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風も穏やかな夜の河川敷、俺の姿を認めた瞬間、寂しそうに伏せられていた七瀬さんの顔が上がり、その口元がふわりと花が咲くようにほころんだ。
安堵と喜びが混じった、満面の笑みだった。
その笑顔を見た瞬間、俺の心の中にあった鳴海の言葉とか常識とかそういうものが全部夜風に溶けてどうでもよくなった。
俺が会いたかったのは、この笑顔だ。
「七瀬さん。お疲れ」
「ん。喉、乾いてそうだね?」
七瀬さんは自分の袋から追加の缶チューハイを取り出して、手ぶらでやってきた俺に手渡してくれる。
俺は自然と彼女の隣に腰を下ろした。いつもの定位置。レモン味の缶チューハイが二本、余裕を持って収まる距離感だ。
「今日は来ないかなって思ってた」
彼女の声は、少しだけ、弾んでいるように聞こえた。
「まぁ……通りがかっただけだよ」
「……そっか」
「どうしたの? さっき、一瞬だけ元気なさそうだったけど」
俺がそう尋ねると、彼女の肩が、少しだけ揺れた。
楽しそうだった表情から一転して、また、あの、寂しそうな影が彼女の顔を覆う。彼女は、すっと視線を落とし、自分の指先を見めた。
「……そんなことないけど。ちょっと考え事してた」
その声は、平坦を装っているけれど、どこか弱々しい。
川面を渡る風の音と、遠くの道路を走る車の音だけが聞こえる。
彼女の周りにある、見えない壁みたいなものを、どう扱えばいいのか、俺にはわからなかった。
その、静寂を破ったのは、彼女のほうだった。
「……ね、陽介」
「ん?」
「目玉焼きに何かける?」
「……え?」
予想の、斜め上どころじゃない。突拍子もない質問だった。あまりの脈絡のなさに、俺は一瞬言葉を失う。
「めだま、やき……?」
「ん。そう。卵料理の一種で、熱したフライパンに卵を割り入れて焼き上げることで白身と黄身の配置がまるで目玉のように見える料理。朝ごはんとかの、あれ」
「目玉焼きが何かは知ってるよ!?」
「ふふっ……良かった。前提は揃ってそうだね」
俺は、戸惑いながらも、必死に頭を回転させた。これは何か、彼女なりの話題転換のサインなのだろうか。
「急にどうしたの?」
「や、こういう手垢のついた話題でも面白くしないといけない時が今後あるかもしれなくて。その参考に」
「面白く、ねぇ……」
(雑談をする仕事なのか……?)
配信者やラジオDJなんだろうか、と思いながら彼女の相談兼他愛のない雑談に乗ることにした。
「えっと……俺は醤油かな」
俺がおそるおそるそう答えると、彼女は、ぱっと顔を上げた。
「ん、同じだ」
「じゃ、目玉焼きって主役は誰だと思う?」
「……え?」
質問が、さっきより、さらに難解になっていた。
「主役……? そりゃあ、目玉焼きだから、卵なんじゃないの?」
俺がそう答えると、彼女は、ふるふると、静かに首を横に振った。
「違うんだな、それが」
「え、違うの?」
「目玉焼きの主役は、卵じゃない。上に乗せる、調味料なの」
彼女は、何か、この世の真理でも説くかのように、真剣な顔で言った。
「卵は、あくまでステージ。舞台装置でしかないの。私たちが本当に味わってるのは、醤油とか、ソースとか、そっちの方なんだよ」
「つまり……俺たちは、卵を食べてるんじゃなくて、卵を媒体にして、醤油を食べてるってこと?」
「ん。そういうこと。何の調味料で目玉焼きという舞台を彩るのか。これがポイントだね」
「醤油だね」
「それでも醤油なんだ?」
「半熟の黄身と、醤油が混ざったとこをご飯に乗せて、こう、わしゃーってするのが、最高じゃない?」
「あ、それやる。めっちゃわかる」
俺がご飯をかき混ぜるジェスチャーを見て、彼女はころころと楽しそうに笑いながら頷いた。
「ま、後はフライパンでも変わるっていうよね。鉄のフライパンで焼くと違うとか。焼きめがついて美味しくなるんだってさ」
「違い、わかるのかなぁ……や、私は絶対わかんないや。何で焼いても卵は卵だし」
本当に心の底からどうでもいい話。
でも、その、どうでもいい話が、彼女の心を覆っていた見えない雲を、少しずつ吹き払っていくようだった。
「ふふっ……ごめん、どうでもいい話ばっかりして。けど参考になる」
七瀬さんは頷きながら「目玉焼きのテイスティング企画か……テフロン加工と鉄フライパンの違い……」と言ってスマートフォンでメモを取っている。
「いや、全然。重要な話は河川敷じゃしないだろうし」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ意外そうな顔をした。
「陽介って、なんか、物持ち良さそうだよね」
「え、そう?」
「うん。なんとなく。だから、捨てられないものとか、多そう」
彼女の、その言葉に、俺は、自分の部屋の本棚を思い浮かべた。
「あー……否定できない。昔のゲームソフトとか、説明書とか箱とか、全部取っておくタイプ」
「や、わかりみですな」
「七瀬さんもあるの?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ考え込むように視線を宙に浮かべる。
やがて、彼女は少し遠い目をしてぽつりと呟いた。
「……もらったファンレ――手紙、とかかな」
「手紙……」
その響きと彼女の表情から、俺は勝手な光景を想像した。
机の引き出しの奥に大切にしまわれた一通の封筒。何度も読み返して、少しだけ角が丸くなった便箋。彼女が、時々、それを取り出しては、ひとりで、そっと微笑んでいる姿。
……ラブレターだったりするのか!? 今日日手紙で告白とかあるのか!?
「へっ、へえ……大事な人からなんだ?」
俺は動揺を隠し、優しく微笑みながら言った。
「ん。大事なもの、だね。勇気とか、元気とか、たくさんもらったから。たくさんのお便りだよ」
「いいね、そういうの。素敵だと思う」
口ぶりからしてラブレターの線は薄そうだ。とすると、他に手紙……もといお便りを受け取ることなんて日常であるだろうか。
手垢のついた話をすることもあって面白くしないといけなくてたくさん手紙が来る仕事……ラジオDJ!?
「七瀬さんってラジオDJしてるの?」
「え? あー……あ、ふふっ……違うよ。唐突トツだね」
「兀突骨みたいな言い方しない」
「ふはっ……通じた。ヨシ、これはいける」
他愛のない会話を重ねるうちに、来た時よりもずっと、彼女の表情が柔らかくなっていることに、俺は気づいていた。
「陽介と話してるとさ」
彼女が顔を上げて、まっすぐに俺の目を見る。
「どうでもいいことまで、なんか、すごく楽しくなるね」
それは心からの笑顔だった様に思う。
「俺も楽しいよ。七瀬さんと話してると。飲み会を早めに切り上げたかいがあったよ」
「ここでも飲んでるじゃん」
七瀬さんは俺の手を指さしてケラケラと笑う。いつもより多めに用意された酒。それは彼女が一人で長居するためだったのか、誰かと一緒にいるつもりだったのか。
真意はわからないけれど、金曜の夜の缶チューハイは、いつもよりずっと美味しく感じられた。