。雨」


 しばらくして、七瀬さんがぽつりと呟いた。


「うん。なんか、世界に二人だけになったみたいだ」


 口にしてから、少しキザすぎたか、と後悔した。でも彼女は否定も肯定もせずただ静かに頷いた。


「……こういうの、いいね」


「え?」


「全部雨が隠してくれる、みたいな。私たちの声も姿も全部。それに、皆傘をさして歩くから、人の顔も見ない。だから誰も私たちを見つけられない、みたいな感じ。雨隠れの術だ」


 七瀬さんはステレオタイプな忍者のようにキレキレの動きで印を結ぶ。


 そして、彼女の声は雨音に負けないくらいクリアに俺の耳に届いた。「そっくりさん」としてジロジロと見られることもあるだろうし、どれだけのプレッシャーを感じているのか俺には、想像もつかない。


 でも、今この瞬間だけは、いつもより厚めに作られる壁によって彼女がただの「七瀬さん」でいられるのかもしれない。


 そう思うと、このやかましいくらいの雨音が、ひどく優しいものに思えた。


 ◆


「……雨、止んじゃうね」


 どれくらい、そうしていただろうか。七瀬さんが、少しだけ、名残惜しそうに言った。


 頭上の轟音が、いつの間にか、ぽつ、ぽつ、という、優しい音に変わっている。


「うん……なんか、ちょっと残念な気もする」


 俺がそう言うと、彼女は驚いたようにこっちを見た。


 そして、すぐに俺が言いたいことを察したみたいに、ふわりと柔らかく笑った。


 その笑顔は、雨上がりの虹みたいに綺麗だった。


「ふふっ……止んだから病んじゃう?」


 七瀬さんは冗談めかしてそう言った。


「そこまでではないよ!?」


 俺たちは雨が上がった後もまだしばらくその秘密基地から動かずに酒を飲んでいた。



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